ボンゴレビアンコ

宮河さん

第1話バツイチ姉さんの独り言

 離婚とは実に簡単なものだ。

 用意されたこの書類に自分の名前を書いて印鑑を押せばいいだけ。


 結婚当初は夢と希望と期待と愛情であふれていた、朝ご飯は何にしよう晩ごはんは何にしよう、仕事から帰ってきた夫にどんなふうにお帰りを言おう、子供は何人欲しい、たまには大きなショッピングモールに出かけてお買物しよう、お天気のいい日は乳母車を押しながら広い公園へ遊びに行こうとか、とめどなくあふれてくる将来の展望と、おじいさんおばあさんになっても手をつないで歩きたい、私はこの人の妻として誠心誠意一生かけて尽くし切ろうと誓い、感動と感激で指先が震えながらその名前を書いたのだった。

 でもそんな結婚生活はあっけなく崩壊した。

 離婚届に判を押しながら、もうこの印鑑を他のどこかに押すことも、この名字を名乗る事も無いのかという絶望感は、夫と姑というこのアホンダラ親子と縁が切れるという解放感に取って代わられた。

 さて、あとはこの書類を役場に提出すれば離婚が成立し、バツイチになってしまう訳だが、こういう時家を追い出された女は一般的には実家に出戻るというのが普通だろう、私もそのつもりでいたし、実家の父母とも話はついていて、早急に荷造りをして引っ越しの段取りも決めなくてわ。

 なんて思っていた矢先、母から連絡が来た。

「裕也が結婚すると言い出したから……」

 ――おおそうか、それはめでたい。

 裕也は三つ下の弟だ、頭のいい学校を割といい成績で卒業して、その後誰もが知っている大きな会社に勤めるという、なべ底を転がるような成績の私とは全く縁のない世界で生きている、お馬鹿な私とは似ても似つかない頭のいい奴なのだ。

 独身でずっと実家暮らしの弟だったがついに結婚するのか、彼女が居るとは聞いていたがついに腹をくくったか。

 姉が離婚するというこのタイミングで、なんてことも思わなくも無いが、お互いに遅かれ早かれこうなるのは必然な事、弟の決断を咎めるつもりはない。

「それで、嫁が家に来ることになって……」

 遠慮がちな母の声に思わず同情してしまった、言わずとも解るよ。

 嫁いだ家に姑と舅の他に小姑までいたのでは何かと大変だ、私はいじめる気などこれっぽっちも無いが、嫁が気苦労するのが目に見えている、部屋数だって限界がある。

 一人暮らしするのも悪くないよ、だから実家から十分ほど離れた場所に部屋を借りてそこに住むことになった。

 母からは少し申し訳なさそうにされたが、裕也の結婚とかで忙しくなるだろうから、引っ越しの準備とか手伝いとか私の事は気を使ってくれなくていいよと言っておいた。

 引っ越し荷物と言っても、引っ越し先はクローゼットのある部屋だし、嫁入りタンスは今も元夫の服が入っているから置いてきたし、豪奢な家具や嫁入り人形も邪魔になるだけだからいらんし、持って出たのはソファーと本棚、あとは最低限の必需品、服とか身の回りの細々したものだけ。

 費用は私の貯金から出すし、と言うと母から慰謝料はもらえたのかと問われ。

「お前は出ていく方なのだから、出ていく方が今後の生活費を俺たちに払わなくてはいけないけれど、お前にそんな能力はないだろう、だから免除してやるかわりに、慰謝料も出さない、これでおあいこだ」

 という元夫の言葉をそのまま伝えると、母はそれはそれは激怒して、文句を言いに行ったけど「何あれ、あれでも血の通った人の言う事なの!常識外れもいいとこよ、あんな親子ともう二度と関わりたくないわ、近付くだけで馬鹿が移る‼」と、帰ってくるなり塩を撒いて、その勢いなのか知らんが、母が敷金礼金と引越し費用も全部出してくれた。

 ありがたくいただきます、ありがとう。

 そんな訳で、引っ越したのは1LDKの立派なマンション、リビングが十二畳もあるので独り身にはちょっと贅沢すぎかもと思ったけれど、母のおかげですごく快適だよ。

 いい感じに仕事も見つかった。

 本屋さんで働くことになった、趣味は読書だから嬉しい。

 とは言っても、仕事に出るのは久しぶりだったので勝手がわからず大変だが、職場は雰囲気も良く皆良い人ばかりなので助けて頂いている。

 これが俗にいう充実感ってやつだ。


「カンパーイっ!」

 並々と注がれた麦酒のジョッキを掲げて今日は高校時代からの腐れ友四人集まっての呑み会。

卒業して数年たつが、卒業後もこうやって定期的に集まるのだ、今でもいい友達。

 でも私がこの呑み会に参加するなんて何年ぶりだろう、結婚する前はいつも参加していたから、結婚してからも当然のように参加したいと申し出たら「夜に出かけるなんて悪い妻だ」とか「家事を放り出して呑みに行くなんてなんてひどい嫁なのか」などと当時夫だった人と姑だった人に散々言われた、その発言だけで不良嫁のレッテルを張られると今度は、近所の奥様達とランチに行くのさえも嫌な顔をされ、俺が仕事してる時にお前はランチか結構なご身分だな!と言われたので参加していない、というか腹立ちまぎれに夫からこんなことを言われたから参加しづらいと言って断った、おかげで近所の方たちからの夫への評判はどんどん悪くなっていったっけ、ざまぁみろ。

 でも今は誰に遠慮する事も無く自由に出歩ける、堂々と呑める、まぁ素敵!

 今日は久しぶりに四人集まった、みな喜んでくれたし参加できた私も嬉しい。

 四人のうち独身が三人、そのうちの一人はバツイチの私だけど、あとの一人は結婚三年目で二歳の男の子がいる主婦、でも彼女の旦那様は理解のある人で、家事も子育ても分担してやっているし、今日も子供の面倒は俺に任せて行っておいでと送り出してくれたそうな、優しい夫だねぇ。

 呑み会どころか、普段の家事全般全てこれ妻の仕事と言って、家ではふんぞり返って何もしないどこかの誰かさんとは大違いだ羨ましい。

 今日は私が離婚して初の呑み会とあって、話はそこに集中した。

「しっかし律子もすごいね~、いきなりボンッと結婚したかと思えば、突然スパンって別れちゃってさ」

「そうそう、離婚しちゃった!って連絡来た時、速っ‼って」

 そうなのよねー、二十二歳の時に半年付き合ってのち派手な結婚式上げて、それで一年ちょっとという短い結婚生活でありました。

「一人になるって大変でしょ?」

「いやぁ、実際独身生活してみて、それ程でもないかなって思うよ、気楽だし」

 最初は寂しいかなという思いもよぎったけど、何より自由な時間が持てた、リモコンを持たせたら二度と離さない元夫のせいで、自由に見れなかったテレビも今は好きなものを好きなだけ見れるし、好きな本も夫に邪魔されずに読める、それに何よりあのウザい姑の顔を見ずにすむという気持ちが勝った。

「離婚の理由って……聞いてもいい?」

 友人の一人が遠慮がちに聞いてきたが、遠慮なんかいらない今日はとことん聞いてくれ、そのつもりの今日なんだろう?

 とはいうものの、何から話していいのやらだけど。

「やっぱ、浮気とか?」

 友の一人が言った、みんな第一に考える事は一緒なのね。

「うん、堂々とね」

 それは結婚して三ヶ月目くらいからだった、靴下が裏返しになっていた時は暑いから途中で脱いだんだと言う言い訳が通じた(と、当時の旦那は思った、かもしれない)インナーが裏返しになっていた時も、熱いから脱いだんだよと言い訳する、今日は寒いくらいだったよと言ってやると「あ、いや会社のね、暖房が壊れてマックスの温度のまま止まらなくなってさ、それで暑くて脱いだんだよ」パンツは濡れていなかったって事は、全裸で仕事していたらしい、女性たちもいるオフィスで。

 他にも、家では使っていないボディーソープの香りがしたり、口紅の付いた吸い殻が車の中に転がっていたり、唇に口紅が付いていたりとか、帰りが遅いとか帰って来ないとか、休日にも仕事に行ったり、仕事に行ったハズなのに会社の人から電話がかかってきた事もあった。

「で、今日会社からあなた宛てに電話があったわよと言ったらさぁ、一瞬マズイって顔になった後開き直って『最近あいつ頭おかしいんだよな、俺が横に居るってのに家に掛けるか普通⁉』って言うの」

「……かけねーよ普通」

「そんな言い訳通用しねーよ普通」

「それがまかり通ると思ってるなんて馬鹿じゃねーの普通⁉」

 そうなのだ、浮気をし始めた頃は、そのことを隠そうとおかしな行動に出る、少し「⁉」なんていぶかしげな態度を取ってやると、更に誤魔化そうとおかしな行動にでる、更にそこを指摘すると今度は逆ギレして手に負えなくなる、無視してやるとバレなかった良かったなんて安心する、本気でバレなかったと思い込んでる夫に呆れていただけなのに。

 あぁ、空になっていたジョッキがいつの間にか並々と注がれたものになっている、これは呑んであげないと。

「うん、普通に馬鹿だったし、凄いマザコンだったしね」

「うわ出たよ、ママぁオチッコちていいでちゅか~」

 専業主婦の私と、元夫の収入に頼った生活をしていた元姑、必然的に昼間ずっと顔を合わせることになる。

 ウザいと何度も思ったけれど、そこはぐっと我慢の私だったのだ。

 それはとある日、家で元姑と何気にテレビを見ていた時のこと、画面の向こうでカリスマ美容師の特集をやっていた。

「へー、人気の美容師ってそんなに収入いいんだ、私もなろうかな」なんて冗談で言うと、元姑からその話を聞いた元夫。

「お前、美容師と浮気してるのか⁉」

 ――あの話のどこをどう聞いたらそんな発想が出来るのやらだよ。

 そしてまた別のある日、お風呂の掃除をしようとしたら。

「あー、しまった洗剤が無いわ、買ってこなくっちゃ」

 元姑からその話を聞いた元夫。

「混ぜると危険な洗剤を買って有毒ガスで私を殺そうとしている、って言っていたけど本当か⁉」

 ――いやいや、買ってきたのは『混ぜると危険』なのを一本だけでしたけど?それにそもそも掃除するのは私なのだけど?私の方が死にますって。

 またある日テレビを見ていて、今度は脱毛サロンの話題。

「うわ、高っ‼」

 元姑からその話を聞いた元夫。

「脱毛エステに行きたいのに、俺の稼ぎが少ないって、よくも愚痴ったな‼」

 ――たかが毛を抜くのに八十万ですよ、そんな事に金を使う人の気がしれないわ、そんな金があったら私ならもっとこう……美味しいものを食べるとか、服を買っておしゃれしたり旅行したりするのに、と思っただけなのにな、稼ぎが少ないというのはまた別の話だ。

 またある日の事、スーパーの片隅でサボテンが売られていて目が合った、小さいかわいいおもちゃみたいな植木鉢にちょこんと乗っかったまん丸なトゲトゲ、そういえば家に植物らしきものが何もないなと思い買って帰って部屋に飾ってみた、出窓に置かれた丸っこい小さなサボテン君は触ると痛そうだけど愛嬌があって可愛い、ピンクのレースがお洒落なカーテンとサボテンの緑が相まってとっても素敵な窓になった、そうだ名前を付けてあげようかしら、サボテンだから北島サボ郎……なんっつって。

 それを見た元夫。

「お前、植木に元カレの名前を付けてんじゃねーよ‼」

 ――何で私が大御所演歌歌手とお付き合いしなきゃいけないのよ⁉

 そしてまたある日、姑に聞いたと怒り出す元夫。

「泥だらけの野良猫を私の部屋に放してぐちゃぐちゃにしてやりたいわ、って言ったんだって⁉」

 ――……ごめんなさい、もう元ネタすら心当たり無いです。

「うわ~最悪な親子だねぇ」

 人の話を捻じ曲げて嘘で盛り付けて他人に話す元姑、息を吐くように嘘をつく元姑、自分さえよければ、周りが自分の嘘でどうなろうと知ったこっちゃない元姑。知ったかぶりだけで教養があると自慢する元姑、そしてそんな母親を教祖と崇め奉る妄信なマザコン息子だったよ。

 夫に何かを相談しても、夫は姑信仰な人なのでまず教祖である姑に意見を聞いてみろという、そして姑が絡むと必ずと言っていいほど解決しなかったむしろ悪化した、口では「何でも相談してね」と偉そうに言うが頼りになれる人間では無かったのだ。

「だから、通販のカタログ見ながらさぁ、この服いいなぁ~って言っただけなのに、姑に聞いてみろって言われたりさぁ」

「センスのいい人だったの?」

「うぅ~ん、おしゃれだなって思った事一度も無いんですけど」

 すると友達の一人が、着ていたトレーナーの襟首を頭までずっぽり被って顔だけ出した、出たぁ、ジャミラさんだぁ!

「律子さん、これが今流行りのファッションざますよ」

「嫌ぁー、せめてコートをズボンにインするくらいで勘弁してくださいー‼」

 ドハハと笑いが起きる、友達っていいなぁ。

「離婚を切り出された時に言われたのが、もうお前には甘えられない、家に帰っても落ち着ける場所が無い。理想としてきた夫婦像とは違う……だって」

「あぁ、自分は悪くないって言いたいのね」

 世間一般には、カチカンの違いだとか性格の不一致とかが離婚の理由に挙げられるが、そんなのは表向きのキレイゴトだ、本当はもっと闇が深くて単純で醜いものだ。

 結局は俺様で我儘でマザコンな男が愛人と元姑にそそのかされて私と縁を切りたいってことだったんだけど、それだと慰謝料の問題が出てくる、だからアホみたいな言い訳をした。

「だからねー、お前の作った飯を食べて栄養失調になったとか」

「何を食べさせたの⁉」

「人並みに普通に作ってきたつもりだよぉ」

「モノ食って栄養失調になったって言う人初めて聞いたわ」

 っつーか、一緒のモノを食べていた私や元姑は普通に健康でいたのに。

「きっと一日三十品目食べないと死んじゃう人種だったのじゃない?」

「だったら死ぬよね~普通」

 ドハハハと笑いが起き、並々と注がれたジョッキとおいしそうな手羽先がテーブルの上に現れた。

「お前がいるおかげで俺はウツになったともいっていたなぁ」

「いやいや、ウツの人は自分からウツだとは言わないでしょう」

「うん、ウツになってからも普通に仕事に行ってたよ」

「それって本当に鬱になって苦しんでいる人に対してすごく失礼な言葉よね、人として最低だわ!」

 うんうんそーよねぇなんて皆で口々にワイワイ言いあってっていたが、一斉に手羽先にかぶりついた瞬間だけ静寂が訪れる。

 友がジョッキのお替わりとイカフライを御所望したので、私もジョッキのお替りとアサリの酒蒸しを便乗させた。

「他にはねぇ、今後姑の生活費にお金がかかるから、口減らしのために追い出すんだとも言ったよ」

「何それ!口減らしだなんてどんな江戸時代の話よ!」

「口減らしで家族を追い出すって、人として終わってるわよね!」

 口減らし――頭の悪い元夫だから、自分の悪事(うわき)がバレないならどんないい訳でもする、その結果浮気以上に自分の評価を下げてしまうような、言ってはいけない最低な言葉が飛び出すものなのだ。

 いやそもそも、夫の浮気(あくじ)は既に私にはバレバレだったんですけど?

「金が要るって何、母親に金閣寺でも建ててやるつもりなのかしら?」

「それならまだいいじゃん、アタシ今、マリーアントワネットの格好(コスプレ)した小汚いババァが内装だけキンキラキンにした古っるい四畳半にいるのを想像したー」

「うわ、きも‼」

 あははは、呑め呑めービバ酒の勢い!

「ママぁー嫁がひどいんだよぉー今日はまだ二十九品目しか食べてないんだよぉ~死んじゃうよぉ~」

「それは可哀想に、だったらケーキを食べなさ~い」

 いつの間にか元夫と元姑のいじくり大会になっている、お酒が入ってやりたい放題だよ。

 ストレス発散だよ、私もある事ない事言いまくって、結婚生活で溜めに溜めた愚痴も不満も全て、ここで吐き出せた気がする。

「最後に、俺はお前の事は捨てられるけど、母親の事は捨てる訳にはいかないんだ、ですって」

「何ソレ、最低‼」

「普通逆でしょ、何よりもまず守るべきものは妻でしょうが‼」

 そうなのよね、なにより最後に夫だった人のこの言葉にゲンメツして何のためらいもなく、ハンコを押したのだ、

 それまで散々偉そうに言った割には押す瞬間に未練がましく引き留めようとしたっけ「お前はそれでいいのか、考え直すことはないのか?」とか「お前はそんな冷たい女だったのか」とか、何を今更と思ったのだ。    

自分であれだけ離婚させる方向に持って行ったのに、最後は全部私のせいにする、要するにこの男は自分の言葉と行動に責任が持てないのだ。

「史上最高な超最低男じゃん」

 すると、唯一結婚している友がいきなり立ち上がって叫んだ。

「妻一人守れないような男は男である必要なーい、今すぐそいつのΨ😊Ψ😊ぶった斬ってやろうじゃない‼」

 おいおいおいおいおい、そんな言葉大声で言うもんじゃないっつーの‼

 あははは、もうカオスだー、堕ちるとこまで堕ちてしまえー、そもそもこんなダメ男とケッコンした私が一番の大ばか者だったのだぁ‼

「だからさぁ律子ぉ、あんなマザコン浮気馬鹿野郎男の事なんか早く忘れていい男捕まえなよ!」

この瞬間例え天変地異が起ころうとも宇宙人の侵略が始まろうとも、このジョッキだけは命に代えても離すまいと握りしめている友の目が完全に座っちゃってますよ、きっと私も同じ目をしているんだろうな。

「お言葉ですがぁ、あんなマザコン浮気根性なしのクソ馬鹿野郎の事なんか完全に忘れちゃってますわよ!」

 きっと今頃は向こうも根性悪な薄情馬鹿嫁の事なんか忘れようと思っているに違いない。

「おお!頼もしいお言葉!」

 ヒューヒューとの掛け声とともに拍手が起きる。

「じゃぁ、いい男はいるの?」

「これから探すわよぉ‼」


 案の定次の日はひどい二日酔いに襲われた。

 良かった仕事お休みの日で。

 グルグル回る天井を眺めつつベッドの上で一日無駄に過ごしていたら、携帯の着信音の所為で目が覚めた、誰やこんな時にと、ゴソゴソと這い出してボタンを押した。

 カーテン越しの外はもうすっかり暗くなっている。

「もしもし……」

 あぁ、誰からなのか確認せずに出てしまったよ、しかし電話の相手は何も言わず、しばし沈黙が続いた。

「…………」

 間違えたのなら早く切れ、それともイタ電?何の為の無言電話?気持ち悪いなぁ。

 こんなのに関わりたくないと思い、切ろうとしてボタンに手を伸ばすと、か細い声が聞こえた。

「……り、律子か?」

「ふあ⁉」

 聞き覚えがある声がして無言電話以上にビックリして変な声が出た、治まりかけた二日酔いがぶり返したよ。

 久しぶりに聞く声、それは紛れもない元夫の声だった。

「何?」

 全くだよ、何?だよ。

「あ、いや……元気かなと思って……」

「は?」

「あ、いやその……元気にしてるのかと」

「あ、あぁ、元気よ」

 突然電話してくるとか本当に何?でもあの頃より今の方が元気になったのは確かだよ、いや今この時だけは二日酔いで元気じゃないけれど。

「そっか、生活とかちゃんと出来てるんか」

 何なんよ、誰のせいでこうなったと思ってるの。

「うん、大丈夫やし」

「……今でも、その、一人なんか?」

 ウザイよ、大きなお世話だよ。

 しかし何でこのタイミングで電話してくる?もしかして昨日の呑み会での話をこっそり聞いていたとか?それは無いか、もしそうならもっと強く偉そうに抗議して怒鳴りこんでくるはず、図星だから余計に……嘘、多少は盛ったけれどそこはテヘペロ。

 でも今日の元夫はテンション低い、まぁ今の私には関係ないけどね。

「大丈夫、心配いらんから」

「そっか、ほんまに大丈夫なんか」

 ほんまに何やねん、用事があるんならサッサと言えよ、無いのならもう切るぞ。

「あの……困ったこととか、何かあったらいつでも……」

 言うてどうなる、何とかしてくれるのか?

 たとえ何か困ったことが起こったとしてもあんたらに助けを求めようなんてこれっぽっちも思ってないから安心しな。

「大丈夫、何もないから」

「……そっか、無理してないか?」

 あぁもうイラついてきた、頭もジンジンするしウザいししつこいし、なので勢いに任せて言ってやった。

「この間お父さんの遺産が一千万ほど入ったの、だから生活の心配は全く無いから、心配してくれなくていいからね!」

「え!そ、そうやったんか、そっか、い……一千万……」

 最後の方は聞き取れるか聞き取れないかくらいのか細い声だったが、言い終わるのを待たずに電話を切って、ゆっくり携帯を折りたたむ。

 がぽこ。

 何だったんでしょうか、意味がわからない。

 未練たらたらマンか!

 それにしても、一千万は言いすぎたかしら、でもこれくらい言っておいた方がもうウザイ電話もして来なくなるだろう、と考え再び布団に潜り込む。

 愛人にそそのかされて私を捨てた家の中だけ俺様夫、その愛人とうまくいかなくなったのかしら、まぁ上手くいくわけないと思っていたし、愛人と別れて一人になって未練が出てきたのかしら、私に対してまだ愛情のかけらでも残っているというのかしら、だとしたら受けて立ってやらん事も無……いや、やっぱりあいにくこっちは未練のみの字もないし天井が回っているからかかって来ないでウザいから。

 まどろみの中のトランス状態、頭痛からも解放され心地よい至福の安らぎを感じる一瞬の静寂ののち、また着信音で目が覚めた。

 今度は誰やねんと番号を確認すると、さっきの相手よりももっと見たくない奴の番号だった。

 出ないなら出ないで出るまでしつこくかけてくるだろうし、後々面倒な事にもなりかねないと思いイヤイヤ渋々出る。

「も……」

「聞いたわよ律子さん、お父様の事大変だったわねぇ」

 電話のルールとかマナーとかの一般教育を全く受けずにいきなり話し出す姑、その嫌な声は今の脳髄には辛い。

「はぁ」

「本当に知らなくてごめんなさいね」

 あぁ、父の遺産ということから、父がお亡くなりになったという発想につながっての今のお悔やみ発言、なのですかね?

 いや、謝らなくていいよ世界中の全ての人が知らない事ですから、もちろん父本人も知らない事ですから。

「何と言えばいいか、気を落とさないでね」

「あぁ、はい……」

 別に、落としてないし。

「律子さんも、自業自得とはいえ、タカシと上手くいかなくなって誰にも相手にされず淋しい思いをしてるんじゃないかしらと思って心配していたのよ」

 今思いっきり私の事デスっただろこのババァ、誰のせいでこうなったと思ってんだよ、それに昨日は友達と楽しく呑んでましたけど!解ったから早く電話切りてぇ。

「それでね律子さん、一人で居るのが辛いのなら、あなたさえ良ければいつでも戻ってきていいのよ」

「ふっ……」

 ……ぷつ!

 返事の代わりに電話を切った、そしてそのまま長押しして電源も斬った。

 何やねん、金かよ‼

 人の事散々駄目嫁扱いしてコケにしてバカにして愛人作った息子に味方して追い出したくせに、なのにお金持ちになったと知った途端に手のひら返しやがったのか。

 優しい言葉をかければなびいてくるとでも思ったか!

 いくら馬鹿な私にもわかる。

 別れたけれどやっぱりお前が大切だと気付いた、月9ドラマよろしくまだここに愛があるなら戻ってきてほしい――訳じゃ無く、私の持っている一千万円に来てほしいと言っている訳だ。

甘いわ!

 例え天と地がひっくりかえろうがお日様が西から昇ろうが鳩が豆鉄砲喰らおうが、お前らの元に戻る気なんてこれっぽっちも無いですから、残念ながら一千万なんて持ってないですから、父死んでませんから。

 でもこれで元々なかった未練も完全にブチ切れたわ。

 次に電話がかかって来てももう二度と出てやるもんか、そう決意して布団に潜り込んだ、これでゆっくり眠れる、おやすみなさい。

 しばしのまどろみの後やって来る心地よい精神と肉体の開放、今度こそ至福の時。

 ――。

 ――‼

 けたたましいベルの音がして、今度は家の電話機が鳴った。

 番号が表示されないタイプだけれど、家電の番号を知っている人は限られている、仕事場の人か、もしくは……。

 カチャ。

「もひもひ……」

「もしもし、律子⁉」

 やっぱり母だった、なぜかちょっと興奮したような声で、なんなのこんな時に、今何時よ。

「ちょっとあんた!高橋の親に何言ったの⁉」

「何って……?」

 あー、元姑の事だ、実家に父のお悔やみの電話を入れるかもという事をすっかり失念していたわ。

 元姑は私への電話を切った後実家にも電話を入れた。

「電話が鳴った時、珍しくお父さんが出てね、それで高橋の親がビックリして、死んだんじゃなかったんですか⁉って言われて、それでお父さんも驚いちゃってねぇ」

 不謹慎だと思いながら、その状況を想像して思わず吹き出してしまった。

「笑い事じゃないから」

 いや、笑いごとだし――なのでさっきの夫と姑の話をしてあげたら、幾分かは納得してくれたようだった。

 母は、電話の向こうで大きなため息を一つ。

「まぁ、あんたの気持ちも解んないでもないけどさぁ、つくならもっとましなウソつきなさいよ、超金持ちの彼氏が出来たとか」

「……あぁ、その手があったか」

 とにかく二日酔いで頭が回らなかったものだからね。

「まったく、勝手に殺されるお父さんの身にもなりなさい、少しショック受けてたみたいだから」

「はい、ゴメンナサイ」

 そこは反省しました、しかし母の話はまだ続く。

「それにしても高橋の親も自分勝手よね、あんたがお金持ってるってだけで態度がコロッと変わったんでしょ、お母さんね、あの親はパッと見優しくてしっかりしていて面倒見がよさげな人のように見えるけど育ちは悪そうだったし一般教育も受けてないんじゃないかって思うくらい世間の常識を知らない人で、その上腹の中では何考えてるか解らない油断できない喰わせものだなって思っていたのよ、離婚の時だってそうじゃない、挨拶に来てタテマエ上息子が悪いように言っておきながら、要所要所で気の利かない出来損ないの嫁が悪いだのそれを育てた親が悪いだの言われて、息子が被害者のように言いくるめられちゃって、その上あの親子がおかしな理由付けて慰謝料くれないって聞いた時に文句言いに行った時も『生活費を払う能力のない嫁にどうして慰謝料祓わなくちゃいけないの?』から始まってじゃぁせめて嫁入りに持たせた家具を全部返してちょうだいって言っても『いったん嫁に来たものはもうこの家の物なのに、それをいまさら寄越せなんて盗人猛々しいとはこういう事を言うのね』って何それ馬鹿じゃないの、だからお母さんも腹が立って出るとこ出てもいいのよ!って言うとね『だったらうちも名誉棄損で訴えるわ』ですってもう本気でハラワタ煮えくりかえってさ、もういいわよあんたたちの顔なんか二度と見たくもないわ!って帰ってきちゃった、おかげで慰謝料ぶん捕り損ねちゃってごめんなさいね、でもさぁお父さんが亡くなったって聞いたのなら普通は線香の一本でも供えに来るのが普通でしょ、それを電話だけで済まそうとして、それで遺産を手に入れようと企んだなんて本当に許せないわ、あぁ腹立つ!」

 母は話し出すと止まらない。

 母にも苦労を掛けてしまった、私があんな男と結婚してしまったばっかりに。

「でもねぇ、律子」

 母は急にトーンを落として真面目な声になった。

「はい?」

「もしお父さんが本当に死んじゃったとしても、一千万なんて遺産うちにはありませんからね!」

「はい、それはよく心得ております」

 父は平凡なサラリーマンだ、定年までまだ数年あるが、この間退職金前借りしてまで長年住んできた古いボロい家を大胆に改築して広い立派な家を建てたのだった。

 これなら裕也の嫁が来ても大丈夫だと。

 

 次の日の夜、そんな弟裕也と外で会う事になった。

 場所は近くのファミレス。

「珍しいね、あんたから電話してくるなんて」

 昨日母からの電話を切った後、もうこれでやっと眠れる、そう思った矢先今度は裕也からの電話で眠れなくなった。

 裕也とは子供の頃は一緒に遊んだ記憶があるものの、成長するにしたがって二人の方向性はかなり違うものになってしまった、勉強より遊ぶことに専念し平々凡々な普通の学校に進み、平凡だけど好きなことをして勉強は二の次にして挙句鍋底を転がるような成績の姉とは違い、何度も言うようだが、頭の良い学生が集う優秀な学校に普通に当たり前のように進学して行った裕也。

 その結果、社会のしがらみに触れる事も無く何のスキルも持たないまま専業主婦を経て、未経験でも大丈夫な安時給でそこそこ何とか生活している姉とは違い、裕也は年収数百万、いや時には数千万とかをひょいっと稼いでしまうような立派な仕事に就いた。

 スゲーよな裕也は、しかも男前だし。

「母さんから話聞いたけどさ、今でもあの旦那から電話来るんか」

 注文した料理が届くまでにドリンクバーから持って来たメロンソーダを飲む私に、ウーロン茶の裕也が話を切り出してきた。

「うん、昨日のは久しぶりやったけどな」

 離婚してしばらくは、元夫からの電話が時々来ることはあった、最初は郵便物がどうのとか請求書の切り替えがどうとかの業務連絡だけだったが、時折用も無くかけてくる事もあった、話の内容は「元気か」とか「変わったことはないか」などがほとんどだった、私も「相変わらずよ」とか「元気よ」とか平凡な報告ばかりだし、私もそれ以上は特に話すこともないからと、ウザそうに対応していたのが効いたのか、最近はすっかり掛けてこなくなって安心していた矢先の遺産騒動となったわけで。

「今更電話してくる意味がわからんよ」

 未練があっての事なのか、それとも私が落ちぶれて泣きついて来るのを、ほくそ笑んでやろうと狙っているのか、いずれにしても今の私にはうっとうしい。

「そんなに嫌なら携帯キョヒればええやん」

「やり方が分からん」

 ジュースを飲み干して、残った氷をコロコロさせていると、裕也が驚いた表情でこっちを見ていた。

「何だソレ」

「だってぇ、ケータイの事はよう解らんのやもん」

「もん、じゃねーよ、姉ちゃんのはガラケーだろ、時代はスマホだってのに、何時代の人間だよソレ」

 どうせ私は石器時代ですよー槍持ってウホウホですよ、未だにカポンって開くタイプの携帯電話で、しかも電話とメールのやり取りしか使ってないしそれで十分だったから、他の機能もあるけど使ったことないから使い方が分からないんだよ。

「貸してみろよ、旦那とその親の番号キョヒれるようにしてやるから」

 もちろん今の家電の番号は教えていない、携帯の番号をキョヒできれば、もうあんなウザイ電話がかかってくる事も無い有難い、カバンから取り出した電話機を差し出すと裕也は、ジャラジャラと吊るされたストラップをウザそうにしながら携帯を開き、指先を目にもとまらぬ早業でカコカコしている。

「おお、流石は最先端のイケメン裕也、すごいねー」

「これくらい出来て当たり前だって」

 イケメンと言われた事は否定しないんだねこいつは。

 そのあとしばらく無言で操作していた裕也が画面に目線を落としたままホツリとつぶやいた。

「姉ちゃん、実家に戻る気ぃ無いか?」

「はい?」

 突然何を言い出すのかこいつは、実家はもうすぐあんたの嫁を迎え入れるのだろう、そんなことろに小姑も付いて行くわけにはいかんだろうよ。

「あ、いや、なんっていうかその……実は真由子が、同居したくないって言い出してさぁ」

「おや」

「……付き合って、結婚を意識し始めた時は、しっかりしたこの家もあるし、真由子も同居でも構わないって言うてたんやけどな、俺の親んとこに挨拶に来てから、その……」

「あんな親とは一緒に住みたくないわぁ~って?」

 真由子嬢のまねをしてシナを作って見せた、似てないけど。

「いや、そこまではっきり言ったわけやないけど、嫌やって……」

 嫌とは言ったんだね。

 裕也の婚約者、浅野真由子とは職場で知り合ったのだそうだ、実家に挨拶に来てくれた時にお会いした、長い黒髪が可憐で可愛い、まさにええとこのお嬢さんという第一印象を抱いた。

 着ていたのはフェミニンな花柄のブラウス、すごく素敵ですごく似合っていた、きっとあれは有名なブランドのものだろう、私の目に狂いが無ければ私が普段着ているユ〇クロのフリース四十着分はするだろう、良い家柄のお嬢様らしく躾もきちんと受けたらしく、その立ち振る舞いも話し方も綺麗だし、お茶を頂くしぐさ一つとっても優雅だったしそつが無かった、ガサツな私とは全然違う、三歩下がって夫の影を踏まずな大人しそうで控えめな感じの性格なんだろうなと思う。

 そんな彼女だから、話し出したら止まらない元気な母を見てどん引きしたのだろうね、色々口うるさく言われて虐められるのかしらと考えたかもしれない、その上無口で厳格そうな父にも恐れたのかも。

「まぁ、彼女がそこまで言うのなら無理して親と同居したってロクな事は無いもんね、距離を置いて別々に住む方がええと思うよ」

「姉ちゃんもそう思う?」

「思う」

 経験者は語る。

 自分のことはこの際置いといて、姑にいじめられると訴える嫁と嫁がひどいのよと訴える姑に挟まれて苦労する裕也の姿が見えるよ、裕也は真面目で優しい子だから、どちらの言い分もちゃんと聞いてあげようとして苦労しそうだ。

「そうなんか……」

「裕也はさー、もし嫁と母親どっちを選ぶか?って言われたらどっちを選ぶん?」

「真由子」

 おお、即答かよ、偉いぞ。

「だって、お袋には親父が付いてるしそれに姉ちゃんだって頼りになるから」

 えらいなぁ、守るべき優先順位をちゃんと考えている。

 ちなみに元旦那は三男坊だった、イザとなったら守ってくれるべき兄弟がちゃんと居……いや二人とも所帯を持って、離れたところに住んでいるので、ここぞという時に頼れるかどうか微妙だなぁ。

 二人の兄たちの家族とは、そういえば結婚式以来会ってないからどんな顔か忘れちゃった、もう二度と会うことはないので構わないけどね。

 いや待てよもしかして二人の兄たちは『嫁と姑どっちを取るか⁉』という選択肢にすでに答えを出したと捉えていいってことなのか、だからマザコン馬鹿な三男坊が母の面倒を……。

 あぁ~そのことに先に気付くべきだった。

 って、今頃後悔しても仕方がないし、ここはこれからの裕也と真由子嬢には失敗してほしくはない。

「じゃぁ決まったようなもんやん、あんたやったら真由子サンのためにもう一軒家建てるくらいできるやろ?」

 すると、裕也は少し困ったような顔をした。

「いや、それがな……」

「何や?」

 困るというより何かに悩んでるような、たとえば苦虫を口に入れてしまった後で、噛もうかどうしようか思案しているようなそんな感じだった。

 そんなもん口に入れんでもええし。

「真由子の親がな、家を建ててくれるって、それも真由子の実家の近くに……もうすぐ地鎮祭」

「はぁ?」

 話が急展開過ぎて付いていけんよ、真由子嬢の実家はうちの実家とは車で三十分ほどの距離、そう遠くは無いけれど。

「真由子が俺の親と同居したくないって自分の親に話をしたら、じゃあ家を建ててあげるからって事になったらしい、俺も昨日知った、親父とお袋には、まだ話してない……」

 だからというか、それでまず姉に相談したという訳だ。

 なんだそれ、もうすぐ夫となる人に何の相談も無しに家を建てちゃうとか、嫁も親も何考えてるのやら。

「でも、俺はできればそこに住もうかとも思ってる」

「マスオさんかい、マスオさんになるんかいあんた!」

 裕也夫婦はうちの両親との同居をやめて実家を出て、真由子嬢実家の管轄内の家に住む、その替わりに広くなった実家には姉ちゃんが住めばいい、それで丸く収まるんじゃないかと裕也は思ったらしい。

 離婚して自由になって一人を満喫していたのになーという思いもあったが、別に構わないよ実家に戻っても、それで丸く収まるのなら、と伝えたら少しうれしそうな表情を見せる裕也だった。

 後日近々俺から両親に話をして、それで決まったらまた連絡するから、という事になったので、裕也からの連絡を待っていたら四日後に、母から電話がきた。

 今さっき裕也から別居の話を聞いたという、それで大層驚いたと言い出す母、引き留めたものの裕也の意思は固く結局出て行く事になったらしい。

「裕也は、一度言い出したら聞かない子だから、何を言っても無駄だったわ」

 そういう頑固なところは母に似たんじゃないか?いや、父に似たのかも。

「それより律子、裕也が出て行くんなら、あんたこの家に戻りたいって言いだしたんですって?」

「あ?」

 裕也の奴、その方向で話を持っていったのか?まぁどっちでもいいけど。

「あんたの気持ちも解るしそうしてあげたいけれど、それは駄目よ」

「何で?」

「だって、そんな事したら出戻り姉の所為で裕也の嫁が出て行ったと思われるじゃない、母さん裕也がもうすぐ結婚するの嫁が来るのって近所に話したばっかりなのに、世間体が悪くなるわよ」

「せ、世間体って……」

 親子の愛は世間体に負けちゃうのか。

「そういう訳だから律子、仕方ないけど同居の話は諦めてちょうだい、母さんだって裕也の嫁と同居するの諦めたんだから」

 諦めるのベクトルが違うような気がするけど。

「それにしても、真由子さんの親も何勝手に家建ててるのよバカじゃないの、一言相談してくれれば何か対策も立てられたのに、せめてうちの近くに建てるとかさぁ、こっちも何のために新しい家建てたと思ってるのよ、ふざけないでほしいわ、新居は真由子さんの実家のすぐ近くだし殆ど親が金出したって言うでしょ、そんな処に裕也も住むって、何それ婿養子みたいじゃない、あのままだと完全に向こうの言いなりになるわよ絶対、あたしの息子なのに何すんのよふざけんなって思うわよ、ねぇ律子、あんたも今度会ったら姉として一言ガツンと言ってやりなさいよ!」

「あ、あはは……」

 じゃぁ、私も小姑として弟の嫁に一言。


 ――真由子さんよ、同居しないで正解かも。


 結婚式はシンプルながらも、二人の愛情がしっかりと感じ取れるような、美味しくて感動的でいいお式でした。

 新居の件もあって両方の親同士はどことなく険悪な雰囲気ではありましたが小姑はただ見ないふり傍観するのみでございます、嫁いびりとか嫁姑のドロドロゴチャゴチャした話に首を突っ込みたくない、蚊帳の外でのんびりしていたいわ、後は主役の二人が仲良くやっていけばいいさ。

 裕也のいなくなった実家は、更に広くなったような気がする、使わなくなった部屋もあるし、さすがに両親夫婦だけでは持て余し気味に見えた。

 母からは、たまには遊びにいらっしゃいと言われたものの、だからといっていつでもホイホイ行けるほど暇でもないしそこまで図々しくない、というか、仕事から帰って来たらもう時間も遅いし、自分の部屋で一杯やりながらのんびりしたいし、休みの日もぐうたらしたい、車で十分ほどの距離が結構遠い。

 でもタマには行っておいた方がいいと思い、お給料前のお休みの日なんかに親孝行と称してご相伴にあずからせて頂こう、とは思ったありがとう。

「この間いつものスーパーに買い物に行ったのよ、そしたらレジの子が初めて見る子でさ、よく見るとその子研修生っていう名札付けた新人さんだったのよね、確かにスピードは遅めだったけれど一生懸命だったしさ、お母さんそういう子を見ると応援したくなるじゃない、頑張ってねーなんて心の中で言いながらお会計済ませて、お釣りとレシート貰って、袋詰める場所にカゴをよいしょって持って行こうとしたら、卵のパックがカゴの向こう側に置かれてあったのよね、気付いた時には卵はもうカゴに当たって横滑りして床に落ちちゃったのよ、レジ打ったとき他に硬くて大きい物もカゴに入れなきゃいけないから、つぶれない様にその間カゴの横に置いとくってのは、マニュアルで習ったと思うし当たり前だけどさ、それって普通手前に置くもんじゃない、でもその子ってば、カゴの向こうに置いたって事よ何考えてるのかしら信じられない、それなのにその店員さん、卵が落ちたのに知らん顔して次の人のレジしてるのよね、いくら新人だからって頭きちゃってさー『ちょっとこれ、どうしてくれんのよ!』って怒鳴ったら他の店員が来てくれて謝ってくれてその店員にも叱っていたけどさ軽く『すいませんー』って言うだけだったからもうカチンと来て『ちょっと、何よその態度‼』って言ってやったら店長も来て、何か色々詰め合わせ貰っちゃった、いっぱいあるからあんたも半分持って帰り、帰りに分けてあげるわ」

「うん……」

 で、結局その日卵は買えたのだろうか?

 晩御飯タイムは話し始めると止まらない母の独壇場になる、前からずっとこんなだったっけ?

 子供の頃から思い出してみた、こんなだった。

 その頃は何も思わなかったけれど、結婚していったん家を離れてその後一人になって、数年ぶりに見ると改めてうるさい。

 父は何も言わず、黙って母の話を聞いている、聞いているフリをしているだけかもしれないが、以前は私も裕也も一緒に食卓を囲んで母の一人語りをBGMにご飯を食べていたのだが、裕也も居なくなった今はどうなんだろう、父を相手に母は今でも語り続けているのだろうか、それとも……。

「それでねー、この間裕也たちが家に遊びに来たのよ、仕事の話とか新婚生活の様子とか聞かせてもらったわよ、仕事が忙しくて帰り時間が遅いとか、それなのにね裕也ってば『休みの日は俺がご飯を作ってるんだ』って言うのよ、真由子さんったら何考えてるのかしら、あの子仕事が忙しい上に休みの日にご飯まで作らされて体が休まらないわ、それに最近少し痩せちゃってるわよ可哀そうに、あれは他に家事とかも全部やらされてるんだわ絶対」

「へー」

「大人しそうな顔してホント鬼嫁なんだから真由子さんは、お嬢様育ちで何も出来ないのねきっと、裕也も何でそんな人と結婚したのかしら、信じられないわ!だいたい母さんねこの結婚には反対だったのよ」

 見た目大人しくて優しそうに見えた真由子嬢が、そんなに悪い人には見えないんだけどな、それに裕也だってしっかりしている子だから人を見る目はあると思ったのだけど。

 それでも母の愚痴は収まらない。

 あぁ、母の作る唐揚げは今日も美味しい。

 夕飯も食べ終わり、片付けも手伝って済ませ、あったかいお茶で一息入れてから、そろそろいい時間になったのでお暇することになり、玄関先で突然母が。

「あ、忘れるとこだったわ、この間スーパーでもらった詰め合わせ持って帰り」

 あわただしくパタパタと居間に消えていった母、それと入れ替わるようになぜか父が見送りに来た、向こうからゴソゴソと何かを探る音と「えーっと何処に置いたかしらぁ……」との母の声が聞こえる、いつものことながら遠くに居ても騒がしい。

「なぁ律子よ」

 父の声はいつも静かで落ち着いている。

「ん?」

「世間体なんか気にする事は無い、いつでも帰ってくればいい」

「あ、うん……」

「はいはい、これこれ、あんたの分ね、あら父さんまでお見送り?」

 紙袋を手にパタパタと足音を響かせて戻ってきた空気を読まない母のおかげでそれだけしか言えなかったが、今のはどういう意味だったんだろう、これからも頻繁に遊びに来いって事なのか、それとも出戻って来てもいいっていう意味だと思っていいのか?

 いまさら出戻ったところで、母はいい顔しないと思うけど。

 自分の家に戻って紙袋の中身を開けてみた、中からはラップと小麦粉と砂糖、それと厚手のキッチンペーパー、それに粉末の食器洗い機洗剤が出てきた、あまり自炊しない私には用の無いモノばかりだったし、そもそもうちに食器洗い機とか無いし。


 本屋の仕事は夜の十時に終わる、そこから片付けやら帰り支度やらで店を出るのはだいたい十時半、その時間だと近所のスーパーもとっくに閉店時間だ、家に帰ってから晩酌する私にとって立ち寄るお店はコンビニくらいなのだが、今日は発泡酒も切らしているので、少し遠いが足を延ばして二十四時間開いているスーパーへ行ったのだ、発泡酒は箱買いをする、コンビニでは高くて買えない。

 この時間になるとさすがに店内は客もまばら、お客さんも少ないが商品も少なくなっている、半額のお刺身でもあればと思ったがすっかり売り切れていた、仕方なく店内をうろついていると運よく半額シールを張られたローストビーフを見つけた、ラッキー。後はいつもの発泡酒の箱を積んでカートをカラカラと押しながら何気なく店の中を物色していると、向こうにどこかで見た事のある人影が見えた。

 おやおや、こんな処で会えるとは、そういえば会社はこの近くだっけ。

 つっつっつーと静かに近付いて行ってカートで膝カックン。

「おわっ‼ビックリしたー、姉ちゃんじゃんか、何してんだよこんな処で」

「見ての通り、仕事の帰りに発泡酒と今夜のアテを仕入れに来たんよ、裕也こそ何してんの?一人?」

 今日はビシっとスーツ姿なので、いつものイケメンに更に磨きがかかってかっこいい、でもその買い物かごは似合わない。

「あ、あぁ今一人、明日休みやから食材を買いに来てん」

「食材てあんた……」

 野菜コーナーの前でカルバンクラインのスーツ着たイケメンがレタスやらピーマンやらが入ったかごを持って、玉ねぎを品定めしている姿はいかがなものかと思うぞ。

 それに、改めて見るとやっぱり少し痩せたかも。

 母が見たら泣くぞ。

「お母さんから聞いたけどあんたも大概やな、嫁にちゃんとご飯作れって言いや、日曜位ゆっくり休まなあかんよ……」

 一瞬キョトンとなった裕也だったが、言葉の意味を理解したらしく真剣な顔になって私を見た。

「それは違うよ姉ちゃん」

「何がどう違うのよさ」

「母さんが何言ったか知らんけど、俺は休みの日に料理するのが最近のマイブームなんだよ」

「――はぁ?」

「だって新居のキッチン凄く綺麗で使いやすいし、俺だって創作意欲が出てきたっていうかさぁ」

 まさかの料理好き、料理に目覚めたって事ですかい?

 男性がキッチンに立つのは珍しくも無いし、裕也がオリーブオイルを高い位置から、だばぁってしてる姿を想像しても、それはそれでアリだと思ったけどさ。

「それに真由子だってちゃんとご飯作ってくれてるよ、すごく美味しいんやからな」

「そうなん……?」

「真由子は独身の頃から料理教室に通ってるし、今も栄養士の資格取るって勉強してるんやから。だから見て、俺の体も締まってきたと思えへん?」

 両手を腰に当てて胸を張って見せた裕也に返す言葉が無かった、確かに以前はちょっとデブンな体型だった裕也が、今ではスレンダーになって男前に磨きがかかっているようだ、家事をしない嫁に疲れ果てて痩せた訳では無いのか。

「母さんの料理はゴッテリした揚げ物とか肉料理が多かったやんか、美味しいからってつい一杯食べちゃってたから腹とかブヨブヨやったけど、真由子はちゃんとヘルシーな料理を作ってくれるからそのブヨブヨが最近減ってきたんよ」

「おお!」

 確かに言われてみればそうかも、母の得意料理はから揚げとハンバーグ、カレーも多かったなぁ、お肉がたくさん入っていて美味しかったのだ。

 そういう私も嫁に出てから、肉が苦手な姑の所為で魚とか野菜メインのご飯を作るようになったのよね。

 あー、それで新婚当時健康体になった私を見て「結婚して嫌な思いしてない?大変だったら何でも話してね?」って言われたことがあったっけ、その頃はまだそんなに悩みも無い平穏な頃だったから、何をそんなに心配しているのだろうと思ったのだが、そうか、健康的な体つきになったのを苦労して痩せたと思ったのだろうね。

 その証拠に、本当に大変だった頃には何も気付いてもらえなかったっけ。

 いや、あの当時は気付いてもらえるほど実家に帰ってなかったような気もする、なんだかんだ言って色々辛かったから逆に実家にも帰りずらかったのよね、私も頑固だから。

「そんな真由子に習って、俺も料理に目覚めちゃって、休みの日は俺が作ることになったんだ、それも手間暇かけて作るのが楽しくてさぁ、おかげで仕事の疲れも全部吹っ飛ぶよ、まだまだ真由子には敵わないけど、俺の作ったのを美味しいって喜んでくれるのが嬉しくてさ」

 あはは、おのろけ新婚さんだぁ。

「姉ちゃんもそんなのばっかり食べてないで自炊しなよ、楽しいよ」

 カートに乗せられた発泡酒と、ローストビーフにどや顔で貼られた半額シールもしっかり見られた。

「あはは、考えとく……」

 誰かのために作るという事をしなくなってから全く自炊しなくなった、殆ど出来合いものかコンビニ弁当だ、それに手間暇かけて作る一人分の味噌汁より、袋から絞り出してお湯を注ぐだけの方が断然おいしいと思ってしまう今日この頃……。

 ふと、真由子嬢の愚痴をこぼしていた母と、私の悪口を言いまくっていた元姑とそれを信じて疑わない元夫の顔が重なって見えた、姑という生き物は何処へ行っても同じなのか、元姑の悪態ぶりを悪く言っていた母も結局は嫁を悪く言いたがる同じアナのヒト科姑属という生き物だったのか。

「明日はボンゴレビアンコを作んねん、ネットでレシピ検索して美味しそうやったから」

 ボンゴ……何ソレ?

「他にも美味しそうなのがあったら挑戦していくつもりやし、わくわくするわぁ」

 あー、すごいねーその意気込み感心するわ。

「そんなに料理が好きなら今度うちの本屋にも来なよ、プロ級のレシピ本探してあげるから」

 簡単お手軽経済的をウリにしているレシピ本ばかり目立つ昨今だが、応用編やプロの腕前レベルのレシピ本も一部の人に人気がある、裕也のお気に召すのもきっとあるはずだ。

「まじか、嬉しいー」

 屈託のない笑顔で笑う裕也は本当に可愛い、楽しそうで何よりだよ。

「それに今度父さんと母さんにも作ってやりなよ、真由子さんのことを家事をしない鬼嫁だって愚痴ってたから、その誤解も解いてやらなきゃ」

 そうだよ、このままでは頑張ってるお前ら夫婦が可哀そうだ。

 それに、母は元姑とは違う、ちゃんと話せばわかってくれるハズだ、だって私と裕也を生んで育ててくれた素敵な女性だもの、誤解したままではもったいない。

「そうやねー考えとくわ、その時は姉ちゃんもおいでよ」

「そうやねー考えとくわ……」

 できれば是非行きたいものだ。


 家に帰った後、早速パソコンを立ち上げ、忘れかけていた名前を必死で思い出し検索してみた。

 あった、これだ、ボンゴレビアンコ。

 アサリのパスタだ、おいしそうだ。

 あぁそうだ、この間お母さんにもらったラップだのペーパータオルだの、まだ袋に入ったままだよ、私は使わないから今度会った時こっそり真由子嬢にあげよう。

 きっとあの子らの家には食器洗浄機があるはずだ。

 だけど……。

 と、ふと考える。

 私は実は明日も仕事なのだ、仕事が忙しいと言っても日曜日はちゃんと休みの裕也と違い、土日は稼ぎ時だなかなか休みが取れない。

 裕也のボンコレビアンコが食べられるのはいつになる事やら。

 独り身がお気楽だという気持ちが、淋しさに打ち負けそうになり、勢いで新たなプルタブをこじ開ける。

 ガポシュ!という爽快な音は、だけど私のため息をごまかしてはくれなかった。




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ボンゴレビアンコ 宮河さん @toiko

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