量子パンツはかく語りき。Quantum underwear talks.

永久凍土

Quantum underwear talks.

「は? 朝からセクハラですか、先生」


 ステンレスのトレーに載ったそれは紛れもないパンツ、レディースのショーツである。

 白に近い淡い紫色で、くしゃっと丸まってこじんまりとした佇まいを見せる。と言うか、私も似たものを持っている。こんなに小さくはないが。


「いや違うよ、聡子ちゃん。黙ってたけど実は先日に大発見をしてね、その成果」

「これが? 女物のパンツですよ? 正気ですか?」


 恐らく私はこの時、漫画で言うところのジト目をして先生に言い放っていただろう。いい加減慣れたが、この先生は本当におかしい。

 よれよれのワイシャツと白衣に無精髭。昨日はお家に帰ってないのが一目で分かる。何気に長身で彫りが深い細面。ちゃんとしていればイケメンなのに、勿体無い。


 我が社の研究開発室では一、二を争う変人。『先生』と呼ぶのはその昔、本当に私の先生だったからで要は家庭教師だ。私を名前で呼ぶのもその所為である。昔から変わった人だったが、研究者になってから輪を掛けておかしくなった。


 今日、他の人は皆出払っていて、私と二人しか居ない日だから良かったものの……


「そうだな、名付けて『量子パンツ』。観測するか否かで振る舞いが変わるっていう」

「いやあの、百歩譲って何かを発見したのは結構ですが、先ずはパンツ、しかも女物。どう考えてもおかしいでしょ? 大体なんでそんなものがここにあるんですか?」


 私は呆れる気持ちを押さえつけて捲し立てた。だけど先生は意に介した様子はない。


「これ凄いんだよ。ある特殊な加工を施してあるんだけど、今僕たちが見ている間はここに在るのに、穿いて隠れてしまったら存在そのものが消失したかのように変わるんだ」

「へえ、凄い……って、人の話を聞けええええええええーいっ!」


 はあ、いつもそう。真顔でおかしなことを平気で口にする。外に出したら何をしでかすか分からない。研究室に引き篭もってくれているのは素直にありがたい。昔馴染みなので私も扱いが雑だ。


「ああ、大発見をした時に思いついて、アマゾンでポチった」


 先生は得意げに空いた右手を掲げ、マウスをクリックするジェスチャー。かく言う私は一息吐いて、取り敢えず言いたいことを口にする。少し目眩。


「だからって……女物でいい訳ないでしょ。普通に変態じゃないですか」

「いやいや、ちゃんとメンズも一緒に買ったから。今穿いてるけど、見せようか?」

「要らないですよ! ったく、先生は常識ってものが欠落してますよね!」


 先生は子どものように無邪気だ。

 私、どうして就職先まで追っかけちゃったんだろう? と思うのは何度目だろうか。

 ああ、なんか嫌な予感がするな。多分……


「で、ものは相談なんだけど……」


 ほら来た!


「まさかその二重スリット問題みたいなパンツ、試せって言うんじゃないでしょうね?」

「うん、君にしか頼めない」

「だって、もう先生も穿いてるんでしょ?」

「そうなんだけど、被験者は取り敢えず僕しか居ないし、検証は多い方がいい」


 頭を抱えない人が居るなら会ってみたい。長い付き合いだし、だいたい先生の性格は把握しているけれど、簡単に引き下がるとは思えない。

 先生は眉をハの字にして、まるで子犬のような目で私をじっと見つめてくる。ズルい。


「そもそもなんで、選りに選ってパンツ……」

「これ、穿けば分かるんだけど、途端にスッカスカ。在るはずの感触が無くなるんだよ? ホントにパンツだけ消失。でも観測した途端に姿を現わす。変幻自在だ」


 先生はやっぱり人の話を聞いていない。

 きらきら目が輝いちゃってるよ……ああ、どうしよう?


「うーむ、じゃあ、僕のパンツを触って確かめてくれない? 本当に無くなっているか」

「はあ? そ、そんな触るったって……」

「ズボンに手を突っ込む。大丈夫! さっき穿き替えたばかりだから」


 私は絶句した。先生なに考えているんですか。他の人だったら手が後ろに回っても全然おかしくない。あり得ないでしょ普通。いや待て、そもそもアマゾンでパンツを調達した段階で、私をアテにしていたはずである。これ、怒っていいよね?


「まさか聡子ちゃんに見せてとか、触らせてとか、そんな無茶は言わない。一度穿いて試してくれるだけでいいんだ。済んだらパンツは処分していい。ホントちょっとだけ、ちょっとだけだから」


 男性の言う「ちょっとだけ」ほど信用できないものはない。とは言え、先生が人並みに女の子に興味があるとも思えない。あったらそれはそれで喜ばしいくらいだ。と言うか、彼はそのくらい浮世離れしているのだ。なんだか私、お母さんみたいだな。認めたくないけど。


「あ、いや待って。そもそもなんでパンツなんですか? 危うく聞きそびれるところだった」

「え、だってそりゃ研究が立て混んでる時は帰れないし、ここは聡子ちゃんも居るからパンツの替えぐらいは用意しておこうと思って。そのついでだよ」

「えぇ……たったそれだけ……」


 普段はとことん意味不明な癖に、そこだけ極めて合理的。確かに男性とは言え、一介の社会人にみすみす何日も同じ下着を見逃す訳にいかない。私はやっぱりお母さんなのか、と再び目眩。


「もうっ、しょうがないなあ……」


 私は先生が手にするステンレスのトレーに渋々手を伸ばした。



・・・



 もちろん研究室で穿き替える訳にはいかないので、化粧室に向かう。誰も居ないが念のため、個室に入っていそいそと穿き替える。うーん、やっぱり小さい。気にしてるのに。

 流石に先生は私のサイズを知る由もない。何を基準に選んだのか分からないが、私は誰でもない誰かに嫉妬している。そもそも先生は私を一応女の子扱いをしてくれるが、異性とは認識していないに違いない。私は生物学的な分類としてのみの女なのだ。複雑。


 たまたま今日はニーハイのストッキングだったから後はスカートを降ろすだけ。だが、視界から完全にショーツが隠れた瞬間、その存在がスパッと消失した。下着が締め付ける感覚が無い。


「えっ、ちょっとあり得ない……」


 思わず声に出してしまった。個室を出て化粧室をうろうろと歩き回ってみる。何だこの開放感は。これがいわゆるノーパンなのか? 今まで試したことがなかったから、驚かずにはいられない。ちょっとした感動すら覚える。

 巷で言う特殊なご趣味の方の気持ちがほんの少しだけ分かった気がする。それにこのショーツなら万一の不足の事態にも問題がない。いや問題がないことはないが、少なくとも社会的信用は失わずに済むはずである。


 これは凄い、画期的ではないか―――。


 極めてニッチなニーズに「画期的」という言葉が果たして適切か否かは置く。







 もう一度、誰も居ないか確認してスカートを捲り上げると、締め付ける感覚が元に戻った。鏡にはちゃんとショーツを穿いた私が映っている……と、鏡に映った己れの姿を見て我に帰る。不味い、これでは私の方が変態だ。一体何をやってるんだと自己嫌悪。

 しかし、スカートを下ろすと再び締め付け感が消失する。今度は手をお尻の方に回して触って確認する。ショーツの線がどこにも見当たらない。


 いやまだ検証が足りない。今度はショーツを脱いでガチのノーパンを試す。もはや変態だと気にしてられない。再び化粧室を歩き周り、下半身の感覚が全く同一であることを確認する。

 手に持ったショーツは真新しいコットンの肌触りにお馴染みのデザイン。匂いまで既製品と違いが無い。なんの変哲も無いただのショーツである。これは一体どういう仕組みだ?


 待て待て待て、もしかしてこの仕組みが明らかになれば、二重スリット問題は解決するのではないか? コペンハーゲン解釈でもマルチユニバース解釈でもない、隠れたパラメーター説。アインシュタインも見つけられなかった変数をついに発見できたのではないか。


 凄い、先生。これは凄いよ。世紀の大発見だ。神はやっぱりサイコロを振らなかった。いつも馬鹿なことばっかり言って私を困らす先生だが、今度ばかりは大したものだ。私がこれだけ興奮するのだから、先生はもっと喜んだに違いない。

 そうだ、もっと先生には喜んで欲しい。そして私もその喜びを分かち合いたい……ん? 待てよ。もしかして今の私、先生とお揃いのパンツを穿いて……る?


 えっ、やだ、うそ? えええっ、ええええええええっ!


 と、化粧室で一人のたうち回っていると、ある閃きが無意識下から意識の表層へと浮かび上がってきた。それは――― インスピレーションである。


 少しばかり度胸が要るが、これはまたとないチャンスだ。



・・・



「聡子ちゃん、結構時間が掛かってたけど、どうだった?」


 満面の笑みを湛えて先生が言う。自信たっぷりだ。

 ええ、気に入りましたとも。時間が掛かったのは全部メイクをやり直したから。ついでにブラウスのボタンも一つ多めに開けてある。今の私は獣を追うハンターだ。覚悟しろ先生。


「せせ、先生っ、これっ、凄い、凄かったですっ、ほ、ほ、ホントに消えます!」


 おっと不味い、気合いが入り過ぎだ。落ち着け私。

 私の反応が予想通りだったらしく、先生はいたくご満悦である。しめしめ。


「ね、凄いでしょう? 僕も発見した時はホントびっくり……って聡子ちゃん、顔赤くない?」

「えっ、いやっ、あの、大丈夫です。それよりこれっ、世紀の大発見、ですよね!」


 私は勇気を振り絞って、今までにないくらい先生に近寄った。

 あ、ミントの香りがする。先生は私が居ない間に歯を磨いたようだ。無精髭も剃られている。近く見ると、やっぱりイイオトコだなあ。


「は? えっ? ああ……そうだけど、量子パンツ、そんなに気に入った?」


 ちょっと狼狽えてる。こんな先生初めて見た。よし、もうひと押しだぞ。


「ぱ……パンツはアレですけど、消えるのはホント凄いですっ、け、検証例は、お、多い方がいいんですよね? 先生!」

「ま、まあそうだけど、それより聡子ちゃん、始業過ぎちゃったから仕事……」


 私、一度だけ深呼吸をする。


「触ってください」

「は、はい?」


 先生は普段よりも二オクターブほど高い声を上げる。

 私は先生の右手を掴み、私の腰辺りに強引に引き寄せた。先生の指先はあと数センチで私のお尻である。いくら常識がない先生と言えど、それが一体何を意味するかぐらいは知っていた。

 予想外に強い抵抗感。えっ、そんなに嫌なのかと私は何故かムキになった。普通に考えれば痴女だけど、その辺りの常識は私もすっ飛んでしまったらしい。


「に、に、二回も言わせないでください。検証例は多い方がいいんでしょ!」

「えええっ、さ、さ、触るって、何を……」

「パ・ン・ツッ、ですっ、消えてるかどうか!」

「ええっ! こ、こんな反応は想定……」


 私も一杯一杯だ。先生が何か口走ったが、意味がまるで掴めない。だが、


「え……もしかして、まだ、穿いてる、の?」

「先生っ、触れないのは、私が女、だから……ですよね!」


 先生はどんどん後ろへ後退り、私は前へ前へと距離を詰める。先生の右手は依然強く掴んだままである。とうとう窓際まで追い詰めてしまった。もう後がないぞ、先生。


「いやっ、だって、そこまでしなくても……」


 先生は完全に目が泳いでいる。だが私は止まらないし、止める気もない。


「せ、先生は、私のこと、どっ、どう、思ってるんですか!」


 あっ……


 しまった。オーバーテイクだ。


「どう」じゃなくて「何だと」が正解。……だったのに。




◆◇◆




「おはようございます、先生。また帰ってないんですか?」


 聡子ちゃんを尻目に僕は缶コーヒーを啜る。目の前のディスプレイから目を離せない。


「しょうがないなあ。最近ご執心ですね、リアルワールドシミュレーター」


 僕はそのまま彼女の方を振り向かずに応えた。


「やあ、おはよう。うん、これ本当に面白い。色々あり得ないことが試せる」


 いつもと変わらない朝。変わったのは量子コンピューティングの一般化が進んで、先月から我が社でもデスクトップ端末から容易に扱えるようになったことだ。


 リアルワールドシミュレーション――― 世界中のあらゆる観測情報を一挙に集め、現実の世界を精巧に再現した仮想世界。医療科学に始まって経済学や社会学、果ては芸術や娯楽に至るまで、研究と名が付くものは様々な仮定の元で、極めて現実に沿ったシミュレーションが可能になった。

 それが国家レベルからとうとう民生用にまで降りてきた。世界は様変わりし、僕達人類はまた一歩大きく進歩したのである。


「今度は誰のアバターで遊んでたんですか? 悪趣味ですよ」


 そう彼女は呟いてディスプレイを除き込む。僕は慌ててウィンドウを閉じた。シミュレーション結果は触りしか見れなかったが、引き受けてくれることが分かったので良しとする。


 聡子ちゃんは物好きだ。昔馴染みとは言え、会社だってわざわざ僕と同じところを選ばなくてもいいのに。少し短絡的で口喧しいところはあるけれど、どう見ても普通の女の子だ。

 選りに選って僕みたいな偏屈な男に一々構うのか全く理解できない。確かに僕は彼女の家庭教師だったけれど、それは五年前の話。聡子ちゃんはもう立派な大人。

 それなりに歳が近いお友達との付き合いだってあるだろう。僕は世の中の流行り物なんて全然知らないし、自分の研究にしか興味がない。


 いや、それは嘘か。研究しか興味がなかった、が正解。



「ああ、それより君に見せたいものがあるんだけど」


 僕はそう口にすると、いそいそと立ち上がって、研究室の収納棚に向かう。

 そして聡子ちゃんにステンレスのトレーを差し出した。


「は? 朝からセクハラですか、先生」

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