響子

 ピンポン。ピンポン。


 転居したばかりのマンションの呼び鈴が鳴る。響子はびくりとした。心拍数が上がるのが分かる。手元のスマートフォンで時間を確認した。午前9時。土曜日のこの時間に誰だろう。大丈夫。アイツだって、この場所を知ってるはずはない。


 でも、どうして玄関の呼び鈴が鳴っているの? オートロックのある1階の呼び鈴なら1回しかならないはずだ。宅配などの人なら玄関まで来て呼び鈴を押すはずがない。他の家でオートロックを解除してもらって、そのままこの部屋まで来たのかもしれない。自分に納得させるようにそう考えてみる。


 それでも中にいる人が居ることを悟られないに息を潜めながら、響子はその考えが自分の希望的観測にすぎないことは分かっていた。自分宛てに荷物が届く当てがないことは分かっていた。自分で頼んだ物も無いし、郷里の両親が何か送ってくれたのなら、事前に連絡をしてくれているはずだ。


 ピンポン。ピンポン。

 

 また呼び鈴が鳴る。しつこい。多少のいらだちと徐々に増す恐怖を抑えながら、響子はゆっくりとベッドから身を起こす。手の中のスマートフォンを見つめる。課長に連絡するべきだろうか。いや。この程度で連絡するわけにはいかない。せめて、あのドアの向こうに誰が居るのか確認しなければ。


「櫻井さん。御届け物です」

 ドアの向こうから女性の声がした。ほっとする。アイツじゃない。念のため、ドアスコープから覗いて見ると青い作業着を着た女性の姿が目に入る。


 ***


 アイツも最初は普通の男性のように見えた。ちょっと斜に構えているところはあるものの、顔もどちらかと言えばカッコイイ方の部類だった。初めて社会人生活を始めた響子に対して色々と教えてくれる。ただ、そのやり方が性急で押しつけがましい感じはした。


 ただの親切な人だと思っていたのに違和感を覚えたのは自分の歓送迎会のときだった。上司に断りをいれて一次会で帰ろうとしたのに上から目線で常識がないようなことを言われた。少しイラっとしたけれども、社会人だからと帰省土産を職場の全員に配った時にもアイツを除け者にすることはしなかった。


 それ以来、アイツの目の色が変わったような気がする。しつこく飲みに誘われるようになったし、気が付くと給湯室までつけてきていた。振り返ってアイツがじっと見ていたのに気が付いた時は思わず膝が震えた。


 誘いに対してはどのような返事をしても無駄だった。職場の皆でと言えば、帰り際に一緒に帰ろうとするし、はっきりと断ったときも、どう脳内で変換されるのか理解に苦しむ返事をされた。

「本当は誘われてうれしんだろ。別に恥ずかしがらなくてもいいじゃないか」


 何よりも自分のことを「響子」と呼ばれることも気持ちが悪かった。ほとほと困り果てグループ長に頼み込んで席を変えてもらう。アイツは周囲に余計なことを吹き込んでいて、周囲には「お似合い」だの、「仕事を覚えるより先に……」など散々な言われようだった。


 そして事件は起きた。1週間かけて作り上げていた後期の新人研修用の資料をめちゃくちゃにされたのだ。ある日、出勤して見ると昨日までとはまるで別のものになった資料の慣れの果てがあった。泣きそうになりながらグループ長に訴えてみるとシステム部門の調査でアイツの犯行ということが分かった。


 やっと事態を把握してもらえたので、資料を改ざんされたのはむしろ良かったのかもしれない。素案をローカルに保存してあったのと、最新版を印刷したものを課長に添削してもらっていた途中だったので、残業にはなったが研修には間に合わせることができた。


 研修から戻ってくると別の部署に異動になった。自分が被害者なのになぜと不満だったが、アイツが勝手に入ってこれない部屋だということを聞いて納得して移った。アイツからは山のようなメールが来たが返事はせず、証拠として保存して上司に見せたらメールも来なくなる。


 ***


「お待たせしてすいません」

 そう言ってドアを開けた瞬間にもの凄い香りに包まれる。配達員は待たされた苛立ちからか、100本もの薔薇の花束の箱を響子に押し付け、配達伝票を突き出した。反射的にハンコを押すと配達員はエレベーターに向かって歩み去る。


 むせかえるような薔薇の臭気に包まれながら、響子はぼーっとして箱に貼付されたメッセージカードに視線を向ける。そこには次のような簡潔な文字が書いてあった。

『また会いに来たよ』


 呆然とする響子の耳にエレベーターが到着したチンという音が聞こえた。

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「また会いに来たよ」 新巻へもん @shakesama

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