第29話 夕暮れの終わり
それからのことはよく覚えていないが、ふと目を開いた時には私は公園のベンチに横になっていた。忌々しい夕暮れが視界に飛び込んでくる。
私の両隣には、柊とシーカが座っていた。朧気な記憶を辿り、シーカが私を公園まで導いてくれたのだと思い出す。
「おはよう、花菜」
「たくさん泣いて、疲れたんだね」
穏やかに二人は語り掛けてくれる。だが、今はとても二人に笑い返すような気分になれない。視線を伏せて、地面に伸びた二人分の影を眺める。
結末を知った今、私は何をすればいいのだろう。ぼんやりと、公園を駆けて去って行く子供たちの影を眺めながら思う。体育座りをするように、ベンチの上で膝を抱え込んで背を丸めた。私は半透明だから、膝に顔をうずめてもベンチの木目が見えるだけで、視界を遮ることはできなかった。
「花菜ちゃん、事情は全部聞いたよ」
丸めた肩の上に、シーカの手が置かれる感覚があった。とても優しい触れ方だ。
「会いに行こう、お姉さんに」
奈菜を、どんな顔で見ればいいのだろう。私は彼女が怖い。憎むでも憐れむでもなく、ただ恐れていた。
「私たちで、終わらせようよ」
何を?
言葉にならない問が、心の渦に溶けて行って、すぐにどうでもよくなった。ぐるぐると渦巻くその切っ先が、心に穴を開けてしまいそうだ。
「花菜が辛ければ無理はしなくていい。俺とシーカで行ってくる」
気遣うような柊の言葉に、考えるよりも先に首を振っていた。本当は、会いたくもない。顔も見たくない。
「一緒に行くよ」
それなのに、口から零れるのは正反対の言葉だった。これ以上何を知ったところで、絶望するだけだというのに。結末のすべて見届けたいと願う自分は、どうやらまだ残っていたらしい。
「花菜……」
「一緒に行く。シーカの言う通り、ちゃんと、見届けなきゃね」
心はもうぼろぼろだった。顔をあげて笑おうにも、口元を少し歪ませるのがやっとだ。それでもシーカは嬉しそうに、笑い返してくれた。
「でも……奈菜と、ちゃんとした会話ができるかな」
懸念すべきはその点だった。私は今まで、彼女とまともな会話をしたことがない。あちらから質問されたことはあっても、こちらからの質問に答えてくれたことは一度もなかった。
「多分、できると思う。それに……」
珍しく、柊が言葉に詰まっている。彼の視線が一瞬、私を捉えたかと思うと、すぐに伏せてしまった。
「あいつは……心の病気で入院しているわけじゃなさそうだ」
それは、一体どういうことだろう。奈菜は昔から精神が不安定で、病院に通いがちだと思っていたのに。私をドッペルゲンガー呼ばわりすることといい、彼女が心に何らかの欠陥を持っていることは疑いようがないと思っていた。
「柊は、どうしてそう思ったの?」
柊だって、奈菜が心を病んでいると思っていたはずだ。私が、ドッペルゲンガー呼ばわりされているところを目の当たりにしているのだから。
「さっき、花菜が眠っている間にあいつの病室へ行ったんだ。会う約束を取り付けるために。その時ベッドの脇に置いてあった薬が……精神障害の治療薬じゃなかった。何より、あいつ、看護師とは普通に会話していた。ごく普通に、笑顔も交えて。花菜と同じくらい穏やかに、まともに話していたんだ」
俄かには、とても信じられない話だった。あの奈菜が、人とまともに会話をできるなんて。歪んでいない笑顔を浮かべることができるなんて。考えたこともなかった。彼女がおかしくなるのは、私に対してだけなのか。
「そのことも、ついでに聞いてみればいいよ!」
心の中にもやもやと立ち込めた雲を晴らすように、シーカはそう言い放つ。にこやかに笑う彼女は、不意にベンチから立ち上がると大きく伸びをした。その仕草は、どことなく黒猫姿の彼女を想起させる。
「それで、奈菜にはいつ会いに行くの?」
「今夜。大学の植物園で」
まるで決戦にでも向かうかのように、重々しく柊は告げる。彼の眼は私を捉えているようで、遠い何かを見つめていた。
ここにきて初めて、あまりにも冷静な彼の姿に胸騒ぎがした。自惚れるつもりはないが、私を殺した犯人と当たり前に会話をして、夜に会う約束まで取り付けたというのに、こんなにも穏やかなのはおかしい。私が死んだ直後の彼の錯乱を思うと、違和感を覚えざるを得なかった。
そんな私の憂いもよそに、今夜は月が綺麗だろうね、とシーカが空を仰いで笑った。
徐々に夜に染まっていく空が妙におぞましく思えて、隣に座る柊の手に半透明の手を重ねた。風が吹く。私にはその温度はわからないが、きっと生ぬるいのだろう。
何か、よくないことが起こりそうな気がする。形のない不安は心の奥を締め付けた。一人、これから訪れる夜を憂いで、誤魔化すように彼に寄り添う。彼は、儚げにふっと笑った。その表情を、私は知らない。頼むから、そんな、覚悟を決めたような目をしないでほしい。
「大丈夫だよ、花菜」
優しい言葉が、やけに乾いて聞こえた。言いようのない不安を前に、私は何もできなかった。
約束の時間は、午前零時。消灯後に奈菜がどのようにして抜け出すのかは知ったことではないが、彼女からその時間を指定してきたとのことだった。以前、柊と訪れたカフェで一休憩をはさみ、待ち合わせ場所に向かう。柊の通う大学の植物園はそれなりに大きく、ちょっとした林のようにもなっている。病院に隣接しており、人目につかないため、こんな真夜中の待ち合わせにはちょうど良いのかもしれなかった。
私は、シーカに憑依をしなかった。奈菜と生身で向き合うことを恐れていることもあるが、何より私の結末をシーカにもその目で確かめてもらいたかったのだ。
人気のない植物園に入り込み、待ち合わせ場所である旧研究棟を目指す。大学の設備を建て替えるときに古いものはほとんど取り壊されたというが、ここの研究棟は周りの植物との兼ね合いで長いこと保留になっているらしい。当然、立ち入りは禁止だ。
柊は、幽霊の私の手をずっと握っていてくれた。相変わらず冷静な面持ちで、言葉数は少なかったが、私が話しかければ一応の笑みを浮かべた。無理やり作った痛々しい笑みだ。私も、こんな様子で笑っているのだろうか。
木々の葉の間から見える月は、糸のように細かった。この街からは、大きな星しか見ることができない。でも、見えないだけで確かにそこにある星々を思うと、妙な親近感を覚えた。幽霊も同じようなものなのかもしれない。私の存在を認識するというのは、街の灯りのその先に、星の光を見るようなものだ。上谷くんのような人には、その微かな光の断片が届いているのだろう。
「ここだ」
そう言って、柊は足を止める。木々を抜け、僅かに開いている場所に出たところだった。目の前には、外壁が崩れかかっているような古びた建物が、木々に囲まれるようにして建っている。青々とした蔦が壁を這っており、長いこと人が使っていないのは明らかであった。大学の外の施設と比べると広さはないが、それなりに高さはある。ひび割れた窓の数からして、三階建ての建物なのだろう。
その屋上に、彼女はいた。フェンスはところどころ壊れているらしく、建物の縁に腰かけて、足をぶらぶらと揺らしている。病院服が夜風にたなびいていた。彼女は私たちの姿を認識するなり、ひらひらと手を振って見せる。
「早くおいでよ。お話しするんでしょう」
奈菜はにこりと笑っていた。不意に、私の手を握る柊の手に力がこもる。彼は相変わらず冷静だった。ただ、その冷静さの影に何かを抑え込んでいる気がする。私やシーカの手前、取り乱す姿を見せまいと努力してくれているのかもしれない。
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