人狩り ~輪廻草~

澤松那函(なはこ)

人狩り ~輪廻草~

 月光の冷めた光が森の木々をうっすらと照らしている。

 木々の葉は、さぁさぁと風に撫でられ、心地良さげな音色を奏でて青い夜闇を彩っている。

 梅花の香りが大気を満たし、微かに夜の気配に色を与えていた。


 そんなよ道を明かりも灯さずに一人の男が歩いている。

 歳は二十の半ばか、三十路の手前に見える。

 焦げ茶の髪は、少々癖のある毛質のようだ。

 白いシャツに黒いネクタイを緩く締めており、黒のズボンと少々くたびれた革靴が旅慣れている事を窺わせた。


 男の風貌で一際目を引くのは、彼の面立ちだ。

 端正である事に加えて、鷹のように鋭い眼光と尋常でない瞳の色。

 そのまま翡翠ひすいを嵌め込んでいるかの如き美しさは、北方の民の蒼い瞳ですら霞ませた。

 もう一つ目を引くものがあるとすれば、左肩から下げている濃藍の絹の長細い袋だろう。

 中には人狩りの仕事道具である小銃ライフルが収められており、持ち手の紐が肩に食い込んでいる。


 ヒスイは、辟易としていた。

 歩いても歩いても森を抜ける事が出来ないからだ。どこまで歩いても、進路を変えても、森を抜けられない。

 急ぎの依頼があるというわけではない。夜道も木々も歩く事も好きだが、目的地にいつまでたっても付かない事を好む人間はそうは居ないだろう。

 ヒスイもまたその点においては多数派の一人であった。


「狐狸でも化かされてるのかね……あれらなら本当にやりかねんさね」


 精霊や獣が人間をからかう事はある。

 特にヒスイのような人狩りはいたずらの標的にされやすい。

 理を重んじる仕事故、多少の粗相は見逃してくれる甘えが彼等にはあるのだ。


「お困りか」


 背後からの声に、ヒスイが見やると、そこには精霊が居た。

 鮟鱇アンコウの頭に、鷲の身体を持っており、翼を動かさずにヒスイの目線の高さで滞空している。


「精霊殿、この森を抜けられんのです」

「これは人狩り殿、難儀じゃな」

「失礼を承知で聞くが――」

「まさか。何もしておらんのじゃ」


 嘘はついてないようだった。

 ならば他に悪戯を仕掛けている精霊か言獣が居るのかもしれない。

 そうなるとそちらを見つけて、やめるように言うのが得策であろう。


「人よ」


 思案に割って入ってきた精霊をヒスイが見やると、鮟鱇面故、表情こそない物のひどく恐縮した気配を醸している。


「どうやら同胞が迷惑をかけている様子。わしも一緒に行こう。ちょうど森を抜けた先の村に用があるのじゃ」

「それはありがたい」


 ようやく先へ進めると安堵したヒスイだったが、精霊の案内でも森を抜ける事は叶わなかった。


「おやおや」


 精霊の声音は嬉々とした色味が強い。


「精霊殿、もしかして楽しんでないか?」

「楽しくはないかの?」

「まったく楽しくないさね……そこまで気の長くない性格じゃない」

「腹を立てて打破出来るならそれで良かろうが、そうではあるまい」

「確かにそうさね。こういう悪戯をしそうな精霊や獣は?」

「森に住む精霊や獣は、力の弱い者が殆ど。ここまで大がかりな事は出来まい」


 強い精霊や獣には特有の生気がある。青葉のように瑞々しく、春の山の土の如くほのかに甘い。

 ヒスイと共に居るこの精霊からは、強い生気が感じられるが、他にそこまで強い気配は感じられなかった。


「では誰が?」

「心当たりはある。輪廻草という物をご存知か?」

「嫌になるほど」


 輪廻草には幻惑作用があり、動物の感覚を狂わせる。

 人にとっては良い影響を与えないため、人里に生えていると駆除される事が殆どだ。


「この辺りには輪廻草の群生地がある。そこで異常が起きてるのやもしれん。とにかく群生地へと行ってみますかな。こちらじゃ」


 精霊の案内でやってきたのは森の北東だった。

 赤黒く糸のように細い六枚の花弁を持つ花が視界を埋め尽くすほどに生い茂っている。

 膝丈まで伸びた花の群れは風に撫でられて、波のようにうねっている。

 精霊はその様に、驚愕を露わにしていた。


「なんと……これほどになっていようとは」

「すさまじいですな。これは」


 腐臭と甘露を混ぜたような匂いがヒスイの鼻腔を無遠慮にくすぐった。

 積み上げられた糞尿を前に呼吸を躊躇わせるような不快感と、好いた女の首筋から漂う香りのような欲情が同時に沸き立ってくる。


「輪廻草が自然にこれほど根付くはずがないはずじゃ」


 本来輪廻草は弱い植物だ。

 大和を覆う大樹か、それに類する植物の傍でなければ、生きてゆけない。

 この近くに大樹はない。だとすると――。


「人為的に栽培しない限り、こうはならんさね」


 輪廻草の生態を理解している者が手を加えれば、多くの輪廻層を栽培するのは不可能ではない。

 しかし生物の感覚を狂わせる輪廻草。邪な目的に用いられることが多かった。


 サクッ――

 カコッ――


 革底と蹄が草を踏み締める音がヒスイの鼓膜を揺らした。


「こちらへ」


 精霊を抱きかかえ、ヒスイは近くの巨木に身を隠した。

 その陰から輪廻草の群れを窺うと、二十歳程の娘が懐刀を抜き、輪廻草を一輪積んでいた。

 くすんだ浅黄色の着物に、くたびれた編上げのブーツを履いた素朴な美しさの娘であった。

 隣には、雉の頭と猿の上半身に、直立した馬の下半身を持つ精霊が立っている。

 雉頭の精霊は満足げに頷いた。


「これだけあれば十分であろう」


 恐らくは雉頭の精霊が輪廻草を栽培しているのだろう。

 精霊が何故輪廻草を?

 ヒスイの疑問に答えるように鮟鱇顔の精霊から声が上がった。


「あれは草吹くさぶき

「どういう精霊です?」

「輪廻草を好物としておる。奴め、悪戯ついでに人間に栽培させているのか」


 草吹という精霊からは、そのために人間を謀るような意地の悪さは感じられない。

 騙されているにしては、あまりにも娘の表情が幸福そうに見えるからであろうか。


「この花粉を私と母が吸えば、母は長く生きられるのですか?」

「左様」


 草吹が言うと、娘はいくつもの輪廻草を積んで愛おしげに花を撫でながら、群生地から去って行った。

 娘の姿が木々の陰に溶けると鮟鱇頭の精霊は、ヒスイの腕から飛び立って、


「草吹」


 そう名前を呼んだ。

 それを合図にヒスイも身を隠していた巨木から姿を現すと、草吹は訝しむように首を傾げるが、おーうと声を上げながら空を舞う精霊へと歩み寄った。


「おまえは空渇くうかつか。久しいな」

「久しいな」


 空渇が相槌を打つと、草吹の視線はヒスイへと向けられた。


「そちらは人狩りか」

「はい。ヒスイと申します」


 首を傾げて不思議そうにヒスイの顔を眺めている草吹であったが、


「もしや」


 と声を漏らしてから申し訳なさそうな調子で尋ねてきた。


「輪廻草のせいで、この森を抜けられなんだか?」

「まぁ、そうさね」


 苦笑しながらヒスイが答えると、草吹は深いお辞儀をしてくた。


「それは失礼をした」


 こうも恐縮されてしまうと、文句の一つも言おうと思っていた気持ちも萎れていた。

 何より、それ以上の気がかりがあの娘の事だ。


「草吹殿、あの少女は?」


 ヒスイが訪ねると、草吹の声音は蕩けた鉛のように重かった。


「母がもう長くないとの事。輪廻草の花粉は時間の感覚を狂わせる。母との時間が少しでも長く感じる錯覚を味わえよう」


 例え仮初だとしても、眩惑だとしても、僅かでも共に居たいと思うのが人であろう。

 願わくは、心優しい精霊の気遣いが実るように。

 草吹の案内で森を抜けたヒスイは、白んだ空を見上げながら吐息を一つ残して去っていった。







 夏になった頃。

 ヒスイが久方ぶりに森を訪ねると、草吹が出迎えてくれた。


「件の母親は死んだよ」


 訃報を伝えるにしてもあまりに沈んだ声をヒスイが怪訝に思っていると、より沈んだ様子でさらに告げてきた。


「娘が殺したのだ」

「なに!?」


 少しでも母と共に居たいと輪廻草を求めた娘。

 それが何故?


「どういう事さね」


 ヒスイの問いに草吹は視線を落とした。


「花粉を吸い過ぎたのだ。娘にとっては数ヶ月が数十年になってしまったのだ」


 母とずっと一緒に居たい。

 その思いが輪廻草の群生地へと少女の足を度々向かわせたのだ。


「寝たきりの母親を数十年、世話をする感覚」


 幾度となく。

 幾度となく。


「いつ終わるともしれぬそれに疲れ、ついには」


 しかし娘の望む母は、夢想の中にしか居なかったのだ。

 起き上がる事も出来ない現実を数十年という月日を掛けて噛み締める。

 それは人の心には背負いきれぬ荷であったろう。


「私はなんと愚かな事をしてしまったのか。何とあさましい事をさせてしまったのか」

「娘は?」


 ならば娘は今どうしているのか?

 その問いに、草吹は頭を抱えてその場に蹲ってしまった。


「人狩りに撃ち殺された」

「何故さね?」

「真実を知り、耐え切れなくなり、私を切り裂かんとしたのだ。あの母への慈愛のために振るわれた懐刀は私の血肉をすすために振るわれたのだ」


 数十年が娘を変えてしまったのだ。

 人間の心を摩耗させきるのに十分過ぎる時間だから。


「しかし私はそれでよかったのに。あの子にならば狩られてよかったのに」


 きっと優しい娘だったのだろう。

 だから耐える事が出来なかったのだ。


「村の人々が私を守るために人狩りを」


 誰かに怒りをぶつけねば。

 何かに縋っていなければ。


「私は善意のつもりであったが、苦しめただけであったな」


 誰かの悪意があったわけはない。

 それぞれが互いを思い合った行動に過ぎなかった。


「もう人には関わらぬ。もう不幸を生まぬ」


 草吹には非はないのだ。

 当人がそう思えずとも、彼の行いに罪はない。

 けれどそれを告げる事は、却って草吹を罰するのだと思えて、ヒスイは口に出来なかった。


「人狩りよ。お前にだけは最後に会って伝えたかった」


 娘が弱かったわけでもない。

 ただ願いに耐え切れるだけの心がなかったのだ。

 そしてそれが人という物なのだ。


「このまま尽きる時まで我は森の深部に住もう」


 そして時にそれは強靭で折れる事のない存在すらも追いつめるのだ。


「何とあさましい事を。なんと愚かな事を」


 草吹は森の奥へと消えた。以後その姿を見た人は居なかったという。

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