第10話 十二月二十四日(日)
予兆はあったのかもしれない。
リューシカは孝太郎の外勤先であるK病院のロビーで自分の指先を見つめていた。組んだ指先は白くて、微かに震えている。備え付けのテレビでNHKのニュースが流れている。自分の病院とは匂いが違っている。大きな窓から西日が差している。
花の様子がおかしくなったのは、いつからだったのだろう。あの旅行の、あの夜から……なのだろうか。アパートに戻ってきてからもずっと態度が変だった。急に甘えてきたかと思うと、激しい憎悪の眼差しでリューシカを睨んでいる瞬間に出くわして、心臓が凍るような思いをする。真っ暗な部屋の中でぶつぶつと何かを呟いていることがある。夜中に急に泣き出すことがある。身の回りのことに構う余裕がなくなり、料理がどれも塩辛くなった。全てに疑心暗鬼になり、スマホの暗証番号も変えてしまった。違うよね、嘘だよね、泣きながらリューシカにしがみつく。リューシカを強く求め、そして拒絶する情緒の不安定さは、何が原因なのだろう。
まさか。リューシカは思う。……全部、知られてしまったのだろうか。
リューシカは爪を噛んだ。じっと診察室の扉を見つめた。
……そんなに心配なら一度診てあげようか。孝太郎がそう言ってくれたとき、リューシカは羞恥と屈辱を覚えると共に、少しだけ安堵した。そして安堵してしまった自分を激しく憎んだ。
「僕にそんな話をするってことは、何かしらの精神疾患を疑っているんだろ?」
孝太郎の車の助手席に座っていたリューシカは、唇を噛み締めたまま、無言で小さく頷いた。でも、本当にそうなのだろうか。リューシカは自分の疑念を、どうしても捨てられない。
ため息をつく。セダンタイプの車の中は思ったよりも広々としている。孝太郎の匂いがする。それがリューシカを緊張させる。男性と同じ車に二人きりなのは……中学生のあのとき以来だ。
「煙草、吸ってもいい?」
「駄目。煙草の匂いは嫌いなんだ。第一、帰ってからライカに嫌われる」
リューシカは以前孝太郎に見せてもらったスマホの画像の中の、小型犬の姿を思い出す。リューシカは犬も猫も嫌いだ。生きている動物は大概嫌いだ。だからそれらを愛玩する人間の気が知れない。孝太郎のことも、それから野良猫に餌をやる、花のことも。
「今度僕の外勤先に連れておいでよ。……うちの病院には掛かりたくないんだろう?」
「身内、だからかしらね。あなた以外の職場の人に知られるのは、なんとなく嫌なの」
精神疾患。特にうつ病などはメジャーな病気になったけれど、自分の家族が精神病だと周囲に知られるのは嫌だ、と考えている人は以外と多い。日本人の恥の文化は、根深いものがある。
もちろん、リューシカがそうだと言う訳ではないが。陰で何か言われるのが嫌だったのだ。
「本当に病気だと思う?」
「ん? どういう意味? リューシカはそう思っているんだろう?」
「もしかしたら、わたしのことが嫌いになったのかな、って」
「……思い当たるようなことがあるの?」
リューシカは答えない。フロントガラスの向こう側をじっと見つめている。
「僕はリューシカがそんな表情をする方が驚きだけどね」
孝太郎がハンドルを、コツコツと指先で叩きながら苦笑する。そんな表情ってどんな表情だろう。窓の外には夜の闇。街灯に照らされたアスファルトの道が、まっすぐに伸びている。
「送ってくれてありがとう。また相談してもいい?」
「それは構わないけど……アパートはまだ先だろう? ここでいいのかい?」
「うん。……あの子は聡い子だから」
リューシカは車を出て歩き始める。振り返ると孝太郎が手をあげてそれに答える。動き出した車がリューシカを追い越していく。色々な思いが交錯する。錯綜する。アパートの窓に灯る明かりを見つめて立ち止まる。……どうやって花を病院に連れ出したらいいのだろう。なんて伝えたらいいのだろう。答えは出なくて、リューシカはしばらくのあいだ立ち尽くしていた。
診察室の扉が開いて浮かない顔の花が現れると、リューシカは握り合わせていた手を解いた。
「リューシカさん。あの人に何を言ったんですか。ちゃんと眠れるお薬を出しておくねって、言われたんですけど。色々訊かれたし。血まで採られちゃいました」
リューシカの隣に座り、花が小声で訊ねる。リューシカも小さな声で答える。
「……花、最近よく夜中に起きているでしょう? あまり眠れていないみたいでそれが少し心配だったの。ごめんね、こんなところに連れてきて」
「……まあ、リューシカさんが心配してくれるのは、嬉しいですけど」
どこか憮然とした表情で呟く花を、リューシカはぎゅっと抱きしめる。
「リューシカさん。あの、病院のロビーなので」
「うん」
花がむずがる子供のように、リューシカの手を振りほどく。落ち着かなさそうに周囲を見回している。するとそのときだった。診察室の扉が再び開いて、孝太郎が顔を覗かせた。
「リューシカ、ちょっといい?」
手招きされるままに席を立つ。花を振り返るとぼんやりと天井を見つめている。声をかけても返事がない。仕方なく診察室に入る。椅子に腰を下ろす。緊張で手に汗が滲んでいる。
「彼女、軽度の妄想を伴う破瓜型のシゾフレニーだと思う。言動もかなり怪しいけど、家ではちゃんと生活できているのかい? 学校は暫く休ませているんだろう?」
統合失調症。もしかしたらそう言われるかもしれないとは思っていた。けれどリューシカはそれでも、目の前が暗くなるのを感じていた。今日もボサボサの髪のまま外に出ようとして、リューシカが慌てて髪を整えた。食欲もなく、着ている服もこの頃はいつも同じものだ。
「——ああ、今は破瓜型とか分類しなくなったんだったな。どうしよう。入院するほどではないと思うけど……とりあえずオランザピンで様子を見てみようか。彼女、DM《糖尿病》じゃないよね?」
「うん。……ねえ、孝太郎」
けれどもリューシカの脳裏に浮かぶのは、最近急増している体が腐っていく精神病の、女の子たちだ。もしも、もしも花があの〝病気〟なら……。それを察したのか、孝太郎が苦笑する。
「大丈夫だよ。きっと良くなるから。……ただ、あの子、気になることを言うんだよね」
ちらりとカルテを見ながら、孝太郎が呟く。
「旅行先でリューシカが入れ替わってしまった気がするって。……どういうことだろう?」
親しい人が別人に思える。それ自体は統合失調症の症状として割と知られているものの一つだ。でも、なぜだろう。酷く嫌な感じがして、リューシカは両手を強く握りしめた。
あの日。リューシカは花を近くの海岸に連れ出した。夕焼けに赤く染まる海を見ながら昔の話をした。自分が中学生の頃、担任の教師から性的な虐待を受けていたこと。そのせいで妊娠してしまったこと。堕胎した経験があること。今もそのときのトラウマで人が、人と肌を重ね合わせるのが怖いこと……。花は泣きながら、そんな呪いわたしが解いてあげます、と言った。そしてリューシカの唇に自分の唇を重ねた。キスは涙の味がした。けれどもそれは、今まで幾度となく重ねてきたどんな口づけよりも、優しい、温かいキスだった。旅館に戻って夕ご飯を食べた。お魚って気分じゃないですけどね、そう言って花は苦笑いしていた。一緒にお風呂に入った。初めて肌を重ねた。雨だれのような穏やかな夜だった。それから。それから……。
「……リューシカ?」
孝太郎に声をかけられ、リューシカはびくんと肩を震わせた。自分の心を覗き見られてしまった気がして、赤く染まった顔を俯かせた。
「とにかく、何かあったらすぐに連絡して欲しい。必要ならベッドは確保するから」
「……どうして」
「え?」
「どうしていつもそんなふうに、わたしに優しいの?」
孝太郎は少し考えるそぶりをしながら、リューシカの薬指に嵌まっている指輪を見て、さあ、下心じゃないかな、と笑ってみせた。
予兆はあったのかもしれない。
リューシカは混乱する頭で、そう考える。あの旅行のもっと以前から兆候はあったのかもしれない。指先が白くなって震えている。胸が苦しくて呼吸をするのが辛かった。休憩室の真っ暗なテレビ画面には、ソファーに座って俯く、ナースウエアのリューシカの姿がぼんやりと映っている。窓の外では大きな赤い月が異様なほど綺麗に輝いている。どうしよう。どうしたらいいのだろう。リューシカは爪を噛みながら、ここではないどこかを見つめ続けている。
花の様子がおかしくなったのは、いつからだったのだろう。あの旅行の、あのお弁当から……なのだろうか。おむすび。玉子焼き。鶏肉の照り焼き。それから。それから……。でも、みんな塩辛かった。アパートに戻ってきてからもずっとその調子だった。料理をあまりしなくなってからも濃い味付けを好んだ。それは、食べ物に味がしなくなるのは、あの〝病気〟の初期症状なのに。……どうして気づかなかったのだろう。ううん、違う。きっと気づかない振りをしていただけだった。なぜならあの〝病気〟だと、どうしても思いたくなかったからだ。でも。
……本当に花はあの〝病気〟なのだろうか。もしかしたら。或いは……。
「……どう? 少し落ち着いた?」
休憩室にそっと入ってきたまどかが心配そうにリューシカに訊ねる。リューシカはかぶりを振る。わからない。そんなことがあっていいはずがない。まだ指先が震えている。仕事。仕事に戻らなきゃいけない。そう思う。そう思うのに体が言うことを聞かない。……煙草。無性に煙草が吸いたい。リューシカは自分のポケットに手を滑らせて、ナースウエアに煙草なんて入れているはずがないことに気づく。そんなリューシカを、まどかが痛々しそうに見つめている。
「今日はもう帰ったほうがいいよ。当直の
「いやっ」
リューシカが短く叫ぶ。まどかの言葉を強く否定する。手続き。……手続き? それは入院の手続きのことだろうか。入院。どうして入院なんてさせなきゃいけないのだろう。
「帰らない。あの子を独りにして、どこに帰ればいいの?」
リューシカは考える。いったいどこで。どこで間違えたのだろう。何が切っ掛けだったのだろう。何が原因だったのだろう。最初の躓きがどこにあったのか、思い出せない。わからない。
……今日の朝、リューシカが最近はいつもそうするように、朝ごはんを作った。トーストと目玉焼き、サラダ。お湯に溶かすだけのスープ。花は珍しくパジャマから部屋着に着替えていた。学校には休学届けを出していたが、二学期も先週で終わり、少しだけ花の心の重圧も減ったのかもしれない。いつもより晴れ晴れとした顔をしていた。以前の愛らしい花の姿そのものだった。或いは薬が功を奏したのかもしれなかった。
「今日、学校の教会でクリスマスのミサがあるらしいんですよね。リューシカさんもご一緒にって、さっき言われました」
「……ごめんね。今日お仕事で。日勤深夜だから明日まで忙しいけれど……明日は二人きりで聖誕節のお祝いをしましょうね」
リューシカは花がその話を誰から聞いたのか、あえて訊ねない。たぶん、全て幻聴なのだろう。
「日勤のあとアパートに戻ってくるけど、それまでお留守番、お願いするわね」
「子供じゃないんですから」
花が苦笑している。焼けたトーストにあんずのジャムを大量に塗っている。目玉焼きには雪のような塩の結晶が見える。サラダがドレッシングに浸っている。リューシカは小さくため息をついて、ジャムも調味料もほどほどにしないと体に毒よ、と言う。花はそうですか、いつもと一緒ですけど、と首を傾げている。花はやっぱり、何も気付いていないみたいだった。
花が身を乗り出す。リューシカもそれに応える。そっと唇が重なり合う。よかった。今日は機嫌がよさそう。リューシカはそっと胸を撫でおろす。花から憎悪の目を向けられると——例えそれが自分の所為だとしても——心がひやりとしてしまう。目を背けたくなってしまう。
「リューシカさんのキスは甘いです。……わたしの好きな匂い、好きな味です」
「ありがとう。じゃあ、そろそろわたしは行くね」
どこからか猫の鳴き声がする。花が目を細めて笑っている。冬の淡い朝の光が、二人の顔を優しく照らしている。リューシカはもう一度花の頬に口づけをして、玄関の籠に入れてある車の鍵を手に取り、花を振り返った。花が手を振って見送ってくれた。遅刻ギリギリなので急いでアパートを出る。車のハンドルを握ると手に汗をかいていたことに気づいた。……あのとき、花はどんな顔をしていたのだったか。いったいどんな表情を浮かべていたのだろう。思い出そうとしても、リューシカの脳裏には何も浮かんでこない。ただ、ぼんやりとした黒い靄が、花の顔にかかっているだけ。ジェラート・ピケの厚手の水色ワンピース。ベージュのタイツ。チェックのスリッパ。少し寝癖のついた髪。それらのことはありありと思い出せるのに。
夕方。仕事から戻ると花が部屋からいなくなっていた。
虫の知らせというのだろうか。嫌な感じがした。朝は調子がよさそうだったし、夕ご飯の買い出しかな、と考えようとした。けれど気持ちの悪い予感をどうしても拭うことができない。花のスマホは部屋に置きっぱなしになっている。財布も居間の座卓の上に置かれたままだった。連絡の取りようもなく、リューシカは悶々として過ごした。花がいつ戻ってきてもいいように夕ご飯の支度をした。けれども時計の針が九時を回ると、さすがに心配になってきた。どうしよう。どうしたらいいのだろう。焦燥感だけが募っていく。時間だけが過ぎていく。リューシカは自身のスマホを手に取り、けれども結局どこにも電話をすることができずに、固まってしまう。警察。本当なら警察に捜索願を出すべきなのだろう。でも、なぜだろう。指が動かない。
気がつくとリューシカの頬を涙が伝っている。いつの間にか泣いていたことに気づく。リューシカは自分の涙を手の甲で拭いながら、いつまでもラグマットの上に座り続けていた。
仕事なんて休めばよかった。そうすれば少なくともあんな思いをすることはなかったのだ。
……でも、急に夜勤の交代要員なんて見つかるはずがない。そんなことはわかりきっていた。時計の針が二十二時を指した頃、救急車とパトカーのサイレンが響いた。アパートの近くの大通りを緊急車輌が通り過ぎていく。耳障りだった。事件だろうか。交通事故だろうか。別にどっちだっていい。うるさいな、とリューシカは思った。気持ちがささくれ、苛々した。
リューシカは結局花に置手紙を残し、一睡もできないままもう一度勤め先の病院に戻った。駐車場に車を止め、警備員に挨拶をしながら足早に更衣室に入った。
そこにまどかがいた。彼女も一緒の夜勤だったようだ。
「あ、リューシカ。準夜でうちの病棟にひとり入院があったみたいよ。さっき当直師長にたまたま行きあって、聞いちゃったの。また若い女の子だって。やんなっちゃうよね」
「そう、なんだ」
悄然とした声でリューシカは答える。
まどかはナースウエアに着替えながら、訝しげにリューシカの顔を見つめる。
「……なに?」
「あ、いや。なんだか随分疲れてるみたいだなって。わたしは今日深深だったからあれだけど、日勤帯でなんかあったの?」
リューシカはため息をつきながら首を横に振る。違うわ。と呟く。
「うちの子が帰ってこないの。今までこんなこと、なかったのに」
「そうなの? リューシカの引き取ったあの子、確かまだ高校一年生って言ってたっけ? まあ、いろいろあるわよ。難しい年頃なんだから。帰ってきてもあんまり叱っちゃ駄目よ?」
そう言ってまどかは苦笑する。リューシカはただ顔を俯かせている。違う。彼女にそう言ってやりたかった。年頃だからではないのだ。もっとずっと、深い何かがあるのだ。それなのに。
リューシカは花を探さなかった。仕事を優先してしまった。……どうしてだろう。
着替えながら何気なくスマホを見たが、孝太郎からのメールと着信があるだけで、花からの連絡はなかった。……孝太郎も今日は当直だったはず。用事があるなら直接言えばいいのに。
「わたしにだって覚えがあるわ。遊び歩いてて親にぶん殴られたことの一回や二回。……そんなに心配しない方がいいよ。大丈夫。明日帰ったらきっとけろっとしてうちにいたりするから」
「うん。そうよね。……ありがとう」
まどかの声を聞きながら、リューシカはメールの確認をしないで結局スマホをそのまま鞄に戻し、無理矢理笑顔を作った。笑ってみせた。そうしないと自分の気持ちが折れてしまいそうだった。泣いてしまいそうだった。まどかと連れ立って病棟に行くと、ナースステーションにはすでに深夜勤務の相馬と柳田がいて、ワークシートのチェックを始めていた。
「今日のリーダー、俺だったから。もう勝手に部屋割り決めちゃったよ。俺とリューシカが
柳田が部屋割り表をペラペラと振りながらまどかとリューシカに愛想よく笑いかける。相馬は不思議そうにリューシカを見ている。リューシカは相馬を見つめ返す。
「……なに?」
「いや。なにかあったのかと思ってな。月庭さん、随分と調子悪そうに見えるから。でも日勤のときはそんなじゃなかっただろ。どこか具合でも悪いのか?」
「え? そうなの? じゃあ、三嶋さんと個室側チェンジする?」
柳田が驚いたようにリューシカに訊ねる。髪も茶髪で、性格にも少し軽いところのある柳田だが、根は優しい。ちょっと軽率なだけだ。そんな柳田が心配そうな表情を浮かべている。
「大丈夫。保護室側でいいわ」
まどかが口を開きそうになるのを一瞥して牽制する。余計なことは言わないで、と。
「それよりみやちゃんの方が調子悪そうな顔をしているわ。大丈夫なの?」
リューシカは準夜勤務だった美弥子の表情を窺う。美弥子は申し送りの準備をしながら青い顔で俯いている。唇の色もどことなく薄いように見える。
「え、あ。大丈夫です。もう、帰れますし」
そう言ってぎこちなく笑う。プリセプターのまどかがいるので緊張しているのかもしれない。
「ってみやちゃんは言ってるけど。……なんかあった?」
まどかが訝しげに準夜のリーダーである
「それがねぇ。二十三時半くらいかな。運ばれて来た患者がひどかったのなんの。なんか自分で自分の顔をカッターナイフかなんかで切り刻んじゃったみたいで。もう血だらけでさ、傷が複雑で
「そうなの? それ、さっきまどかの言っていた若い女の子、なのかしら」
ちらり、とリューシカはまどかを見る。
「そうじゃないの? ったく、迷惑な話よね。死にたいならもっと別の方法にすりゃいいのに。そんな方法で死ねるわけないじゃん。本当にもう、迷惑かけんなっての」
まどかの口の悪さはいつもと変わらない。ただ、リューシカもその通りだと思う。
「ほんとよ。ステリー貼るんだって楽じゃないんだから。随分暴れてたし。今はジプ筋注してロヒプノールで鎮静かけて胴四肢拘束、あとミトンね。なんか手も擦過傷だらけだったけど、いったいどこで暴れてきたんだか。あ、今だけ顔に包帯巻いてるよ。起きたら自傷されると危ないから包帯は取っちゃわなきゃね。ま、あの様子じゃ明日の朝まで起きないと思うけど」
「了解。やれやれね」
真奈美の言葉にまどかがため息をつき、美弥子の頭をポンポンと撫でる。
「お疲れ様。大変だったね。帰ったらよーく休むんだよ?」
「はい。ありがとうございます」
周りのスタッフがそんな二人の様子を微笑ましく見ている。いつもだったらリューシカもそう思って目を細めていたかもしれない。でも、今日はうまく笑えない。うまく表情を取り繕えない。リューシカの笑顔はどこかぎこちない。花のことが気がかりでたまらない。
「その子、女の子だからリューシカの担当にしてあるから」
柳田からワークシートを受け取りながらリューシカは頷く。名前を確認すると、【
「これ、本名?」
「仮の名前。名前のわかるものを所持してなかったみたいで、身元不明。ですよね?」
柳田が真奈美に訊ねる。
「うん。所持品はそこにあるだけ。ピアスと指輪と血だらけの部屋着だけだって、警察の人も言ってた。歳は中学生か高校生くらいみたい。それにしては左手薬指に指輪なんかしちゃってさ、いったいなんなのかしら。ずっと大事そうに片方だけのピアスを握りしめてたし。あ、緊措だから明日か明後日には本鑑定やると思うけど。それまでには身元もわかるんじゃない?」
「またあの〝病気〟じゃなきゃいいけどな」
相馬が言う。
「あのゾンビみたいに腐っちゃうやつ? 勘弁して欲しいっスね」
柳田がそれに追従して合いの手を入れる。
「腐るのもやだけど大暴れするのがなー。あれ、嫌なんスよねぇ」
「上に何にも羽織らないで長時間うろうろしてたみたい。あの子体は冷たかったけど、体温が低いってだけじゃ〝病気〟かどうかわかんないし……。なんとも言えないわよね」
真奈美が口を挟む。
「ま、ちゃんと飯が喰えればシロかもしれない、って言うじゃないスか」
確か王寺の小説にもそんな台詞があったような気がする。柳田も『ステーシーの頌歌』を読んだのだろうか。死してゾンビ化した少女は普通の食事が摂れない。人間の食べ物は味がしないのだ。人間の血肉にしか味を感じないのだ。……もっとも現実の少女たちが人を襲うのは、血肉を求めるのは、それとはまた違う理由があるのだけれど。
リューシカは三人の会話を尻目にカートに乗せられていたビニール袋を見つめた。血で真っ赤に汚れたルームウエアのワンピースが入っている。違和感。そのときリューシカが感じたのは微かな違和感だった。見覚えのあるアイスクリームのロゴ。ジェラート・ピケの厚手の水色ワンピース……。
リューシカは慌ててカートに駆け寄る。ステンレスのカートがガシャンと大きな音を立てる。周りの目が一瞬リューシカに集まる。美弥子と一緒に静かに申し送りの準備をしていた、残り二人の準夜勤者である
細い金の鎖のついたピアス。先端にはロイヤルに近い蜂蜜色の琥珀が光っている。
花をモチーフにした金色の指輪。恐る恐る指輪の内側を確認するとそこにはRとHの頭文字。
まさか。そんな。ありえない。リューシカは息を飲む。そんな馬鹿なこと……あるわけがない。その少女が花であるはずがない。嘘だ。きっと何かの冗談だ。だって、だって花は……。
本当に学校のミサに行ったの? 本当に花……なの?
「月庭……さん? どうしたんだ? 顔が真っ青だぞ」
最初に異変に気づき、リューシカに声をかけたのは、相馬だった。
「ねえ、どこで? どこでその子は保護されたの?」
「どうしたの? 急に慌てちゃって」
芙由が小さな声で訊ねる。
「いいから答えてっ、早くっ!」
リューシカのきつく激しい口調に真奈美が慌ててカルテをめくる。リューシカと真奈美以外の六人の視線が交錯する。リューシカを戸惑いの表情で見つめている。
「え、と、ちょっと待って。警察から事務当直へのインテークだと……」
するとそのときだった。血のついた白衣を着替えに行っていた孝太郎が、ナースステーションに入ってきた。孝太郎の顔が青ざめている。険しい表情を浮かべている。
「リューシカ、ちょっといいか」
リューシカは孝太郎の声で、全てを察した。察してしまった。
「リューシカに確認して欲しいんだ。彼女の顔、ぐちゃぐちゃで……」
「や、いやっ! 嘘でしょ? ねえ、嘘だって、そう言って、……お願いっ」
嫌だ。嘘だ。信じない。絶対に信じない。リューシカは駆け出す。足が萎えてまろびそうになる。確かめなきゃ。花じゃないって、確かめないと。そうだ。そんな偶然あるはずがないじゃないか。警察からの連絡だってなかったじゃないか。でも、あの指輪は、それにあのピアスは……。見間違えるはずがない。どちらもリューシカが花に渡したものだ。けれど、でも、……駄目だ。まだだ。ちゃんと確認しないと。リューシカは逸る気持ちを抑えながら、ナースステーションを飛び出していく。心臓が壊れそうなくらい、胸の内側で暴れている。リューシカの胸郭を、音を立てて叩き続けている。口の中がからからに乾いている。目の焦点が合わない。
本当はわかっていた。わかっていたのかもしれない。こうなることの予兆を、どこかで感じていたのかもしれない。けれど。……怖かった。リューシカは怖かったのだ。
花。
……花?
リューシカは思い返す。走りながら。十一月の旅行のことを。あの日の、夜のことを。
——高く堅牢な防波堤を越えると、やわらかな海が広がっている。整地されたばかりの海岸は、新しくて、新し過ぎて、どこか余所余所しい。リューシカは護岸のコンクリートに腰を下ろし、じっと海を見つめていた。さざ波が夕日に照らされてきらきらと光っている。
寒い? と花に訊ねると、花は無言で首を横に振った。
「わたしの家はね、ちょうど……」
リューシカは振り返って指をさそうとして、結局その手をのろのろと下げた。
「どこにあったのかな。もう、わからないわね」
花が悲しそうな顔をしている。リューシカは小さく笑いかける。大丈夫よ、と。
子供の頃の思い出が、ふっと脳裏をよぎる。母がいて、貧しくて小さなアパート暮らしだった。けれど幸せだった。その頃のリューシカはまだ、人として生きていた。
こんなに汚れた自分じゃなかった。
「母が交通事故で亡くなって、わたしは月庭の家に引き取られたの……」
リューシカは話し始める。自分の犯した、罪の話を。
引き取られてまだ間もない、リューシカが中学一年生の頃、担任の教師から性的な虐待を受けていたこと。そのせいで妊娠してしまったこと。堕胎した経験があること。今もそのときのトラウマで人が、人と肌を重ね合わせるのが、怖いこと……。花は泣きながら、そんな呪い、わたしが解いてあげます、と言った。リューシカが本当に言いたいことは、結局言えなかった。
「前にも言ったじゃないですか。いつだって、呪いを解くのは愛の力なんです」
……愛。愛ってなんだろう。あの男がリューシカに吐いた愛しているという言葉は、ただの呪いだった。呪詛だった。リューシカは冷めた心で花の言葉を聞いている。キリスト教で語られる愛は主の救いを意味する。しかし仏教には愛別離苦という言葉があったはずだ。愛が本当に、もしも執着と同義なら。愛はやはり呪いだ。その愛こそが花の母親を殺してしまったのだ。リューシカの妄執が、彼女を殺人と自殺に追い込んでしまったのだ。なら、どうやって償えばいいのだろう。どうやって花に許しを請うたらいいのだろう。リューシカにはわからなかった。
「ねえ、花。わたし本当は……」
唇を塞がれる。花の唇がリューシカの口を覆っている。花の瞑った瞳の、その長い睫毛が、涙に濡れて震えている。リューシカは目を閉じることができずに、ずっと花を見つめている。
「何も言わないで。お願い。……好きです。リューシカさんを愛しています」
間近で、じっと目を見つめながら、花が囁く。目の端がほんのりと赤みを帯びている。
それがとても可愛いな、と。リューシカは思うのだった。
「少し寒くなってきましたね。……そろそろ帰りましょうか」
旅館に帰って、一緒にお風呂に入った。温泉宿ではないから湯船も洗い場も狭かったけれど、リューシカはあまり気にしなかった。花は裸を見られるのを少しだけ恥ずかしそうにしていた。
お風呂から上がると釣り客相手の宿らしく、食べきれないほどの魚料理が並べられていた。舟盛り、煮付け、塩焼き、あら汁……。
「美味しそうですけど、……なんだかお魚って気分じゃないですよね」
「そうね。運転手さんからあんな話を聞いたあとだと……ね」
お互いに苦笑して、箸をつける。ずいぶん薄味ですね、と花が呟く。そうかしら、とリューシカが応える。どれもしっかりと味が付いている気がするのだけれど。花がそう言うのならば、そうなのかもしれない。食べ終わる頃にはそんな会話をしたこともすっかり忘れている。
旅館の仲居が布団を敷いてくれる。花とリューシカは顔を見合わせる。布団と布団のあいだは三十センチほど離れている。その微妙な隙間が、花とリューシカの距離感を思わせる。仲居が部屋を出ると、花が意を決したように立ち上がり、布団の位置をずらした。二つの布団の端と端がぴたりと重なり合っている。リューシカは何も言えずに、座ったままそれを見ていた。
窓の外には冷たい風。かたかた鳴るガラス窓の向こう側には、冴え冴えと月が光っている。
「リューシカさん」
花が小さな声で囁く。手を伸ばして電灯の紐を引く。蛍光灯の白い光が消え、部屋は青い月明かりに浸される。花の表情がよく見えない。それが少しだけ怖い。けれどもたぶん、リューシカの戸惑った顔も、花には見られていないのだろう。そのことに少しだけ安堵する。しかし闇の中で、花はじっとリューシカを見つめている。リューシカは顔を赤くさせ、俯いてしまう。
「……大丈夫ですから。そんなに緊張しないでください。わたし、リューシカさんが嫌がるようなことはしませんから。……手、いいですか」
「え?」
「手を、貸してください」
花もリューシカも湯上りの浴衣の上に丹前を羽織っている。花はリューシカの袖を捲ると、自分も同じように二の腕まで袖をたくし上げ、リューシカの手を握り、前腕の素肌と素肌をそっと合わせた。花の腕はとても冷たかった。そのことに驚いていると、花がぽつりと言った。
「ネットでも色々調べてみたんですけどね。女の人同士のセ……」
「せ?」
「セックス、は、……やり方が、っていうわけじゃなくて、そうじゃなくて、……どうしたらリューシカさんにわたしを受け入れてもらえるのかな、って思って。今日、海岸で海を見ながら話をしてもらって、わたしにも少し……リューシカさんの気持ちがわかった気がしたんです」
花がリューシカを見上げている。瞳が月の光を受けて、金色に光っている。
「だから。ここから、始めませんか。少しずつでいいんです。……受入れてくれませんか」
まずは互いの肌を合わせることから。わたしたちはまだ本当のセックスを知らないんですよ。そう言って花は小さく苦笑した。それは同じ魂を持つ者同士の、そしてそれを殺されてしまった者同士の、悲しくて切ない、心の底から泡のように浮き出た笑みだった。
リューシカはなにも言わなかった。ただ静かに立ち上がって羽織っていた丹前の紐を解き、ゆっくりと浴衣の帯を解いた。花がこくんと喉を鳴らしたのがわかった。花も緊張しているのだと思うと、リューシカは少しだけ心がほどけていくように感じて、小さな笑みを浮かべる余裕が持てた。ご飯を食べたばっかりだと嫌ね、お腹がぽっこりしているわ。そう言って苦笑して、少しためらいながら下着も取った。リューシカの裸身は月の下で青白く輝いている。
リューシカは花の浴衣を脱がせた。そして体と体をぴったりと合わせた。とても穏やかに。まるで春の雨のように。ただ静かに抱き合い、肌と肌とを互いの体に添わせた。指が。足が。そっと絡まり合う。濡れているのがわかる。思わず声が出る。お互いの体に口づけを、雨のように降らせる。
「……ありがとう。わたしを……ぎゅっと、抱きしめてくれて。……してくれて。嬉しいです」
布団の中で足を絡ませながら。花が囁く。リューシカも傍らの花を見つめる。花の前髪が汗でおでこに張り付いている。リューシカはそれを指で横に流し、わたしの方こそありがとう、と伝えた。罪悪感がなくなったわけではないけれど、……今だけは、何も、考えたくなかった。
「ねえ、もうひとつだけ、お願いがあるんです」
起き上がり、リューシカを見つめて、花は言った。
「わたしの右耳に、ピアスを開けてくれませんか」
「え? 右? ……今?」
リューシカも体を起こす。乱れた灰色の髪がさらさらとゆれた。
「ピアッサーもないのに、どうやって?」
「安全ピンがわたしのソーイングセットに入っています。それに消毒液だってフロントに言えば貸してもらえると思います。あとは冷蔵庫に氷は入っていましたし。……きっと大丈夫です」
でも。そう口にしたままリューシカは黙り込む。花の体を傷つけて、本当にいいのだろうか。
「リューシカさんにして欲しいんです。……お願いします」
「……ん。わかったわ。約束だものね。少し待って。消毒液があるかどうか、訊いてみるから」
「はい」
リューシカは布団から抜け出て散らばっていた下着を身につけ、浴衣に袖を通した。
「もったいない。綺麗な体が隠れちゃいましたね」
「馬鹿。裸のまま部屋の外に出られるわけがないでしょう?」
リューシカは苦笑する。部屋の隅に置かれた電話で、フロントに確認する。
「消毒液あるって。貸してくれるそうだから、ちょっと行ってくるわね」
リューシカは花を独り残して階段を下りていく。部屋を振り返ると椿の間と書かれている。
廊下の大きな振り子時計は夜の十一時を指している。ぎしぎしと鳴る廊下をリューシカは歩いていく。足元がふわふわする。まるで自分の体ではないみたいに。部屋の外は暖房の火も絶えていたが、不思議と体が火照っていて寒さを感じない。リューシカは頬を赤らめながら思う。あれが本物のセックスだったのだ、と。本当に、ただ、肌を重ねるだけで良かったのだと。
リューシカが廊下を振り返る。気持ちが良かった。気持ちが良すぎて、逆に怖かった。
フロントにいた男性に、リューシカは椿の間の者ですが、連れがちょっと怪我をしてしまいまして、と話しかけた。そして今更ながらにぼさぼさの髪を気にして、軽く指で梳いてみる。
「わかりました。そういうことでしたら明日の朝にでもお戻し下されば結構ですので」
男はそう言ってオキシドールの容器をリューシカに手渡した。
部屋に戻ると花は裸のまま、布団の上に足を崩して座っていて、ぼんやりと天井を見ていた。
リューシカも花の視線を追って、天井を見上げてみる。そこにはけれど、何もなかった。ただ電灯と木目の綺麗な桜材の天板が見えるだけだった。リューシカはただいま、と声をかける。
「おかえりなさい」
花が天井を見上げたまま、呟くように返事をする。
「いつまでもそんな格好でいると風邪をひくわ」
「……大丈夫ですよ。少しも寒くないですから」
花はリューシカに視線を移して、艶っぽく笑う。目の端が赤く染まっている。
「天井に何かあるの? 虫……?」
リューシカはもう一度天井を見上げる。
「なんでもないです。……それより消毒液はもらえました?」
ええ。オキシドールを借りてきたわ。そう言って、リューシカは手にした容器を軽く振った。しゃこしゃこと音がした。それは液体がゆれるときの、独特な、酷く不安定な音だった。
「じゃあ、お願いします。右耳に……リューシカさんの耳の反対側に、開けてもらえますか」
いつか同じピアスを半分ずつ、分け合ってつけましょうね。リューシカが生前の母と交わした果たせなかった約束は、花と叶えたい。そう思った。そう思ったあの日の約束を、リューシカは忘れていなかった。本当にやっていいのね、リューシカはもう一度だけ、花に確認する。
「実はさっきまで氷で耳を冷やしていたんです。痛みを感じないように。血があまり流れないように。……ほら」
そう言ってリューシカの頬に触れた花の手は氷のように冷たい。死者の手のように、冷たい。
リューシカは身震いして、花の手から逃れた。それが冷たさのせいだったのか、恐怖を感じたからなのか、リューシカにはわからなかった。ただ、逃げなきゃ、と思ったのだ。
「ねえ、リューシカさん。リューシカさんが大切にしているあのピアス。いつか半分ずつ、分けあってつけようねって、言ってくれましたよね。今、……わたしにください。わたしを傷つけて、わたしに穴を開けて、リューシカさんだけのものにして欲しいんです。……お願い」
リューシカは裸の花をそっと抱きしめる。花の体は雪のように冷たい。死者のように冷たい。
「こんなに冷え切って。本当に風邪を引いてしまうわ。早く服を……」
「大丈夫ですよ。だってわたしを抱いてくれているリューシカさんの体、とても温かいです。わたしまでぽかぽかしてしまいます。だから……ね。お願い、早く……して?」
花の差し出した安全ピンを、リューシカは意を決したように、そっと受け取る。オキシドールを吹き付けて針の先端を消毒する。耳の表面もオキシドールを浸したコットンで綺麗に拭う。……けれど本当にこんな程度で消毒になるだろうか。化膿してしまったら、どうしよう。
リューシカは母の形見のピアスを鞄から取り出しながら、そっと花の表情を盗み見る。
「大丈夫。信じていますから」
その声に促されて、リューシカは安全ピンの針先を花の耳に宛てがう。氷を当てていたせいで、花の耳朶は血が通っていないみたいに冷たい。死者のそれのように冷たい。リューシカの指先が震えている。手のひらに汗をかいている。怖い。こんな綺麗な耳を傷つけるのは、怖い。
「怖がらないで。わたしが三、二、一、と言ったら、刺して」
三、二、一。……花の耳に安全ピンを突き刺す。一瞬、びくんと花の肩がゆれる。目を瞑り、唇をぎゅっと引き結んでいる。……安全ピンの先が、耳を貫通した。針先が血で濡れていた。
リューシカは安全ピンを抜き、代わりに形見のピアスを新しい穴に通す。血は少量しか流れていない。僅かにポタリと首筋に垂れた血を、思わず舌先で舐め取る。金の鎖が蛍光灯の光を受けて、艶めかしく輝いている。その先端でゆれているのは、ロイヤルに近い蜂蜜色の琥珀。
——もともとこの琥珀は一つの大きな石だった。中には東欧の城が、永遠に続く冬の世界が閉じ込められていた。もちろんリューシカはそんなことなぞ知る由もない。琥珀が割れて、崩壊した世界がどうなったのか、砕けた石から放たれた呪いがどうなったのか、誰も知らない。誰にもわからない。ただ、二つのピアスは二度と一つの石には戻らない。永遠に。永遠に……。
「……似合いますか?」
痛みをこらえて、花が小さな声で訊ねる。似合っているわ。とても可愛いわ。リューシカが答える。花の瞳に涙が溢れる。ぽろぽろと零れ落ちて、部屋が真珠のような涙でいっぱいになる。リューシカは花の涙で溺れそうになる。呼吸ができなくなる。涙。涙? ……どうして。
「ふふっ。嬉しいです。……でも、あれ? 何か音がしませんか。え? リューシカさんには聞こえてないんですか? これって……声? 声ですよ。リューシカ、リューシカって……」
保護室の堅牢な扉を開けると、不可解な光景が広がっている。リューシカは思わず息を飲む。室内に入るのを躊躇ってしまう。ベッドに括り付けられて眠っている……眠らされていたのは、女の子だった。女の子なのは体つきを見ればわかる。でも、顔全体に包帯が巻かれ、点滴のルートが入り、バルンカテーテルまで挿入されているのが本当に花なのか、リューシカにはわからない。よく知っているはずのその両手や指さえ、今はミトンをされていて、確かめることができない。スタンドに吊るされたバッグから、薬液がぽたりぽたりと、少女の中に流れていく。
「花?」
リューシカは声をかける。少女は目を覚まさない。返事をしない。
「花、なの?」
リューシカは少女に近寄る。顔を覆う包帯を取り除こうとする。血の滲みたガーゼの下に傷だらけの皮膚が見える。もっと。もっと見てみなければわからない。ガーゼを捲る。血に染まったステリーテープが見える。傷だらけでも、腫れ上がっていても、見間違えるわけがない。花を見間違えたりしない。女の子の顔が少しずつ露わになる。リューシカが目を大きく見開く。
花。
……花?
「ちょっ、待ちなさいっ、リューシカ何してるのっ。リューシカ、……リューシカっ!」
遅れて保護室に入ってきたまどかがリューシカの腕を取る。そして小さく息を飲む。包帯を毟り取ろうとするリューシカの指先は、血塗れになっている。
「離して」
「っ、……離してじゃないわよ、馬鹿っ。ちょっと冷静になりなさい。ねえ、この子があんたの引き取った子ってことなの? そうなのね? でもこんなことして、あんた何考えてるのよ」
「花。花なの。この子はわたしの花なの。お願い。離して。返して。わたしに返して」
リューシカの声が虚ろに響く。目の焦点が合っていない。手を血で汚したまま、それでもまだ少女の顔に触れようとしている。正気じゃない。狂っている。まどかはぞっとする。
「ま、待ちなさいって言ってるでしょっ。柳田っ、相馬さんっ、ぼさっと見てないで早くリューシカを押さえてっ、……早くっ!」
相馬と柳田が脇からリューシカを取り押さえる。リューシカはそれでも横たわる少女を見つめている。自分が押さえつけらていることにも気づいていない。花、花、と譫言のように呟く。
そのまま休憩室に連れてこられる。手を洗わされた記憶があるが、よくわからない。誰かがずっと付き添ってくれていたような気がする。みやちゃん、だったのだろうか。それとも違う誰かだったのだろうか。その人物もしばらく前に出て行った。もう、よくわからない。
リューシカは俯きながらソファーに座っていた。テーブルの上にはコーヒーが置かれていたが、すでに冷たくなっていた。誰が淹れてくれたものなのか、これもよくわからない。
どうしよう。どうしたらいいのだろう。考えがうまくまとまらない。頭がうまく働かない。
……仕事。仕事に戻らないと。でも……仕事? 花が苦しんでいるのに? 花をあのまま放置して、仕事なんてできるのだろうか。ううん。できない。できるはずがない。
切り刻まれた花の顔が脳裏をよぎる。
血で汚れ、赤く腫れあがった花の顔が目に浮かぶ。
どうして自分で自分の顔を切りつけたの?
なぜ花はそんなことをしたの?
どうして自分自身を傷つけなければいけなかったの?
なぜ? どうして? ……どうしてわたしに相談してくれなかったの?
「……どう? 少し落ち着いた?」
休憩室にそっと入ってきたまどかが心配そうにリューシカに訊ねる。リューシカはかぶりを振る。わからない。まだ指先が震えている。……煙草。無性に煙草が吸いたい。リューシカは自分のポケットに手を滑らせて、ナースウエアに煙草なんて入れているはずがないことに気づく。虚しい手の動きを止める。そんなリューシカを、まどかが痛々しそうに見つめている。
「今日はもう帰ったほうがいいよ。当直の矢野師長にはわたしから報告しておくから。……明日色々と手続きもしなきゃいけないでしょ?」
「いやっ」
リューシカが短く叫ぶ。まどかの言葉を強く否定する。手続き。……手続き? それは入院の手続きのことだろうか。入院。どうして入院なんてさせなくてはいけないのだろう。
「帰らない。あの子を独りにして、わたしはどこに帰ればいいの?」
「そんなことを言ったって……」
鬱ぎ込むリューシカを前に、まどかは言葉を失う。困惑してしまう。リューシカは自身の親指の爪を噛みながら、どこか一点をじっと見つめ続けている。睨み続けている。
「連れて帰れるわけがないでしょ? 緊措なんだよ? 緊急措置入院。本鑑定が済むまではたとえ親代わりのあんたがどうこう言ったって、どうにもならないのはわかるでしょう?」
リューシカは返事をしない。まどかはそんな彼女の様子に、小さくため息をつく。
「まだ措置って確定したわけじゃないし。医保なら……この場合どうなるんだろう。リューシカが保護者でいいのかな」
リューシカの表情が険しくなる。まるで、人を喰らう悪鬼か羅刹のように。
「と、とにかく。今はうちらにはどうしようもないの。第一あの状態の彼女を連れて帰ってどうするつもりなの? 点滴、バルンカテーテル、胴四肢拘束、ミトン、……フルコースじゃないの」
「もしも花があの〝病気〟なら」
リューシカはまどかをキッと睨みつける。
「あの子は死ぬわ。見殺しになんて、わたしにはできない」
まどかも負けじとリューシカを睨みつける。
「調子に乗るんじゃないわよっ。じゃあ何? リューシカなら助けられるっていうの? 今まで散々患者が死んだじゃないっ。わたしたちずっとそれを見てきたでしょっ? それなのに自分の子供だけは助けられるって、あんた本気でそう思ってんの?」
リューシカの頬を涙が伝う。拭うこともできずに、まどかをじっと見つめている。そのとき。
一拍の空隙のあと、休憩室の扉がかちゃりと開いた。顔を覗かせたのは相馬と孝太郎だった。
「外にまで聞こえてたぞ。……三嶋さん。言い過ぎだ」
相馬が顔を顰める。まどかは恥ずかしそうに俯き、すみませんでした、と小さな声で呟く。
「リューシカ。……あの子を連れて帰りたい?」
孝太郎が囁くように言う。リューシカはその言葉の意味がわからずに、呆然としている。
「もし、本当にそうしたいのなら……連れ帰っていいよ」
「なっ、ちょ、待ってくださいっ。阪上先生、それ本気で言っているんですか?」
まどかが慌てて叫ぶ。相馬を見る。相馬はそっと視線を外し、自分の足元を見つめている。
「さっき俺が包帯を巻き直しに行ったときにはもう、皮膚の変色が始まっていた。体温も異常なくらい低かった。……言っている意味、わからないわけはない……だろ」
相馬が低い声で言う。
「相馬さん、だからって、そんなことしていいわけが」
まどかの言葉を相馬は手のひらで押し留める。呆然として孝太郎を見つめていたリューシカの瞳から、止めどなく涙が零れる。やっぱり、という諦めと、嘘だ、という願いが、交差する。
「彼女たちは寂しいんだ。寂しくて寂しくて、それを埋めるために人を襲うんだ。閉じ込めておけば誰も襲われたりはしないだろうね。でも、それは治療じゃない。そんなのは、彼女たちの治療とは言わないんだよ。リューシカ。君になら、あの子の寂しさを埋めることができるかもしれない。……それが本当の治療で、本当の看護、……なんじゃないかな」
「知ったようなことを言わないでくださいっ。阪上先生はまだ指定医じゃないでしょ? 何の権限もないくせに。好き勝手なこと言ってリューシカを焚きつけないでっ」
まどかが叫ぶ。そして再び相馬を見て、本当にこんなこと許していいの、と胸ぐらを掴む。
「自分の子供がさ」
目を合わせないまま、相馬が言う。小さな、静かな声で。
「……あんな風に死ぬのはいやだな、って。思っただけだよ」
まどかはのろのろと相馬の襟から両手を離す。バツが悪そうに窓の外を見つめている。その頬に光るものが流れている。子供のいないまどかには、リューシカの気持ちも相馬の気持ちもわからない。たとえ血が繋がっていなくても。まどかに子を思う親の気持ちは、わからない。
リューシカは何も言わずに孝太郎と相馬のあいだを抜け、部屋の外に出る。ナースステーションの窓越しに、雑務をこなしている柳田と目が合う。柳田は胸の前でぎゅっと拳を握ってみせる。リューシカは苦笑して、小さく頷いた。そしてそのまま花の病室に向かった。
花の体のルート類を全て抜き去り、ぐったりした体を背負う。大丈夫、大丈夫、そう、小さな声で話しかけながら。病棟の扉の前では孝太郎と相馬、まどかが待っていた。リューシカは孝太郎を見つめた。孝太郎の顔に浮かんでいる表情を、リューシカは言葉にできなかった。
「ねえ、一つだけ、訊いてもいいかな」
孝太郎が小さな声で訊ねる。
「……うん」
「スペイン版が秀逸だったし、『REC《レック》』はハリウッドでリメイクしなくてもよかったんじゃないかなって、僕は思っているんだけど。どう思う?」
リューシカは一瞬きょとんとして、それからくすくすと笑った。
「わたしは続編が要らなかったんじゃないかなって、思っていたわ」
孝太郎も目を細めて笑った。
けれどもリューシカには孝太郎の顔が、泣いているように見えた。
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