また会いに来たよ

青い向日葵

「また会いに来たよ」

 学校に行かなくなってから、果たしてどのくらいの時が経ったのか、私にはもうわからない。何年何か月? 単純に過去のカレンダーを見て日付を数えて遡れば正確な数字はすぐに出せるのだけど、そういうことじゃないんだ。

 うまく言えないけれど、私とこの家の空気と母と、それから毎週やって来る今年の担任の先生、名前は確か、よしだ先生、漢字は知らない。私は他人の個人情報に興味がない。だけど、この人は、それ以前の担任とは何かが違っていた。


 私は相変わらず、家庭訪問があっても部屋に引きこもって挨拶もしないし、顔さえ見せない。相手が嫌いだとか、怖いとかではないんだ。面倒臭いというのはまあ半分は当てはまるけど、正解でもない。とにかく気まずいのだ。どんな顔をして出て行って、ましてや何を話せと言うのだろう。大体、そんな気の利いたことが出来るのなら、普通に登校すればいい。そう思わないか? そこら辺が無理だから、今こうして不登校という状況に甘んじているわけだ。


 そして、世の中は私たちのような人間をクズと見なし、裏の素行や心掛けがどうであれ、日々集団行動のルーティーンに溶け込める人間を正当な者として評価する。まあ、毎朝起きて支度して出掛けるだけで偉いと言えば偉いけどね。その偉い奴らの中のほんのひと握りの奇跡みたいな人たちだけが、社会の生み出した真の利益みたいなものを独占出来るシステムだ。弱肉強食。それは悪いことではないのかもしれない。強くなれば勝てる。自由がある。


 今は学校というコミュニティが絶対の年齢だから私はクズに分類されるけれど、いつか大人になって、何か私が人と違うことで今ある社会で成功する可能性が無いわけじゃない。極めて少ないとしても。

 どちらにせよ、そんなふうに突如すべてが逆転するようなことだって起こりうる不確定な世界なんだ。この事実は、かえって私をいくらか安心させる。無駄な不安に潰れるより、何とかなる可能性と、どうせ足掻いても今は無理という絶対の現実、言わば開き直りが、ブレない足元を支えているんだ。

 例えば、そのうち見返してやる、なんて一昔前の熱血ドラマみたいな精神は持ち合わせていない。なるようにしかならないんだよ、人生は。母の背中を見ていて、私はそう確信したんだ。


 私は母と二人でこの団地に住んでいる。近い年代の子供たちはどんどん引っ越してしまい、今や高齢者中心の住宅と化した古ぼけた建物の一室に、物心ついた時からずっと居る。父の顔も名前も知らないし、母は何も言わない。言えないんじゃなくて、言いたくないんだろうなと思う。私も人の言いたくないことなんか、聞きたいとは思わない。だからバランスは取れてるんだ。仲も悪くない。少なくとも私はそのつもり。

 それでも。子育てっていうのは、やっぱり孤独な作業なんだろう。身の周りのことぐらいはもう母の手を借りなくても出来るけれど、学校やら病院やら各種手続き、世間の目、母という肩書きだけで、彼女は人格を失う。

 誰からも、お母さんと呼ばれ、酷い時には○○ちゃんのママなんて、まるで私が主で彼女が従みたいな言い方。受け取り方がひねくれていると言われたらそれまでだけど、私は子供ながらに違和感を覚える。そのうち母の名前を忘れてしまいそうだ。


 それはさておき、家庭訪問の話と一体どう関係するのかと言えば、くだんのよしだ先生は、ず母のことを「お母さん」とは呼ばない。名字にさん付けで、よしだ先生という呼び方に対して釣り合いの取れた名称で対等に話す。これだけで、多分、母は少なからず心が楽なんじゃないかと思う。

 それから、学校のことをあまり話さない。最近では、まったく触れもしない。母の方から質問すれば答えは返ってくるのだけど、今学校では云々という切り出しは聞いたことがなかった。

 では何を話すのかと言えば、昨日ギターの弦を張り替えたら思いのほか音がよく鳴って気分が上がったとか、ベースの弦は昔も今も高価だよねとか、この間、初めてドラムの電子チューナーを使ってみた、とか。因みに、よしだ先生は数学の教師だ。


 よく覚えてるな、と思った人は鋭い。そう、私は他人の個人情報に興味はないけれど、よしだ先生の内面には多少興味があって、彼のSNSをフォローしているんだ。プロフィールに数学教師と書いてあるから、寧ろ、それしか書いていないからどうにも目に入ってきて記憶してしまった。

 よしだ先生のハンドルネームは「よしだ」。とてもわかりやすい。本名だとはどこにも書いていないから、殆どのフォロワーの人たちは素性を知らない。そもそも、現実リアルの生徒で彼のアカウントをフォローしている人なんて、私ぐらいしか居ないのではないだろうか。

 学校の在り方に対する個人的な意見とか、政治問題とか、わりと攻めて行くスタイルの堅い話もたまにあるけれど、基本的に音楽のことや休日に撮影した写真をアップしている、のほほんとした個人的な投稿が多い。

 私は「時の迷子」という意味ありげで実は意味のないハンドルネームで、時々「よしだ」さんにコメントを送っている。人柄の滲み出たような丁寧な返信が毎回の楽しみでもある。

 だから、私は特に、家庭訪問はそんなに必要としていない。いや、まったく必要ない。


 では何故、よしだ先生は毎週この家にやって来るのか。


「また会いに来たよ」


 私の隠れている部屋の扉に向かって親しげにかけられる言葉は、私に向けられたものではないのかもしれない。物理的にこちらを向いているだけで、実質、彼がケアしているのは母だ。母という仕事に疲弊した、私を産んだ彼女に、癒しの一時ひとときを届けに来るのだ。

 そしてその恩恵は、私の実生活に還元される。よしだ先生が楽しげに音楽の話で談笑して帰った日の夕方は、母は鼻歌を歌いながら踊るように家事をこなし、何をしていても機嫌が良い。

 それ以上でも以下でもない、ただの不登校児の母親と学校のクラス担任でしかないのだけど、週に一度、ものの十分間程度の時間に、人と人との会話が成立している。母の笑顔は生き生きと美しく、先生の目はキラキラと輝いている。私は扉の隙間からいつも見ているから、その実績に基づいて間違いない。


 彼らは、その束の間のひと時に、肩書きも背負うものの重さも忘れ、ただの気の合う人間同士として純粋無垢な会話を楽しむ。それだけ。

 この「それだけ」を失って壊れてゆく孤独な大人たち。歪んでゆく社会。国家レベルで懸念される人の心の喪失みたいなものは、こんな些細な場面からしか修復出来ないのではないかと、私は思っている。なんて、部屋から出ることもなしに偉そうに思っているだけ。


 どうやら話によると、こんな私でも、皆と同じ日に卒業出来るらしい。学校って、義務教育って何だろう。深く考えると頭が痛くなるし、私のちっぽけな考えひとつでは何も変わらないけれど。

 ひとつだけ、私には、卒業したらやってみたいことがある。



 一等お気に入りの私服で、よしだ先生に会いに行く。そういうことなら学校に行くことも嫌じゃない。そして、こっそり挨拶するんだ。


「『よしだ』さん、初めまして。『時の迷子』です。いつもありがとうございます」

 きっと、先生は微笑んで答えてくれる。

「やあ、やっと会えたね。今度は担任としてじゃなく、友達として会いに行ってもいいだろうか」

「はい。私はSNSで話し続けますから、今度は、母を訪ねて来てください。母は、私のSNSを知りません。いつか全部を話そうと思っていますが、まだ先の予定です」


 先生は、私の内面を少しは知っているから、多分そんなに驚いたりしないはずだ。


 私はそれだけ言って帰った後、「よしだ」さんにメッセージを送る。



 先程は失礼しました

 母とは趣味の合わない残念なDVDを

 家で のんびり観たいので

 春休みのうちに一度

 先生のご都合がよければ

 母をどこかへ連れ出して頂けると

 嬉しいです

 きっと彼女が一番喜ぶと思います



 そうして、来たるその日に、私は大好きなB級ホラー映画を観る。一人でのんびり、誰にも邪魔されずに、優雅に留守番をして過ごすのだ。



 そんなことを妄想していたら、今週も、よしだ先生が訪ねて来た。

 母がスリッパをぱたぱたと鳴らして玄関へ駆けつける音を、私は緩く扉を閉めた奥の部屋から聴いている。


「こんにちは。また会いに来たよ」

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