第2話

 パールが我が家に来たのは、まだ私が小学生の時だ。学校から帰ると、家の中には誰もいなくて、しんと静かで、とても心細かったのを覚えている。

 一時間ほどして母は戻ってきたが、その手にはペットショップの箱を下げていた。

 箱の中には、ヨークシャテリアの仔犬がいた。怯えて小さくなっている。可愛いとか可哀そうとか思うよりも腹が立った。

「飼いに行く時は一緒に行こうって言ってたじゃない。それに、飼うのはポメラニアンだったでしょ?」

「この子も可愛いじゃない。あんた、帰ってくるのが遅いから待ってられなくて」

「友達の家で宿題してたの! 別に、買いに行くの、今日じゃなくてもいいでしょ! どうして待ってくれないの?」

 文句を言っても無駄なことは判っていた。

 母は思い立ったらすぐに行動しないと気が済まないたちだ。相談するふりをして結局、自分ですべて決めてしまう。

「ほら、抱いてみたら」

 ふくれっ面の私をなだめるように母が言った。

 犬は欲しかった。

 小さな可愛い小型犬。

 箱の中をもう一度、覗き込むと、黒い丸い目で仔犬もこちらを見返してきた。

 不意に愛おしい気持ちになって、私はその子に手を伸ばした。抱き上げようとその小さな身体に触れた途端、仔犬は身体をよじって嫌がった。それでも抱き上げようとすると、きっと、怖かったのだろう、仔犬は私の手に容赦なくかみついた。

 別に痛くは無かった。

 けれど、ショックだった。

 私もまだ幼かったから、それでいっぺんにこの仔犬が嫌いになった。

 私が選んだ犬じゃない。

 欲しかった犬でもない。

 そう思うと世話をする気にもなれなかった。冷たくあしらう私に、当然ながら犬の方も懐かなかった。

 私と仔犬は背中合わせで、ひとつ屋根の下、八年という長い時間を過ごしてきたのだ。


 生意気で、ちっとも懐かなかった可愛くない犬。

 それでも……死んでしまうんだ。


 パールが動物霊園に行ってしまうと、彼女が使っていたクッションもいつの間にか片付けられていた。

 居間の窓際に、定位置のように置かれたクッションの上にちょこんと座って、変わり映えしない平凡な庭をいつも眺めていたっけ。

 何となくその場所に私も座り込み、庭を眺めてみた。そこからは門から玄関に至る敷石の道が見えた。

 そうか。

 ここから家族の出かける姿、帰ってくる姿をあの子は毎日見ていたんだな。

 それじゃあ、あの日も。

 瀕死の自分を置いて、自転車を押して家を出て行く私の姿を、彼女はここから見ていたんだろうか。

 その時、彼女は何を思ったろう。


 不意にこみあげてくるものがあって、私は慌てて立ち上がった。そのまま、上着もはおらず外に出た。どこに行こうとも考えていなかったのに、気が付くとパールの散歩コースを歩いていた。

 パールを散歩に連れて行くのは父の役目だったけれど、何らかの事情で行けない時は代わりに私が行くこともあった。

 その時は、彼女は私から距離を取るように離れて歩いた。通行人や自転車が頻繁に通るため、危ないからこっちに寄れとリードを引っ張ると、小さいあの口で唸ったり、吠えたりしたものだ。

「本当に可愛くない犬だった」

 思わず、声に出してそう言うと、すぐ近くでふふふと笑う声が聞こえた。ぎくりとして顔を上げると、いつの間にか至近距離に黒い服を着た女性が立っていた。

 知らない人だ。

 母と同じくらいの年代だろうか? 母の友達かもしれない。そう思うと邪険にも出来ず、私は軽く頭を下げて会釈した。

「美保ちゃん」

 と、不意に彼女が私の名前を呼んだ。

「どうしたの。元気ないね」

「え? いえ、そんなことは」

「悲しいことでもあった?」

「いいえ」

 むっとして私は言い返す。

「何もないです」

「そっか。それならいいけど」

 そして、またふふふと笑う。

 何だろう、この人。

 私は失礼にならない程度にその女性の顔を伺う。ふっくらとした丸顔に、黒目がちの大きな目。うすいピンクの小さな口は笑みの形に固定されている。

「あの」

「はい?」

「どこかでお会いしましたか? なんとなく、知っているような」

「知らないような?」

「え。はあ」

「思い出せないならそれでいいよ」

「あ、じゃあ、知り合いなんですね?」

「忘れていいよ」

「いや、あの」

「忘れて、そして、何かあった時にゆっくり思い出してよ。それでいいの」

 そして、不意に彼女は私の頭を優しく撫でた。

「意地っ張りの美保ちゃん。楽しかったわ」

 あ。

 弾かれたように顔を上げる私に、彼女は更に笑った。

「あなたが私のことをすっかり忘れて、悲しくなくなったら、その時にもう一度だけあなたに会いに行くわ。そうしたらその時、ゆっくりと、ほんの少しだけ私を思い出して。笑って思い出して」

 言葉なく立ち尽くす私の手を取ると、優しく撫でながら少し困ったような顔になって、最後にこう言った。

「ごめんね。痛かった?」

 

 気が付くと、私は夕暮れの街角にひとりで佇んでいた。撫でられた手の感触だけを残して女性の姿は跡形もなく消えていた。

「……痛くなんかなかったよ。馬鹿だな、何、気にしてんのよ……」

 私は、ほのかに笑ってそう呟いていた。



 ☆

 パールがいなくなって数年後。

 私は高校を卒業した。


 桜の散る春の空。

 私は優しい気持ちでそれを眺めることが出来ている。



 ねえ、パール。

 私たちの出会いは最悪だったね。

 あんたは私にちっとも懐かなくて、可愛げがなくてさ。私も意地張って、本当は仲良くしたかったのに知らん顔して。お互い馬鹿みたいだね。

 

 私もこれから歳を取り、取り囲む環境も立場も目まぐるしく変わって行くだろう。そんな忙しい生活の中で、パールのことを思い出す回数はきっと減って行く。

 だけど、それでいいと思うんだ。

 すっかり忘れてしまうわけじゃないから。


 パールのことは、ゆっくりと思い出すよ。

 約束するね。

 その時は必ず笑顔で、と。



 おわり

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「また会いに来たよ」 夏村響 @nh3987y6

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