第11話 一月三十日(火)

 波音が聞こえる。

 粉雪が舞っている。

 本来ならば、もうすぐ夜が明けて、朝日が昇る時間だ。けれども空は灰色の厚い雲に覆われている。未だに夜の気配が色濃く漂っている。東の空がほんの少しだけ明るくなっている。

 花の瞳の奥に舞い散る雪が映っていた。リューシカはただ、それを見ていた。

 もう、何も見えていない瞳に。光を失ってしまった瞳に。雪だけが映っている。

 リューシカはそっと花の喉元を締め上げていた指を外した。一本ずつ、ゆっくりと。

 花の首筋に雫が落ちていく。リューシカの涙が、花の体を温かく濡らしていく。

 リューシカは自分の両手を見つめる。その手は瘧のように震えている。震えを止めようとして指を組み、両手を合わせる。まるで何かに祈るように。けれども震えは止まらない。願いは誰にも届かない。雪が降っている。リューシカの髪が濡れて、黒く染まっている。

 ……寒い。

 寒いのだろうか?

 わからない。リューシカにはもう、何もわからない。

 悲しい。

 ただ、悲しいだけ。

 ぼさぼさの髪。目の下の黒い隈。痩せこけた頬。土気色をした唇。かつての美しかったリューシカは、どこにもいない。ううん、違う。違うのかもしれない。そんな姿だからこそ、リューシカは美しいのかもしれない。そこにいるのは、絶望という名の、美しい魔女の姿だった。

 心が悲しみに喰われていく。喰い殺されていく。真っ黒なコールタール状の何かで、体の内側が塗り潰されていく。……悲しい。悲しくてたまらない。

 上着の胸ポケットから手帳が落ちる。

 落ちた拍子にほつれていた糸が切れ、紙がばらばらになってしまう。

 リューシカはのろのろと手を伸ばす。掴み損ねた幾枚もの紙片が風に吹かれて、海とは反対側の山の方へ、深い森の方へ、飛ばされていく。咄嗟にリューシカは左手を伸ばす。届かない。左手首には無数の切り傷が見える。痛々しい、そして生々しいリストカットの跡が見える。小指が付け根の部分から切断されている。紙片は明け切らぬ夜の、薄闇の中に消えていく。

 リューシカは茫然とそれを見ている。

 ただ、見ていた。


 12月25日・月

 朝の四時過ぎに花が目を覚ます。

 ここはどこ、と言う。

 私は花を抱きしめながら、ここはお家だよ、と告げた。花はまだぼんやりしている。

 昨日のことはどのくらい覚えているの、と私は訊ねた。

 昨日のことって何、と花が訊き返す。

 傷は痛む、と私は訊ねた。

 傷ってなんのこと、と花が再び訊ね返す。

 私はあれこれ訊き出したいのを我慢して、今はゆっくり休みなさい、と伝えた。

 花の病状を、今起こっていることを、把握しなくてはいけない。

 仕事用に買った未使用のメモ帳を見つけた。これに今日から日記をつけることにする。

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 12月26日・火

 花が大声を出す。

 人殺し、と言って私に物を投げる。

 私は花を押さえつけながら、ごめんなさい、ごめんなさい、と何度も言う。

 隣の部屋の住人から苦情が来る。

 日中は昏々と眠っている。食事を摂らせようと思って無理に起こすが、私を睨みつけるだけで、返事もしてくれない。ご飯を食べてくれない。

 病棟から電話がかかってくる。

 無視した。

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 12月27日・水

 柔らかく煮たうどんを作る。

 今日は少し機嫌がいいみたいで、一口食べてくれる。

 でも、味がしないと言って、それ以上は口にしてくれなかった。

 包帯を換えている時に鏡が見たい、と言われて、どう返事をしていいのか一瞬悩む。

 まだ傷の状態が良くないから、もう少ししたらね、と言う。

 午後、保健所の職員を名乗る男女が来る。

 花のことで訊きたいことがある、と言う。

 玄関先で追い返す。二度と来ないでください、と伝える。

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 12月28日・木

 スポーツドリンクを少量飲ませる。

 花は味がしない、と言う。ハチミツを入れてみたが、いらない、と言う。

 花に24日のことを訊ねていいか、迷う。結局訊けずに終わる。

 顔の傷が酷い。じゅくじゅくと膿んでいる。ガーゼと包帯を交換する。

 ガーゼに付着した膿の色は緑。緑膿菌だろうか。

 嫌な匂いがする。

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 12月29日・金

 今日は朝から花の機嫌がいい。

 やわらかく煮た野菜を半分ほど食べる。

 意を決して、クリスマスの日のことを訊ねる。

 猫。ぽつりと花が言う。私がご飯をあげている、あの白い猫。

 ラグの上でぼんやりしていたら、どん、という音と、ぎゃ、っていう悲鳴が聞こえたの。

 慌てて外に出たの。そうしたら、アパートの前の道で、あの子が轢かれていたの。

 内臓が出ていて、目と目があって、ミャー、って、鳴いてた。

 覚えているのはそこまでです。気が付いたら私の手は血まみれになっていたんです。口の周りに白い毛がいっぱい付いていたんです。あの子は、あの子は。

 私、慌てて部屋に戻ったの。

 怖くて、それで、鏡。鏡を見たの。

 そこに映っていたのは、悪魔だった。悪魔の顔だった。だから。

 私、カッターで切り刻んで。


 その後は大声で泣き叫び続ける。バイタル測定できず。


 12月30日・土


 【紛失】


 12月31日・日

 大晦日。

 でも、泣き叫ぶ花の声と、日に日に強まる腐臭のため、隣人と大家からクレームが入る。

 これ以上迷惑をかけるなら出て行ってもらう、と通告される。

 今日もまどかから電話がかかってきた。何度電話してきたって無駄なのに。

 花の指が全部、黒く変色している。壊死が始まっている。

 顔の傷も悪化する一方だ。

 どうしよう。どうしたらいいのだろう。

 料理をしている時、深く指先を切ってしまう。

 今もすごく痛い。

 美味しいものを作ってあげたい、だけだったのに。

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 1月1日・月

 包帯を換えている時に、隣の住人が怒鳴り込んでくる。

 赤ら顔だった。酔っているようだった。鍵をかけていなかった、私が悪かったのだ。

 包帯を取った花の顔を見て、悲鳴をあげる。

 化け物って。化け物。化け物。化け物。化け物って。誰のこと?

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 1月2日・火

 まどかがアパートに来る。

 私が無断欠勤をしていることを心配しているらしい。怒っていて、玄関の扉をガンガンと叩いていた。

 居留守を使う。

 スマホの電源を切ったのがいけなかったのかな。

 みんな心配しているのに、お願いだから出てきて、と泣きわめいていた。

 だからなんなのだろう。

 意味がわからない。

 まどかだって別に友達でもなんでもないくせに。構わないでほしい。

 それより、私は発見した。

 暴れる花の口を塞いでいた時、花が私の指の傷を噛んだ。新しい血が出た。

 それを舐めた花が、美味しいと言ってくれた。美味しいって。

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 1月3日・水


 【紛失】


 1月4日・木

 金曜日の午後に保健所の職員が再来する、と言う内容の手紙が来ていた。

 花を入院させたいらしい。でも、そんなこと、絶対にさせない。

 今日は花の機嫌がとてもいい。

 一緒に高校の卒業アルバムを見る。

 リューシカって、花の君だったの? 生徒会長って、嘘、本当に?

 本当よ、って伝えると、花はびっくりしていた。

 今度から、もっとそういうこと、ちゃんと教えてください。そう言って仕方なさそうに笑っていた。そんな様子の花を見るのは本当に久しぶりで、思わず涙がこぼれた。

 泣かないでくださいよ、なんだか恥ずかしいじゃないですか。

 花は苦笑して、私の涙を拭ってくれた。

 けれどその指は、今にも腐り落ちてしまいそうなくらい、赤黒かった。

 市販の体温計ではもう、体温が測れない。バイタルなんて意味ないのかもしれない。無意味なのかもしれない。ううん。花にはもう、そんなもの、必要ないんだ。

 邪魔されたくない。まどかにも師長にも。ここには誰も来てほしくない。

 それに、

 孝太郎だけには会いたくない。わたしは彼に会わせる顔がない。

 ねえ孝太郎。

 あなたは今、何をしているの?


 1月5日・金

 退去勧告の通知が郵便受けに入っていた。そして今日の午後には、保健所の職員がここに来てしまう。このアパートにいるのも限界なのかもしれない。

 一瞬孝太郎の顔が浮かんで、でも、私はそれを、唇を噛みしめて、無視した。

 着替えやこまごまとしたものを急いで鞄に詰める。午前中のうちにアパートを出る。助手席に花を乗せる。どこに行くというあてもなく車を走らせる。銀行でお金をおろす。量販店でフード付きの大きめのパーカーを買う。

 この頃いつもそうしているように、食事に私の血を混ぜる。左手首の傷が増えてきた。

 花はコンビニのお弁当をよく食べてくれる。今日は車の中で眠る。やっぱり運転は苦手だ。

 でも、大丈夫。大丈夫なはず。


 1月6日・土

 

 【紛失】


 1月7日・日

 生理2日目。昨日よりはまだましだけれど、きつい。車の外を歩く人たちが、奇妙にひしゃげて見える。自分の体から死臭がする。自分の血が全部腐ってしまったように思える。お墓に行きたい。車内に2泊もしたからか、体の節々が痛い。でも、痛いっていうのは生きている証で、だから、私はまだ生きていて、死者は、

 何を書いているんだろう。

 目に付いたラブホテルに車を入れる。

 目深にパーカーのフードで顔を覆った花と、一緒に部屋に入る。

 真夜中。リューシカさん、リューシカさん、という、うわごとのような声で目を覚ます。

 花が私の下着を脱がして、経血を舐めていた。それは、あの日の一花みたいだった。

 私は悲鳴をあげて花の頬を打った。

 花は茫然と私を見つめていた。


 1月8日・月

 生理3日目。今日は月曜日。昨日は日曜日だったのか、と思う。どのくらい教会に行っていないのか、もう覚えていない。いつまでこんな日々が続くのだろう。食欲がなくて今日は私も食事をしない。

 花が口をきいてくれない。

 喋りかけても返事をしてくれない。

 食事も昨日から摂らなくなってしまった。

 深夜路地の奥に車を止めて日記を書いていると、誰かが窓を叩く音がした。警官の職質だろうかと顔を向けて、ぎょっとした。女の子が窓に手をつきながら、じっと私の顔を見ていた。

 彼女は目と頭から血を流していた。

 窓に触れる指が腐っていた。窓ガラスに血の混じった黄色い浸出液の手形がついていた。

 〝病気〟の子だとすぐにわかった。

 タスケテ。

 唇がそう動いた気がした。その直後だった。

 暗がりから何人もの若い男たちが笑いながら現れ、手にしたバットや木刀で女の子を襲い始めた。何度も。何度も。女の子は路上に転がって、体を丸めている。頭を抱えている。男たちは何か冗談を言い合いながら、笑いながら、殴ったり、蹴ったりしていた。

 私は車を急発進させて、その場から逃げた。

 めちゃくちゃに車を走らせて、ガードレールに突っ込みそうになって慌てて車を止めた。

 後ろを振り返った。誰もいない。汗をびっしょりとかいていた。吐きそうだった。これを書いている今でも、あの時のことがありありと目に焼き付いている。手が震える。

 私もあんな風に死ぬんですね。

 花がぽつりと言った。

 私は叫んだ。何を言ったのか覚えていないけれど。思い出せないけれど。きっと、怒っていたと思う。叱ったんだと思う。

 手首をカッターで切って花の口に押し付けた。

 花は泣きながら私の血を飲んでいた。


 1月9日・火

 わからない。死者と生者の区別がつかない。

 もう、生理は終わったのに。

 私は生きているの?

 花は生きているの?

 それとももう、みんな死んじゃったの?

 教えて。誰か。

 花が腐っていくの。どんどん腐っていくの。それは寂しいからじゃなかったの?

 毎日、毎日、こんなに一緒にいるのに。

 それでも駄目なの?


 1月10日・水


 【紛失】


 1月11日・木

 花が私に求めているものはなんだろう。

 なんなのだろう。

 襲われていた女の子の姿が脳裏にこびりついて離れない。あの子は死んだのだろうか。

 二日ぶりに包帯を取り替える。

 ガーゼを剥がそうとすると、皮膚まで付いてくる。

 肉が腐っている。

 花の肌が氷のように冷たい。


 1月12日・金

 左手の小指と、薬指が腐って取れてしまった。

 指輪はチェーンに通して花の首にかけてあげた。

 花は自分の両手を見つめて、不思議そうに首を傾げている。

 自分の体に起こっていることを、理解できていないのだろうか。

 もしかしたら〝病気〟がそうさせるのだろうか。

 別に痛くないですよ、と笑っている。


 1月13日・土

 食料品を買うためにコンビニに寄る。

 私から死臭がするのだろうか、店員に嫌な顔をされる。

 駐車場の端っこで、白猫が地面に寝転がって遊んでいた。

 あの子によく似ている。花が窓ガラス越しに、小さな声で言う。

 かわいい。食べたい。

 花のつぶやきを聞きながら、私は、花はもう花じゃなくなってしまったのだと思った。

 猫、好きだものね。

 そう訊ねると、花がにっこりと笑った。包帯を巻いていても、どんなに傷が酷くても、私にはそれが、ちゃんとわかった。


 1月14日・日

 たまたま通りかかったカトリックの教会から、懐かしいミサの歌が流れていた。

 お肉が食べたい、と花がぽつりと言った。

 私はその言葉の意味を理解した。正しく理解できた、と思う。

 いいよ。そう答えた。

 男の子と女の子、どっちがいい?

 そう訊ねると、花はどっちでもいい、と言った。

 私は車の外を見ていた。

 一人でふらふらと歩いている、小さな女の子を。


 1月15日・月

(文章が黒く塗り潰されている。代わりにやぶり取られた旧約聖書の詩編が挟まれている)

 無知ムチナルモノソノココロカミナシトヘリ。

 彼等カレラミズカヤブレ、ニクムベキコトオコナヘリ、ゼンモノナシ。

 シュテンヨリヒト諸子ショシノゾミ、アルイアキラカニシテ、カミモトムルモノアリヤヲントホッス。

 皆迷ミナマヨヒ、ヒトシク無用ムヨウレリ、ゼンオコナモノナシ、イツマタナシ。

 オヨ不法フホウオコナヒ、パンクラゴトタミクラヒ、オヨシュバザルモノサトラズヤ。

 彼等カレラオソレナキトコロオソレン、ケダシカミ義人ギジンゾクニアリ。

 爾等ナンヂラ貧者ヒンジャオモヒニ、シュカレタノミナリト、フヲアザケリタリ。


 1月16日・火

 なんか違うんですよ。

 花がぽつりと言った。全部食べたあとで。あんなに美味しそうに食べていたのに。

 でも、違う、と言う。

 私はあの〝病気〟に罹患した今までの患者を思い出してみた。

 あの子達が食べようとしたのは、誰だった?

 誰でもいいわけではないのだ。きっと、本人にとって、大切な誰かだったのだ。

 なら、


 1月17日・水


 【紛失】


 1月18日・木

 花が泣きながら私に詰め寄る。

 正気に戻ったことが花にとってよかったのか、悪かったのか、私にはわからない。

 指、リューシカさんの指、どうしたんですか。

 私は痛みでずっと眠れず、きっと酷い顔をしていたのだと思う。自分だって指を何本もなくしているくせに、花は私のことばかり気にしている。

 大丈夫よ。大丈夫だから、花は心配しないでいいの。

 そう答えた声も掠れていた気がする。

 だって、そんな、リューシカさんの小指、小指が。

 花は泣き続けている。包帯が濡れて黒くなっていく。

 私が食べた、あれ、あれが。

 花が泣き叫んでいる。

 違うよ。そんなことあるわけないでしょう?

 そう答えた私の声は、どこまでも嘘くさかったかもしれない。

 それにしても痛い。ペンを持つ手が震える。力が入らない。

 包帯をきつく巻いても血がじくじくと染み出してくる。

 市販の鎮痛剤を一箱全部飲む。


 1月19日・金


 【紛失】


 1月20日・土

 立て続けにホテルから宿泊拒否を受ける。理由はよくわからない。

 きっと、ホテルは生きている人のもので、私たちは死んでいるから、だから断られるのだろう。それにしても、誰が私たちを死者だと告発して回っているのだろうか。どこかで監視されているのだろうか。わたしたちはなんにも悪いことをしていないのに。

 頭が痛い。気持ちが悪くて、何も食べたくない。

 この日記を、私は車の中で書いている。

 隣で花がずっとうなされている。

 花が食事をしてくれない。私の血を混ぜても食べてくれない。

 もう一本わたしが指を切り落とそうとすると、花が泣き叫んで止めて、という。

 お腹、空かないのかな。


 1月21日・日

 今日は日曜日だった。私はこれを書きながら、以前花に話してあげたことを思い出した。

 ラザロの話。

 あのときわたしは旅行から帰ってすぐに、聖書を読み直してみた。

 ヨハネによる福音書11章はマリアとマルタ、そして死したラザロについて書かれている。

 主はラザロを甦らせる前に、マルタに言う。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きる。生きていて、わたしを信じる者はすべて、永遠に死ぬことはない。このことを信じるか」

 マルタは信じる、と答える。

 もしかしたら、マルタも、ラザロも、どこかでまだ、生きているのかもしれないね。


 1月22・月

 運転中に花が急に大きな声で叫びながら、わたしに噛み付いてきた。

 わたしは花を突き飛ばして必死にハンドルを握った。

 車は大きく蛇行したけれど、幸いなことに事故には至らなかった。

 首筋に痛みを感じて、触れると、ぬるぬるしていた。

 その時にはよくわからなかった。改めてバックミラーで確認するとシャツが血で真っ赤に染まっていた。

 食べたいなら食べたいって、言ってくれればいいのに。

 花は頭を抱えて震えている。泣きながらごめんなさい、ごめんなさいと繰り返している。

 その日の夜。花がわたしに両手を縛ってほしい、と言ってきた。

 なんで泣きながら言うのだろう。

 わたしが花のお願いを、聞かないわけがないのに。


 1月23日・火

 食欲がわかない。何を食べても味がしない。

 花も食事をしてくれない。花は縛られていて両手が使えないので、時々口移しに水を飲ませる。でも、むせて吐き出してしまう。

 苦しい、苦しいの、リューシカさん。

 花が泣くので、わたしは頭を撫でてあげた。

 声が聞こえる。色々な人の声。

 まどかの声、みやちゃん、相馬さん、それに、孝太郎の声。

 何を言っているのか、よくわからないけれど。

 でも、みんなわたしに対して怒っている。それだけはわかるの。


 1月24日・水

 海辺の小さな町に着く。ここにはなぜか、人が誰もいない。家の前にも全て柵がしてある。

 ただ、夕日はとっても綺麗だった。

 雑草に埋まった公園の先に、真っ赤な太陽が沈んでいくのが見えた。

 花に綺麗だね、と声をかける。花は小さな声で何かをつぶやき続けている。

 顔の包帯が緑色と紫色のまだら模様に染まっていた。

 いつから包帯を取り替えていなかったんだろう。

 そういえばずっと縛ったままにしていたので、

 花の両腕が腐ってしまった。


 1月25日・木

 時々雪がちらついている。吐く息が白かった。

 ひと気の絶えた町に、奇妙な女性が歩いている。丸い大きな饅頭笠を被り、雪よけのコートの下には手甲脚絆に縞の着物。荷は連尺で背中に括られて、右手には五尺二寸の桷の杖が握られていた。

 そして左手には、大事そうに一棹の三味線。

 彼女の歩き方を見ているとわかるのだが、どうやら目が不自由なようだ。

 まるで姉の恋人の、夜々子さんのような歩き方。私は彼女を見て、少しだけ一花のことを思い出した。

 彼女は道の傍らで三味線を弾き、唄を歌っていた。車を止めて、私はじっと、その姿を見ていた。彼女の声は若い人の声にも年老いた人の声にも聞こえた。なぜだか懐かしいと思った。

 ふと気づくといつの間にか彼女の姿が消えている。

 どこかで聞いたことのあるような、そんな彼女の歌声だけが、不思議と今も耳に残っている。


 1月26日・金

 窓の割れた無人のコンビニを物色して、外に出ると、目の前に孝太郎が立っていた。

 彼は私を見て泣きそうな顔をしていた。

 ずっと探していたんだ、と言った。

 でもそれは、全部、幻だったのかもしれない。

 孝太郎が私の手を強く掴むので、私は孝太郎を自分の車に誘った。

 後部座席の花は、何も言わずに、じっと私を見つめていた。私だけを。

 だからやっぱり、幻だったんじゃないかな。

 幻が何かうるさく言うので、私は自分の指を切り落とした包丁で、彼のお腹を刺してみた。

 何も言わなくなった。


 1月27日・土

 動かない孝太郎を見ていたら、お腹が、空いた。

 私は、


 1月28日・日

 (文章が黒く塗り潰されている。代わりにやぶり取られた旧約聖書の詩編が挟まれている)

 無知ムチナルモノソノココロカミナシトヘリ。

 彼等カレラミズカヤブレ、ニクムベキアクオコヘリ、ゼンモノナシ。

 カミテンヨリヒト諸子ショシノゾミ、アルイアキラカニシテ、カミモトムルモノアリヤヲントホッス。

 皆迷ミナマヨヒ、ヒトシク無用ムヨウレリ、ゼンオコナモノナシ、イツマタナシ。

 不法フホウオコナヒ、パンクラゴトタミクラヒ、オヨカミバザルモノサトラズヤ。

 彼等カレラオソレナキトコロオソレン、ケダシカミナンヂムルモノホネラサン、ナンヂ彼等カレラハズカシメン、カミ彼等カレラテタレバナリ。


 1月29日・月

 寂しい。

 花が隣にいるのに。

 毎日一緒にいるのに。

 心の中が寂しさでいっぱいになる。悲しさでいっぱいになる。

 お腹が空いた。昨日もあれだけ食べたのに。

 でもあのお肉。あんまり味がしなかった。不味かった。


 1月30日・火

 車が動かなくなった。理由はよくわからない。もしかしたらガソリンがないのだろうか。でも、お金も底をついてしまった。それにこの町には人も車もいない。誰も通りかからない。

 車から出ると、すぐ近くに海が広がっている。冬の、灰色の海。道沿いには枯れ草に覆われた朽ちた民家が軒を連ねている。やはり誰も住んではいないみたいだ。

 私は花を抱きかかえたまま、ゆっくりと歩いた。

 砂浜に出ると靴の下で砂がしゃりしゃりと音を立てた。

 倒木の陰に花と一緒に座る。

 日が暮れると薄雲の向こうに月が昇った。赤い、丸くて大きな月だった。

 寒さは感じない。花と二人で、じっと夜の海を見ていた。

 どのくらいそうしていただろう。飽きて日記を書き始めていると、花がぽつりと言った。

 ごめんなさい、よく聞こえない。もう一度言って。え?


 お願い、わたしを殺して



 リューシカは驚きの表情を浮かべて、花を見つめた。疲れ切った花の瞳には、それでも涙がうっすらと光っていた。夜の冷たい光を反射させていた。黒々とした海の色を映していた。それはもう生者の目ではなかった。彼岸に置かれた、死者の眼差しだった。

「はな?」

 リューシカの手からボールペンが零れ落ちる。花は唇を噛み締めている。

「もう、いい。もういいの。お願い。もう、……わたしを自由にしてください。お願いします」

 自由? 自由とは何を意味しているのだろう。どんな意図でそんな言葉を使うのだろう。

「もう、リューシカさんを傷つけたくないんです。……リューシカさんを」

「わたしのことなら何も気にしなくていいのよ。わたしの体が欲しいのなら、全部あげる。腕も足もいらない。全部花に食べさせてあげる。ね?」

 それがっ、花が泣きながら叫んだ。それが嫌なのっ。花は肘から先が腐り落ちた手で、リューシカの伸ばしかけた腕を払い退ける。リューシカは驚いた顔で自分の手を見つめている。

「もう。リューシカさんを食べたくないっ。リューシカさんが、誰かにあんなことをしている姿も見たくないっ。だから、だからっ……殺して。お願い、わたしを殺してくださいっ」

 変色した包帯がずるりとほどけて落ちる。そこにあるのは、もう花の顔じゃなかった。人の顔ではなかった。どんなゾンビ映画で見たよりも、生々しく、そして変わり果てた何かだった。

「ごめんなさい。こんなこと、お願いして、本当にごめんなさい。でも、苦しいの。もう耐えられないの。リューシカさんを傷つける自分に、リューシカさんに傷つけさせている自分に、耐えられないんです。……もう、わたしは治りませんよね。もうすぐ死ぬんですよね。でも、あの女の子みたいに、襲われていたあの子みたいに死ぬのは、嫌です。人として、人として死なせて欲しいんです。あの日みたいに。あのときみたいに。お願いです。もう一度わたしを殺して。……お母さん」

 リューシカが大きく目を見開く。

 あ。

 ……あ、あああああ。

 お母さん。お母さん? 誰? ……わたし?

 リューシカは頭を抱えた。涙が頬を伝った。涙。……涙?

「……赤ちゃん。産まれていたら、わたしと同い年だって、そう言ってくれたじゃないですか」

 そんなこと、言っていない。言っていないけれど、それは事実だ。真実だ。でも。なぜ。

 どうして花はそのことを知っているのだろう。


「オネーさんは、……リューシカさんは、産まれる前のわたしを殺した、わたしのお母さんですよね。わたしと、わたしのお母さんを殺した、もう一人のお母さん……ですよね」


「……どうして」

 どうして。どうして。……どうして? リューシカの手が震える。喉の奥に砂を詰め込まれたようになる。息ができない。呼吸ができない。花。……花は、何を知っているのだろう。いつから気付いていたのだろう。

「最初から、初めて会ったときから、不思議な違和感を感じていました。ずっと懐かしい匂いを感じていたんです。それに……事情聴取のとき、警察の人に言われました。わたしのスマホから、……お母さんに電話したんですよね? でも、リューシカさんがどうしてそんなことをしたのかわかりませんでした。わからないから、知らないふりを、気付いていないふりをしていました。だってわたしは……リューシカさんが好きだったから。ずっと黙っていたんです」

 何も言えないリューシカに、花がそっと笑いかける。

「あれは、あの教会でのことは、夢じゃない、絶対に夢じゃなかったと、思うんです」

 あれ。あれっていったいなんだろう。教会ってなんのことなのだろう。どこでリューシカの現実と、花の現実が、食い違ってしまったのだろう。リューシカは混乱する頭で考える。

 どこで狂ってしまったのか。どこから狂っていたのか。いったい何が……。

 花は、

 花は……わたしの、子供? わたしが、殺した……?

 どさり、と音がする。気づくと花の体が横倒しになっている。両腕が腐ってしまった花は、起き上がることもできずに、顔を砂の中に埋めていた。

 リューシカは灰色の瞳で、じっとそんな花の姿を見つめていた。

 花がリューシカを好きだと言ってくれたのは、

 リューシカが花に惹かれたのは、

 ……あの子の、生まれ変わり。だから?

 ううん。違う。そんなの違う。間違っている。リューシカは前世なんて信じない。生まれ変わりなんて信じない。リューシカはリューシカで、生まれる前に別の誰かだったなんて、信じられない。想像つかない。理解できない。だってキリスト教の教えの根本は死と復活だ。それにこんなくだらない人生なんて一度きりで沢山だ。何度もあっていいわけが、ないじゃないか。

 だから、花は花で。あの子じゃない。あの子のはずがない。

 そう思っていたのに? まどかの声が聞こえる。

 信じていたんですよね? みやちゃんが耳元で囁く。

 なら、どうして月庭さんはあの子に執着しちまうんだろうな。相馬さんが苦笑している。

 可哀想に。リューシカ、君は最初から狂っていたんだね。孝太郎が寂しそうに呟く。

 ……うるさい。うるさいうるさいうるさいっ。みんなうるさいっ。わたしは違う、わたしたちは〝病気〟じゃないっ。嘘つき。……嘘つきっ!

 一花の声が聞こえる。すぐ近くで、リューシカに話しかけている。見ると白い、ワンピースの制服を着ている。見慣れたはずの、御心女学館の制服姿。


 珍しいわね。こんな季節に鬼灯なんて。

 一花の指先が、机の上の鬼灯の実を、コロコロと転がしている。

 リューシカって意外と馬鹿ね。必要なのは根の方なのに。鬼灯の毒はね、根に多く含まれているのよ。ねえ、どうしてこんなことをしようとしたのか、聞かせてもらってもいいかしら。

 コロコロ。コロコロ。

 ……そう。そんなことがあったの。でも安心して。あなたは死人。魂の殺人にあったのだから。こんなことくらいで地獄に落ちたりしないわ。最初から罪にはならないわ。けれど不思議ね。体を汚されることが魂を殺されることと同義だというのは、本当に不思議だわ。ふふっ、心配しないで。大丈夫。誰からも罰せられたりしないから。死んだ人間を罰することができるのは神様だけよ。だからリューシカ、これからは、死者として生きていきなさいね。そうすればあなたは、誰にも罰を受けることはない。そんな顔をしないで。誰にも言わない。でも、こんな方法試すだけ無駄よ。確実ではないもの。きちんと病院に行った方がいいわ。……ね?

 コロコロ。コロコロ。

 リューシカはパンドラの箱って知っている? そう、ギリシャ神話に出てくるあの箱。でもどうしてあらゆる厄災が入っていた箱の底に、希望なんてものが入れられていたのかしら。

 コロコロ。コロコロ。

 箱の底に残されていたものはエピルスと呼ばれているわ。でも、ギリシャ語のエピルスは希望と訳すよりも、予兆と訳す方が正しいの。わたしは思うのよ。人はね、希望を持つから絶望するの。何かに縋ろうとするから裏切られるの。それを心のどこかで、魂のどこかでわかっているのよ。それが予兆。それは神様の罠なの。ねえ、リューシカ。考えてごらんなさい。だってそれは厄災の箱の一番奥に入れらていたものなのよ? 良いものであるはずがないじゃない。正しいものであるはずがないじゃない。だから。あなたがその男に何か希望を持っているのだとしたら。それはまがい物。全くの嘘。良いものであるはずがないわ。正しいものであるはずがないわ。……そうね。死に至る病とは絶望である、そう言ったのはキルケゴールだったわね。

 コロコロ。コロコロ。

 わたしたちが日々祈りを捧げる主が起こした奇跡だって、そうなのかもしれないわ。奇跡を目の当たりにした民衆はイエスこそユダヤ人の王になると思った。自分たちをローマのくびきから解放してくれると思った。奇跡はその予兆なのだと。我々の希望なのだと。けれどもその思いは裏切られるわ。イエスはそんなことを考えていなかった。彼が考えていたことはもっと崇高で、偉大なことだった。けれど誰もそんなものは望んでいなかった。使徒たちだってそんなイエスを裏切るわ。ユダはイエスを売り、ペテロはイエスを三度みたび、そんな男は知らないと言って否認するんだもの。誰も主の本当の御心を理解しようとしなかったのね。でもね、奇跡なんてものがなければ、最初から誰も期待なんてしなかったんじゃないかしら。絶望なんてしなかったんじゃないかしら。学校で習ったルルドの奇跡だってそうだと思わない? ある人は病から解放される。癒される。けれどもある人はそのまま捨ておかれる。どうして? 奇跡は神の御業じゃない、悪魔の所業なのだ……誰の言葉だったかしら。ドストエフスキー?

 コロコロ。コロコロ。

 奇跡なんて起きない。絶対に起きない。起きてたまるもんですか。まがい物の希望は厄災の箱の一番底に入っているのよ。それは絶望と同義なのよ。だから、行動しないと駄目なのよ。リューシカ。あなたはいつまでそうしているの? いつまで今の状況に甘んじているつもりなの? ……殺してしまいなさい。自分の手で。そいつを、その男を、殺して仕舞えばいいの。

 コロコロ。コロコロ。

 あなたは死人だもの。その男に殺された死人だもの。誰も、あなたを罪に問わないわ。


 ……波の音が聞こえる。

 寄せては返す、波の音が聞こえる。

 リューシカは泣いていた。泣きながら、倒れたまま動かない花を見つめていた。

 一花の声はもう、聞こえない。一花はもう、どこにもいない。

 月が雲に隠れている。空を雲が覆っている。

 分厚い雲からは冷たい雪の匂いがする。

 そして、どれだけの時間が経ったのだろう。

 雪が散らつき始める。

 風が強く吹いている。

 リューシカは花のもとにそっと寄って行って、体を仰向かせる。優しく、顔の砂を払う。腐った体液が、花の頬を涙のように、濡らしていた。そこに、リューシカの涙が混じる。

 花の首に手をかける。花は安心したように、目を閉じる。

「ありがとうございます。いつか映画を見ながら約束してくれましたよね。ゾンビになる前に殺してくれるって。……わたしのために自分を犠牲にしてくれたリューシカさんのこと。嫌いになれませんでした。ううん。ずっとずっと、好きでした。今も……大好きです」

「愛しているわ。いつまでも。愛しているから」

「……わたしも、です」

 花が笑うと小さな八重歯が見えた。リューシカは手に力を込めた。ゆっくりと。ゆっくりと。想いを伝えるように。愛おしい気持ちを伝えるように。ゆっくりと。……ゆっくりと。


「ありがとう。お母さん」


 ごきん、と手の中でとても嫌な音がした。何かが壊れる音がした。それは取り返しのつかない音だった。花の爛れた唇から、こぽこぽと真っ黒い血が溢れた。

 リューシカは花を見下ろしていた。自分が殺してしまった、自分の一番いとしい子を、見つめていた。でも。……お母さんなんて、呼んで欲しくなかった。


 これは罰なのだろうか。

 これも呪いなのだろうか。

 でも。

 誰の罰なのだろう。

 誰の呪いなのだろう。


 波音が聞こえる。

 粉雪が舞っている。

 本来ならば、もうすぐ夜が明けて、朝日が昇る時間だ。けれども空は灰色の厚い雲に覆われている。未だに夜の気配が色濃く漂っている。東の空がほんの少しだけ明るくなっている。

 花の瞳の奥に舞い散る雪が映っていた。リューシカはただ、それを見ていた。

 もう、何も見えていない瞳に。光を失ってしまった瞳に。夜だけが映っている。

 リューシカはそっと花の喉元を締め上げていた指を外した。一本ずつ、ゆっくりと。

 花の首筋に雫が落ちていく。リューシカの涙が、花の体を冷たく濡らしていく。

 リューシカは自分の両手を見つめる。その手は瘧のように震えている。震えを止めようとして指を組み、両手を合わせる。まるで何かに祈るように。けれども震えは止まらない。願いは誰にも届かない。雪が降っている。リューシカの髪が雪にまみれて、白く染まっている。

 ……祈り。

 祈りなのだろうか?

 わからない。リューシカにはもう、何もわからない。

 寂しい。

 ただ、寂しいだけ。

 ぼさぼさの髪。目の下の黒い隈。痩せこけた頬。土気色をした唇。かつての美しかったリューシカは、どこにもいない。ううん、違う。違うのかもしれない。そんな姿だからこそ、リューシカは美しいのかもしれない。そこにいるのは、希望を捨てた、悲しい聖女の姿だった。

 心が寂しさに喰われていく。喰い殺されていく。無という名の真っ白い何かで、体の内側が塗り潰されていく。……寂しい。寂しくてたまらない。

 上着の胸ポケットから手帳が落ちる。

 落ちた拍子にほつれていた糸が切れ、紙がばらばらになってしまう。

 リューシカはのろのろと手を伸ばす。掴み損ねた幾枚もの紙片が風に吹かれて、海とは反対側の山の方へ、深い森の方へ、飛ばされていく。咄嗟にリューシカは左手を伸ばす。届かない。左手首には無数の切り傷が見える。痛々しい、そして生々しいリストカットの跡が見える。小指が付け根の部分から切断されている。紙片は明け切らぬ夜の薄闇の中に消えていく。

 リューシカはそれを茫然と見ている。

 ただ、見ていた。


 ガラス玉の瞳が、灰色の夜の底を見つめている。リューシカはそのとき身の内に激しい何かを感じていた。それは言葉には言い表せない程の強い何かだった。嵐の中の小舟のように、リューシカはそれに飲み込まれた。抗うことなどできない、まさに呪いと呼ぶべき何かだった。

リューシカを襲ったのは耐え難いほどの空腹だった。喪失という名の、魂を貪り喰うような、激しい飢えだった。リューシカは自分の喉を押さえる。乾く。かつえる。苦しい。……寂しい。

 リューシカは花の体にもう一度触れてみる。花だったものに、もう一度触る。やわらかい。濡れている。動かない。どうして。返事をしてくれない。笑ってくれない。花。……花?

 リューシカは花の服をゆっくりと脱がせていく。お腹に爪を立てると、変色した花の皮膚が音もなく裂けていく。黄色い脂肪が見える。溢れ出る真っ黒な血の向こう側に、白とピンクの腹膜が見える。リューシカは更に指を進める。腹膜が破れて臓物がぐちゅぐちゅと音を立てる。温かい。冬の朝の空気の中、粉雪が舞い散る中、花の腹腔から仄かに湯気が立ち昇っている。

 ああ、花のお腹の中は、美しい。まるで宝石箱みたい。

 リューシカは唾を飲み込む。


 そして、食事が始まった。


 甘い。

 愛おしい。美味しい。

 リューシカの両手が、腐った黒い血で汚れていく。これはどこの部分だろう。まるで熟した柿のよう。甘露な蜜の塊のよう。肺のぷちぷちした食感も、なかなか噛み切れない小腸も、全部、全部愛おしい。甘い血の詰まった心臓も、苦い液の詰まった膵臓も、全部、全部美味しい。

 いつだったか道端で殺めた見知らぬ女の子を、花は味がしないと言った。車の中で刺し殺した幸太郎も味なんてしなかった。けれども違う。ちゃんと味がする。とても美味しい味がする。

 この子は、まるで川の魚のような、瑞々しい味がする。……美味しい。

 リューシカが小さな声で呟く。頬を涙が伝う。泣きながら、リューシカはそれを食べ続けた。

 ……嬉しい。

 すごく嬉しい。

 ひとつになれた。

 やっと、花とひとつになれた。本当の意味でひとつになれた。


 けれども……リューシカは知らない。リューシカをも巻き込んだ、この〝病気〟の本当の呪いを知らない。


 〝病気〟に罹患した人の窮極の目的は、愛する人との同化。本当の、本物の同化だ。それさえ成されれば。……彼女たちは狂気から逃れることができるのだから。

 だから。

 どんなに一緒にいたとしても心の寂しさは埋まらない。〝病気〟は治癒したりしない。ただ食べるだけ。食べることだけが〝病気〟を癒してくれる。飢えを満たしてくれる。でも。

 解放された先にあるのは、そこで目にするのは、

 自分が食べてしまった、愛しい大切な人の、亡骸だ。

 取り返しのつかない過ちの残滓だ。

 だから。だから。

 彼女たちはそのときに、新しい狂気に喰らい尽くされてしまう。

 花もそうだったじゃないか。

 リューシカだって、愛する花を、食べたじゃないか。

 だから。だから。だから。

 最後に、正気に戻った瞬間。今更ながらに気づくのだ。

 自分が一体、何をしたのか。


 ——あ。

 ああっ。

 ああああああああああああああああっ。

 リューシカの悲痛な叫びが波の音に消されていく。魂が壊れるようなその声は、誰にも届かない。誰も彼女を顧みない。リューシカは嘔吐する。激しく嘔吐する。かつて花だったものを、花の体だったものを、全部。胃の中のものを、全部。……全部。今更吐いても無駄なのに。

 それは奇跡でも救いでもない。愛する人を食べたって、一番大切な人を食べたって、あとに残るのは絶望だけ。深い深い悲しみと絶望だけなのだ。リューシカは泣いていた。泣き叫んでいた。壊れてしまった。ぼろぼろに壊れてしまった。リューシカの心はもう、自分の瞳に映るものを理解できなかった。それが花だったと認識するのを魂が拒んでしまった。……そして。

 リューシカは虚ろな目で、辺りを見つめる。探し始める。

 いなくなってしまった花を。


 どこからか歌が聞こえる。いつかどこかで聞いた、あの不思議な歌声が。

 重なり合う波と雪の向こう側から。

 リューシカの名前の元となった永遠を生きる瞽女の、美しい、アルトとソプラノの独声二重唱の幻聴が、静かに、幽かに、聴こえてくる。


 Stabat mater dolorosa

 (悲しみに沈みし御母は涙にくれて)

 Iuxta crucem lacrimosa,

 (御子が掛かりたまえる)

 Dum pendebat filius.

 (十字架の元に佇みたもう)


 花。花……。

 どこに行ったの? 出ておいで。

 わたしはここだよ。お家に帰ろう?

 ……花?


 Quae moerebat et dolebat,

 (尊き御子の苦しみを)

 Et tremebat, cum videbat

 (見たまいて、嘆き悲しみ)

 Nati poenas incliti.

 (打ち震えたもう)


 リューシカは歩き始める。花の遺骸を抱いて。子供がお気に入りのぬいぐるみを抱きしめるように、ぎゅっと。しっかりと抱いて。靴が脱げる。構わずに歩く。素足のまま歩いていく。山裾に向かって。花との思い出が綴られた、日記の紙片が飛ばされてしまった、森に向かって。

 波の音から逃れるように。歌声から逃れるように。リューシカは歩き続ける。

 強い風。雪が降っている。


 Vidit suum dulcem natum

 (また瀕死のうちに見捨てられ)

 Morientem desolatum,

 (息絶えたまいし)

 Dum emisit spiritum.

 (愛する御子を見たもう)


 やがて横殴りに雪が吹き荒ぶ。冬の嵐になる。世界を凍りつかせていく。伸ばした自分の指先も見えない。ううん。見えない方がいい。だって、その手は花の血で黒く汚れていたから。

 寒くはない。寒さなんて感じない。ただ、寂しい。寂しくて、寂しくて、死んでしまいそうだった。切なくて、切なくて、本当はもう、自分は死んでいるのではないかと思った。

 リューシカは歩く。花を探して。自分が殺してしまった、自分が食べてしまった、花を探して。どこまでも、どこまでも。ただ、歩いていく。いとし子の名前を呼び続けて。


 Virgo viriginum praeclara,

 (乙女の中の優れし乙女よ)

 Mihi iam non sis amara,

 (我に辛く当たりたもうことなく)

 Fac me tecum plangere.

 (御身とともに我を泣かしめたまえ)


 ……。……花?

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お願い、わたしを殺して。 月庭一花 @alice02AA

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