第2話 無機物の死
体育のない日、俺は朝の目覚めがとても良い。俺の機嫌は勿論いいし、きっとマミとも喧嘩をしなくて済むだろう。
「おはよう、マドカ。」
「おはようございます、お兄様。」
鏡を見て栗色の綺麗な髪を整えている妹のマドカに声をかけると、嬉しそうに笑いながら俺の方へ振り返った。
「お兄様、今日機嫌良さそう。」
「体育がないからな。」
「ふふ、私も今日無いんです、体育。」
その言葉を聞いて少し複雑になりながら、俺は彼女の頭を撫でた。俺が精神転送をしないため、彼女は俺に習って身体を変えていなかったからである。彼女だって来年は俺と同じ高校生だ。精神転送を受けるには十分納得できる年であろう。
「…マドカ、俺に気を使わなくてもいいんだぞ?もし、変えたいのなら…。」
「お兄様、前にも言ったようにお兄様一人にしたくないんです。」
「けれど、お前はそのせいで…」
「起きたか、落ちこぼれ共。」
頭から降ってくる野太くけれどもしゃがれた声に思わず舌打ちをする。俺は振り返り、目の前の人物を思い切り睨んだ。
「…父上、いつも言っていますが俺たちは落ちこぼれではありません。俺はともかく、マドカは違います。」
「落ちこぼれに影響されて精神転送をしていないのだから、同じだ。」
食いしばる歯から出るギリギリと言う音が自分の鼓膜を震わす感覚がした。ひとまわり大きい身体についたふっくらとした自分の父の筋肉をじとりと見て、俺は鼻で笑う。
「…ふん、法を犯してまで無理に身体を強化している卑怯者には言われたくないですね。」
「タケル」
そう名前を呼ばれた瞬間、左頬に熱い感覚がピリリと走り、咄嗟に歯をくいしばる。それでも脳がぐわんと揺れる感覚に吐き気を感じながら、廊下の奥に身体ごと飛ばされたのを感じて俺は頭の後ろを腕で覆った。廊下の床に叩きつけられ、勢い余って身体が宙に浮く感覚がする。
「お兄様っ!」
「来るな!」
駆け寄ってこようとしたマドカを制止し、揺れる視界を吐きそうになりながら起き上がり、父の方を見上げた。父は静かに俺を見下ろし、口の端を醜く釣り上げる。
「落ちこぼれにお似合いな姿だな。」
そう吐き捨てると、父は笑いながら自室に戻っていく。それと入れ替わりにマドカと騒ぎを聞きつけた古くからの使用人のトウコが駆け寄って来た。
「お兄様、ごめんなさい。私のせいで。」
「タケル様、大丈夫ですか?」
心配をする二人を交互に見つめてから、俺は大きなため息をついた。あまり抵抗をすると、二人にもきっと危害が及ぶであろう。
「俺が勝手に言ったことだ、マドカのためじゃない。」
そう吐き捨てると、二人を押しのけ学校の鞄を手に取る。
「…くそ、無駄に筋肉つけやがって。」
殴られた左頬を触ると既に腫れ始めているのがよくわかった。今、精神転送を受けて新しい身体となる際、元の身体の運動能力や学力以上の性能にすることは法律で禁止されている。父は高い地位とずる賢い知恵を利用して、法を犯していることを俺はたまたま知っていた。
腹を立てながら玄関に向かう中、黙って一部始終を傍観していた人物を俺は見かけた。俺はその人を鼻で笑いながら、歩いて行く。
「見てることしかできねぇからな、俺より落ちこぼれだろーが。」
「…黙りなさい。」
キッと睨む目はとても鋭く、それ以上は言わせまいという怒りが伝わってくる。その視線を無視して、にっこりと笑いかけると、ますます彼女は苦悶の表情を浮かべた。
「行ってきます、母上。…くれぐれもマドカのことくらいは守るように、ね。」
そう嫌味ったらしく言い残すと、俺は家を後にした。
体育が折角無いというのに、無駄なことに腹を立ててしまったなと今更ながら俺は後悔した。マドカは俺が精神転送をしない理由を知っているからこそ、俺に合わせてくれていることも知っている。そして、他に理由を知っているのは、幼馴染であるマミとユウキのみであった。だから二人も俺に約束してくれたのだ、精神転送をして身体を変えないと。
「…俺のわがままなのはわかっているんだがな。」
どうしてもあの時の恐怖が忘れられないのである。あの時の…血が流れない人の壊れ方、二度と話せなくなると思った時の辛さは、思い出すだけで身の毛がよだつほどのトラウマになっていた。思い出したくもなかった。学校の体育で怪我する友人を見た時、必ずフラッシュバックする記憶は、俺が精神転送をしない理由として十分なのであった。
学校でユウキが俺を見た瞬間に顔を曇らせた。俺の左頬が腫れ上がっていたからであろう。けれどその表情が憐れみだけでないことはわかっている。
「…タケル、また親父さんに殴られたのか。」
「ああ。精神転送をしないお前は落ちこぼれだとな。マドカも馬鹿にされて腹が立ったから、少し口答えしたらこのザマだ。」
そう言って肩をすくめて見せると、ユウキは酷く辛そうな顔をして、黙り込んでしまった。頼むからそんな顔をするな。無性に殴りたくなる。
精神転送を受けないという約束を破ったユウキにとって、俺の父から殴られた顔を見る度、どんな過程や理由があるにしろ精神転送を受けたことは結果的に俺を馬鹿にしていることになるかもしれないと思い出し、不安にさせるのだろう。事実、俺はユウキに対してとてつもない怒りを感じている、本人には言わないが。
父に殴られること自体はとても不愉快だが、悪いことばかりではないことを俺は知っている。ユウキには罪悪感を感じさせるための切り札にもなるし、何より効果的なのがある。
「うっっわ、また派手にやられたね。」
次に俺の顔を覗き込んで顔をしかめたのは、紛れもなくマミであった。そんなマミの顔を見て、俺はふっと笑った。腫れた部分が引っ張られ思うように表情が作れない。
「マドカを馬鹿にされてね。少し言い返したら、バコーンって廊下の奥までぶっ飛ばされたよ。」
「…精神転送のことで?」
「んー…」
俺は敢えて曖昧な返事をすると、にっこりとマミに笑ってみせた。そんな俺を見つめて、彼女は酷く泣きそうな表情になった。
マミに対しては、精神転送を受けないという強力な牽制になるのである。妹を利用してここまでするのは我ながらかなり卑怯だと思うが、仕方ない。あの父の卑屈な血が流れているのだと思ってしまう。だが、利用していることは死んでもマドカには知られたくはなかった。マドカには下手なことは言えない。精神転送を受けない理由がマドカにあることを意識させるわけにはいかないのだ。
「なんてことないから心配するな。それより今日はお前の好きな情報技術の授業からだぞ、早く移動しようぜ。」
そう軽く声をかけて椅子から立ち上がり、ぽんっとマミの肩を押した。ユウキも促し、俺たちは騒がしい廊下を特別学習教室に向かって歩いていく。
「俺たちが生まれるずっと前はもっと不便な世の中だったって考えられないよな。」
「エアカーもなかったらしいね。」
「昔の車って地面しか走れなかったらしいよ。」
そんな他愛もない話をしていても俺たち三人とも何となく上の空であることが俺にはわかった。後の二人もそれとなくそう感じているであろう。ユウキのせいだけじゃない。一ヶ月前ユウキが精神転送を受けた日よりもずっと前、あの学者が精神転送を発明してから、少しずつ三人の感覚がズレつつあるのだ。まるで隣を歩いているのに、皆違った道をたったひとりで歩いているかのように。
そんな状態で特別学習教室に着き、それぞれの席に座るとますます孤独な気分になったが、授業へ気持ちを切り替えた。一番後ろの席なのでユウキとマミの様子がよく見える。二人は席が隣同士で仲よさそうにしていたので、後ろからユウキの頭に何かぶつけてやろうかなどと考えてしまった。
情報技術の授業は俺の得意分野でもあった。精神転送後も知能や学習能力は元の肉体の脳に則っているというのは正直驚いたが、記憶や感情を移せている以上別段おかしいことではないと勝手に納得したことがある。おかげで俺はこの授業では昔と変わらず存分に能力を発揮できるので有難かった。
だが、今日の課題も俺はもう既に前回のうちに終わらせてある。俺は腕を後ろに組んで目を静かに閉じた。
「皆さんパソコンをたちあげてください。」
先生の言葉に薄く目を開けると、皆が動くのが尻目に見えた。そして、俺が暇そうに再び目を閉じた時、突如静寂が訪れた。
だが、俺が異変を感じたのは、正確には静寂の中で一言、マミの声が聞こえてからだった。
「…ユウキ、くん?」
やけに静かに授業を受けているなあと思いながら、俺は目を開けた。声がした方を見ると、マミがユウキの身体を軽くゆすって真っ青になっていた。
「…どうした?マミ。」
俺の質問に彼女は沈黙で返した。俺は周りを見回してから、やっとおかしなことに気がついた。
俺とマミ以外のクラスメイトの身体がぴくりとも動かないのである。流石に異常な光景に自分の鼓動が早くなるのを感じる。
「…おい、何で皆動かないんだよ。…おい!マミ!一体何があった?」
「分かんないよぉ…そんなの…」
俺の叫び声に返ってきたのは、彼女の涙声のみだった。俺は顔をしかめながら彼女の近くへゆっくり歩いていく。握りしめた拳の中が変な汗で湿って気持ちが悪い。俺は彼女の場所まで行くと、彼女の隣に座るユウキの胸ぐらを掴んだ。
「ちょっと、タケル!?」
「おい!ユウキ!反応しろよ、また俺のこと騙そうとしてんのか?ふざっけんなよ!」
ユウキの身体を思い切り揺らしながら叫ぶ俺を止めようとしたマミの手が俺の顔に勢いよく当たった。
「…いってえな!」
「やめてよ!やめてよ!お願い!」
涙を流す彼女の顔をじとりと睨んで俺はユウキの首から手を離した。立つこともなく崩れ落ちるユウキの身体を慌てて彼女は抱きかかえた。俺はその様子を黙って見下ろして、舌打ちをする。
「…ねぇ、反応…何で、しないの。」
俺はその質問とも言えないマミの言葉に答えず、教室の端から一人ずつクラスメイトの様子をじっくりと見て回った。誰一人としてパソコンのキーボードを打ったまま固まっている。まるで俺とマミ以外の全ての時間が止まったようだった。
「なんで反応しないのかはわからないけど、一つだけ確かに言えることがあるな。」
「…何?」
俺はマミの目を見て一言いった。
「皆死んだんだろ。」
メモリー オブ ザ ベスト スナイパー 焔 誠 (ほむら せい) @resia_1201
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