カップ一杯分の嫉妬:H

前田 尚

カップ一杯分の嫉妬:H

 わたしが話し終えたのと同時に、鳩時計が鳴った。

 ぱっぽぅ、の数は十一回。わたしが帰ったのは十時半だったから、もう三十分は経ったのか。短くまとめたつもりだったけど、あれからずっと昂っている気持ちからか、思ったより長く喋っていたみたい。

 まだまだ話足りないし、本音を言えばもう寝ているお母さんも叩き起こしたいくらいだけど、これ以上、明日も出勤時間の早いさゆりちゃんを付き合わせるのは申し訳ない。帰ってきて早々、コートも脱がずに「ねぇ聞いて!」と始めたわたしの話を、さゆりちゃんは静かな相槌を打ちながら聞いてくれた。

「とにかく、そういうことだから。遅くまで付き合わせてゴメンね」

 そう言って立ち上がりかけたわたしに、

「待って、はるかちゃん」

 と、さゆりちゃんが制止をかけた。

 さゆりちゃんは、双子の妹だ。仲の良いわたし達は一卵性双生児ってやつで、小さい頃からずっと、お互いのことをちゃん付けで呼んでいる。

「はるかちゃんは、明日休みだったよね」

「うん? うん、そうだよ」

 対面に座るさゆりちゃんは、わたしが帰ってきた時には手元に広げていた雑誌をいつの間にか閉じていた。それを脇によけ、こちらに向けてピンと指を立ててみせる。

「それなら一杯付き合ってよ」

「えー、お酒? めずらしいね」

 わたしはお酒を飲むのが好きだ。ほとんど毎日のように晩酌をしているし、今夜だって、キレイなレストランでワイングラスを傾けてきたところ。だけどさゆりちゃんはあんまりお酒が好きじゃないから、その誘い掛けには、驚いた。

 さゆりちゃんはゆったりと笑い、祝杯だよ、と言った。

「はるかちゃんの缶チューハイから選んで取って来ていい?」

 立ち上がりながらのさゆりちゃんの言葉に、大きく頷く。ふわふわとした心地の良い気分の今、飲むなら甘いものがいい。

「じゃあ準備してくるから、はるかちゃんは待ってて」

 さゆりちゃんがキッチンに消えてから、わたしは鼻歌を零しつつテーブルに残された雑誌を手に取った。ぱらぱらと内容を斜め読みするけど、まったく興味の湧かない分野だ。

 面白くない雑誌を閉じた時、キッチンからかしゅりと音が聞こえた。焼酎のロックだって一気飲みしちゃうわたしと違い、さゆりちゃんは缶チューハイを一人で一本飲み空けることも出来ない。だから、一本を二つのグラスに半分こしているんだろう。

「おまたせ」

 戻ってきたさゆりちゃんが持つお盆の上。仲良く二つ並んで乗っているものに、わたしは思わず噴き出した。

「わぁ、懐かしい! でも、どうしてコレなの?」

 それはグラスじゃなくて、緑色と紫色のマグカップだった。

 十数年前、わたしとさゆりちゃんが小学生の頃に使っていたものだ。緑色がわたし、紫色がさゆりちゃん。真ん中にキリンが描かれた子供用の小さなカップは、わたし達が成人した今じゃあ、いつも食器棚の奥の方に仕舞われていた。

 受け取ったカップには、オレンジ色の液体がしゅわしゅわと泡を立てている。

「覚えてない、か」

「えぇ? なにが?」

 匂いからしても、うん、これはオレンジ味。

 それってきっと、このカップに合わせてくれたんだ。わたし達が幼い頃、うちはオレンジジュースが常備された家だったから。

 そんなさゆりちゃんのユーモアが嬉しくって、カップを両手で抱え込みながらわたしはおどける。

「祝杯なら、乾杯でもしてもらっちゃおうかなあ?」

 そうして目線をさゆりちゃんに戻すと――さゆりちゃんは、真っ直ぐわたしを見つめていた。

 見つめて? いや、これは……違う。

 さゆりちゃんは――わたしを、睨んでいた。

「どう、したの? さゆりちゃん?」

 思わず問いかけて、だけど、さゆりちゃんは何も言ってくれない。口をギュッと引き結んで、目だけぎらぎらさせている。さっきまでの浮ついていた気分が、一気にどこかへ飛び失せていった。

 どうして? わたし、何かした?

 おろおろするだけのわたしから、しばらくしてさゆりちゃんは目を逸らした。大きく溜息を吐いて、覚えてないなら、と口を開く。

「思い出してよ。ねぇ、はるかちゃん」


 ――読書感想文の祝杯に、わたしに何を飲ませたの?


 その言葉で、わたしの記憶は蘇った。



 *



 あれは小学校三年生の時だった。季節はいつだっただろう。

 わたし達はいわゆる鍵っ子で、その日も学校が終わって帰った家にはわたし達以外は誰も居なかった。

「はるかちゃん、あのね」

 鍵を開けた玄関を上がって、二人一緒の子供部屋に入って。帰り道ずっとゴキゲンだったさゆりちゃんは、通学帽を脱ぎながら口を開いた。

「かえりの会のあと、わたし、先生に呼ばれたでしょう。その時に教えてもらったんだけどね、わたしの書いた読書感想文、優勝したんだって」

 それは先生が「入賞」と言ったのを聞き間違えたのだろうと、今では分かる。

 今では、だ。当時のわたしは気付けなかった。

 そんな余裕なんて、まるでなかったんだ。「優勝」の二文字が持つ最強の響きに、ガツンと頭を殴られたような心地になっていた。

「うそ」

「ほんとだよぉ。うそじゃないもん」

 思わずわたしの口をついて出た言葉に、さゆりちゃんは気分を害した様子も無くきゃっきゃと笑っていた。

 読書感想文なら、わたしも書いた。

 さゆりちゃんと同じ本で、書いた。

 課題図書の中からそれを選んだのはわたしだった。先に読んだのも、先に感想文を書き上げたのも、わたしだった。そのお話にハマって何度も読み返したわたしに対し、さゆりちゃんは「最後がちょっとよくわからない」と首を傾げていた。

 わたしは読書感想文に、このお話のどこに感銘を受けたか、そこからどういうことを学んだかを長く綴った。作家さんに対するラブレターを書くような気持ちで、文字だっていつも以上にキレイに書くように気を付けた。

 一方のさゆりちゃんは自分が想像したお話の続きを書いていて――出来上がった感想文を見せあいっこした時、わたしは心の中で少し腹を立てていたのだ。こんな素晴らしいお話に勝手な付け加えをするなんて失礼だ、作家さんが読んだら怒っちゃうよ、と。

 わたしのとさゆりちゃんの、両方を読んだお母さんはどっちも褒めてくれたけど、本心ではきっとわたしの方が上手に書けてるって思ってくれてるに違いないと確信していた。誰が読んでもそう思ってくれるって、決め込んでいた。

 それなのに。それなのに、――どうして?

 絶対、絶対絶対、わたしの方が、このお話のこと好きなのに!!

「それでねぇ。月曜日の全校集会の時に、わたし、みんなの前で表彰されるんだって」

 照れたように笑うさゆりちゃんは、わたしの気持ちになんて全然気づいていなかった。

 わたしの、どす黒い気持ちになんて。

「そう、なんだ……」

 言いながら、わたしは溢れそうな涙をぐっと堪えた。さゆりちゃんが違う方向を向いている間に袖を目元にあてて、鼻を強く強くすすった。さゆりちゃんの前で泣いたことは、それまでに何度もある。だけど、その時はどうしてもイヤだと思った。

 だって、そんなの、みじめだ。これ以上、さゆりちゃんに負けたくなかった。

「なんかさ、喉かわいちゃった。わたし、ジュースいれてくるね」

 ランドセルを乱暴にベッドに投げ捨てて、わたしはそう言った。

「あ、じゃあわたしも」

「さゆりちゃんの分もいれてくるから、待ってて」

 言い捨てるようにして、わたしは子供部屋から逃げた。

 背中にかかった、「わかった、待ってるね」という声には笑いが滲んでいて、それを聞いた瞬間に堪えきれなかった涙が落ちた。

 キッチンに入ったわたしはいつものマグカップを手に取った。その日の朝にも使ったそれは、シンクのそばに乾かしてあった。緑色と紫色、キリンのついた、小さなカップ。色違いでお揃いのそれを並べた時までは、そんな気は無かった。

 思いついてしまったのは、ジュースを注ぐ直前。

 ふと目に入った調味料――それが何だったか、今のわたしはもう覚えていない。お醤油だったか、麺つゆだったか、液体だしだったか。その時のわたしの心のうちのように、黒っぽいものだったということだけしか記憶に残っていない。

 でも、とにかくは、それを。

 わたしは、さゆりちゃんのマグカップに、注いだ。

 あんまり多く入れるとバレちゃうから、ちょっとだけ。そして上からオレンジジュースを足して、スプーンでぐるぐるかき混ぜた。色はほとんど変わらなかったし、匂いもオレンジの匂いしかしていなかった。混ぜ物なんて入っていないわたしのカップと見比べても、違いは分からない程だった。

 衝動。そんなことをしてしまった理由は、本当に衝動としか言い表せない。

 その時のわたしにはなにかよく分からなかったものが、わたしを突き動かしていた。

 その後、わたしは何食わぬ顔をして、子供部屋に戻った。さゆりちゃんはわたしからカップを受け取った。当然それは、紫色の方だ。

 そして疑いもせずに両手で抱え、さゆりちゃんは「乾杯しようか」なんて笑った。

「お祝いの乾杯。なんだっけ、シュクハイ? ってやつ」

 ――……いい気味だ。

 そうだね、なんて頷きながら、確かにわたしはそう思っていた。

 いい気味だよ。まぬけなさゆりちゃん。ぜんぜん気付きもしないで、嬉しそうに笑っちゃって。わたし、お祝いなんてしてあげない。おめでとうなんて絶対に言わない。ばかみたい。ばかみたい。ばかみたい!

 どきどきと早鐘を打つ心臓は、わたしのテンションをおかしくさせていたのだと思う。いつもは大好きなさゆりちゃんのことを胸中でひどく扱き下ろしながら、嘲りながら、見下しながら、わたしの心は笑っていた。

 コツンとカップを合わせた後、さゆりちゃんはジュースを一気飲みした。

 その瞬間に――わたしは、すうっと気分が晴れやかになった。それまでぐじゃぐじゃと心を塗りつぶしていたものが、キレイさっぱりと無くなった。ふるりと一瞬身体が震えたのは、それに対する感動からだったかもしれない。

 その夜、さゆりちゃんから話を聞いた両親がさゆりちゃんを褒め称えても、わたしはにこにこしていられた。「さすがさゆりちゃんだよねぇ」なんて言葉まで口に出来た。わたしのドロドロした感情は、さゆりちゃんがぜんぶ消し去ってくれたのだ。

 味をしめたわたしは、以降にも時々同じことをするようになった。

 さゆりちゃんが算数のテストでわたしよりも良い点をとった日。

 さゆりちゃんが図画工作の時間に描いた絵が校長室の前に飾られた日。

 さゆりちゃんがクラスで一番速いタイムで50メートルを泳ぎ切った日。

 さゆりちゃんに対して仄暗い気持ちを持った日の帰宅後、わたしは二人分のジュースを準備する。緑色のカップには本物のジュース。紫色のカップには紛い物入りのジュース。さゆりちゃんはいつも迷うことなく自分のカップを手に取って、わたしの汚い部分を飲み干してくれた。

 でも、使うのが子供っぽいマグカップから新しいものになったことをきっかけか、違う部活動に入ったことで一緒に帰ることが少なくなったからか。さゆりちゃんにバレないまま続いていたそんな儀式も、わたし達が中学生になった頃からしないようになった。


 だからわたしは、すっかり忘れきっていたのだ。



 *



 ――今日の、この日まで。

 言葉を失うわたしにさゆりちゃんは笑った。

「気付いてないと思ってたんでしょ、知らないままだと思ってたんでしょう。気付いてたよ。知ってたの。だけど黙ってただけなのよ」

 だって全然分からなかったから、と、さゆりちゃんは続ける。

「どうしてはるかちゃんがそんなことをするのか。きっとはるかちゃんはわたしに怒ってるんだ、だけどわたしの何がはるかちゃんを怒らせちゃったのかなって、悩んで、心配してた。わたしが悪いんだろうって思って、だから仕方ないんだって、変な味のするジュースをずっと我慢して飲んでたの」

 静かなさゆりちゃんの口調は怒っているようには聞こえない。それでも両目にこもっている強い光は、わたしを厳しく責め立てている。

 ドクドクする血の流れを感じながら、わたしは言った。

「なんで……今になってそんなこと言うの?」

 だって、その時に言えば良かったじゃない。

 気付いてんたなら、飲まなければ良かったんだ。

 こんなに時間が経ってから、そんな幼いイジワルを追及するなんて、とっても意地が悪いと思う。せっかく幸せの最高潮にいるわたしを叩き落すようなこと、しなくたっていいじゃない。

 わたしの問いに、さゆりちゃんはまた笑った。

「やっと分かったからだよ。はるかちゃんの気持ちが」

「分かったから?」

「そう。分かったの。あの時のはるかちゃんは、怒ってたんじゃなかった。はるかちゃんが持ってたのは、『怒り』なんて感情じゃなかった」

 そうして、わたしは気付く。

「こんな――こんな暗くて汚くて重たい感情、自分の中に持っていたくないよね。相手が悪いんじゃないって思っても、どうしても何かしてやらないと気が済まないよね」

 さゆりちゃんも……怒っているわけじゃないんだ。


「ねぇ、はるかちゃん。わたし、わたしも、雅史くんのこと好きだったんだよ」


 ――雅史くん。

 雅史くんは、わたしとさゆりちゃんの幼馴染で。昔からよく遊んだり話をしたりしてきた相手で。今でも家族ぐるみの付き合いがあって。あんまり背が高くなくて。ちょっと頼りないところもあって。でもとっても正直で誠実な性格で。

 わたしが、今夜ディナーを一緒にして来た人で。

 その時に真っ赤な顔でわたしにプロポーズをしてくれた――わたしの恋人だ。

 さゆりちゃんは、わたしだって、と呟く。

「ずっと好きだった。ううん、今だって好き。自分が興味無くたって、雅史くんが好きなものだからってこんな雑誌を買っちゃうくらい、大好きなの。それなのに。それなのに、――どうして? どうしてはるかちゃんなの? 絶対、絶対絶対、わたしの方が、雅史くんのこと好きなのに!!」

 声を荒げたさゆりちゃんは、肩が上がるほど強く鼻を啜った。わたしから顔を背けて、少し上の方を向く。

 わたしには分かる。それは、涙をこらえる時に起こる動作だ。

 しばらくしてから、さゆりちゃんはまたわたしに目線を戻した。暗い光を宿した目でわたしを見据え、右手のひらを差し出すようにして緑色のマグカップを指し示す。

「飲んでよ。何が入ってるかなんて、教えてあげないけど」

 わたしはテーブルを見下ろす。

 カップに入ったオレンジ色の液体。もう泡の静まったそれは、ほんの少量だ。数秒で飲み干せるだろう。

 それでも、……わたしは、怖い。

 さゆりちゃんも雅史くんのことが好きだということは、わたしも知っていた。その度合いもよく分かっていた。知っていて、分かっていて、見ないふりをしてきたのだ。さゆりちゃんが好きな人が自分の恋人であることに、優越感さえ持っていた。

 だからこそ、さゆりちゃんの、暗くて汚くて重たい気持ちが混ぜ込まれているというカップが、怖くて怖くてたまらない。イジワルなんて言葉じゃあ済まないものが入っている可能性は低くない。

 さゆりちゃんは、わたしから目線を逸らさない。べっとりとしたその視線は、わたしを試しているようだった。

 冷えた沈黙の中、どこか遠くで救急車のサイレンが鳴っているのが耳に入る。

 動かない、動けないわたしに、さゆりちゃんは再び言った。

「ねぇ。飲んでよ……お願いだから」

 唇を震わせるさゆりちゃんは、本当に苦しそうに見えた。

「それで、わたしの中にあるこの感情をどこかにやってよ。そうじゃなきゃわたし、無理だよ。こんなの一人で耐えきれない」

 ――ぽたりと。

 とうとう、さゆりちゃんの目から涙が零れる。

「助けてよ、はるかちゃん」

 どこまでも透明なその雫は、さゆりちゃんの頬を滑り、紫のカップの中に落ちた。

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