第3話 3

日本は、中国の尖閣占有に対して、当初は国際司法裁判所に提訴したり、アメリカへ集団的自衛権行使を呼び掛けたり、国連決議を要請したり、そういう政治の必要性が声高に主張されたが、その全ての動きに外務省がストップをかけた。そして首相官邸からは、中国とは引き続き対話路線でいくという方針が示された。それらの動きに呼応するように、国内世論は尖閣の共同保有論と、引き渡し論を推す声が徐々に強まった。なぜなら、もはや人民解放軍を引き上げさせるどのような手段もなかったからである。右翼的な考えは非現実的であると言わざるを得ず、また戦争に繋がるものであると、あらゆる方面から攻撃された。一般国民の意思も、徐々に引き渡しへと傾いていった。












 2025年12月、米軍の撤退が完了した。これにより、中国艦艇は沖縄列島周辺にまで姿を見せるようになった。そして、太平洋へ抜けるために沖縄本島と宮古島の中間地点を通る公海航路を選択し、頻繁に行き来を繰り返した。一部のマスコミは公海に当たらないと主張し、領海侵犯を追及したが、日本政府はあくまでここを公海として扱った。












 2026年3月、首都圏に新設された日本語学校において、一万名という大量の中国人留学生が一気に入学する動きがあることを警視庁公安部が突き止めた。学校運営者の男性は入管難民法違反で逮捕、起訴され、学生たちは入国を阻止されたが、入国の阻止が不当であると日本政府を相手に集団で裁判を起こしている。なお、この年の4月には中国人留学生が三十万人を突破した。十代から四十代まで、幅広い年代の留学生が日本の各種学校に在籍したが、この数字は十年前の三倍であり、全留学生の半数が中華系で占められた。












 2026年8月、内閣総理大臣が、与党内の反対を押し切って靖国神社を参拝した。この動きは五年ぶりのことであったが、これに中国および韓国、北朝鮮は激しく反発した。ニューヨークタイムズにも特集記事が組まれたが、その記者は朝鮮系アメリカ人であり、彼は慰安婦問題とも絡めて靖国参拝問題を論じた。












 2026年9月、中朝韓合同軍事演習が東シナ海で行われた。空母遼寧を中心とする人民解放軍艦隊と、米軍撤退まで日米と軍事同盟を結んでいた韓国海軍、そして北朝鮮海軍も参加した。そしてこの演習において、韓国北朝鮮両海軍もまた、沖縄宮古島間のルートを航行したのである。海上保安庁は常に艦船の動きを捉えていたが、国内に報道されることはなかった。












 2026年10月、日本にとって長年の悲願であった日印軍事同盟が発足した。中国は、東アジアの平和への挑戦であると非難し、同月に中国、ロシア、韓国、北朝鮮、パキスタンによる五か国協議を開催し、日印軍事同盟への牽制を行った。日本は引き続き台湾、フィリピン、ベトナム、インドネシアに働きかけ、東アジア共同体との連携強化に努めた。












 2026年11月、突如として人民日報系の機関紙が、沖縄の領有を主張し始めた。これまでにも2013年、2016年に、沖縄の帰属が日本にはないという主張を行っているが、今回は沖縄は中国の領有であるとはっきり主張を始めたのだ。その根拠は、1943年のカイロ会談で、フランクリン・ルーズベルトが二度に渡って沖縄の主権を中華民国に渡そうとしたことに起因するものであった。日本政府は遺憾の意を表明し、抗議を行った。




 それに呼応するかのように、中国内陸部で2012年以来最大の反日デモが行われた。このデモの特徴は、都市部の住民のみならず、それまで反体制を決め込んでいた農村部の住民が加わったことにある。日本政府は人民日報の報道について、中国共産党に対して遺憾の意を表明し、政府としての立場を外務省ホームページに記載した。しかし、マスコミ各社の論説は分かれ、言論人も各々の立場から主張を行ったが、最も有力な意見として、沖縄の県民投票にて独立を決めるという案が出され、野党は一斉に県民投票の必要性を唱えた。




 その最中、一人の国会議員が警視庁公安部に逮捕された。逮捕容疑は外国人からの違法献金だが、本当のところはスパイ容疑であったといわれている。李という男性議員で、日本民主党公認を受け東京都より出馬し、比例代表で当選した経歴を持っている。洛陽外国語学院の出身だが、ここは軍の教育機関であり、諜報活動専門の教育を受けたと見られていた。李は中国企業の誘致や外国人への手当や保護に関する活動、そして沖縄の独立運動を行っていたが、資金力が非常に高く、不審に思った公安からマークされていた。逮捕を受けて、代理人は記者会見を開いたが、中国人への不当な差別であると憤慨し、即時釈放を求めた。すると、どこからともなく大量の中国人や中華系移民が首相官邸を取り囲んでデモを行った。




「外国人への差別を止めろ」




 これに左派勢力が加わり、十数万人規模のデモとなった。中国政府も、報道官の発表を通して、過去にないほど強い批判を行った。




「両国の関係に水を差すもので、非人道的な行為であり、到底容認できるものではない。即時釈放を求める」




 中国はこれに対する報復として、日本製品への関税措置や中国国内に進出している日本企業の財産差し押さえへの動きを見せた。












 2026年12月、不穏な年の瀬を迎えた。この年、紅白歌合戦に中華系アイドルグループが登場した。今年の漢字は「流」、先行きが流動的で読めないことを表した。二度の増税を境に格差が深刻なほど拡大し、所得格差や貧困率など様々な指標でギリシャ、ポルトガル、イタリアなどの国を抜き、アメリカに迫ろうとしていた。貧困世帯が増加し、不登校・ニートの数が右肩上がりで増え、生活保護受給者、自殺者の数は過去最大になり、厭世観が社会を支配した。予算編成では、国防費の大幅な増大を目論んだ与党に対し、野党は大反対のキャンペーンを張り、微増に留まった。しかし、中国や韓国はこの動きについて、軍事大国に突き進む暴挙だとして日本政府を厳しく非難した。ロシアも声明を出して日本を非難し、中国の報復に加わり天然ガスと石油の輸出を制限した。












 2027年1月、国連安保理において、日本の常軌を逸した司法制度と、非人権行為に対する制裁決議が話し合われた。アメリカ、イギリスの反対により実現には至らなかったが、ロシアと中国、そしてフランスが日本に対する制裁の意思を持っていることが明確となった。中国の独自制裁に対して、朝鮮半島、ロシア、中東のいくつかの国、そしてアフリカ諸国がそれに加わり、日本包囲網が徐々に形作られていった。












 2027年2月、UAEのダス・アイランド港を出航する予定の商船三井のタンカーが、直前で出航を禁止された。外務省を通して問い合わせがなされたが、有効な回答はすぐには得られなかった。結局、一週間後に出航の許可が出た。同月、再びタンカーの出航が制限される。タンカーの取引に関して不正が認められたとの情報が外務省に入ったが、出航が許されることは決してなかった。二度のアクシデントとロシアからの輸入が止まったことにより、日本国内のエネルギー事情への危惧が最大まで高まった。そしてUAEから日本に向けて、他のタンカーまでもが出航する目途が立たなくなり、インドの企業を仲介して石油取り引きを行うこととなった。












 2027年4月、オペック総会で原油の値上げが決定した。また、中東諸国へ輸出していた自動車や工業製品に大幅な関税が課されることになった。中国の一帯一路政策の影響である。これにより、日本へのエネルギー供給は壊滅的となった。ついには、最大の取引先であるサウジアラビアを除き、カタール、イランが相次いで日本に対する輸出を抑えるようになった。石油価格は、2000年代初頭の取り引き額からすると平均で5~6倍の値段がついた。カザフスタンやインドネシア、そしてインドを仲介した輸入に頼ってきたものの、それすら値上がりが止まらない状態に突入した。日本国内の物流は大きく停滞し、首都圏を中心に食料品が急激な値上がりを見せ始め、それに伴って全国的に物価が急上昇を始めた。犯罪率が跳ね上がり、国外にルーツを持つものはいち早く日本を脱出した。宗教法人が終末を宣言し、救済を求める信者をかき集めた。












 2027年5月、日中外相会談が北京で行われる。日本政府は一連の事例に対して強く抗議し、制裁を解除するよう要請した。最年少で外務大臣に抜擢された小泉進次郎が、中国外相に土下座をしたというデマまで流れた。結局日本側の要望は受け入れられず、代わりに中国側が正式に沖縄の独立を求めてきた。日本側は当然断ったが、中国は日本による沖縄の支配がいかに不当であるかを国連人権委員会に提訴した。すると、その月のうちに人権委員会より勧告が出された。




「日本による不当な支配を今すぐ終了し、沖縄に主権を返還せよ。」




 この勧告が出た後には、日本の世論は国連脱退一色に染まりつつあった。それは、ネットを中心に出てきた主張で、男性の多くが声高に主張した。一方、憲法学者や左派の学者や研究者、活動家、政治家、彼らは国連脱退に強く反対した。彼らの主張は、「第二次大戦を忘れるな」というものであった。日本の世論は真っ二つに割れた。このとき、それまで左翼陣営に紛れ込んでいた中共、もしくは北の工作員は、初めて右翼陣営に姿を見せた。そして、国連脱退を強く主張し始め、国会前でのデモに加わった。




 公安がデモ映像を分析すると、昨年11月の中国人議員釈放デモにもいた男の姿が確認されたため、任意で事情を聴取しようと男の家を大勢の公安職員が訪れたところ、男の自殺が確認されたのだった。この事件はただの自殺として発表されたが、あろうことか公安職員によって、その真相がネットに拡散した。国民は疑心暗鬼になった。そして、もともと希薄だった日本人同士の横のつながりが、霞が晴れるように薄れていったのだった。国民の多くは既に疲弊していた。国家のシステムも疲弊していたが、それに気づかなかったのは日本人だけだったのだ。












 2027年7月17日、人民解放軍第51、52基地より、弾道ミサイルが発射された。奇しくも七年前のこの日は、海上保安庁の放水活動による犠牲者が出た日であった。

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かつて在った日本という国で 橋本 @hasimotoka

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