第34話 予定不調和の始まり

 その夜、私は柊の病室でシーカを待っていた。外は年に一度の花火大会で賑わっている。夜空に咲く大輪の花をシーカに見せたくて、私はこの日を選んだのだ。


「こんばんは、花菜ちゃん」


 花火大会が始まり少し経った頃、聞きなれた声が私を呼んだ。いつも通り微笑みながら振り返った先で、私は目を見開いた。


「……シーカ、その体……」


 彼女の体は、私と同じように半透明だった。先ほどまで実態があったはずなのに。


「猫ちゃんに、体返したの。私にはもう、必要ないから」


――予定不調和の命が、まれに猫に入り込む。


 いつか上谷くんから聞いた不思議な話を思い返す。シーカは自分を化け猫だと言っていたが、結局のところ、予定不調和の命が黒猫を依代にしていたに過ぎなかったのだ。


「……そっか。黒猫さんには悪いことしたね」


「あの子も花菜ちゃんと柊くんに恩返ししたかったみたいだから、これでよかったんだよ」


 透けるシーカの体を見ていると、いよいよ終わりが近づいているのだと思い知らされる。でもこれが、私の選んだ道だった。


 夜空に、大輪の花が咲く。点滅する光が、病室の中をちらちらと照らした。遠くで響く花火の爆ぜる音にさえも、シーカは大げさなまでに喜んでみせた。


「すごいねえ、花火ってこんなに綺麗なんだね」


 シーカは目をいっぱいに見開いて、その真っ黒な瞳に花火を映し出していた。目を輝かせるというのは、こういうことを言うのだろうと微笑ましく思う。


 花火の光は、眠る柊の顔も照らしていた。架夜さんに叱られても、ご両親に泣きつかれても、一向に彼が目覚める気配はない。


「柊、花火だよ。綺麗だね」


 そっと、彼の頬に手を伸ばした。まだシーカの力が効いているようで、完全に触れている感覚がある。


 シーカは名残惜しそうに私たち二人を見つめたかと思うと、やがて儚く笑ってみせる。


「……先に行って、待ってるからね」


 彼女なりに、私たちに気を遣ってくれたのだろう。その心遣いを素直に受け取ることにして、病室から出ていく彼女を見送る。


 延々と続くような花火の音を聴きながら、眠り続ける柊に視線を移した。思えば、柊の寝顔をじっと眺めたことはなかった。眠っているときの柊は、何だか可愛らしい。


 彼は今、どんな夢を見ているのだろう。夢の中で、この花火を眺めているだろうか。


「綺麗だね、柊」


 次々と花が咲いては、散っていく。そろそろ花火大会も佳境だろうか。


「柊、あのね――」


 緊張で声が震えていた。軽く深呼吸をして、そっと、柊に決意を告げる。


「――私、もう還ろうと思うんだ」


 花火の音が不思議なほど遠く聞こえた。もうとっくに決めた覚悟だというのに、いざ彼を目の前にすると、ぐらりと揺らいでしまいそうだ。


「たくさん考えたんだけど、これが一番かなって」


 シーカの力が弱まるたびに、きっと彼は今回と同じことをするだろう。いつまでも私の存在を気にするばかりで、生きている人を蔑ろにしてしまいそうだ。それくらい、柊は私を想ってくれている。でもそれは、死者に向けるには大きすぎる愛なのだ。


 私は、その愛に棲みついた魚だった。あまりに居心地が良いもので、ついつい長居をしてしまったようだ。


 多分、事件の真相が明らかになり、柊が眠っている今を逃せば、私は柊から離れることができない。このまま一生ずるずると、彼に憑りついてしまう。


 だから、ここでさよならをしよう。


 本当は、柊の命の行く末を見届けるべきなのかもしれないが、臆病な私にはとてもできそうにないのだ。


「ねえ、柊」


 点滴の管が繋がった、柊の手を握る。私よりずっと大きな、私を導いて、守ってくれた優しい手。


「今まで、楽しかったね」


 走馬灯のように駆け巡る思い出のどれをとっても、必ず柊の姿があった。春の柔らかさが、夏の蒸し暑さが、秋の彩りが、冬の澄み切った空気が、柊の手の温もりとともに蘇る。あなたと一緒に、どれだけの季節を過ごしただろう。数えればきっと、何てことのない数なのだが、それが私にとっての全てだった。


 大げさに聞こえるかもしれないが、本当に、あなたは私にとっての全てだったのだ。


「本当に、本当に、楽しかったね」


 ぼろぼろと、大粒の涙が零れ落ちていく。その涙の一粒ひとつぶに、言葉が閉じ込められているようだった。これが最後だというのに、伝えるべきことを何も口に出せない。思い浮かんだ台詞はすべて、涙に溶けて流れてしまう。


 大好きだよ、柊。


 この想いが恋情なのか親愛なのか、それすらも分からないが、その言葉だけは、伝えなければならなかった。何を差し置いても、言わなければならなかったのに、抗いようもなく、言葉が溶けて流れ落ちるのだ。


 握りしめた彼の手に額を当て、時が過ぎていくのを惜しみながら、声を上げて泣いた。言葉にならない声を、ただ叫ばせることしかできなかった。ありとあらゆる感情が大きな波となって、彼にぶつかっていく。


 その声をかき消すように、大輪の花火が打ち上げられた。別れには相応しくないその華やかな光が、生きる世界の美しさをまざまざと刻み付けた。


 なんて、綺麗な夜なのだろう。もう戻ることもできない私に、どうしてそんなにも見せつけてくるのだ。狂おしいほど、愛おしかった。この夜も、過ぎ去った季節も、あなたの隣も。


「……さよなら」


 震えるほど固く握りしめた柊の手に、縋るように頬を寄せる。溶けた言葉が涙とともに、彼に伝っていくようだった。


「さようなら、柊」


 涙で歪んだ視界に一目だけ、柊の姿を焼き付ける。そうして打ちあがる花火を背に、私は彼の許から駆け出した。





 夢中で辿りついた先は、あの日シーカと出会った非常階段だった。煌びやかな光が、場違いな私を照らし出す。


「一緒に還ろう」


 いつの間にか、私の隣でシーカは手を取って笑っていた。泣きじゃくった顔のまま、私もできる限りの笑顔を返す。


「私は、シーカと同じ場所に行けるかな」


「行けるよ。だって私は、花菜ちゃんの中に還るんだから」


 シーカが祈るように頭を垂れると、二人の額が触れ合った。そうか、彼女がいてくれるのならばきっと大丈夫だ。どこへだって行ける気がした。


「おやすみなさい、花菜ちゃん」


 シーカの言葉と同時に、クライマックスの花火が夜空一面に咲き誇る。私たちはお互いに手を重ね合った。


 色鮮やかな光と混ざり合うように、命が、最後の炎を燃やしている。花火が消え、空が消え、代わりに辺り一面が真っ白になった。雪のようだ。まるで自分の体が、少しずつ雪の結晶となって舞っているような気がした。


「失われるばかりが、予定不調和じゃないんだよ」


 ふと、そんなことを口にしたシーカは、空いている方の手で指を指した。その先に、小さな人影がある。


 それは、幼き日の愛しい人によく似た男の子だった。少し気の強そうなその大きな瞳は、美しい彼女のものとよく似ている。


 涙が、宙へ浚われていった。あの子が生まれる未来があるのだ。温かく、何か尊いものが染み渡るように、心の奥へ広がっていった。


 私は笑っていた。混じり気のない、真っ白な幸せで一杯だった。もう何も、思い残すことはない。安らかな心持で目を閉じれば、それに応えるかのように、私の命は雪となって、次々と舞い上がっていった。



 雪のようにまたいつか、巡り会う日があればそのときは。


 そのときは、どうか、もう一度だけ、あなたの心に触れさせて。


 微笑みが、消えゆく。遠くで雪解け水が跳ねた。


 それが確かな、私にとっての予定不調和の終わりだった。




 雪解け水、命の溶け行く音が聴こえる。


 巡り巡ってまたいつか、ひいらぎ潤すせせらぎとなれ。


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予定不調和の夕暮れ 染井由乃 @Yoshino02

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