第30話 最終決戦の始まり

 古びた金属製のドアは、耳障りな音を立てて、建物の中へと私たちを誘った。割れた窓から差し込む僅かな月明かりだけが、足元を照らしてくれる。室内はかなり埃っぽく、床に大きなひびが走っていた。


 そのまま、舗装のはがれかけた階段を上っていく。この先で、奈菜が待っているのだ。彼女を目前にした今でさえ、できることなら会いたくないと思ってしまう。


「大丈夫」


 低く沈んだ声だった。顔を上げると、柊が私を見て小さく微笑んでいる。光を拒絶するような暗いその瞳には見覚えがあった。私が死んだ直後や、葬儀の時と同じ目だ。


「花菜の憂いは、俺が晴らすよ」


 痛みなど、私にはもう持ちえないはずなのに、胸の奥がきゅうと締め付けられる気がした。甘酸っぱい胸の痛みとはまるで違う、私を削る苦しい痛みだ。

 

 階段を抜けると、細い月がよく見えた。屋上は背の高い木々と同じくらいの高さで、街の中心部がよく見える。錆びたフェンスがところどころ、建物にぶら下がっている。


「いい夜だね、柊くん」


 ふらりと立ちあがり、奈菜は私たちと対面した。病院服から時折覗く肌は、死んだように青白い。以前会った時よりも、少し痩せたようだ。その左前腕部には、無数の点滴の跡が残っている。


「そちらの女の子は? 新しい恋人?」


「妹だ」


「嘘ばっかり」


 奈菜はくすくすと笑って、風になびく髪を耳にかけた。その声音、髪の色、笑った表情、どれを取っても鏡写しの私だった。


「まあ、誰でもいいんだけどね」


 シーカは、猫が相手を警戒するように、注意深く奈菜を観察している。いつになく真剣な面持ちだ。


「それで? お話、するんでしょう?」


 奈菜は満面の笑みを浮かべ、一歩ずつ柊との間合いを詰めていく。彼は動じることなく、まっすぐに奈菜を見据えていた。


「どうして、花菜を殺したんだ」


 淡々とした、何の躊躇いもない問だった。柊の暗い目は、奈菜だけを映して静かに揺らいでいる。彼の背負った深い影が、今にも彼自身を飲み込んでしまいそうな気がしてならない。


「嫌だなあ、証拠もないのに犯人呼ばわりなんて」


 何が面白いのか、ふふっと奈菜は笑ってみせた。


「セーラー服でも見つけちゃった? それとも誰かに見られてたのかなあ」


 まるで隠す様子もない。却って目を輝かせ、嬉々として語っている。きっと君には、罪の意識なんてものはない。誰に言い聞かせられたって、そんなもの芽生えはしない。君は、虫を殺す子供よりずっと質が悪かった。


「何で、殺したんだ」


 低く押し殺したような声に滲むのは、黒い暗い憎悪だった。睨むように、柊の視線は奈菜を射抜いている。取り繕っていた冷静さが、柊から剥がれ落ちていく。


 対して君は、飄々とした様子でさらりと自白した。




「私が、死にたかったからだよ」




 君はにこりと、穏やかに笑ってみせた。それは、満ち足りた、幸せな笑みだった。夏の風に、木々が騒めいている。


「私、死にたいの。まあ、もうすぐ死ぬんだけど、ドッペルゲンガーに生きていられちゃ、死ねないからね」


 奈菜が、まるで画面越しに生きる人々のように遠く感じた。君の存在は、私よりずっと現実味を帯びていない。およそ人間じみていない。君はあまりにも滅茶苦茶だ。


「花菜が生きていることが、そんなに気に食わなかったか?」


「もちろん気に食わなかったよ」


「それで、殺したとでも?」


「そうだよ。だって、あの子の骨髄があったら私、治っちゃうんだもん」


 骨髄。


 唐突に飛び出したその言葉の意味を理解するのに、そう時間はかからなかった。何だか、笑いだしてしまいそうだ。君に提供できる骨髄を持っているという理由だけで、私は殺されたのか。


 今日ほど、君と双子に生まれたことを恨んだ日があっただろうか。


 ぺたりとその場に崩れ落ち、小さく笑った。笑うしかなかった。


 生まれてこなければよかったんだ、


 君と一緒になんて。


「自殺でもしようものなら、お母さんが悲しむし、痛いのは嫌だし。これが一番円満に終わることができると思わない? 柊くん」


 奈菜の顔も柊の顔も見られなかった。私の人生は、君を中心に回っていたのかもしれない。


「それにしても、あの日にうまく殺せてよかった。骨髄移植の話が、本格的に進み始めてたからね。危なかったよ」


 へらへらと、昨日見たテレビ番組の内容でも話すように君は一方的に真相を明かしていく。それが取り繕った余裕だったのなら、どんなによかったかわからない。残念ながら、君にとって妹を殺したという事実は、本当にどうということはない、気に留める価値もないことなのだ。だからそんな風に、悪びれもせずに語ることができる。


「制服着てると病院抜け出しやすいんだけど、思ったより血がついちゃったから、ドッペルゲンガーの友だちに押し付けちゃった。まあ、ちょっとした嫌がらせに柊くんの元カノさんの名前出しちゃったけど、あれくらいいいよね?」


 私たちは、君の気まぐれに随分と長いこと振り回されていたらしい。思い詰め、泣き崩れた夏条先生の姿が、怯え切って閉じこもってしまった千夏の涙が、過っては消えていく。


「私、大槻架夜の顔、嫌いなんだよね。目障り、作り物みたい」


 たったそれだけ、それだけの理由で千夏はおろか架夜さんまでも、君の身勝手な殺人に巻き込んだのか。君を理解しようと試みた、私たちが愚かだったのかもしれない。世間一般の常識だとか論理だとか、そういうものから君はかけ離れすぎている。


 他人とどれだけまともに会話しようとも、君はやはり病気だよ。


 私の骨髄があったところで、それは治りようもない。君の生まれ持っての性質なのかもしれない。同じ設計図からできているはずなのに、私と君はお互いを理解するにはあまりにも違いすぎた。


 奈菜はまだ何か喋っているようだったが、私の耳にはもう届いていなかった。ただ、不意に柊の手が離されたことに気づいて顔を上げる。





 顔を上げた先では、柊が奈菜を押し倒していた。彼の手には、血の付いたナイフが握られている。


「柊!」


 まさか、もう手を下してしまったのかと焦ったが、よく見ればその血の色は茶色く変色しているようだった。それはおそらく私の血だ。奈菜が、私を殺した際に使用した凶器だ。


「痛いのは嫌だなあ、ってさっき言ったんだけどなあ」


 柊がその手を振り下ろせば、絶命するというこの状況でさえ、奈菜の言葉に感情はなかった。彼を恐れるでもなく、怯えるでもなく、先ほどの調子を全く崩すことがない。


「柊、待って! 柊!」


私は無我夢中で彼の背中に飛びついて、ナイフを振り上げる彼の手に両手でしがみついた。


――殺さなきゃ。


 私が死んだその日に、ぽつりと零れた柊の独り言が、今になって重くのしかかる。こうなる前に、私は気づけたはずだった。この状況で、既に罪が成立してもおかしくないのだ。


「柊! お願い、やめて!」


 ただ、叫ぶように懇願することしかできない。幽霊の私が彼の手にしがみついたところで、気休めにしかならない。彼が降り下ろす決意をしてしまえば、私には止める術などないのだ。


「シーカ! 柊を止めて!」


 いつの間にかぼろぼろと涙が零れていた。こんなに泣き叫んでいるのに、彼女が動く気配は一切ない。恐怖で身が竦んでいるのだろうか。


 不意に私は、柊の手が震えていることに気づいた。それが腕の緊張によるものなのか、迷いを覚えてのことなのかは分からない。できれば後者であってほしいと願いながら、強く柊を抱きしめる。


「柊くんに私は殺せないでしょう」


 ひび割れたコンクリートの上に横たわりながら、奈菜は余裕綽々にそう言った。


「花菜と同じ顔だもんね」


 奈菜が、私の名を呼ぶのは初めてのことだった。同時に、柊の手の震えが大きくなる。過呼吸を起こすように、息も上がっていた。


 柊が私のことを思い出して、奈菜を殺すのを躊躇ってくれるのなら、忌み嫌ったこの顔で生きた甲斐があるというものだ。どうかこのまま、ナイフを離してくれと願いながら、柊の背中に縋りつく力を強めた。


「柊くん、貸して」


 小さな影が、彼に近づく。見上げれば、シーカがナイフを持つ柊の手に手を添えていた。どうやら、シーカも柊を止めてくれる気になったようだ。


「……渡せない」


「その人の言う通り、柊くんには殺せないよ。その人はあまりにも、花菜ちゃんに似すぎているから」


 シーカの表情に、恐怖や怯えは一切なかった。どちらかといえば、先ほどまでの柊と同じような冷静さを保っている。


「――だから、私がやってあげる」


 シーカのその言葉に、私も柊も目を見張った。ここにきて、彼女は何を言い出すのだろう。


「シーカ?」


 恐る恐る彼女を呼び止めるも、シーカの表情は変わらなかった。その視線は、柊の握ったナイフだけに集中している。


「……君がそこまでする義理はないはずだ」


 柊の言う通りだ。彼女は私たちに恩返しの名目で近づいてきただけの黒猫だ。私たちのために殺人を犯すほどの義理はない。それが、たとえ私たちに親しみを覚えたが故の行動であったとしても、シーカにしては浅はかすぎる。


「不思議はないよ。だから、渡して――」


 シーカはこの場にそぐわない、柔らかな笑みを見せる。


「――お父さん」


「え?」


 耳を疑う言葉だった。柊も相当驚いたようで、手が緩んだのか、ナイフをシーカに奪われてしまう。


 シーカはナイフの鋭利さを確かめるように眺めると、横たわる奈菜を見下ろした。その目は、完全に猫が獲物を狩るときの目つきだった。標的でない私まで、狼狽えてしまう。


「シーカ、今、何て……」


 聞き間違いかもしれない。私はシーカを見上げ、問い正した。彼女は私と視線が合うなり、泣きそうな表情で笑ってみせる。


「私は、予定不調和の命」


 ぽつり零れるその言葉は、まるで涙のようだった。


「今から十二年後に、生まれるはずだったの――」


 シーカはふわりとしゃがみ込み、ナイフを持っていないほうの手で私の頬に触れた。


「――花菜ちゃん、あなたから」


 シーカの言うことを理解するよりも先に、新たな涙が頬を伝っていた。


 胸の奥に広がった不思議な温かさに、次々に涙が零れ落ちる。




 私が、繋ぐはずだった命。


 慈しんで、大切にするはずだった命。


 あの夕暮れに失ってしまった、もう一つの命。




 シーカは、茫然とする私と柊に愛らしく笑いかけると立ち上がり、奈菜へ向き直った。奈菜は柊の拘束から逃れられたのを良いことに、シーカと距離を取っている。流石の奈菜も、獲物を狩るような目つきのシーカに恐れを抱いたのかもしれない。


 シーカはじりじりと間合いを詰めていく。奈菜は一歩、また一歩と後退る度に屋上の縁へと追いやられていた。


 このままではいけない。震える半透明の足で、何とか立ち上がり、涙をぬぐう。


「シーカ、もういいよ。私はもう、大丈夫だから――」


 大きな声を出しているつもりだったが、泣いていたせいか、掠れてよく通らなかった。


 不意に、柊に手を引かれる。彼はシーカのほうへと走り出していた。そこに冷静さなどはなく、ただ、彼女を止めることに必死だった。


 言わなくてもわかっている。私たちは止めなくてはならない。彼女を傷つけてはならない。十二年後、出会うはずだった新たな命と、こんな形で決別してはならないのだ。


「ねえ、ちょっと待って。ほんとに痛いのは嫌なんだけど」


 命乞いでもするような奈菜の声を夜風が攫った。その風に、小さな星の光のような、シーカの涙が流れていく気がした。


「花菜ちゃんは、どれだけ痛かったと思っているの?」





 一瞬のことだった。


 きらりと銀色に光ったナイフが振り下ろされ、赤黒い液体が風に攫われていく。

その先で、黒いワンピースの裾が屋上の縁から滑り落ち、消えていった。


 全部、ぜんぶ、一瞬のことだった。


「シーカ!」


 私も柊もほとんど同時に彼女の名を叫んだように思う。右の上腕を押さえてうずくまる奈菜をよそに、彼女が消えた屋上の縁から地面をのぞき込む。思ったよりも高さがあり、言いようのない絶望が波のように押し寄せた。彼女の姿を探すも、草木が邪魔で上手く見つけられない。


「下に行こう」


 柊はそう言うなり、私の手を引いて階段の方へと走り出す。古びた階段を駆け下り、開いたままの古びた扉から外へ飛び出した。足を休めることなく、彼女が落ちたであろう場所へ向かう。

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