それでもこの冷えた手が
夢月七海
それでもこの冷えた手が
マフラーが編み上がったのは、朝日が昇る頃だった。
そのあと二時間ぐらい、ベッドで睡眠というよりも、無意味な寝返りの繰り返しを経てから起き上がる。一応朝ご飯を食べたけれど、味らしいものは感じられなかった。
シャワーの後は、ドライヤー癖の付きやすい自分のショートヘアーを念入りに梳かす。美容室に行くことも考えたけれど、それは不自然なのかもしれないと思い直した。
メイクはいつも通り、でも、服装は密かに気合いを入れて。一張羅のギンガムチェックのロングスカートに、まだ二回しか履いていないブーツを合わせる。
マリーゴールドのようなオレンジ色のマフラーを、用意していたピンクに白の水玉の包装紙で包む。お店で売られていそうな完璧なラッピングに満足する。
それを、いつも大学に行く時に使っているリュックサックに入れて、私は家を出た。
早く会いたくて、マフラーを渡したくて、信じられないくらいに浮かれていたから、乗ったバスが出発するその瞬間まで、私は自分が手袋を忘れてしまったことに気が付いた。
マフラーをプレゼントする日に、手袋を忘れるなんて……恥ずかしさのあまりに、下を向いてしまう。今日もとても冷え込んでいて、手袋無しで我慢できる気温では無かった。
でも、もう家に戻る時間もないので、そのままバスに乗り続ける。コートのポケットに手を入れて耐えて、待ち合わせ場所の最寄りのバス停で降りた。
歩いて二分ほど、大きな川に架かる橋の所で、退屈そうに対岸を見ている後ろ姿に声をかける。
「紗世!」
私はそう、声をかける。
彼女は長い髪をふわりと揺らして振り返り、私の姿を見ると、雪のように柔らかな笑みを浮かべて、片手を上げた。
私はゆっくりと、紗世の方に歩み寄った。
紗世も、私と向き合う。温かそうな青いセーターを着ているけれど、色白な首筋には何も巻かれていない。
マフラーを巻く習慣がないのだと、秋の終わりに紗世が話していた。
だから私は、今年のバレンタインにマフラーを送ろうと編み始めた。どうしても、大学最後の年だから、普通にお菓子とかじゃなくて、形に残るものを渡したかったから。
「ねえ、今日はどこに行くの?」
「この近くにね、目立たないけれど、美味しいカフェがあるんだよね」
にこにこしながら、紗世は橋の反対側を指差した。
彼女は隠れグルメで、「おいしい」と噂される店があれば、どこへでもそれを確かめに行く。そして、いつも私に、そのお店を紹介してくれる。
もしも私が、彼女に手料理を振る舞えば、彼女はどんな反応をしてくれるのだろうか。
ふと、そんなことを考えてしまい、私は頭を振って、それを追い出す。彼女と私は友達同士。それ以上ではない。
私たちは一年生の時に偶然、共通科目の授業の隣同士になり、知り合った。
それまでは学部も全然違くて、私は紗世のことを知らなかった。でも、紗世は私を入学式の時に見かけていたので、休み時間に話し掛けてきた。
「名前の最初が、どっちも『さ』だね。それに、苗字に同じ音があるよ。『筒間』と『宮道』って」
屈託なく、そう言った彼女に、私は釘付けになっていた。
あの瞬間に、きっと運命めいたものを感じてしまったのだ。だから、この様だ。
大学四年生になって、私は保育園に、紗世はIT会社に就職することが決まっていた。就職先はどちらも都内だけれども、今のように気軽に合える日は、ぐんと減る予感がしていた。
だから、私はマフラーを編んだ。これが彼女の思い出になるように。
「幸子、昨日の『雪降る街』、見た?」
「見たよー。まさか、サトルと再会するなんてねー」
隣同士で歩きながら、昨日のドラマの話をする。橋の下で流れる、大きな川の音が微かに聞こえた。
紗世の声は、この川のように静かで、澄んでいて、そこから紡がれる何の意味の会話が私は本当に好きだった。
「あ、そうだ」
橋を渡って、右に曲がった後に、紗世が急に足を止めた。背負っていたリュックを開けて、がさごそと何かを探し出す。
まさか、と思っている私に、彼女は赤い包装に包まれた箱を差し出した。
「はい。ハッピーバレンタイン」
紗世の、気恥しそうな笑顔と右手のプレゼントとを、まじまじと見比べてしまう。
今日は紗世がおすすめのお店に私を連れていくことが、彼女からのバレンタインプレゼントだと思っていたので、このサプライズには意表を突かれていた。
「ありがとう……」
ずっとコートの中に入れていた手を取り出して、川風に晒されていることすら忘れて、紗世からのプレゼントを受け取る。
掌くらいの大きさの箱を、そっと右手で包み込む。
「幸子みたいに、手作りじゃないけれどね」
「ううん、いいよ。すごく嬉しい」
紗世に気を使わせないようにと、私は精一杯の笑顔を見せる。実際、紗世からのプレゼントは、なんであれ嬉しいものだった。
ただ、紗世の口ぶりから、もしかしたら私が毎年バレンタインに送っている、手作りのお菓子を期待しているのではないかという不安が、ふとよぎった。
でも、もうマフラーは用意されている。
彼女の期待に応えられていないことに申し訳なく感じながらも、「実は……」と前置きして、私からのプレゼントを取り出した。
「これ、私からのバレンタイン」
「わっ! ありがとう!!」
紗世はその切れ長な瞳を輝かせて、プレゼントを受け取る。
お菓子ではないことは、一目で分かるはずなのに、彼女はこの上なく喜んでくれた。
「開けてもいい?」
「うん。どうぞ」
袋型のラッピングを、紗世は破らないように丁寧に開けた。
「すごい!」と言いながら、オレンジのマフラーを持ち上げる。
「これ、もしかして、手編み?」
「うん」
私は、無邪気な紗世の顔を見て、素直に頷いてしまっていた。家では、お店で買ってきたと答えようと思っていたのに。
今日のためだけに、マフラーを編んできたなんて紗世が知ったら、引いてしまうのかもしれない。私は、相変わらず、紗世に嫌われてしまうことを一番恐れている。
「ほんっと、すごい。幸子って、器用で羨ましいなー」
「そんなことないよ。時間かかったから……」
「どれくらいかかったの?」
「……十一月から、編み始めたんだけど……」
「そんなに……」
小声になってしまっている私とは正反対に、紗世はとてもテンションが上がっていて、手編みのマフラーを両手でもふもふと揉みながら、この上なく喜んでいる。
私が四カ月くらいかけてマフラーを編んできたことに、引くどころかむしろ感激しているくらいだ。
「色々、忙しかったでしょ? 四年生だとさ」
「んー、実習も就活も終わっていたから、そうでもなかったよ?」
「ねえ、巻いてみてもいい?」
「いいよ」
紗世は、包装紙を自分のリュックの中にしまった後に、そのマフラーを首に巻いた。
「どう?」
「似合ってるよ」
私は出来るだけ平穏を装って頷く。
色白で、よく青系統の服を着てくる紗世には、オレンジ色が似合うかもしれないと思っていたけれど、予想以上だった。青色のセーターが空に、オレンジのマフラーが太陽のようにすら思える。
照れ笑いを浮かべている紗世は、何か思いついたように、ジーンズのポケットから自分の携帯電話を取り出した。
「せっかくだから、一緒に写真撮ろうよ」
「いいよ」
普通な調子で答えたけれど、顔がにやついてしまっていたのかもしれない。
携帯を開いた紗世の左側に回り、左手でピースサインをする。精一杯手を伸ばした紗世が、さらに私に近付いて、胸がどきどきとしてきた。
「はい、チーズ」
パシャリとシャッターの音がして、紗世が写りを確認している間に、すっと彼女から不自然じゃない距離まで離れた。
紗世は小さな液晶画面を見て、にっこりと笑った。
「うん。あとで送るね」
「ありがとう」
「あっ」
彼女が、何か気付いたように、真顔になった。
どうしたんだろうと思っている私の方に、そしてコートに入れていた手に、目を向けた。
「幸子、手袋忘れたの?」
「あ……うん、実は……」
私は顔を真っ赤にしながら、手を出した。
コートの中に入れていても、気温と川風のせいで、両手をじんわりかじかんでいた。
甲は白く、指先は赤くなってきた私の手を見て、紗世は心配そうに眉を下げる。
「大丈夫? 取りに戻らなかったの?」
「うん。気付いたのがバスの中で、戻ったら遅れそうだったから」
「いくらでも待てたのに」
「ごめんね」
寒空の下で、紗世を待たせるなんてできるわけない、とは言えずに、小声で返事をした。
紗世は私の手から目を離さずにいると、何か思いついた様子で、急に自分の左の手袋を外した。
「これ、使って」
「え、でも、」
「いいから、いいから」
固辞しても、紗世は自分の手袋を私の手に押し込めてくる。
ぎゅっと私の手で拳を握らせた紗世は、満足そうにしていたので、返し辛くなってしまった。
仕方なく、手袋を左にはめた。
あったかいけれど、やっぱり紗世の左手の方が気になってしまう。
「でも、これじゃあ紗世の手が……」
「大丈夫、ほら」
不安げな私に対して、紗世は何でもないように、何もつけていない左手で、私の右手を握る。
突然の出来事に驚いている私に、紗世は歌い出しそうなくらいな上機嫌で、繋いだままの左手を前後にスイングした。
「これで、どちらの両手も、温かくなるね」
「でも、私の手、冷たくない?」
自分でも、よく分からないことを訊いてくる私に、紗世はにこやかに首を振った。
「平気平気」
「そっか……」
こうして紗世と手を繋ぐのは、初めてのことだったから、頬が上気してしまう。
それを気付かれないようにと、私は目を伏せた。
「じゃあ、そろそろ行こうか」
「うん」
紗世に引っ張られるように、川沿いの道を再び歩き始めた。
手を繋ぎ始めた途端、私はぐんと口数が少なくなってしまう。
紗世とは、出来るだけ長く友達のままでいたいから、今までこの気持ちを諭されないように必死だった。
それでもこの冷えた手が、紗世と触れ合っただけなのに、悲しいくらいに胸が高鳴っている。やっぱり私は、紗世のことが大好きなんだと言いたげに。
自分の鼓動が、手を通して紗世に伝わっていないかな。
そんなありえないことを気にしてしまうけれど、結局私は、紗世の手を振りほどくことなど出来ずに、一緒に歩いて行った。
それでもこの冷えた手が 夢月七海 @yumetuki-773
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