「また会いに来たよ」

新巻へもん

翔太

 僕が初めて響子に会ったのは、僕の勤める勤務先に新卒として配属されて来たときだった。ちょっと寂しげな表情の大人しそうな子だなと思ったのが第一印象だ。彼女は僕の隣の席になった。よろしくお願いします。そういって頭を下げる彼女に僕は言った。

「よろしく。分からないことがあったら何でも聞いてね」

 課の庶務も担当している僕に知らないことはない。


 僕のグループは今までほとんど女性はいなかった。居たのは50過ぎのグループ長だけ。いい人だけど、僕から見ればほとんど母親と同じ年だ。僕より若い女性が隣の席になったことで少しだけ心が高鳴った。まあ、それほど美人という訳じゃないし、服装なんかもあか抜けてない。それでも職場の雰囲気はちょっとだけ明るくなった気がする。


 初日は挨拶だけで彼女は帰っていった。翌日からは他の新卒との一括研修で不在で、次に出勤してきたのは2週間後だった。早速、職場内の細々としたことを教えてあげた。消耗品の場所、コピー機の使い方、社内システムのこと。彼女はメモを取って聞いていたけど、途中から遠慮するそぶりを見せる。


「一ノ瀬さん。大丈夫です。分からなくなったら教えてください。一ノ瀬さんも忙しいでしょう?」

「遠慮しなくてもいいよ。慣れないうちは大変でしょ」

「ありがとうございます。でも、あまり一度に多くのことを教えてもらっても覚えきれそうになくて……」


 そっか。彼女は有名私大卒業と聞いていたけど、僕が思っていたほど優秀じゃないようだ。まあ、僕ほど仕事ができる人はそれほど居ないだろうけどね。

「気にしなくていいよ。分からなければまた教えてあげるから」


 僕が彼女の僕への好意を認識したのは、彼女が出勤し始めた翌日のことだった。彼女の机に乗り出して、書類の書き方を教えてあげていたときに、どうしたはずみか僕はボールペンを床に落としてしまった。すると、彼女は素早く手を伸ばして僕のボールペンを拾って渡してくれた。なんだ、そうだったんだ。


 それからしばらく経って、ゴールデンウィークの前に、彼女の歓迎会が開催された。開始時間に間に合わせようと思ったけど、急に係長に頼まれた仕事に時間がかかってしまって参加するのが遅れてしまった。はは。優秀な社員には仕事が集中してしまうと聞くけれどもその通りだな。


 会場について見ると僕の席は彼女と対角線の位置にあって一番遠い。まったく幹事の佐伯ったら気が利かない奴だ。課長の前の席じゃ彼女が可愛そうじゃないか。あんなおじさんとじゃ会話も弾まないだろうし、年の近い僕の隣にしておけばいいものを。


 それでも、彼女は健気に楽しそうに振舞っている。あれ? 僕が来たというのに乾杯のやり直しはないの? まあ、今日の主役は彼女だもんな。我慢してあげよう。しばらくしたら、彼女がわざわざ席を立って僕のところにビールを注ぎに来た。

「一ノ瀬さん。これからも宜しくお願いします」


 ビールを注いでくれる彼女の頬はほんのりと赤い。

「ありがとう。こちらこそよろしくね」

 もうちょっと話をしたかったけど、課長が彼女を呼んだ。名残惜しそうに彼女は僕に会釈すると自分の席に戻っていく。


 課長に促されて彼女が立ち上がりこれからの抱負を語り、一次会は解散となった。当然、2次会にも彼女が参加すると思っていたら、なんと彼女は帰るという。まだ学生気分が抜けてないんだな。しょうがない、僕が社会人としての振る舞いを教えてあげなきゃ。


 課長とグループ長に頭を下げて駅へと向かおうとする彼女を呼び止める。

「まさか、帰っちゃうの? 歓迎会なのにそれじゃあ社会人失格だよ」

「課長と係長もいいとおっしゃってましたけど」

 僕はため息をつく。


「普通はさ、そう言われても参加するっていうもんだよ。もう学生じゃないんだから。飲み会も仕事のうちだよ」

「スイマセン。私、あまりお酒は強くなくて。それに明日は朝早くから用事があって。失礼します」


 彼女はそういうと踵を返して駅の方に足早に去って行った。なんだよ。人が親切で社会人のマナーを教えてやってるのに。見損なったな。俺はみんなの所に戻る。

「自分の歓迎会なのに帰っちゃうんですね」

 そういう僕に課長は分かっているという顔をした。

「まあ、いいじゃないか。今はコンプライアンスの時代だからな」


 ゴールデンウィーク明けに出勤したら、彼女は歓迎会のときのことを謝るかと思ったら、何事もなかったかのように仕事をしている。もう一度注意しようかと思っっていたら、課長に会議の準備ができているのか聞かれてそれどころじゃなくなった。


 会議から戻るともう昼休みになっていた。外に出て食事から戻って見ると彼女が小さな袋を差し出してきた。

「実家に帰ってきたんです。これ、そのお土産です」

 何だ。わざわざそんな気の使い方することは無いのに。

「別にいいのに。僕は気にしてないから」

 そう返事をすると彼女は僅かに笑う。


 やっぱりだ。彼女は僕に気があるのだ。先日はちゃんとした判断ができないぐらい酔っていたんだろう。まあ、若いうちは仕方ないよな。よし。

「あのさ。このお礼に今日飲みに行こうよ」

「え?」

 そう言うと彼女は周囲を見回している。

 

 あ。これはマズい。周りに人がいるところで聞くべきじゃなかったな。僕みたいなハイスペックな男性から彼女に声をかけると所を見られたら、彼女が他のグループの女性達から嫉妬されてしまうからね。これは気遣いが足りなかった。適当に誤魔化して自分の席に座る。声をかけるなら一人のときにしてあげよう。


 お客さんが来て、彼女が給湯室に向かう。ああ。お茶出しをするんだな。僕もそっと席を立ち彼女をつける。給湯室を覗くと彼女が急須に来客用の茶葉を入れていた。給湯機からのお湯を入れて、茶碗3つに注ぐ。彼女がはっとした顔をして顔を上げ僕に気づく。


「さっきの話だけどさ」

 僕が話しかけると、お盆に茶托と茶碗を乗せて、給湯室から出て行こうとする。

「すいません。お客様にお茶を出さなきゃいけないので」

 僕の横をすり抜けて応接室に向かう。お茶くみなんて雑用なのに真剣に取り組むなんて真面目な子だな。仕事中に声をかけたのは失敗かもしれない。


 それから、仕事帰りに待ち伏せして飲みに誘ってみたけれど、今日は用事が合ってとか言ってつれない返事だ。そんなに恥ずかしがることはないのに。折角僕が誘ってあげているんだから。まあ、僕とは釣り合わないと遠慮するのは無理ないけど。僕がいいって言ってるんだから遠慮しなくてもいいのに。


 そうこうするうちに彼女の席が変わり、グループ長の隣に移っていった。新人なので直接指導するためだという。新人だからって少し甘やかしすぎじゃないか。グループ長だって忙しいだろうに。今まで通り、僕が指導役をやろうと申し出たら、グループ長はもういいからと言う。なるほど、貴重な若手のホープである僕が仕事をしないとグループの業務が滞るということか。


 そんな心配は無用だというのに。僕が本気を出せば、こんな仕事はすぐ終わっちゃうんだ。課長から頼まれた資料を作成し終わったので、彼女の世話をしに側に行くと、課長から呼ばれた。そして、重箱の隅をつついたような修正をいくつも命じられる。なんだよ、単価を一桁間違えただけじゃないか。


 それからというもの僕が彼女に話しかけようとするたびに、誰かが僕や彼女に話しかけ、話すタイミングがつかめないようになってしまった。帰りに待伏せしようにも彼女は僕よりも先にグループ長に言われて帰ってしまう。一方、僕はいつも終業前に何か仕事を命じられてしまっていた。


 これじゃあ、未熟な彼女を助けてあげられないじゃないか。それで、共有サーバで彼女が作成したファイルを全部修正しておいてあげることにした。12時近くまでかかっちゃったけど、これも頼れる先輩の責務だ。明日、きっと驚くぞ。


 翌日、彼女は出勤してくるととても驚いている。慌ててグループ長に話しかけていた。僕の方をチラチラと見ている。やはり、僕だということが分かっちゃうのか。この職場であれだけセンスがいい仕事ができるのは僕ぐらいだから、隠してもすぐ分かっちゃうよね。


 グループ長が彼女を連れてどこかに出かけていく。彼女の眼は潤んでいた。そんなに感動しなくてもいいのに。しばらくするとグループ長だけが戻ってきて、課長を連れ出していった。一体何をしているのだろう?


 昼休みから戻ってくると課長に別室に呼ばれた。課長は厳しい顔をしており、なぜ彼女のファイルをいじったのか聞いてきた。

「僕が資料を良くしてあげようとしたんです」

「以前に決めた課内ルールに従ってもいないのに、良くしてあげただと?」

「だって、そっちの方がいいと思って」


 その後、たっぷりと課長からお説教された。まったく意味が分からない。

「以前から独善的だとは思っていたがここまでとは思わなかった。櫻井さんもショックを受けているぞ」

「え? 響子が? そんなはずはないでしょう?」


 翌日から彼女は挨拶も無しに別の部署に異動になった。その部署は機密書類を使うのでセキュリティが固い。専用のカードを使わないと部屋に出入りすることもできない。社内メールを何通も出したが返事は一通もこなかった。あげくに私用メールをするなと課長にまた叱られてしまった。


 きっと彼女は頼れる僕が居なくなって困っているはずなんだ。異動先は厳しい職員も多いと聞くし、きっと寂しがっているに違いない。でも、最近は席を外すときには課長に必ず申告が必要になった。トイレに行くのもだ。ひどい人権侵害だ。よし。僕を舐めるなよ。こうなったら……。

 

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