あなたと同じ場所には行けないから
扇智史
あなたと同じ場所には行けないから
ヨラの死に様を聞いて、ノルは声を殺して笑った。のどの奥で懸命に笑いをこらえ、それでも溢れ出してくる気持ちで背中がひくひく震え、なお我慢できずに体を前後に揺らす。その拍子に踏み出した足が、地面に落ちていたきれいでちいさい骨を蹴飛ばした。からん、と、甲高い音が白い道に転がる。
死ぬまで冴えない女だった。娼館で刃傷沙汰に巻き込まれたといえば聞こえはいいが、2階で刺されて階段を転げ落ちた女のケツにつぶされて、首をポッキリ折られたってんだから、格好もつきゃしない。
生まれも育ちもどぶ板、路地をかけずり回っていた家のない悪ガキどもの中でもいっとう鈍臭く、あばただらけの凸凹顔をいつも手前の鼻血と泥水でぐしゃぐしゃにしていた。耄碌爺の目もごまかせないボンクラで、女にへつらうずるさもなけりゃ、男を誑かす器量もない。ガキどもの中ではいちばんの下っ端で、いつもノルにひっぱたかれていた。娼館に転がり込んだはいいものの、そこですらできることといえば厨房の小間使いくらいのもんで、7年勤めたあげくに小火を起こしてクビにされかけたって有様だ。
骨張ったヨラの辛気臭い顔が思い浮かぶ。細っこい骨を薄い皮で覆っただけのやせこけた首の上に、うつむいた青白い顔を乗せて、半分足を引きずってた姿が、ノルの知っているヨラだ。自分の焼いたパンもろくに食わせてもらえなきゃ、まともに肉がつくはずもない。飢えて死ななかっただけマシってもんだ。
きっと死ぬ間際は本望だったろう。ヨラは、いつも女の尻を追いかけているような女だった。
ちょっと見目のいい女とすれ違えば、路地のもやの向こうにかすんで見えなくなるまでずっと目で追いかけていた。そこらの酒場の看板娘に話しかけちゃ、すげなく追い払われていた。へたすると立ちんぼにすら哀れまれて飴玉をもらってたが、それを後生大事に裾の奥にしまい込んで腹をベタベタにしていた。
でも、ヨラがいっとう好きだったのは、娼館の二階から路地を見下ろしている女だった。欄干にでかいケツを乗せて、胸を惜しげもなく半分はだけて、カンカン照りの空を手前で巻いたタバコの煙で染めるような売女だ。
さすがに娼館に勤めてりゃ立ちんぼよりいくらかマシな稼ぎがあるのか、そういう女はちょいちょい上等なクッキーやコーラの瓶を路地に投げ落としてくれた。からからの土の上に落ちたなら、ちょっと砂を払えば食べられるし、そんなちょっとジャリジャリした菓子を食うのはノルたちにとってもそれなりの幸運だった。
ヨラは、それを拾ったりしなかった。腹をふくらますより、手の届かない女のくたびれた横顔を眺めていることの方がずっとたいせつらしかった。鉄板をこがす炎みたいな陽射しが頭の上から襲ってくるのにもかまわず、ヨラはいつまでも、目やにで半分塞がった瞳を、娼館の壁から突き出したバルコニーに向けて、まぶしそうにしていた。そこが、まるで、この地上にいっときだけ降りてきた天国の階段か何かみたいに。
ケツに潰されて天国に上れたのなら、マシな死に様ってわけだ。ヨラが天国に行けるかどうかはわからないけど、まあ、ヨラはちんけな盗みすらできないボンクラだったんだから、少なくともノルより悪いことは重ねちゃいないはずだ。
ノルが思い出すのは、しわくちゃで目の見えないテンギ爺さんの果物屋でグラナディージャをくすね損ねたヨラの姿だ。爺さんの孫娘がいないときなら盗み放題、もちろんそんな店のグラナディージャはかさかさのぱさぱさで、口に入れても顔をしかめるしかない代物だったが、ノルと仲間たちはしばしばその果物で命をつないでいた。
そのテンギ爺さんの店の露台からグラナディージャをひとつだけ盗もうとして、ヨラはカゴの中の果物を丸ごと道にぶちまけた。後ろにいたノルがぽかんとしている間に、色とりどりの果実が波のように白い路上を埋め尽くしていく。突っ立っているノルに振り返ったヨラは、尋常でなくうろたえた顔をしていた。
甲高い一喝があたりの空気を揺さぶった。テンギ爺さんの見えない目がヨラとノルをにらんでいる。テンギ爺さんの声を聞いたのは初めてだったが、革命軍の最前線で鳴らした老人の雄叫びはノルを震え上がらせるには充分だった。
ノルは身も世もなく、ヨラの手を引いて逃げ出した。爺さんの声を聞きつけて、あたりの人々が一斉にざわめき立ち、いつもは賄賂をふんだくるしか能のない警官も、ここぞとばかり点数稼ぎに駆けつけてきかねない。そのときのヨラとノルはまだ毛も生えそろわないちびだったが、捕まりゃ一晩くらいは牢屋に放り込まれる羽目になる。テンギ爺さんの店でしくじって冷や飯食らいなんて、一生もんの笑いぐさだ。
人混みの足下をすり抜け、街外れまでひた走る。ごめん、ごめん、と、息も絶え絶えにうめくヨラをうるさい! とどやしつけ、ノルは必死に路地を駆け続けた。懲らしめたって聞く耳持ちゃしない悪ガキを捕まえようとする大人なんぞ誰もいなかったが、そんなことまで気が回らなかった。一度走り出した逃走の衝動は、ノル自身にも止められやしなかった。
ひしめき合っていた家々がだんだんと建物の体をなさなくなり、道が砂利や雑草に溶けて消える荒れ地の手前、やけくそに高々と伸びる草むらに飛び込んだ。子どもたちの頭の上まで伸びきった雑草は、ふたりの姿を覆う格好の目隠しだったが、逆にノルの視界も白茶けた葉っぱに遮られてしまう。とがった葉っぱがノルの目と肌をちくちくと刺し、ヨラは相変わらず小さい声でなにか言っている。走る速度は落ち、ほとんど歩くのと変わらない。誰にも管理されずに野放図に育った雑草は、ふたりを守り、なぶり、風にそよぐ。
草をかき分けて進んだ。どこまで歩いても果てがない。右も左もわからない。目の前は白茶けた波で埋め尽くされて、かさかさと皮膚を走る痛みがノルの感情を殺ぐ。
やがて、ノルは足を止めた。草いきれを胸に吸い込むと、ひどくバカなことをしたという思いがあふれる。こんなところまで走ってくるんじゃなかった。
ふと、右手が空っぽになっているのに気づいた。ずっと引っ張っていたはずのヨラの温度がない。はぐれたのか。急に、悪い夢を見たように心細くなって、ノルはぐるぐると顔を四方に振り向けた。
草のあいまに、ヨラのやせた影が見えた。
青白い肌と、色あせたぼろ布のシャツは、草の波と一体になって揺れていた。その目やにだらけの瞳は、ノルを探すでもなく、追っ手を気にするでもなく、とがった葉っぱが指し示す先、ひどく青い空を向いていた。あごを突き出すように天上をふり仰いで、まばらの髪を背中に流して、いっさいの緊張をなくしたようなだらりとしたたたずまいで、ヨラはそこにいた。
ヨラの顔を、空のとてつもなく高いところから降りそそぐ陽射しが照らしていた。あまりに真っ白くて、人の肌ではないもののように光っていた。
一瞬、息が止まったのを、今でも覚えている。
そのあと、ノルはつかつかとヨラに歩み寄り、彼女の頬をひっぱたいた。ぱん、と大きな音がして、正気に戻ったヨラがまた、ごめん、とつぶやく。ノルたちにとっちゃ、それがいっとう普通のコミュニケーションだった。ノルはヨラの首根っこをふんづかまえて、ずかずかと歩き出した。街に通じる道はひどくあっけなく見つかったし、ヨラがしくじった噂は仲間内にすっかり行き渡っていて、ヨラとノルは一緒くたになって笑われて、ノルは腹立ち紛れにまたヨラのすねを蹴りつけた。
しくじったヨラを殴ったり蹴ったりするのは、ノルの役割だった。ヨラの肌には、ノルの手形かノルの靴跡がいつもどこかに浮き上がっていた。ヨラの前歯の欠けた2本は、ノルの踵で折られたもののはずだった。ノル自身も非力だったから、叩いたり蹴ったりしたくらいで致命傷にゃならなかった。たぶん、ほかの誰かがヨラを叩いていたら、大人になるより前に手足のどれかが使い物にならなくなっていたに違いない。
ヨラはラッキーだった。曲がって青くなって動かなくなった左腕を見下ろして、ノルはつくづくそう思う。
ノルの方が、マシな人生を歩んでいたはずだったのだ。路上で命からがら生き延び、おんなじ悪ガキ上がりのボクサーに目をかけられ、そいつの女になった。ファイトマネーで建てた二階建ての白い家と、まともな使用人が作る温かい食事にありついて、生きていけるはずだった。明日の天気をいつも気にかけるような、雨を避けて眠れる場所を探す暮らしから抜け出したはずだった。
路上から逃げ出すためには、血を吐くような努力が必要で、しかもたいていは報われないものなのだという、古くからの警告を、ノルは甘く見ていた。
もともと誰かを殴って金と地位を得た男は、当然ノルも殴った。奥歯を折られた。子どもっぽくも愛嬌があると褒められた顔に、無残な青あざができた。細い脇腹や、かろうじて女らしくなった尻にも消えない傷ができた。プロのリングに立つ男がリングの外で暴力を振るっちゃいけない、なんてルールは、男にとってはあってないようなものだった。元々路上に法はなかったから、男もノルもそれを覚えやしなかった。
腕を折られて、このまんまじゃ死ぬと思ったから、ノルは逃げ出した。男はノルを追うより先に、リングの上で別の男に頭の骨を折られて死んだ。
路上には、ノルの知っていた仲間は誰も残っていなかった。手に職をつけ、教会に救いを求め、漂泊の輩に拾われ、あるいはノルのように配偶者を見つけていた。生きたものもいれば、死んだものもいたが、誰もノルの仲間にはならなかった。
ただでさえ細い腕の、しかも片方が使い物にならないのでは、ノルにできることは何もなかった。盗みすらできなかった。テンギ爺さんが死んでから店を大いに繁盛させた孫娘はノルの顔を覚えていて、哀れんじゃくれたが、くれるものはオレンジひとつきり。ケチくさいと毒づくより早く涙が出てきて、うつむいて逃げ出して、ぴかぴかの酸っぱいオレンジをかじった。
道ばたで寝ることさえままならなかった。路上には国境線が縦横に引かれていて、ポン引きの立ち位置ひとつすら厳密なルールがあった。ガキならまだ見過ごされても、胸もケツもでかくなった女が許されるほどには、国境線を引いた連中の掟は甘くはない。もう片方の腕どころか命まで取られそうになり、ノルは泣きながら地べたに額をすり付けて情けを求めた。
彼女に押しつけられたのは、クスリと賄賂。夜の底の底で、身を持ち崩した連中の最後の一切れまでそぎ取っていくような、最悪の商売。警官に鼻薬を嗅がし、境目の向こうの連中に媚びを売り、ときには体も売り渡した。あがりの大半は上に持って行かれた。満足いく売り上げが出せなければ、あるいは単なる気まぐれに、ノルは殴られ、蹴られた。悪ガキだった頃は、ヨラを殴っていれば、殴る側でいられた。本能でそれを知っていたから、ノルはいつも真っ先にヨラに手を上げたのだ。でなきゃ、自分が殴られる側に回るんだってことがわかっていたから。
殴る相手のいない、鶏小屋の臭いのする長屋で、震えて眠った。逃げられるなんて思えなかった。ノルの世界の果ては、今にも崩れそうなねじ曲がった家々の先にある、あの丈高い白い草むらだ。右も左も、前も後ろもわからない。逃げ出したやつはみんなあの場所に迷い込んで、永遠にさまよい続けるんだと思っていた。
悪ガキたちの中でいっとう顔の良かったミリカも、クスリのせいで、ぼろ切れのように死んだという。見栄えのよさを鼻にかける女が、その鼻っ柱をへし折られて取り柄を全部失ったあげく落ちぶれるなんてのは、ここらじゃ珍しくない。アソコに握り拳ほどのビニール袋を詰め込まれて飛行機に乗せられた結果、やぶけた袋からクスリが腹の中にあふれて、気が触れて死んだ。天国とやらは飛行機よりずっと高い場所にあるらしいから、ミリカもたどり着けなかったろう。
ヨラは、あのとき草むらの底から、飛行機よりも、天国よりもずっと高いものを見上げていたのだろうか。
長屋の木でできた壁からひどく寒いすきま風が吹き込んだ夜、ノルがヨラのいる娼館に向かったのは、それを訊きたかったからなのかもしれなかった。それとも、ただ、自分がまたヨラを殴る側に回れば、せめて命の危機を感じないですむ場所に行けると思っただけかもしれなかった。
風が足下から砂埃を吹き上げ、目鼻がちくちくと痛む。彼女の身を守るのは、長屋から持ち出した薄い毛布と、あちこちに血痕が残るシャツとジーンズ、それから半分底のはがれた靴。
出入りの多い時間が過ぎて寝静まった真夜中の娼館の裏口を、ノルは力なく叩いた。ふたつの組織の国境に近い娼館はもめ事が絶えないから、うかつに騒ぎを起こしちゃやぶ蛇だ。ノルもこのあたりで仕事をしたことがあったし、そのせいで隣の連中に目を付けられている。理由がなくても、いるだけで暴力の餌食になりかねなかった。
夜風がますます強くなり、無防備な肌がますます冷えて、来るんじゃなかった、と思い始めた頃、そっと裏口の扉が開いた。
戸口の隙間からのぞいたヨラの目が、一度、大きく瞬きする。それから、じっとノルの顔に焦点を開わせて、ひさしぶり、と、すこしおどろいたように笑った。ヨラが右手に提げたオイルランプが、ふたりの顔を暗闇の中に浮かび上がらせる。
以前とあまり変わらない、やせこけた顔だった。頬骨は突き出ているし、唇はかさかさだし、目やにこそたまっていないものの、瞳ばかりが大きい弓形の細い目は落ち着きがない。後ろで髪を丁寧に結い上げているせいで、首も折れそうなほど細いまんまなのが歴然としていた。ろくに食べていないのは、相変わらずのようだった。
なのに、光の中のヨラの顔には、安らかな笑みが浮かんでいた。路地にいた頃の、下ばかり向いて震えていた不安げな表情とは、決定的になにかが違っていた。
この子はもう、殴ってはいけない。ノルの頭に、その思いが、はじけるように浮かんで、焼き付いた。
ノルの噂は聞いてる、と、ヨラは言った。ここに来る客の中には、両方の組織の人間がいる。下働きにすぎないヨラは、客から話を聞き出すことはできないけれど、漏れ聞こえてくる話の端々から状況を把握しているらしかった。なんとなく知っているだけ、と言っていたけれど、ヨラはノルには手の届かないような組織のてっぺんの事情にまで通じていた。
どうしてそんなことまで、と驚いて訊いたノルに、ヨラは、ほかにすることがないから覚えているだけ、といった。それと、姐さんの話し相手になっているから、とも。
姐さん、というのは、この娼館でも一、二を争う売れっ子らしかった。北の方の血を引いているというその女は、このあたりじゃめったに見ない派手な金髪と、凍り付くような整った顔立ち、それに男が寄りかからずにはいられないような柔らかで肉付きのいい体のおかげで、放っておいても客がつく。ガツガツ競争しようとしないから、変にとげとげしくもなく、店の誰に対しても優しい。わたしみたく、仲良くしたって何の得もないような下っ端にも、と、ヨラは羞恥心混じりの笑みで告げた。小火を起こしたときにかばってくれたのも、その姐さんだったそうだ。
背の高い金髪女の影を追うような、そのときのヨラの上目遣いは、スラムの夜の暗黒も、ノルの心も飛び越えて、ずっと別の場所を見ているみたいだった。瞳にうっすらと宿ったランプの灯りが揺れて、なにか、聞いたこともないおとぎばなしみたいな夢の景色が、そこに揺れていた。
殴ってしまいたかった。できやしないのに。
ヨラは、ふと我に返ったようにノルを見つめた。それから、すこし瞳の色をかげらせて、何も食べてないなら、厨房からすこしくすねてきてあげる、と、言った。
きびすを返そうとしたヨラの手を、右手で強く引き留めた。むりやり扉の外へと引きずり出し、闇の中でノルはヨラに口づけした。
殴ったり蹴ったりする以外のやり方なんて知らなかったのに、こんなことが自然にできてしまうなんて、驚きだった。生まれたときから、そんな仕組みが備わっているのかもしれなかった。
かさかさの、傷だらけの唇同士がふれあう。ヨラはつかのま怯んだ様子だったけれど、彼女も生まれついての仕組みを知っていたみたいに、ノルの行為を受け入れはじめた。ノルが舌をねじこむと、彼女に折られてでこぼこになったヨラの歯列の間に舌先がはまりこむ。
ノルが自由になる方の腕でヨラを抱く。ヨラの手からランプが落ちて真っ暗になる。自由になったヨラの両腕は、ノルのぼろぼろになった服を破くような勢いで彼女の肌の上に滑り込み、ノルも知らなかった自分自身の柔らかい部分に触れた。
闇にとろけるようにヨラと混じり合った。路地の奥で、犬の遠吠えを聞きながら、しゃにむに重なり合った。路地裏に捨てられた腐った食い物のにおいが、彼女たちの交わりのにおいだった。
ことがすんで、どちらも足腰が立たないくらい力が抜けてしまって、ふたりして薄汚い路地裏にぺたんと尻をつけた。荒い息をついていたヨラが、一足先に立ち上がり、消えたランプを持って裏口から娼館の中に消える。すこしして、約束通り、野菜の切れ端を挟んだ冷えたパンをノルに渡した。ありがとう、と、ノルは言った。たぶん、ヨラに初めて、そして最後に告げた感謝だった。
宿に戻り、乾ききった食べ物を一口かじって、ノルは泣いた。
誰も知らない逢瀬のあとの数日で、いろんなことが変わった。国境線を引き直そうとする動きがあって、ふたつの組織の間で暴力と銃弾が飛び交い始めた。娼館は身を守るように店を閉めた。
ノルはその間、長屋を出ずに過ごした。外を出歩けばいつどこで銃弾を受けるかしれない状況だったし、組織の上の連中も下っ端の売人であるノルになんかかまっちゃいられないようで、何の指示もなかった。かろうじて残った水と乾いた果物で食いつないだ。
それでもノルは助からなかった。クスリと売り上げをちょろまかしてため込んでいるのではないかと疑った連中が長屋に踏み込んできた。ノルが目当てだったのか、それとも建物の別の部屋にいた奴らが標的だったのか、そもそも現れたのがどっちの連中で、あとから押し掛けてきて銃撃戦を巻き起こしたのがどっちの連中だったのかもノルは知らないままだった。
とにかく、ノルは撃たれた。腕と腹から血を流しながら、彼女は逃げ出した。
よろける足で、彼女は歩いた。誰も彼女に声をかけなかった。テンギの孫娘とすれ違ったような気がしたが、露骨に目をそらされたし、人違いかもしれなかった。そもそも抗争のまっただ中で路地を無防備に出歩くボンクラがノル以外にいるとも思えなかった。
その日はいやになるくらいに突き抜けた青空で、家々の白い漆喰がまぶしく光って目を焼くほどだった。暑さに耐えきれなかった野良犬が地べたにはいつくばってヒィヒィと鳴き声ともうめき声ともつかない音を発していた。もうじき死ぬな、と思った。こういう暑い日が続く季節には、犬も人もよく死ぬから。実際、そいつのすぐそばにゃ、ずっと前に死んだ犬の頭蓋骨が転がっている。
ノル、と、誰かが幻のように名を呼んだ。振り返ると、見覚えのある少年の顔があった。かつて路地で一緒に盗みを働いていた少年だ。たしか、ある日とつぜん神様の声を聞いただかなんだか言って、街はずれの教会に住み込んでいたはずだった。教会になんて縁のなかったノルは、それきり彼とは会っていなかったが、彼の顔はかつて別れたときと同じ顔をしていた。
少年はノルに歩み寄り、傷を見て顔をしかめた。声はよく聞こえなかったが、病院に連れて行ってくれるつもりらしく、銃で撃たれてない方の腕を肩に回そうとした。青くなって動かないノルの腕を持ち上げながら、少年は、ヨラも死んだのに、ノルまで死んで欲しくない、と言った。
ヨラが死んだ? と、たぶん、そのとき、ノルは言った。
ふたたび沈痛な顔を見せた少年は、ヨラの死について語った。ヨラのいた娼館は、両方の組織の人間が通う場所で、双方の情報や金が娼婦を通じて流れていたという。彼女らの仕業で面目を失った男が娼館に乗り込み、もっとも懇ろにしていた例の金髪の北方女を刺したのだった。
店でいっとうふくよかな肉体をしていた彼女は、仕事場のある二階の階段からその最高の商売道具を転落させ、下にいた小間使いを巻き添えにした。そういう顛末だった。
笑い出したノルを、少年は、いぶかしげに見つめた。責めるようなことを言ったかもしれなかったが、ノルは聞いていなかった。体を揺らし、ひきつるように、病気のように笑う女から、少年は手を離した。ノルは、その辺に転がっていた野良犬の骨を蹴飛ばして、歩き出した。
ノルの笑い声は、静まりかえった路地にすら響かない。両腕はだらりと垂れ下がり、足取りはおぼつかず、もうどこに向かっているのかもわからない。白い日射しが視界を埋め尽くす。
まるで、丈高い白い草むらの中のようだ。
思い出すのは、ヨラと一緒に駆けたあの夏の日のこと。ほんの一瞬だけ、世界の果てに近づいた昼下がり。痛みも、後悔も、怒りも、あのときあったものは全部別の場所に置いてきてしまって、ふたりと白い光だけがそこにあった。
ヨラが見た空がどんな色だったか、彼女は知らない。
あのとき、もしも、高い空の上に手を伸ばそうとしていたら。
ヨラと一緒に、もっとどこまでも逃げられると思っていたら。
もう、歩いているのか、横たわっているのかもわからない。
真っ白で、何も見えない。
遠くでヨラの声がする。
ノルは、乾いた唇を開いて、ぽつりと、ちいさな声でヨラにこたえた。
あなたと同じ場所には行けないから 扇智史 @ohgi_
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