卒業

 乾いた北風が強く吹く快晴のこの日、僕は意気揚々と坂を上ってカフェ龍へと向かった。二月の風は耳が千切れんばかりに冷たかったが、それでも高く青い空が、あのコーヒーとあの景色への期待を膨らませた。先日、工場長に呼ばれて来年度以降の処遇について話があったが、その回答はまだ保留にしていた。

 店に着くと、キッチンにいた店長に、今日、さくらさんは?と尋ねた。

「さくらさんは、結婚して千葉県佐倉市に居ますよ。」

 店長がたんたんと言う。いつものオリジナルブレンドを淹れる手も、表情も、何もかわらない。なぜ、何も変わらないのか?

「・・・え?」

 僕は文字通り、耳を疑った。北風に吹かれて千切れてしまったのかと両手で探せば、冷たくなってはいたもののまだ耳は存在している。久しぶりに見る店長のほれぼれするその手付きは、僕の動揺など完全に無視している。店長は、僕がそういうリアクションをすることなど当然わかっていたはずなのに、だ。

「け・・・結婚、したんですか?誰と?」

 あまりのことに、つい大声を出した自分に僕が驚いた。

「遠距離恋愛が実ったそうです。」

 遠距離恋愛していたのか。彼氏がいたのか。そうだったのか。

「知りませんでした。僕はてっきり・・・」

 僕の言葉を静止するかのように、店長がオリジナルブレンドを僕に出した。

「幸せになって欲しいと思っていました。本当に良かったです。」

 店長は、何一つ変わらない優しい笑顔でそう言った。なぜ、何一つ変わらない笑顔?

 淹れたてのコーヒーを一口、すする。やっぱり、店長のオリジナルブレンドはおいしい。

「・・・さくらさん、幸せになったんですか?」

 僕なりに言葉を選んだつもりだった。

「そりゃそうですよ。もうさくらさんじゃなくて、千葉さんです。」

「・・・は?」

「佐倉さん、千葉の佐倉市にお住まいの千葉さんと結婚して、今は千葉さんです。」

「な・・・え・・・あ、え・・・。」

「旧姓、佐倉さん。現在は、千葉さん。」

 少し、わざとらしく説明口調で店長が言った。

「・・・さくらさんて、下の名前じゃなかったんですか?」

 店長は、珍しくあははっと笑った。

「途中でね。宮さんがここへ来るようになってしばらくたった頃ですけど、さくらさんが、きっと名前だと思っているからそのまま通しておこうって言って。いつ苗字を聞いてくるかしら、って面白がっていました。とうとう、最後の最後まで聞かなかったんですね。」

 思いの外、笑いのツボだったらしく涙目で笑いながら一枚のはがきを僕に渡した。そこには、純白のドレスにブーケを持ったさくらさんと、知らない男性が写っていた。しばらく、放心状態で見つめながら、僕は言葉を探した。

「・・・きれいですね。なんか、さくらさんじゃないみたい。」

 僕は、僕の知っているさくらさんの面影を見つけようと、必死に写真を見つめた。

「どうみても、幸せです。」

 店長が自らの手元を見て作業をしながら言った。

 店長の冷静さに感化され、ようやく気付いた。ああ、そうか。見つからないのかもしれない。なぜなら、見るだけで幸せになるような、これほど幸福感を放出しているさくらさんを僕は知らないのだ。僕が知らないさくらさんのこの姿こそ、あの花火大会の日に僕が思った幸福感がにじみ出るさくらさんそのものじゃないか。

「僕は、・・・さくらさんが幸せで、嬉しいです。すごく、嬉しい。」

 そう言って、はがきを店長に返した。店長は、改めて写真を見て、深く頷いた。

「私も、嬉しいです。」

 SNSの更新が秋で止まっているのは、てっきり虫がいなくなり、情報交換会が開かれていないからだと思っていた。それだけの理由で、春になればまた、二週に一度くらいのペースで開催告知や報告レポがアップされるのだろうと思っていた。そこに参加する家族や子ども達の成長ぶりも、虫の知識のレベルアップの様子も、ずっとそのまま続くのだろうと思って疑いもしなかった。もしかしたらもっと幸せ溢れる内容に発展するんじゃないかとさえ思っていた。

 うう、寒い。などと言いながら、中年のご夫婦らしきお客さんが入ってきた。お店はいつものように営業している。男性はオリジナルブレンド、女性はハーブティーを注文した。僕は、一人でゆっくりとオリジナルブレンドを味わった後、店長の手が空くのを見計らって、初めてハーブティーを注文した。

「カモミールブレンドです。」

 そういって店長が出してくれたので、思い切って言ってみた。

「もし、SNSの更新を担当する人がいないのなら、僕にやらせてもらえませんか。」

 店長は、少し驚いた顔をしたが、

「考えておきますね。私、そういう類は不得手なので。」

 と、優しく笑った。

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