第2話「ノーチラス」

 こんな田舎いなかじゃ、日常は退屈にゆっくりと過ぎていく。

 代わり映えのない今日、そして明日、明後日あさって、来週、来月。

 でも、今日の僕はちょっと、いやかなり刺激的な放課後を味わっていた。


「ふむふむ、ハジメ君って結構勉強もできるのね。関心、関心」


 いつもの窓際の席で、今日も僕は宿題をしていた。

 喫茶店ノーチラスはガラガラで、平常運行。

 だが、何故なぜか僕の隣にシホミさんが座っていた。身を寄せてくる華奢きゃしゃな肩が、僕の肩に触れる距離だ。彼女は数学の宿題を覗き込みながら、何度もうなずいている。

 なんだか、ふわりといい匂いがした。

 甘やかで柔らかい、もものような匂いだ。


「よしっ、ちょっと待って頂戴ちょうだい。新しい問題を私が作るわ」

「へ? いや、シホミさん……僕、もう宿題が終わったら」

「あら、嫌なのかしら?」

「いっ、いえ! その、なんというか」


 僕の手からシャープペンシルを取り上げ、ノートを手にシホミさんは立ち上がった。

 そりゃ、数学には少し自信がある。

 答えが必ずあるのと、それが一つだけというのが好きなのだ。

 また、手順を間違わなければ必ず正答に辿り着く。

 そういうとこ、とてもいいと思うんだよね。


「大丈夫よ、ギリギリ苦戦するけどなんとかなりそう、そういう問題にしてあげるわ」

「なんでまた、そんな面倒なことを」

「だって……苦戦して少しは間違ってくれないと、私が教える意味がないでしょう?」

「いやあ、別に勉強はなにも……ア、ハイ。オネガイシマス」


 シホミさんは鼻息も荒く、張り切って奥のテーブルに行ってしまった。

 冷え切ってしまった珈琲コーヒーを飲みながら、僕は気付いた。


「ああ、そっか……しったかぶりたいのと、似てるのかな? 教えたいの」


 そう、シホミさんは無敵のお嬢様で才媛才女さいえんさいじょ、天が二物にぶつどころかダース単位で才能を与えたスーパーガールである。

 そして、何故か見栄みえりなのだ。

 そんなことを思い出していると、テーブルの上にケーキの皿が置かれた。


「どうぞ、ハジメ君。どうですか? 宿題、終わりましたぁ?」


 ヨナさんが、眼鏡めがねの奥でニッコリと微笑ほほえんだ。

 ドキリとする……あと、重力にあらがう胸の膨らみが目の前に揺れている。

 僕はクールな自分を取りつくろって、あわてて顔をそらした。

 窓の外には、今日も灰色のコンクリートが海を隠している。


「……父さんのこと、ごめんなさい。あの、多分駅前のパチンコ屋だと思うんだけど」

「ふふ、わたし達を信用してくれてるからこそ、ですよぉ」

「でも、なあ……なーんか、ダメな大人なんだよなーって」

「でも、ノーチラスはいいお店じゃないですか。素敵ですよ? まるで、漫画の喫茶店みたいで」


 ヨナさんが三つ編みを揺らして、僕に顔を近付ける。

 そう、父さんは仕事を放り出して遊びに行ってしまった。

 アルバイトの三人だけにする訳にもいかなくて、僕は帰るに帰れないのだ。

 すると、退屈そうに携帯をいじってたリカさんも、こちらへやってくる。


「ハジメー、よかったじゃんかよー! ノーチラス、いい店だってよ!」

「な、なんですかリカさん」

「お前、あとを継ぐんだろ?」

「継ぎません!」

「……マジ?」

「マジです」


 え、なんでそこでガッカリされるの? どうしてリカさん、俺を残念な奴を前にした顔で見下ろしてるの?

 だが、彼女は肩をすくめると、携帯の画面に視線を戻した。


「そういや、ノーチラスって名前はなんなの? マジ漫画かよー、ってさあ」


 その一言が放たれた瞬間、ヨナさんがシュババと振り返った。

 逆光を眼鏡のレンズに反射させ、ムフフなくちびるを緩ませ身を乗り出している。


「リカさんご存知ですか! 漫画じゃなくてアニメです! 不思議の海のナディア!」

「お、おう……ヨナっち、あれでしょー? NHKでやってた、的な」

「そうですそれですわかりました! さてはリカさんは2012年の再放送でハマったんですよね! わたしもです! もう凄いんですよ傑作で名作で本当にもうね最高のなんです! 最の高!」

「わ、わかったわかった。落ち着け、な? つーか、あーしは詳しくないし」


 だが、リカさんは不用意にその言葉を放ってしまった。

 迂闊にも、気軽にスナック感覚で聞いてしまったのだ。


「で? ノーチラスって? 意味は?」

「へっ?」

「ほら、てゆーかさあ。ヨナっちさ、くわしいじゃん?」

「え、あ、ああ! はい! 存じてますよ、知ってますとも!」


 始まったか……すぐに僕はスマホを手に取る。

 ノーチラスとは、ジュール・ベルヌのSF小説『海底二万哩かいていにまんマイル』に登場する潜水艦の名前だ。

 さっきのナディアとかいうアニメは、この小説を原題とした作品だった気がする。だが、ヨナさんは眼鏡のブリッジをクイと指で上げ、もったいぶって話し始めた。


「ノーチラスっていうのはですね、海底二万哩かいていにまんりっていう小説の主役メカです!」

「かいてーにまんり? なにそれ、知らないんですけどー?」

「ベール・ジュルヌさんっていう人が書いた、ネモ船長総受けなラブラブ小説ですー!」


 違う。

 全然違う。

 そもそも、哩は『り』じゃなくて『マイル』だし。

 だが、ただただ無邪気にリカさんは、ヨナさんを追い詰めてしまう。


「んで? ノーチラスって?」

「それは、えと、んと……あ、うん……リッスントゥーミー!」

「へ?」

「ノンノン、ルック、ルック! ノゥ、ティラス! リピートアフタミー! ノゥティラス!」

「……ノ、ノーテラス? ああもうっ、あーしは英語とアメリカ語は苦手だし!」


 リカさんが勉強嫌いなのは、知ってる。


「あっ、で、でもあーし、わかるのはさ! ノーチラスってことは、うん、あれだよな!」

「えっ、ええ、そうですよ! そうなんです!」

「イエスチラスじゃなくて、ノーチラス、つまりNOノーチラスなんだよな!」

「へ? ……ああ、はい! そうです! ティラスってことは、ティラの複数形なんですよね!」

「それな! んで? チラって? いや、あーしは知ってるけど、ほら、ド忘れ!」


 その頃にはもう、僕はウィキペディアを見ていた。昔のアメリカ海軍が本当に、ノーチラス号っていう原子力潜水艦を作ったところまで調べ終えている。

 でも、二人はお互いに『実はよく知りません』とは言えない雰囲気だ。

 特に、ヨナさんはアニメの話から入っただけに、引き下がれない。


「ノーティラス、つまり、ティラスはいらないってことですよね……ティラってのは」

「あれじゃん? チーズっぽいチョコのやつ」

「それはティラミスです! ……はっ! そ、そう、ティラといったら!」

「ティラといったら? あー、なんかあーしも思い出せそう……ホント、知ってるんだけど! ド忘れしてたの、ここまで出てきてるのに!」


 リカさんが腹のあたりを両手で抑える。

 出てきてないじゃん、ずっとずっと下じゃん。

 だが、ヨナさんはドヤ顔で持論を押し通した。


「ティラ、つまり茶等ティーら……茶飲み友達のスラングですよ! あっれー? リカさんまさか、知らなかったんですかぁ?」

「ちげーしっ! 今思い出したし! そうだな、主にアジア圏での茶飲み友達の俗称だよな!」

「ティラス、つまり茶飲み仲間達……それがいらないから、ノーティラスなんですよね。あー、わたしは知ってたけどなあ。でもリカさんはー」

「知ってたし! つまり、ナントカ船長は茶飲み友達のいらない、孤高でロックなロンリーウルフなんだし!」


 ……あれ? だいたいあってる。なんで?

 そうこうしていると、シホミさんが戻ってきた。

 しめたとばかりに、二人はそろってニヤリと笑う。


「ちょっち、シホミっちー?」

「ノーチラス、もといノーティラスの意味、知ってますかぁ?」


 きょとんとしてしまったシホミさんだった。

 だが、彼女は再び僕の隣に座ると、ノートを開く。

 うわ、適度に面倒でほどほどにやっかいな数式が並んでる!


「なにかと思えば……ノーチラスって、オウムガイのことでしょう?」

「えっ……ああ、はい! そ、そそそ、それです! 英語で貝殻でしたね、オウムガイ!」

「ラテン語なんだけど?」

「はっ! あ、いえ、そうでしたね! ラテン風の英語でした」


 ヨナさん、かわいそうに……そして、そもそも話についてこれてないリカさん。

 何の気なしに二人のしったかマウント合戦を潰しておいて、シホミさんは僕に微笑む。


「さ、少しお勉強の時間よ? わからないことがあったら、なんでも私に聞いてね?」


 きっとこの人、学園のマドンナとかなんだろうなあ……僕は、なんでこんな場末の喫茶店でシホミさん達がアルバイトしてるのか、そもそもそこがわからないデス。

 でも、テーブルに頬杖ほおづえ突いて僕を覗き込むシホミさんは、やっぱり綺麗だった。

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