再会

大森

第1話


 三十歳になったクリスマスの日、白く染まった路面が、柔らかく街灯の明かりを反射して、世界は僕の心とは正反対に、キラキラと輝いていた。東京では珍しいホワイトクリスマス。夜の新宿西口はいつにも増して陽気そうな若者で溢れかえっていた。

 僕はそんなキラキラと輝く日、交通事故に巻き込まれた。滑って足を痛めうずくまっていた所に、トラックがやってきて轢かれたのだ。我ながら情けない轢かれ方だと思う。

 衝突音を聞きつけて、人影もまばらだった路地裏の密度がどんどん上がっていく。

 薄れていく視界の端で、積もった雪が赤黒く染まり始めているのが見えた。近くにいた女性が、僕に声をかけてくれているようだったが、何を言っているのかを聞くことはもう出来なかった。

 よりによってクリスマスに事故に巻き込まれるなんて、つくづく、僕は世界から見放されている。元より、つまらない人生だったのだ。こんなつまらないことで死ぬのも僕らしいな……。願わくば、もう二度と人生なんて悲劇が繰り返されませんように。

 そんなことを考えながら、意識はそこで、ぷつんと途切れた。

 

 

 結論から言うと、僕は死ねなかった。いや、死ぬよりも残酷な目に遭っているのかもしれない。目が覚めた僕は、十年前、大学三年の六月に戻っていた。

 人生をやり直したくなんてない僕がタイムリープをしてしまうなんて、どんな悲劇だろう。

 更に自分を憂鬱にさせたのが、僕は僕自身として転生したわけじゃなかったのだ。大学時代にゼミで絶大な人気を誇っていた、いけ好かない人間として転生していた。

 僕が転生したそいつ(今は僕がそいつなのだが)は、顔立ちは整っていて、誰にでも優しくて、勉強はそつなくこなせて、学園祭ではギターをかき鳴らして黄色い歓声を浴びる。簡潔に表すなら、学校一の人気者。

 

 考えてみてほしい。それまで幸せなんてろくに解らないまま生きてきた人間が、全てを持った人間になったらどうなるか。

 僕は、その幸せの享受の仕方ってものが解らなかったのだ。要は、調子に乗り過ぎた。出過ぎた杭は叩かれる。少なくとも学校という狭い社会ではそれがルールだ。生まれ変わって全てを手に入れた僕は、一カ月もしないうちに何もかも失った。僕に声をかけてくれる人間すら、ほとんどいなくなった。



 そうして、僕は大学に行くことを辞めた。見たこともない母に泣かれ、父に殴られた。痛みは感じなかった。

 父から絶縁を言い渡された。何も感じなかった。

 

 

 

 幸い、転生前の彼は相当倹約家だったようで、口座には学生とは思えないだけの貯蓄があった。ひとまずの不安がなくなった僕は、たまに日雇いのバイトを入れて生活費を稼ぎながらで生きていけた。

 

 

 九月、まだ夏の空気が残る、生暖かい空気の中、ベランダでタバコをくゆらせていると、玄関のチャイムが鳴った。

 タバコを揉み消してドアを開ける。節約のために越してきたこのアパートに、モニターなんて大層なものは付いていなかった。明るいショートカットで、活発そうな雰囲気の女性が立っていた。


「先輩、お久しぶりです! 生きてましたか」

 笑いながら部屋に入ってくる。記憶を必死に辿って、僕が学校で居場所を失った後も、僕に話しかけてきた数少ない一人だと思い出した。

「ここ探し当てるの大変だったんですよー。先輩の知り合いだった人に聞いてもみんな嫌そうな顔するし、話したくもないって感じで……先輩この数カ月でどんだけ人望なくしてるんですか」

 まくし立てながら、どかどかと部屋に入ってくる彼女を、僕は呆然と立ち尽くしながら見送る。うわっ、埃っぽいですねぇ、換気しましょうよ。とか騒ぎながら、彼女は部屋をパタパタと駆け回る。

「あ、あたししばらく先輩にお世話になるんでよろしくお願いしますね! 親と喧嘩しちゃって、絶賛家出中なんですよ」

「他の友人の家に行けよ」

「だってそうしたら絶対に帰れって言われるか、親に居場所バレるか、どちらかじゃないですか。先輩なら友達少なそうだし、そういう心配ないかなぁって」

 いやぁ、と頭を掻く。

「帰れ」

「家賃と食費、色も付けて出しますよ?」

結局、魅力的な提案を前に拒否権を行使できず、彼女は我が家に住み着くことになった。




 しばらくは賑やかながらも生活が続いた。実際彼女は必要以上に僕に干渉してこなかったし、僕もそうだった。気楽な同居人。しいて言うなら、僕がタバコを吸った後に「タバコ臭いですよ」と小言を言ってくるのが鬱陶しかったくらいだ。言われたところで、辞めるつもりは微塵も無かったけれど。

 

なんだかんだで、仲良くやれていたと思う。明るく騒がしい子だったから、自然と僕も彼女につられて笑うことが増えた。

 今になって思うと、多分、彼女に惹かれ始めていたと思う。そりゃ、いきなり女性と同居することになったんだ。意識するなという方が、無理な話だろう?

 


 十一月。月が街を静かに照らしていた。遠くには都心の明かりが点々とぼやけて見えた。僕はそれを見ながら、口に含んだ紫煙を空に向かって吐き出す。

 後ろの窓がガラガラと音を立てて開かれる音がした。彼女が、缶ビールを二つ持って微笑んでいた。

「先輩、たまには月見酒とシャレこみませんか?」

「お前、成人してたっけ」

「失敬な。これでも一応この前二十歳になったんですよ」

 それなら良いだろうと缶をぶつけて、ベランダに二人並んでビールを煽る。

「夜だと、ここから見る景色ってこんなに奇麗だったんですね。街の光がぼやけて、なんだか万華鏡を覗いてるみたいです」

「だろ。だからさ。この時間に夜景を見ながらタバコを吸うの、好きなんだよ。幻想的な風景だし。嫌なことも、全部煙に乗せて吐き出せて、夜の静かな空気に溶けていく気がするから」

「先輩、意外にロマンチストなんですね。あ、別に隣にあたしいるけど吸っても大丈夫ですからね」

「そう? なら遠慮なく」

 くしゃくしゃになった黄色いパッケージを叩いて、タバコを取り出し火をつける。煙を吐いてビールを煽ると、酔いが一気に回った気がした。


「ねえ先輩。私にもそれ、一本くれませんか」

 一歩、彼女は僕に近寄ってきた。酔っているのか、頬が少し赤く染まっていた。

「でもお前、タバコ嫌いなんじゃないの。いつも臭い臭い言ってたじゃん。そもそもこのタバコ、かなり重いしきついぞ」

「そんなこと言ったら先輩だって、自分で服の匂い嗅いで臭いって言ってたじゃないですか。良いんですよ。今日は吸いたい気分なんです」

 頭を掻きながら、更にもう一歩、僕に近寄ってくる。照れ隠しの時や困った時、電話をしている時などに、頭を掻くのが彼女の癖だと、数カ月暮らしていて気が付いた。腕が触れ合う距離になる。僕はあわてて、それを気にしないように、ポケットからタバコとライターを彼女に押し付ける。

「ほら、それやるから。離れろって」

「あらぁ先輩。もしかして照れてるんですかぁ。もう数カ月も一緒に住んでる仲じゃないですか」

 にやけながら僕を見上げつつ、素直にタバコを受け取る。火をつけた瞬間に彼女はむせた。

「……よく先輩こんなもの吸えますね。煙の味しかしませんよ」

「きちんと味するし、タバコの銘柄によって味も違うからな。お前はお子ちゃま舌なんだろ」

「えぇ、そんなことないですよ、ビールだってきちんと美味しく飲めますもん」

 そっぽを向いて、解りやすくいじけて見せる彼女が、どこか愛おしく思えた。

「良いから、ダメだったらここに捨てろ」

 僕は灰皿代わりに使っている瓶を彼女に差し出す。

「あ、先輩。私あれやってみたいんですよ。タバコとタバコを合わせて火つけるやつ!」

「シガーキスか……なんでそんなの知ってるんだよ」

「先輩の持ってる漫画で見て、格好いいなあって思いまして!」

 そう言いながら、彼女はタバコを咥えて僕の方に向き直る。仕方がない、と僕も新しいタバコを咥え、彼女に顔を近づける。

 しばらくして、ようやく僕のタバコに火がついた。

「案外難しいんですね。漫画ではあっさりとやってたんで、もっと簡単だと思ってました」

 彼女は満足げにタバコを揉み消す。

「はぁ、満足しました。お休みなさい。タバコ吸い過ぎちゃダメですよ!」

 「おう」と気のない返事を、部屋へと戻る彼女の背中に投げかけながら、温くなったビールを飲みほし、タバコを口につける。いつもより、煙は甘い味がした。




 翌日、部屋を出た彼女が、僕の部屋に戻ってくることは無かった。




 はじめは、すぐに戻ってくるだろうと高を括っていた。一週間が過ぎた辺りで、不安になった。

 考えてみたら、僕は数カ月も彼女と暮らしていたのに、彼女の連絡先も、実家の場所も、何も知らなかった。これほどまで、自分の迂闊さを呪ったことは無かった。

 彼女がいなくなってしばらく、僕は今まで以上に家から出る頻度が減った。久しぶりに鏡を見たら、頬はこけ、死人のように生気の失せた顔が目に入った。


 彼女がいなくなってからしばらくした十二月の中頃。初老の男性が僕の元を訪ねてきた。

 その男性は、彼女の父だと僕に告げてきた。

「彼女は元気にやっているんですか」

開口一番、僕は尋ねる。父親は、悲しそうな顔をして呟く。

「娘は……死にました。交通事故で……」

僕はあいた口が塞がらなかった。

「葬儀にいらしてくれた娘の友人たちが、最近はあなたの家で生活していたらしい、という話をしていたのを聞いて、ご迷惑とは思いますが、一応お伝えしなければ、と……」

「そう……ですか。わざわざ申し訳ありません。ところで、その、彼女はいつ頃亡くなったのでしょうか」

「十一月の二十七日に……本来ならもう少し早くあなたにもお伝えするべきだったのですが」

 十一月二十七日。彼女がいなくなった日だった。

「出来れば、あなたは、あの子の分も生きてやってください」

僕の生気のない顔を見てだろう。彼女の父はそう呟いた。

彼女の父を見送って、僕はベランダに出た。震える手で何とか、タバコに火をつける。煙を吐き出す。心を覆う靄は、一向に吐き出されそうになかった。


 

 何も解消しないまま、タバコの吸い殻だけが溜まっていく。タバコのフィルターが燃え、化学製品の嫌な匂いがした。







 しばらくして僕は、ライティングを手掛ける仕事に就いた。彼女の父の言葉に触発された訳ではない。僕だってそうだったのだから、彼女が、何処かの誰かに転生してる。そんな一縷の望みにかけてみることにした。もし彼女が転生していたとして、出会えるのが何年後になるかは解らない。でも、希望があるのなら、それに縋ってみようと思えたのだ。

 その仕事は性に合っていた。ただ黙々と、文章を考えて綴っていく。心が軽くなっていくような、そんな気がした。






 十年後。

 三十歳のクリスマスは、朝から雪が舞っていた。予定も特に無かったので、上がったらデートに行くと嬉しそうに話していた後輩の仕事を引き受けたせいで、少し残業になってしまった。

 昔の僕なら、こんなことはやらなかっただろうなと笑みを浮かべながら、ふと思い出す。三十歳のクリスマス、今日は、転生前の僕が死んだ日では無かったか。慌てて時計を確認すると、夜八時になろうかと言うタイミングだった。確か、僕が轢かれたのは、夜九時を回った直後くらいだったと思う。

 ここからなら、ギリギリ間に合うタイミングだ。


 

 そもそも、転生前の僕が、またそこにいるとは限らない。そもそも、僕が現存しているかも解らない。だけど、もしいるのなら、今は違うとは言え、過去の僕が死ぬのを知っていながら何もしないなんて、僕には耐えられなかった。


 急いで新宿西口に向かう。九時丁度。交差点を渡って、車一台が通れるくらいの路地に入る。

足を抑えながらうずくまっている男性が、僕の目の前にいた。数少ない通行人は、そんな彼にわき目も降らず素通りしていく。

 遠くに、トラックのライトが見える。僕は咄嗟に走り出した。考えている時間は無かった。「大丈夫ですか!」

 後ろから彼を、路肩まで引きずっていく。何とか引きずり終わった瞬間、トラックがクラクションを鳴らしながら、僕たちの目の前を通り過ぎて行った。


「あ、ありがとうございます……」

消え入りそうな声で僕に謝辞を述べる彼は、間違いなく、文字通り、過去の僕その人だった。

続々と、騒ぎを聞きつけた人たちが、何事かと集まってくる。これだけ人がいれば、少なくともここで僕が死ぬことは無いだろう。後は、彼次第だ。


 

「あの、大丈夫ですか?」

 そこを立ち去ろうと駅に向かって歩き始めた時、彼を気遣う女性の声が聞こえて、ふと、僕は振り返った。

「あ、はい……何とか、大丈夫ですから」

 そう言いながら足を引きずり駅へ向かう彼を、女性は引き留めていた。

「足、痛めてますよね? タクシー捕まえますから」

 彼女は電話と、くしゃくしゃになった黄色いパッケージのタバコを、ポケットから取り出す。

「あ、すみません、タクシーをお願いしたいんですけど、場所は新宿西口にあるデパートの裏手の……」

彼女は頭を掻きながら、電話でタクシーを呼んでいた。

 

 僕はその様子を見て、胸ポケットから、潰れかけた黄色いパッケージのタバコを取り出す。僕は、彼女の方に足を向けた。

もし違ったら、もし記憶が無かったら。そんな考えを、煙に乗せて、闇に溶かしながら。

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