第31話 憧憬の終わり

「シーカ!」


 あたりには膝くらいの高さまで草が生い茂っていた。高く伸びた木々が夜空を遮っている。草の根を掻き分けるようにして、彼女を捜索した。


「花菜、これ……」


 そう言って柊が拾い上げたのは、先ほどまでシーカが握っていたナイフだ。私の血痕の上に、新たに奈菜の血が付着している。だが、大した量ではなかった。一瞥した程度だが、あの様子では奈菜の命には別状はないだろう。シーカが殺人を犯さなくて良かった。


「シーカ!」


 柊がナイフを見つけたあたりを丹念に探すと、前足を庇うようにうずくまる毛並みの黒猫がいた。シーカだ。


 手にしたナイフを地面に置き、すぐさま柊が彼女を抱き上げる。シーカの体は、柊の両手にすっぽりと収まってしまう。彼女の前足には裂傷があり、血が滲んでいた。木の枝にでも引っかけてしまったのだろうか。


「シーカ……」


 傷ついた彼女を見ると、自然と涙があふれてくる。シーカは弱弱しく、にゃあと鳴いてみせた。そのまま赤い小さな舌で、傷口を舐める。


「大丈夫だ、多分、骨は折れていない。傷が塞がれば治るよ」


 よかった。本当によかった。今度は安堵の涙が頬を伝う。今夜はずっと泣いてばかりだ。


「……花菜?」


 不意に、柊がシーカを片手で抱えたかと思うと、空いた手を私の頬へ伸ばす。驚いたように見開かれた目には、彼にしては珍しい、怯えるような色があった。


 伸ばされた柊の手に触れようと、私も手を伸ばす。だが、その瞬間、ふわり、と手がすり抜けるのがわかった。


「え?」


 ついさっきまでは、触っている感覚があったはずだ。この突然の変化に、ひどく動揺してしまう。


「花菜が、霞んで見える」


 そう言った柊の声は震えていた。今にも、泣き出してしまいそうな瞳だった。


 震える柊の手の中で、シーカは再び鳴いてみせた。何度も傷口を舐め、必死に傷を治そうとしているのが分かる。


「……大丈夫」


 私は、触れられない柊の手とシーカに寄り添った。柊の怯えるような目は確かに私を捉えている。大丈夫なはずだ。


「大丈夫、シーカが怪我をして力が弱まっているだけだよ。シーカが元気になったら、きっと元に戻るから」


 それに賛同するように、シーカはもう一度、にゃあと鳴いてみせた。柊は軽く息をついて、小さく笑ってみせる。怯えきった痛々しい笑みだったが、少しだけ落ち着きを取り戻したようだ。


「……そうだな。とにかく、シーカの手当てをしよう」


 柊は両手でシーカを抱えなおすと、建物の中を見やる。


「ひとまず、中に入ろうか。消毒液くらい、残っているかもしれない」





 柊はシーカを抱えたまま、再び入口の方へ戻る。だが、呻くような声を聞きとめて、私も柊も立ち止まった。ちょうど、入口から出てくる奈菜の姿が見える。右腕は随分と出血しているようで、病院服が赤く染まっていた。痛みのせいか、泣いているようにも見えたが、可哀想だとか、罪悪感のような感情は一切湧いてこない。これ以上、誰を巻き込むこともなく、静かに病室で死んでもらいたかった。


 奈菜が立ち去ったのを確認して、私たちは急いで建物の中へ侵入する。ひび割れた廊下を駆け巡り、保健室というプレートが下がった部屋をどうにか見つけることができた。部屋の中は荒れ果てていたが、木製の棚の中には、古びた救急箱が残っていた。


 鍵がかかっていたようで、柊は棚のガラスの部分をパイプ椅子で割って、救急箱を取り出した。静まり返った廃墟に、ガラスの割れる音はよく響く。ガラス片で傷つけたのか、柊は小さな切り傷だらけの手で消毒液を取り出し、そのままシーカの傷の手当てを始める。


「大丈夫だよ、シーカ。今、柊が治してくれるからね」


 触れられないと分かっていながらも、消毒液の痛みに震えるシーカの背中に手を添えられずにはいられなかった。シーカは一声も上げずに、じっと耐えている。我慢強い子だった。





「付け焼刃だが、多分これで大丈夫だ」


 白い包帯をシーカの前足に巻き終えた柊は、ベッドの上にあった、羽毛の飛び出た枕の上にシーカを乗せる。彼女は心底安心しきったように、にゃあと鳴くと、柊の手の細かい切り傷を舐め始めた。


「これくらい平気だ。それより早く休むといい」


 柊はふっと笑ってシーカの背中を撫でる。久しぶりに見る、穏やかな表情だった。


「おやすみ、シーカ」


 それから間もなくして、シーカは眠りについた。規則正しく上下する背中を見て、私もようやくほっと一息をつく。


「よかった……。シーカが無事で」


「そうだな」


「柊も、手当てしなきゃ。いっぱい傷ついてるよ」


「大丈夫だよ。なんてことない」


 そう言って柊は、羽毛や綿の飛び出たベッドの上に横たわった。ベッドがぎしぎしと軋む音がする。柊の部屋のベッドよりはずっと、寝心地が悪そうだった。


 私もベッドに腰かけ、柊とシーカの様子を見守る。柊は天井をじっと見つめ、やがて大きく息をついた。


「……もう、疲れたな」


 掠れて消え入りそうなその声は、廃墟にそっと溶け込んでいった。


「ここで、少し眠っていったら?」


 シーカも眠ったばかりだ。良い環境とは言えないが、休憩していくのが賢明かもしれない。


 ふと、柊が寝返りを打つようにしてこちらを向いた。彼の言葉通り、その顔には疲労の色が浮かんでいる。


「花菜も横になったら」


 突然の提案に、どぎまぎしてしまう。彼に他意はないのだろうが、昔と今では違うのだ。多少の恥じらいというものが、私にもある。


「わ、私は幽霊だし、それに……」


 変に緊張しているのが見抜かれたのか、柊は可笑しそうに笑った。それは、私が生前見ていた柊の姿に、限りなく近いものだった。私のよく知っている柊だ。ずっと一緒にいたはずなのに、不思議と懐かしく思う。


「触れられないんだから、何もしようがないだろ」


 そんな柊の言葉に思わず視線を泳がせてしまう。柊の言うことはもっともではあるが、そうかといってすぐに割り切れるものでもない。


「シーカもいるんだ。ほら、早く」


 そう言って、柊はシーカを枕ごと抱きしめるように引き寄せた。こんな状況だが、妙に楽しそうな柊の姿に自然と私も頬が緩んでしまう。


 彼の押しに負けるようにして、私もベッドに体を預けた。横になって柊の顔を眺めるのは新鮮で、変に戸惑ってしまう。


「もっとこっち」


 そう言って私に伸ばされたその手に、触れる感覚があった気がした。シーカが眠り、彼女の力が回復しつつあるのかもしれない。だが、それを口に出そうものなら、緊張で余計に動揺してしまうのが目に見えていた。そのまま二人でシーカを抱きしめるように、身を寄せ合う。


「……花菜が、死ななかったら」


 柊の目はまっすぐに私を見つめていた。その顔は穏やかに笑っているはずなのに、どうしてだろう、その目だけは泣いているようにも見えた。


「こんなのが、いつか日常になったのかな」


 家族三人で、川の字で眠る。それは、こういうことを言うのだろう。とても、温かな気持ちになる。私には、甘ったるいほどの幸せだ。


「……柊は、シーカのこと、溺愛しただろうね。それはそれは可愛がっただろうね」


「そうかもしれないな」


「シーカが彼氏なんて連れてきた日には、気が気じゃなかっただろうね」


「随分、飛躍するんだな。寂しいじゃないか」


「……きっと、いいお父さんになったよね」


 十二年後、私たちは新たな命を授かるはずだった。その相手が柊ならば、それはきっと望まれた命で、慈しまれ愛されて育つはずだったのだろう。


「家族が、欲しかったな。本当の、家族」


 柊とともにシーカを育てる日々は、恐らく、私に幸せな家族の形というものを教えてくれたはずだ。


「おかしいな、シーカの話を聞くまで、死んでしまったことを悔しいなんて思わなかったのに……」


 視界がぐしゃぐしゃに歪む。涙が、目の際を伝ってシーツへ沈んでいった。


「今は、柊と一緒に生きるはずだった日々を、取り戻したくて仕方がないの」


 ろくな人生じゃなかった。この十七年間は。いつも何かが欠乏していて、それを追い求めることにももう、疲れ始めていた。生きていても、満ち足りることはないのだから死んでもいいとさえ思っていた。


 でも、この先は違ったのかもしれない。自分の手で作り上げた家族とともに、ろうそくの灯りのような、小さな幸せを一つずつかき集めて生きていくことができたのかもしれない。


 柊は何も言わずに、シーカごと私を抱きしめた。柊に触れられる感覚は確かに戻りつつあるようだ。朧気ながらも、彼の手の感触がある。


「大丈夫だよ、花菜」


 穏やかな、優しい声だった。小さく笑んだその表情は、幼いころから変わらない。


「これからも、一緒にいるから」


 ただ何度も頷いて、涙をぬぐう。彼の言葉に縋りつけば、どんな憂いも後悔も、晴れていくような気がした。


「……少し、眠ろうか」


 私の涙が引き始めたのを見て、柊はもう一度微笑んで見せる。はっとするほど綺麗な、儚い笑みだった。


「おやすみ、花菜」


 その笑みに見惚れるようにして、私はほっと息をつく。目を閉じれば、シーカの息遣いと柊の手の感覚だけが残った。温度はもう感じないはずなのに、とても温かく思う。打ち寄せる波のような睡魔に身を委ね、私はすぐに夢の中へと溶けていった。

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