第28話 炎天の始まり

 蝉の声がうるさいくらいに響いている。いつの間にか、世間はすっかり夏一色だ。深華や上谷くんに接触してから三日ほどしかたっていないというのに、十度近く気温が上がったらしい。照り付ける夏の日差しは、黒い毛並みを持つシーカには堪えるだろう。


 ゆらゆら揺れるアスファルトを踏みしめて、私たちは千夏の家を前にしていた。柔らかいクリーム色の一軒家に、手入れの行き届いた庭。満ち足りた生活がよく表れていた。


 深華が千夏に事情を話したところ、思いの外すんなりと、私たちの訪問を受け入れてくれたようだ。柊もいるので拒否されてもおかしくはなかったが、どういった心境の変化だろうか。変に思い詰めていなければいいのだが。


 柊は、例のセーラー服とナイフを紙袋で二重に包んで手に提げていた。傍目には何の変哲もない紙袋だというのに、中身を知っているだけに妙に物々しく思える。


「御園さんがインターホンを鳴らすべきではないでしょうか? 和菓子が傷むんですが」


 見慣れた和菓子屋さんの袋を手にした上谷くんが深華にそう促す。この暑さだというのに、彼は妙に涼しげだった。薄手の私服のせいもあるかもしれないが、その空気感すらも異質に思えて、思わず目を逸らし俯くように夏の影を眺めた。


「心の準備っていうものがあるの。急かさないでよ」


 深華はその言葉通り、いざ千夏と対面することに躊躇しているようだった。無理もない。親友が、殺人事件の重要な証拠を握っているのだ。何の戸惑いもなく踏み入れていける訳がなかった


 そんな中、静かに玄関のドアが開く。その先で、恐る恐る顔を出す千夏が見えた。いつも通り渕のある眼鏡をかけて、髪は三つ編みにまとめている。少し頬が薄くなり、痩せたような印象を受けるが、見慣れた千夏の姿がそこにはあった。


「声が、聞こえたから……」


 千夏の声はか細く、弱弱しかった。いつものはにかむような笑顔がない。思い詰めている様子ではなかったが、何かに怯えるような素振りは最後に会った時と変わらない。


「……ごめん、うるさくしちゃって。じゃあ、お邪魔させてもらうね」

 

 深華は慌ててつくろったような固い笑顔を浮かべた。かなり緊張している様子だ。深華に続いて上谷くんも玄関へ向かう。


 残された私たちを見る千夏の目には恐怖に近い色が浮かんでいた。確実に、柊を恐れてのことだろう。


「突然押しかけて悪いね、柚原さん」


 ごく自然な調子で柊は千夏と向き合う。柊を目の前にして、千夏は視線を逸らすように俯いてしまった。


「……いいんです。いつか、黒川先輩にはお会いしなければ、と思っていましたから」


 千夏なりに覚悟は決めていたということだろうか。いつかあの紙袋の存在が露見することくらいは、とうに想定していたのかもしれない。彼女は随分と長い間、一人で抱えるには重すぎる秘密に耐えてきたのだ。今すぐ手を取り合って、彼女を慰めてあげたかった。


 だが、私は幽霊なのだ。目の前にいても、彼女の手をとることはできない。じれったく思いながら私は家の中へ足を踏み入れた。


 家の中は綺麗に整頓されていて、心地よい生活感がある。リビングに飾られた千夏の写真や家族写真があまりにも温かく思えて、直視できない。彼女は望まれて生まれ、愛されて育ってきたのだ。


 どうやら千夏の家族は留守にしているらしく、そのままリビングへと案内された。程よい大きさのテレビの前にテーブルとソファーが置いてある。上谷くんの持ってきた和菓子は花形の羊羹で、千夏が淹れてくれたお茶と共にテーブルの上に並べられた。


 世間話をするでもなく、ただ、お茶と和菓子を嗜むことで時間が過ぎていく。これから持ち上がるであろう話題を思うと息をするにも重苦しい。それは誰もが感じていたことのようで、リビングには妙な緊張感が走っていた。


 全員が羊羹を食べ終えたことを確認して、柊は傍に置いてあった紙袋に手を伸ばした。それを気に、場の緊張が一層強まる。


「その紙袋を夏条先生に渡したのは、間違いなく私です」

 

 柊が話題を切り出すのを待たずに、千夏はきっぱりと言い放った。今にも泣き出しそうな潤んだ瞳で柊のことを見つめていた。千夏は、あれほど怖がっていた柊に向き合おうとしているのだ。


「状況を混乱させるような真似をしてしまって、申し訳ありませんでした」


「……俺に、謝るようなことじゃないよ。柚原さんも、この紙袋を受け取ったときには花菜の事件のことなんて知らなかったんだろうし。先生に頼りたくなる気持ちもわかる」


 柊も落ち着いた様子で受け答えている。彼に千夏を責める気がないのはわかっていたが、こうして話すことで、少しでも千夏の気が楽になればいい。


「そうだよ、千夏。大変だったね」


 千夏の隣に座った深華が彼女の手をとり、寄り添う。私が千夏にできなかったことを深華がしてくれている。ただ、そのことに安心した。


「そう、その点においては、柚原さんを責める気は全くない」


 千夏はこくんと頷いたが、憂いを帯びたような表情は変わらなかった。そんな千夏を前にして、柊は遂に核心に触れる。


「聞きたいのは……どうして、この紙袋を架夜から渡されたなんて嘘をついたのか、ということなんだ」


 一瞬の沈黙、蝉の声。今はもう無い心臓が早鐘を打ちそうだ。


 千夏は顔を伏せていた。その表情ははっきりと伺い知ることはできない。遠くに響く蝉の合唱の中で、彼女はやがて、苦しそうに言葉を紡ぎだす。


「……私、その紙袋、大槻先輩からのお裾分けだと聞いて、受け取ったんです」


「誰に?」


 すかさず畳みかける柊に、ふっと千夏は笑ったように見えた。自嘲気味で、呆れ果てたような笑みだ。千夏はそんな笑い方をする子じゃないのに。


「……ねえ、先輩。私、もう、おかしくなってるのかもしれないんですけど、それでも私の話聞きたいですか? もしかしたら、私、先輩のこと、余計に怒らせちゃうかも」


 千夏は一息にそう吐き出して、ふふっと悲しく笑った。


 柊はそんな千夏の姿をじっと見ていた。戸惑うでも憐れむでもなく、千夏の理性を見定めるような、冷静な視線だった。


「……誰に、渡されたんだ?」


 静かな声で、柊はもう一度問うた。


 千夏はようやく少しだけ顔をあげて、潤んだ瞳を翳らせる。


 ぽつり、消え入りそうな声が零れ落ちた。




「花菜ちゃん、です」




 ばくばくばくばく。


 まるで心臓が脈打っているかのような錯覚に陥る。


 ぐらり、と視界が眩むようだった。


「千夏、今なんて……?」


 ようやく言葉を取り戻した深華の声に、ふっと我に返る。夕焼けは、未だ脳裏に焼き付いていた。


「……花菜ちゃん、って言ったの」


 誰も何も言えない。ただ千夏だけが堰を切ったように続けた。


「あの日、花菜ちゃんが私に紙袋を渡してきて、大槻先輩からのお裾分けだって言って私にくれたの。帰り際、ばったり大槻先輩に会ったんだって、そう言って」


 千夏が溜め込んでいたであろう秘密が、吐き出されていく。彼女が本当に思い悩んでいた原因はこれだったのだ。彼女は涙を流すでもなく、夢中で言葉を羅列していた。


「花菜ちゃんと大槻先輩が特別仲がいい気はしなかったから不思議だなとは思ったよ。でも花菜ちゃんは急いでいるようだったし、そのまま素直に受けとったの。花菜ちゃんを見送ってから中身を見てみれば、あんな、ひどいものが入っているなんて……。私、花菜ちゃんが怖かった。怖くて、先生に電話したの。でも、いざ先生を前にして、友だちを売るような真似はできなくて、大槻先輩から直接渡されたことにした。卑怯かもしれないし、花菜ちゃんのことは怖かったけれど、花菜ちゃんが困って私を頼った結果なら、助けなきゃって思ったの。……でも、そのあと、花菜ちゃんが殺されたことを知って、事件の詳しいいきさつを聞いたら、私と会っていたあの時間に花菜ちゃんはすでに亡くなっていることに気づいて……自分が怖くなった。おかしいんじゃないかと思った。もしかしたら全部妄想で、私が花菜ちゃんを殺したんじゃないかとも思った。実際そうかもしれない。なんでか知らないけど私、花菜ちゃんを殺しちゃってるのかもしれない」


 そうじゃない。そうじゃないよ千夏。


 私はもう、気づいていた。気づいてしまった。


 いるじゃないか。私を殺したいほど憎んでいる、身近な存在。


 ぽたぽた、と滴り落ちる赤が蘇る。


 最初に刺されたのは、わき腹だったっけ。


 振り返った先でにこりと笑う大嫌いな顔。


 私の名を呼ぶ醜い声。


 君はもう一人の私。


 いや。


 私がもう一人の君だというべきか。


 そっと紙袋を覗き、制服のサイズに目を走らせる。


 私とぴたりと同じサイズ、同じスカートの丈。


 君に言わせれば私は、ドッペルゲンガー。


 本来いないはずのもの。


 ねえ、そうなんだろう。


「――奈菜」


 脳裏にこびりついた橙色とセーラー服が、あの夕暮れを蘇らせる。あの日、私は、奈菜に呼び止められて振り返ったのだ。どうして君がこんなところにいるのかと問い返すより先に、君は私にナイフを振りかざした。


 満面の笑みで、子どもが虫を殺すように、嬉々として。


 そうか、私の人生はこんな結末だったのか。期待していた通りにくだらない。最初から最後まで、君に狂わされた十七年間だった。


 生まれてこなければよかったんだ。


 望まれずに生まれ、愛されずに育った。終いには実の姉に殺された。あまりにも散々だ。目も当てられない。


 どうしようもなく惨めで、気づけば両目から大粒の涙が零れ落ちていた。居ても立っても居られず、リビングを飛び出す。


「花菜!」


 背後で私を呼び止める柊の声が聞こえたが、止まることはできなかった。無我夢中で、鮮やかな炎天下へ飛び出す。走っているうちにシーカが私を追ってきたが、それでも止まることは出来なかった。


 広い街の真ん中で、私は一人、声をあげて泣いた。蝉と一緒に、青空に向かって延々と。憎々しいくらい、青く澄み切った空だ。あまりにも美しい、夏の日だ。

私は、陽炎だった。今も、生きていたときもずっと。

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