習慣の構造

フカイ

掌編(読み切り)



 台風12号は、午後5時過ぎに東京を直撃した。

 今日中にどうしても仕上げてしまわなければならない仕事を抱えて、私は書類の山と格闘していた。電算機室は別部署によって占領されていたので、電卓と、そろばんまで取り出して見積書を作成した。

 ようやっと合計二億五千万円の、台北郊外での養鶏場建築の試算が出来上がったところで、時計の針は20時を回っていることに気づいた。その時既に、丸の内の事務所にはほとんど人影はなかった。サスペンダーを外し、凝った肩をほぐしながら、人気無い事務所を横切り、東京駅を見下ろす休憩室に行った。休憩室には今年度導入されたばかりの清涼飲料購入機があった。硬化を入れると冷えたコカ・コーラやスプライトがいつでも買えるのだ。新しいもの好きの社長が、東京で一番最初に清涼飲料購入機を設置したオフィス、という触れ込みに惹かれて設置したものだ。

 そこに50円を入れて、私はコーラを買い求めた。ガタンガタンと音がして、機械の下から瓶を取り出す。機械に設置された栓抜きに瓶の頭を斜めに当て、梃子の要領で軽く栓を開ける。コカ・コーラが、疲れた身体に炭酸の飛沫を充満させてくれた気がした。

 ふと気づくと、東京駅が閑散としている。

 気になって休憩室の片隅にあるテレビをつけてみた。すると、台風の接近に伴い、首都圏の国鉄が軒並み運休になっているとのこと。総務からは何の連絡もなかったので、すっかり遅くまで仕事をしてしまったが、これでは鎌倉の自宅に帰ることが出来ない。

 私は動転して、事務所の脇にある電話帳を抱えてデスクに戻ると、近隣のビジネスホテルに電話をかけて回った。しかし時すでに遅し。私と同じような男たちによって、あらゆるシングルルームは既に予約済みとなっていた。

 万事休す。

 すると、途方に暮れた私の頭の中で、裸電球が灯った。

 私はデスクのなかから手帳を取り出すと、巻末についている友人たちの電話番号一覧を開いた。肩で受話器を挟みながら、これまた新しいもの好きの社長の鶴の一声で導入されたプッシュホンの四角いボタンをいくつか押した。

 「…いいよ」

 大変申し訳無いが、今夜一晩泊めてはくれないだろうかという私の頼みに、電話線の向こうで彼はそう言った。彼とは大学の同期で、今でも年になんべんか顔を合わせる。私たちは手短に話をまとめ、受話器を置いた。

 彼の部屋はここから地下鉄で数分の所にある。幸い地下鉄はまだ生きていたので、ほとんど嵐に会うこともなく行くことが出来るだろう。私は荷物をまとめ、事務所を後にした。ビル裏の通用口まで出ると、ガラス窓の外はそれこそバケツをひっくりかえしたような横殴りの雨のただなかだった。私は首をすくめて守衛の老人と二言三言、言葉を交わした。やれやれ、まいったね。傘はお持ちでないのですか? 生憎ね。そういって彼に片手を上げると、私は雨の中を走りだした。


 地下鉄車両の窓の向こうで、闇が無表情に流れている。

 私はびしょ濡れになったスーツにハンカチを当てながら、彼のことを思い出していた。彼は現在、広尾にある小綺麗な図案屋に勤めている。今風にいうなら、デザイン事務所というやつだ。商学部であった私と、芸術学部であった彼。私達の出会いは同じワンゲル部(ワンダーフォーゲル部)にあった。他大学は知らないが、我々のワンゲル部は相当真剣に野外スポーツ活動にいそしんだ。夏はカヌーや登山、冬はスキーと一年を通して学業と並んで青春の輝かしい時間をともに費やした、貴重な友人だ。

 私の鎌倉の自宅は、祖父母の代は麦農家であり、古めかしい和風建築だが、彼のマンションは非常にモダーンな都会の風情を醸していた。そもそも東京の山手で生まれた彼のセンスに、私はいつも感心してしまう。私は土産の稲荷寿司の折り詰めを手に、彼の部屋の呼び鈴のぼたんを押した。

 「やぁ、いらっしゃい。だいぶ濡れてるな。風呂に湯が張ってあるから入りなよ」

 彼はいつものようにこざっぱりとして、私を迎えてくれた。私は彼の申し出をありがたく受けて、浴槽に肩までつかった。充分に汗をかいてから風呂をあがり、コシのある毛足の重いタオルで全身を拭った。都心の新築マンションには、冷風機が標準装備されていた。風呂上がりの火照った身体に、そこから出てくる冷えて乾いた風があまりに心地よい。まるで洋画の中のワンシーンにいるようだった。

 「飲むだろ?」

 彼はハイネッケンのグリーンの缶を片手で振って訊いた。

 私の自宅なら、間違いなく麒麟ビールであるが、やはり都会っ子はセンスが違う。

 「もちろん」

 答えた私に、彼は一本を放った。知らぬ間にほころんでいた顔に気づき、私は照れ隠しの咳払いをひとつした。


 彼はいま、テーブルの上にアイロン台をのせて、大量のシャツにアイロン掛けをしているところだった。そんなもの、女の仕事じゃないかと言いかけて、彼がまだ独身であったことに気がついた。だから私は、

 「すごい枚数じゃないか」

 と、別のことを口にした。

 濃紺のシャツにアイロンを掛けながら、彼は自分のシャツについて話してくれた。それによると、彼は現在15枚のシャツを所有しているのだそうだ。一週間に一度、こうしてその週に着たシャツを全て洗っておいて、ひといきにアイロン掛けをしているという。

 「いや実を言うとさ、これが好きなんだ」と言って、彼は手にした蒸気アイロンをかざしてみせた。どこという特徴のない、標準的のアイロンだった。が、彼の手に納まったそれは、小粋な現代美術品のように映えた。

 よく見ると、彼の作業は非常に洗練されていて、無駄がない。どうやら始めに衿、次に両肩、右胸右腹、背中、左の胸腹、そして最後に両腕という手順らしい。

 「ま、シャツの縫製によってもいろいろ変わるんだけどね」 彼は袖口のタックを揃えながらそう言った。

 「じゃあ店で一目見ただけでもそれの手順が浮かんで来たりするんじゃないの?」

 「そうなんだ」彼は嬉しそうにそう答えた。「これなんか、まさにそうさ」

 彼はただの白いワイシャツを取り上げて言った。「このデザイナーは、より少ない部品でシャツを構成するのが得意なんだ。生地の数が少なくなればなるほど、一枚が曲面をカヴァーする範囲がふえるだろ。だからアイロン掛けも厄介なんだけど、そのぶん仕上がりの見栄えがいいんだ」

 ここまで入れこまれると、シャツも倖せだ。

 「だからこのブランドのシャツで気に入ったものがあると、ほとんど買っちゃうね」

 そしてそのブランドが高いものでなくてよかったとつけ足して、彼は品よく笑った。

 私はハイネッケンを飲んだ。

 その白いお気にいりの一枚を仕上げると、彼は言った。

 「―――習慣の構造って、知ってるかい?」

 私は首を振った。

 彼はうつむいてアイロン掛けをしたまま、話し始めた。

 「全ての習慣は、もとは意味のある行為なんだ。だけどいつしかその意味なんてものは風化して、後はふきっさらしの習慣と呼ばれる行為だけが残る。人生と同じさ」

 「全ての習慣は、かつては意味のあった行為」私は彼の主張を繰り返し、彼はうなずいた。

 「そう。例え話をしようか?」彼は機嫌良さそうに人差し指を立てた。「あるひとりの男がいたとするね。どうってこともない、普通の男さ。その彼にある日、素敵な恋人ができる。彼はデートのたび、少ない洋服ダンスの中から選りすぐった一枚に、熱心にアイロンを掛けてでかけるようになる。そのうち、そのことに気づいた彼女が一緒にシャツを選んでくれるまでになる。仲のよかったふたりだけど、ある日、お決まりの別れ話しの日が来る。理由なんか知らない。でもそういうのって、よくあることだろ?」

 私は黙ってうなづく。

 「で、男には膨大な量の数のシャツと、アイロン掛けの習慣だけが残る」

 私はハイネッケンを飲み干して、テーブルに置いた。

 かたん、と音がした。

 「もう一本飲むだろ?」私の返事を待たず、彼は冷蔵庫にむかう。

 「つまらない話をして、悪かったね」冷蔵庫の扉を開けた、彼の背中がそう言う。

 彼から新しい缶を手渡された私は、すぐにリングを開けた。

 「誰でも嵐の晩は嫌なことを思い出すものさ」

 そういって缶を翳した。

 気づいた彼もそうする。

 「偉大なる習慣に」私は言った。

 彼は少しだけ、はにかんだ。

 そして、「偉大なる習慣に」と、彼も応えた。

 かちり、と静かに金属の缶の触れる音がした。



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