第32話 星影の終わり

 にゃあにゃあ、と何度も鳴くシーカの声で不意に覚醒した。相変わらず、幽霊の姿では目覚めが良い。


 シーカは私が起きてもなお、にゃあにゃあと鳴いていた。最早、鳴いているというよりは叫んでるとでもいうべき執拗さだった。もしや怪我が悪化でもしたのかと思い、慌ててシーカの方を見やる。だが、彼女は枕の上にきちんと座っており、包帯もずれているような様子はない。




 代わりに、彼女の周りには真っ赤な海が広がっていた。




 シーツに染みこんでなお、赤と表現するには生々しい色だ。


 その海は、眠る柊の首元へと繋がっている。


 ただ、自分の目を疑った。先ほどまで見ていた美しい海とは正反対の色に、怯えていた。


「柊……?」


 震える半透明の手で、仰向けで眠る柊に触れた。濃い赤に染まったシャツの襟元を覗いてみる。


 その首元には、私の死体で見かけたものと同じような、鋭い線が刻まれていた。彼の右手には、生々しい血に染まった鋏が握られている。昨夜、シーカの包帯を切るときにつかった鋏だった。


「柊……? 柊!」


 ようやく、事態の深刻さを理解する。心なしか、彼の肌の色も青白いような気がした。


「柊!」


 これからも、一緒にいるから。


 そう言った柊の言葉の本当の意味を、今になって理解した。違う、こんなこと望んでいない。


 にゃあにゃあと鳴き続けるシーカは、よく見ると何とか立ち上がろうとしているようだった。だが、バランスを崩してよろよろと倒れこむたびに、前足の包帯に血が滲んでいく。


 柊の肩に沈んでいく涙を見て初めて、自分が泣いていることに気づいた。油断すれば、何も考えられなくなってしまいそうだったが、何とか涙を拭って彼の様子を観察する。


 浅く、微かではあるものの、柊の胸は上下していた。絶望するにはまだ早い。彼はちゃんと生きている。


 何とか状況を把握してみたものの、シーカが動けない以上、頼れるのは自分だけだ。人気のないこの廃墟に、しかも休日の朝に、偶然人が訪れることなどまずないだろう。


 だが、こんな半透明の体を引きずって私に何が出来るというのか。人も来ない。シーカに頼ることもできない。こんな時に助けてくれたのはいつも柊だった。恐怖で動けなくなりそうだ。


 そうなる前に、と私はベッドから飛び出した。今にも再び泣きだしそうだったが、何とか堪えてシーカの方を見やる。


「シーカはそこで柊を見てて!」


 一声だけ、シーカはにゃあと鳴いてみせた。それを見届けたのち、私はこの廃墟から駆け出す。


 頭の中はショックと涙の名残で未だぐるぐるとしている。それでも、自然と足は動いていた。この微かな可能性に、柊の命はかかっている。助けを求められるとしたら、恐らくただ一人。


 街の灯りのその先に、星の光が見える人。


 上谷くん、あなただけだ。





 幽霊とはいっても、ふわふわと飛んでいける訳ではない。全力で足を動かして走るしかない。それでも体が軽い分、生きている人とは比較にならない速度が出ていた。


 上谷くんの家は、部活帰りに一度寄ったことがあるので場所は把握していた。大学からはそれほど遠くないのだ。五分と経たずに、私は上谷くんの家に到着した。街の様子を見るに、どうやら朝はまだ早いらしい。上谷くんが起きていることを願いながら、松の植えられた和風の庭へ不法侵入する。


 風鈴の音が、りんと鳴る。開放的な縁側で、彼はひっそりと佇んでいた。まだ朝も早いというのに、彼は白いシャツ姿で身なりは整えられている。どことなく気だるげな視線はいつもと変わらない。


 どうか、この声が届いてくれ。そう願いながら私は、彼の目の前に躍り出た。当然、彼の視線は私を透かしている。


「上谷くん!」


 柊が手遅れになるのは、恐らく時間の問題だ。上谷くんに気づいてもらえなければ一巻の終わりなのだ。


「上谷くん! 助けてほしいの。柊が、柊が大変なことに……」


 無謀な試みだと思う。どれだけ大きな声を出そうとも、彼は眉一つ動かさない。焦燥感に少しずつ絶望が入り混じって、頭の中がぐちゃぐちゃに溶けてしまいそうだった。


「上谷くん、お願い、助けて!」

 

 そう、叫ばずにはいられなかった。縋るように、彼の手に触れる。


 その瞬間、弱い静電気のような刺激が走った気がした。


 それは、上谷くんも感じ取ったようで彼の視線がこちらへ移る。目が、合っているような錯覚に陥った。勘の鋭い上谷くんのことだ。私だとはわからなくても、ここに何かがいることには気づいてくれたかもしれない。


 今度はしっかりと、両手で彼の手を握った。柊やシーカに触れる時とは比べ物にならないが、精神と研ぎ澄ませばどうにか気づけるような、微小な触感がある。そして、上谷くんはそれを見逃さなかった。


 彼の手が、そっと私の手を握り返したのだ。


 そのまま、何とか彼を立ち上がらせようと、彼の手を引いてみるが、ただでさえ微小な触感なので、引いている感覚が伝わるかどうかは定かではなかった。


「お願い、上谷くん。一緒に来て!」


 彼は怪訝そうにこちらを見たまま、動こうとはしない。こちらを見ているだけでも奇跡のようなことなのだ。その上で、私とともに走ってくれる望みはどれだけ薄いものだろうか。


「行ってやりなさい」


 低く心の奥に響くような声。人の言葉ではない音。


 庭を見渡し、声の主を捜す。彼は、松の木の影からゆったりと姿を現した。あの雨の日に見かけた、不細工な三毛猫だ。


「……どこへ?」


 上谷くんが訝し気に問い返す。猫と言葉を交わすこと自体に、動揺は感じられない。彼にとっては、これが日常なのだろう。


「君の友人が手を引く方へ。急ぎなさい、間に合わなくなる」


 上谷くんは、再び私の方を見やる。その瞳に、悲哀の一片を見た気がした。


 きっと、上谷くんならついてきてくれる。そう信じて、私は彼の手を引き走り出した。願いは届いたようで、上谷くんもこの微かな感覚を頼りに、私の後を走っていた。彼の手を引いているので、上谷くんの家に来た時のような速度で走るわけにはいかなかったが、この調子ならば、五分程度で戻ることが出来そうだ。


 早朝で交通量が少ないのをいいことに、赤信号さえも無視して駆け抜けていく。何度かクラクションを鳴らされたりもしたが、そんなことを気にする余裕もないほどがむしゃらに私は走っていた。上谷くんも何も言わずについてきてくれる。


 予想通り、すぐに私たちは廃墟に到着した。息を切らす上谷くんには悪いが、休む間も与えずに私は柊のいる場所へと上谷くんを誘導する。


 どうか、間に合ってくれ。


 そう願いながら、上谷くんの手を引いて保健室に飛び込む。シーカの鳴き声がよく響いていた。


 ベッドの血の海は、先ほどよりもまた少し広がったように思えた。絶望が押し寄せる。


「柊!」


 上谷くんの手を放し、柊に縋りつく。先ほどより、胸が上下する幅が小さくなったようだが、何とか呼吸はしているようだった。


 上谷くんは冷静だった。携帯を取り出し電話をかけながら、すぐさま柊の傍に駆け寄り、状態を確認する。そうして、空いている手で救急箱からガーゼを取り出し、柊の首の傷を押さえてくれた。


 よかった。これできっと柊は助かる。


 ほっと安堵の溜息をつき、柊をぎゅっと抱きしめた。





「五分以内に、救急車が来てくれるそうですよ」


 電話を終えた上谷くんが、そう教えてくれた。恐らく、私に対して言ってくれたのだろう。


「ありがとう、本当に」


 上谷くんがいなければ、柊は私の仲間入りをするところだった。彼には感謝してもしきれない。


「……黒川先輩は、橘さんのいる場所へ行こうとしたんですね」


 上谷くんは、柊が手にしている鋏に気づいたようだった。失敗して、残念でしたね、などと宣って、青白い柊の横顔を見つめている。


「橘さん、あなたはまだ、この街にいたんですね」


 ぽつり、と上谷くんはそんなことを口にした。


「いるような、気はしていたんですが、それでも……」


 触れてもいないのに、上谷くんの視線が私を捉えたような気がした。


「橘さんの姿が見えないのは、寂しいです。寂しくて、仕方がない」


 静かな声だった。その単調な調子が、却って普段は見えない彼の感情を浮き彫りにする。


「……ごめんね、上谷くん」


 救急車のサイレンが聞こえる。赤色灯が目に浮かぶようだった。もっと他に、上谷くんに言うべきことがあるような気がしたが、言葉が見つからない。


 見つからないままで、いいのかもしれない。逃げるわけではないが、そう思う。こんな有耶無耶な終着点も、私と上谷くんには相応しいような気がするのだ。


 サイレンはもう、すぐそこまで近づいていた。早起きの蝉の声すらかき消すほどの大きな音だ。これで柊は助かる。改めて胸を撫で下ろした。


 救急隊が到着した音がする。そんな中で上谷くんは、静かに微笑んでみせた。慈しむような、優しい微笑みだ。それを最後に、上谷くんは私から視線を逸らし、救急隊の方を見やる。


 もう二度と、上谷くんと視線が交わることはないだろう。そんな予感がした。でも、それでよかった。確かな別れに心の奥がちくりと痛んだが、私はこれから、もっと大きな痛みに立ち向かわなければならない。担架で運ばれていく柊を見送りながら、私の出る幕はすべて終わったのだと実感する。

覚悟を、決めなければならない時が来たのだ。

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