悪夢のような短編小説~それでもこの冷えた手が~

高秀恵子

悪夢のような短編小説~それでもこの冷えた手が~

私が24歳の頃の話だ。


 私が密かに呼び出されたのは「カフェバー」と呼ばれる、当時流行の場所だった。「ビールもウイスキーも、ケーキも味わえる店」が、その種の飲食店のキャッチフレーズで、簡単な食事もできる。

 ただ、その店は、バーというよりキャバレーを連想させるような広さがあった。

店の席のあちらこちらで煙草の煙が上がっていたが、その時代の飲食店では当たり前の風景だった。

 若い男性が1人、私の前の席に座っている。

 ボタンダウンのカッターシャツにチノパン、テーラーカラーのジャケットを羽織ったた、当時流行りのニュートラの服を身に着けている。

 私のほうもニュートラっぽい。遠目に見れば、仲のよい男女のカップルに見えただろう。

 しかし、その若い男性は私と初対面だ。

「もう覚悟は出来ましたね」

 重い言葉をまるで軽いできごとのように、若い男性は私に言った。

「はい。私が心から望んでいることです」

 私はその頃、駆け出しの看護師としていろいろ苦悩と苦労を重ねていた。特に私は不器用なほうで仕事がのろく、医師からも先輩同僚からも疎んじられていた。


 左手を切って、あたらしい手と縫合する。

 そうすれば器用になれる。

 ―これは別の部署で働く臨床検査技師が、パソコン通信で見つけた情報だった。一部の栄養士や臨床検査技師などで自分の不器用さに悩む者は、この知らせをうけて、わらにもすがる思いでクレジットカードを新たに作り、月々の支払をしながら新しく優秀な仕事をしているという。

 私は新しく作ったばかりのクレジットカードを、例の会ったばかりの若い男性に見せた。

「では手術を行います。この場ですぐできます。左の袖をめくって下さい」

 私は若い男性の言われるがままに袖をめくった。男性は、病院で使う駆血帯で私の左腕を強く縛った。次第に鬱血して左腕と左手の色が変わって来た。

「では、そろそろ切りましょう。そんなにも血は出ませんし痛くもないですよ」

 若い男性は上品なデザインの果物ナイフを私の左腕に当てた。

 若い男性は自分の体重をかけて私の腕を切る。男性が言った通りに血は流れないし痛くもない。ただ、解剖学の教科書で見たような腕の断面図と同じ、私の左腕の中身が見える。なぜか血の臭いはしない。

 若い男性は、今切り取ったばかりの私の左手をクーラーボックスに入れた。

「こちらが代わりの新しい左手ですよ。事情があって、今朝切ったばかりの左手です」

 その『代わりの左手』は、指が長く美しかった。マニキュアをしていたのか爪が長めで除光液の跡がついている。この手を持っていた女性は、どんな生活をしていたのだろう。

 男性は、持っていたソーイングセットで新しい手を私の腕につないだ。黒い木綿の糸で器用につなぐ。

「一週間は仕事を休んで下さい。支払いはローンになります。以前に比べて仕事が格段にできるので、支払いに苦労はないでしょう」

 若い男性が調子よさそうに言うので私は安心した。

「私の切った左手のほうはどうなりますか?」 

 ふと疑問に思い、私は尋ねた。

「ドッグフードに使われたりします。あるいは経営の苦しい老人ホームへ行くこともありますね。人間の身体の一部ですから、そのまま食べるととても栄養になるんですよ」

 若い男性は何気ないことのように、明るく軽い口調で言う。

 周囲は酒を飲む人やコーヒーとケーキを楽しむ人の声で、ゆるやかにざわめいていた。ウエイトレスやウエイターが忙しそうに給仕をしていて、誰も私たち2人のやっていることに気が付かない。皆、他人に対して無関心なのだ。もしかすると私たち2人と似たようなやりとりをやっている人々も他に居たかもしれない。


 これが夢でない証拠に、私の左腕には他人の左手が、30年以上経った今もついている。爪はずいぶんと短くなったが、縫い跡の針穴が左の腕に残っている。それでもこの冷えた手が私の職業人生を救ってくれたのだ。


 あのカフェバーは、今は焼き鳥居酒屋チェーンになっていた。

 もう一度、あのカフェバーにニュートラのファッションを着て行ってみたい。

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