第33話 浮雲の終わり
「柊の馬鹿!」
あれから二日ほど経った昼下がりのこと、意識は戻っていないものの、面会許可の下りた柊のもとへ一番にやってきたのは架夜さんだった。あまり眠れていないのか、目の下に隈が出来ている。
「馬鹿! 一生罵ってあげるわ、あなたは大馬鹿者よ」
そう言いながら、目覚めぬ柊に縋りつくように、架夜さんは泣き崩れた。柊が自殺を図ったことに対してここまできつく叱ってくれる人は、彼女しかいないのかもしれない。
柊は一命をとりとめたものの、出血量が多すぎたため、このまま目覚めない可能性もあるそうだ。首ではなく、手首を切っていてくれればよかったのに。こういうときの柊は、思い切りが良いから困ったものだ。
架夜さんと柊の面会時間を邪魔するのも無粋であるので、私は病室から退出し白く長い廊下をぶらぶらと歩きだした。
この二日間、私は柊の様子を見守る一方で、深華や千夏、茶道部の先輩方などに一方的に別れを告げてきた。一応のけじめをつけてきたつもりだった。これでもう二度と姿を見ることはない。そう思えば、心の奥が引きちぎれるように痛むのは確かだ。だが、この痛みと連れ立っていくのも悪くないと思えるくらいには、覚悟が決まりつつある。
ふと、見慣れた影がある病室へ入っていくのを目にしてしまう。相変わらず、皺一つないスーツを着こなしていた。そういえば、柊の入院先であるこの病院は、奈菜がずっと入院している病院でもあるのだ。あの人がいても、不思議はなかった。
このまま、知らぬふりをして通り過ぎることもできる。適当に時間をつぶして、柊の病室に戻ればいいだけのことだ。最後の最後まで、私には与えられなかった愛を眺めて、苦しむ必要はない。
だが、あの人の入っていった病室の前から足を踏み出すことがどうしてもできなかった。最後に一目会って、別れを告げよう、それでおしまいにしよう。未練がましい自分にそう言い聞かせ、意を決して奈菜の病室へ侵入する。室内は綺麗に整頓され、枕元には造花が飾られていた。病室の主はいくつもの点滴に繋がれ、今は眠っているようだ。
あの人は、そんな奈菜の寝顔を暗鬱な表情で見守っていた。慈しんできた娘の命の灯が消えかかっているというだけあって、彼女の姿はいつになくやつれて見える。
私の葬儀のときには、涙一つ見せなかったくせに。
彼女を前にしても、覚悟を決めた今でも、やはり、生まれてきてよかったとは言えなかった。その思いだけは揺らがない。
さようなら。それだけを言って病室を出よう。
そう思った矢先、ふとサイドテーブルに置かれたあの人の携帯が震えた。メールでも受信したのだろう。彼女は、奈菜から視線を逸らして携帯に手を伸ばす。
そのとき垣間見えた、ロック画面の画像に私は絶句した。本当に一瞬のことなので定かではないのだが、それでも私の心は大きく揺さぶられてしまう。
花びらの舞い散る桜の下で満面の笑みを向ける、私の写真。柊が撮ってくれた、私の遺影にも使われたものだ。
ロック画面に、自分の写真が設定されているだけだ。たったそれだけのことなのだが、私の存在は許されていたのだと知るには充分なことだった。あの人に、生きていてもよいと思われていたということだ。奈菜とは別の存在として、認めてくれていたのだ。それを、目に見える形で認識したのは、初めてのことだった。
手が、小刻みに震えている。十数年間心を蝕み続けた鎖が、ようやく解かれていくようだ。今更何だという気持ちがないと言えば嘘になる。あの人の全てを受け入れられるわけでもない。だが、自由を手にした心は、驚くほどに軽やかだった。
「……お母さん」
届くはずもない声で、ぽつりとそう呟いていた。口にしてみれば、何と温かな響きだろう。思わず零れた笑みを携えて、病室を後にする。これが、私と母の始まりで、終わりなのだという気がした。
白い廊下から、昼下がりの空を眺める。流れ行く雲のように、些細な縁だった。でもそれは、確かに私と母を繋いでいたのだ。
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