「また会いに来たよ」

夏村響

第1話

 通学路の長い一本道を振り返ったのは、誰かに呼ばれた気がしたからだ。

 卒業証書を手に、笑いさざめきながら帰途につく生徒たちの向こう側。満開に咲く桜の木の下に黒い服を着た女性がひとり、佇んでいるのが見えた。緩やかに波打つ黒髪を春の風に柔らかくなびかせて、彼女はこちらを見て微笑んでいた。

 あっと声を上げようとした時、春風に乗って微かに彼女の声が聞こえた。

「また会いに来たよ」

 思わず、彼女の方に足を向けようとした時、一緒にいた友達に腕を引かれた。

「美保。どこ行くのよ」

「え。あ、ちょっと」

 知り合いがいて。そう言おうとしたけれど、改めて目を向けた桜の木の下にはもう誰もいなかった。

「どうかした?」

「……何でもないよ」

 私は笑って友達に答えた。

「もう行ってしまったみたいだから」

 私は空を見上げる。

 春特有の青く霞んだ空は、桜の甘い香りがした。



 ☆

 結局、縁が無かったのだ。

 彼女が家に来た時も、そして去る時も、そこに私はいなかった。


 家の前で乗り捨てるように自転車を降りると、門を押し開け、庭を走った。

「美保!」

 顔を上げると、ベランダから怒ったように眉間に皺を寄せた母が顔を出して私を見下ろしている。けれど私が何か言う前に身を翻して部屋に戻っていった。

 私が玄関の扉を開けて中に入ると、すぐに階段を降りてきた母と廊下で対峙する形となった。

「パールが死んだよ」

 重たい声で母は言う。その一言だけだったけれど、どうしてこんな時に外出するのだと、その目が責めていた。私はそれに気が付かないふりで、パールがいる居間に向かう。いつものクッションの上に彼女はいて、もう冷たくなっていた。

 死んでしまうのは判っていた。

 数日前から具合が悪くて、動くこともできなくなっていたから。

 黒い毛並はいつものように柔らかく、緩やかに波打っている。小さなヨークシャテリアだ。

 八年、生きた。

 頑張ったね。

 そっと、その小さな頭を撫でてやる。

 生意気な黒い目も、小さな口も今はしっかりと閉じられていて、いつものように反抗してこないのが不思議だった。


 このヨークシャテリアは私に一切、懐かなかった。


 憎たらしい思い出しかないこの犬のために、こうして泣いている私自身の気持ちも不思議だった。


「美保」

 母の声にはっとして顔を上げる。さりげなく涙を指で拭うと、私はあえて強気で言った。

「しかたないでしょ。友達との約束なんだから」

 この日は日曜日で、あるバンドのライブチケットの発売日だった。人気のあるバンドだったから、朝一番でチケット売り場に行かないと入手することができない。行きたいと言い出したのは私で、チケットは私が取るからと言ったのも私だ。今更、買いに行けないと、友達に言えるわけもない。

 と、いうのはいいわけか。

 多分、私は意地になっていたのだと思う。

 自分に懐かなかった犬のために、自分の日常が乱されるのが腹立たしかった。予定を変えるなんて、負けるみたいで嫌だった。

 あんたのことなんか、少しも好きじゃないんだから。

 ツンデレみたいなことをいつもパールに言っていた。それを最後まで貫きたかった。


「別にあんたが良ければいいけど」

 母が私の隣に座って、パールを覗き込みながら言った。

「それでチケットはいい席が取れたの?」

 私は一瞬、黙って首を横に振った。

 チケットは既に完売だった。

「やっぱり優先がないと難しかったよ。人気のあるバンドだから」

「そう」

 と母は短く答えると立ち上がった。それから思い出したように付け加えた。

「さっきお父さんと相談して、○○動物霊園に頼もうってことになったから」

「そう」

 と、今度は私が短く答えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る