ここにしかないもの
高台にある寺院のソメイヨシノが満開を迎え、吹く風に少しの花びらが舞う様子は言い表せない風情がある。
果たして、これほどまでに心の解放感を体験したことがあっただろうか。
この得も言われぬ感覚をどう表現出来ようか。
自らの視野を超える左右の広がり、上下の高さ。肩を動かさず、首だけで見ることができる視界がもたらす圧倒的な次元に己のすべてが解き放たれる。
右を見れば世界でも屈指の美しさと称される富士山が上部に雪を残し、青黒く裾を広げて鎮座する。その手前には、盆地を取り囲むようにして黒々とした峠が連なり、陽の光に照らされて浮かび上がる陰影でその凹凸具合を知ることができる。峠を滑り降りるように視線を甲府盆地へと流せば、土手に沿った舗装道路が不自然に美しいカーブで通り抜け、その流れに導かれて奥へと視線を進めれば、盆地の右半分をすり鉢状に南甲府のエリアから笛吹の方まで見ることができ、まるでスタジアムの向こう正面の客席のようにすべてが光に照らされている。すり鉢の縁にそってそのまま左へと目を向ければ、大月・東京方面へと抜ける笹子峠の辺りへと繋がるはずだが、左手前の昇仙峡・大笠山らが張り出し、遮っている。遮られたついでに右へ視線を展開すれば、小さな白っぽいブロックのような建物達が一面に散らばっている。石和から南甲府のエリアは、特に目立つ建物もなく比較的平坦な面に無造作に置かれた人工物の壁が陽の光を反射している。視線を少しだけ左へ戻すと、すり鉢の向こう側を遮る緑の張り出し部分はその手間にある甲府駅周辺の建物の背景を担う。その辺りから再び小さな白っぽいブロックが平坦に見える面を覆いつくし、増え始め、あっという間に視界は人工物で埋め尽くされる。さほど高低さのない建物達が地形にそって微妙に波打ちながら並ぶ街並みをずっと手前へと戻るように眺めれば、中部横断道が流れを変える。道を挟んで手前にあるモノ達は、なぜかぐっとこちらに寄ってきて大きな建物が点在し始め、急激に自分の居る場所に現実感を与えてくる。現実に引き戻されない様に横断道を左へたどれば、なだらかに裾野を広げる茅が岳の美しい姿に目を奪われる。富士山と比べれば手が届くかのようなサイズ感で加速度的に視線を集め、その裾野の広がり具合と人工物の少なさとが雄大さを演出する。肉眼で確認できる山肌の木々の多さ、緑色の多様さ、開墾の面積、点在する人工物。建物のまばらさと、陰影の派手さがないことからもその広がりが噴火による溶岩と火山灰の堆積であることを物語り、不思議な親近感を覚える。
視線を甲府へと戻し、盆地を俯瞰する。甲府盆地とそれを形作る山々すべてが放つ二次反射光が眩しくて目を細めなければならない感覚は、客席から舞台を見るような、はたまた博物館の中で照らされる精巧な街のジオラマを見るかのようだ。しかし、この目の前に広がる街は、本物だ。リアルだ。この中には何十万という人々の営みが今まさに繰り広げられている。これは、舞台の上の美術ではなく、博物館で本物を掌握するための物でもなく、今であり、これらは現物だ。その現物の上に浮かぶ雲が区別なく盆地のあらゆるものの上に影を落とすが、街に落ちれば見慣れた色に、山肌に落ちれば黒々と、陽射しの下で様々にそのコントラストを変えて見せる。
人工物の小さな点をひとつひとつ確かめるように眺めていれば、完全に時を忘れ、いつまでもそのままで居てよいと錯覚しそうになる。気付けば、そのまま小さい点を見て、雲の落とす影をみて、全体をみて、詳細をみて、山並みをなで、道を走る。富士山をみて、甲府盆地をみて、茅が岳をみて、街並みを彷徨う。雲は流れ、風が吹き、トビが風をとらえ、幾種類もの知らない鳥達がめいめいに会話する。時が止まっているのではない。自分が時を忘れているのだ。時間を廃し、地球の自転を忘れ、いつもは意識しない者達だけが活発に生き生きと活動していることを受け入れ、抗うことなく、ただ感じて、受け取る。
車のエンジン音や電車の摩擦音、エアコンの室外機や換気扇の音。会話、人混みのすべての人が放つベクトル、飲食店の匂い、アスファルトの熱、電子音、警告音、音声案内。街中で当然の音、熱、光。それらと距離を置いて、客観視している自分の五感は驚いて思考停止している。無意識に働くべき機能が働けないことに脳が少々混乱し、やがて理解する。解放感という単語のみでは収まらないこの感覚が何者であるのかと言うことを。
僕は、山梨の景色の中に幸福感のかけらを見つけた気がした。
<終>
真空色の虫 諏訪 剱 @Tsurugi-SUWA
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