靴擦れ知らずと、コットンドレス

陸一 じゅん

靴擦れ知らずと、コットンドレス

 晴れてよかった、とサーシャは思った。「天気がいいですね」という定番の文句が使える。

 四つ年上の恋人クロードとの待ち合わせ場所へ向かいながら、サーシャは胸の中で(今日はキスの日! )と復唱した。

 ああ、なんでわたしったら、もっと早く気が付かなかったのかしら! デートで行く『庭園』といえば、『あの庭園』しか無いのに! もっと念入りにお洒落したのに!



◇◆◇


「庭園に行かないか? 」

 クロードの言葉に、サーシャは反射的に「いいですね」と返した。どこの『庭園』なのかも考えもしなかった。

 クロードは建築家志望だから、観光地や、それでなくても、見ごたえのある建物や庭園によく連れて行ってくれる。サーシャには普通の教会のように見える建物でも、クロードの解説付きなら、そこは素晴らい名所に変わるほどだ。

 クロードの「●●に行こう」にハズレは無い。そんなのは、煉瓦が硬くて空が青いくらいに当たり前のことだ。



 だからサーシャは、

「あんた、ソレ、『あのゴンドラ』に乗ろうってことじゃあないの? 」

 まあ呆れた、と、行きがけバッタリ会った女友達が言うまで、さっぱり気づかなかった。


「……『あのゴンドラ』? 」

「だから、それ、『あの庭園』の『あのゴンドラ』でしょ。あの『伝説』の」


 そこまで言われて、ようやくサーシャの頭にも『あの伝説』とやらが蘇る。

 なんでもその庭園にある人工湖には、貴族が道楽でつくった滝があり、カップルがその裏で口づけを交わすと、永遠に結ばれるだとか――――。



「……それって、? 」

「そうよ。あのね、デートで『庭園』と言やあ、『あの庭園』よ。今時の若いカップルなら、ツーとカーで通じるもんでしょうよ。まったく流行りに疎いんだから」

 駄目な妹を相手にするように彼女は言って、立ち尽くすサーシャを上から下まで見ると、短く、「ま、いいんじゃない? 」と、サーシャの肩を叩いた。


(本当にこれで『いい』のかしら、わたし)

 サーシャの格好は、呆れるほどいつも通りだ。おろし立ての服でもなく、流行りの靴でもない。ブーツはたまに通学にも使うし、コットンドレスはお気に入りで、もう何度もクロードも目にしている。つまり、新鮮味がない。

 ゴーン、とサーシャの頭の中で鐘が鳴った。大聖堂の夜の鐘。ようするに『終わり』に鳴る鐘だ。ゴーン……サーシャの小さな頭の中で、絶望の鐘が反響する。


(本当にこれで大丈夫なのかしら。わたし……)

 履き慣れた靴でなければ、靴ズレを言い訳にできたのに。無情にも、待ち合わせの噴水が近づく。

 とことこと石畳を歩いていると、とつぜん肩を優しく叩かれた。

「ああ、やっぱりサーシャだ! 」

 満面の笑みのクロードが、肩で息をしながら立っていた。

 すらりとした長身に、広い肩幅。シャツの下、筋肉でもりあがった胸元が呼吸に上下している。

 思わず「うっ」と胸を押さえたくなった。

 なんでこの人は、まだまだ魅力的なんだろう。デートのたび、彼の魅力は増すばかりだ。


「そこでサーシャが見えて、思わず走ったんだ! 見つけたのがうれしくてさ」

 恥ずかしそうにはにかむクロードは、ごくごく自然に、当たり前のように、サーシャの手を取って握った。

(なんて青空が似合うひと)

 無断で手を握られるのも、彼ならぜんぜん嫌じゃない。

(こんな素敵な人が、わたしの恋人だなんて……)

 もんもんとするサーシャの頬を、クロードの指がくすぐる。ほつれた髪をそっと耳にかけ、クロードの顔がほんの鼻先まで近づいた。優しい茶色い瞳が、光彩の色合いまで見える。

「……どうした? 気分でも悪い? 」

 きっと自分の毛穴まで丸見えだ。油をかけた焚火みたいに顔が熱く燃え上がる。

 サーシャの心の中で、今度はカーン! とゴングが鳴った。

 女友達が、いつかハンカチを振り回しながら言っていた言葉を思い出す。

「恋は戦争よ! 臆したものから負けるの! チャンスに食らいつくのよー! 」のよー! のよー……のよー……—————。


(そうだ! わたし、今日この人とキスするんだ! )


「そそそそそそそそんなことありません! 大丈夫です! わたしは元気ですよ! さ、いきましょう! 」

 サーシャはぐいっとクロードの手を引いた。顔を見ないようにしてずんずん歩く。

(照れてちゃだめ! 余裕のある女になりなさいサーシャ・ブランカ! 女は度胸! キスくらいナンボのもんですか! キス程度は通過点よ! )

 足取りとともに、頭の後ろでポニーテールがぶんぶん揺れる。

「ねえサーシャ? 」

 柔らかな恋人の声に、サーシャは鼻息荒く振り返った。「なんでしょう! クロさん! 」


「庭園の場所、知ってるの? 」

「………………存じません」

「うん。だよね」

「ええ……そうなんですよね。はは……わたし、どこに行こうとしていたと思います? 」

「クイズかい? 」

「いえ、今のは忘れてください。はは。今日はいい天気ですね。よかったぁ晴れて」

 首をかしげるクロードの仕草が、なんだか困っているように見えた。



◇◆◇



「ゴンドラに乗らない? 」

 その言葉にカチコチに固まった恋人の姿に、クロードの胸は温かくなった。

(なんて可愛い人なんだろう)

 クロードは、デートのたびに噛み締めるようにそう思う。

「庭園に行かないか」と誘った時はいつも通りだったから、きっとその後で『この庭園』だと気が付いたのだろう。

 赤い頬を隠そうとしてか、ポニーテールの毛先を左手でいじりながらそっぽを向いて歩くサーシャの姿に、クロードは確かな優越感を感じていた。この可愛い女性が自分の恋人なんですよと、全方位にいる同じようなカップルたちに主張したくてたまらない。

 そう、庭園は、恋人たちの坩堝るつぼであった。

 予想はしていたことだ。なにせ話題のスポットである。サーシャがあまり周囲を気にしている様子がないのが幸いなくらい、休日の庭園は恋人や家族連れでごった返していた。

 しかし、恋人が緊張しっぱなしというのも問題だ。

 クロードは、サーシャにデートを楽しんでほしい。

 話題の場所でなくとも、この庭園は素晴らしい場所だ。建築家のはしくれとして、見どころとなる場所は湖以外にもたくさんある。

 よし、とクロードは口を開いた。

「ねえ、サーシャ。あの四阿あずまやが見えるかい? あれはね、東の伝統的な建築を取り入れたおススメのスポットなんだ。ちょっと見ていかない? 」

 サーシャはこくりと頷いた。

 四阿に腰掛け、爽やかな秋の風にひと心地つくと、サーシャは少し落ち着いたようだった。

 サーシャが持ってきた弁当を食べ(これがとてもおいしい! )、他愛無い話をする。

 ほとんどクロードが庭園の話をしていただけだったが、相槌を打ち、時に笑い声をあげるサーシャは、いつもの調子を取り戻したように見えた。

 もともとクロードはお喋りなほうではない。口を開けば、建築のことしか出ない建築オタクだ。サーシャが初めての女性というわけでもないが、だいたいクロードの建築への情熱に冷めて遠ざかっていった。

 だから普段は、自分を律しているところがある。それがもう、癖になっていたはずだった。

(サーシャといると、落ち着くなぁ)

 彼女といると、自分でも知らなかった自分のことが分かる。

 サーシャはクロードを『年上で余裕ある男性』と思っているようだが、そんなことはない。もしクロードが、サーシャと同い年の十六の若造だったなら、と思うとぞっとする。

 サーシャといると、クロードは自分の弱点を自覚するが、同時に強くなれるのだ。サーシャのために、強くなろうと思えるのだ。

 こんな子は、そういない。

(ずっと一緒にいたいなぁ)


 だからこそ、今日は大切な日だった。

 デートは片手の数では足りないほど重ねてきた。

 二十の若者がするにはあまりに慎重に、彼女との仲を深めてきた。

 そろそろ一歩踏み出すべきだ、とクロードは決意を固めている。

 やらなくては。


「ゴンドラに乗らない? 」

 何度もシュミレートした言葉を口にすると、サーシャははっとして顔を上げた。「そ、そうですね……」

(よし、予想通りの言葉だ)クロードは、サーシャと繋いでいないほうの手で拳を握る。

「じゃあ、その……行こうか」

(うっ……今のは少しあらかさまだったかも)

 嫌な汗が出る。しかしサーシャは、気にしていない様子で「そうですね」とこくこく頷いている。

 湖のまわりは、意外にも静寂を保たれていた。雰囲気を壊さないよう、心配りされているのがわかる。


 担当のゴンドリスタは、いかにもベテランといったふうの初老の男だった。何人もカップルを見届けてきましたよ、というような温かな眼差しが、深く被った帽子の下で湛えられている。

 静かな湖面に、そっと、葉っぱのような船が漕ぎ出すと、男はゴンドラの一部かのように気配が薄くなった。

 これならいけそうだ。クロードは拳を固める。

 背を向けるゴンドリスタ側にサーシャを座らせ、自分は船尾側に向かい合わせに座った。きっとサーシャは、ゴンドリスタが視界に入ると落ち着かないだろうから。

 湖の周囲は、乗り場を除いたほとんどが、小高い木々に覆われている。ゴンドラ同士はたっぷり間隔を開けているので、他人の気配は感じない。

 おそらくすべてのゴンドラが滝を通るルートになっているが、緻密に組まれたスケジュールによって、ダブルブッキングなどということにはならないようになっている。

(大丈夫。これは成功する)

 問題は、すっかり黙ったままのサーシャだ。秋が薫り始めた森や、湖面を撫でるように吹く涼やかな風も、楽しむ余裕が無い。

 膝の上の自分の手と、こちらの首から下ばかり見ている。

 握っていた手も、ゴンドラに乗る時に離してしまった。

 ゴンドラは、ついに滝が見えるところまでやってきた。

 ごうごうと水の流れる音が間近に迫り、つい、滑りがよかった口も閉じる。

 ゴンドラは脇腹を向けるようにして、ゆっくりと反転しながら滝の裏へ回り込んでいった。ちらりと、帽子の下にあるゴンドリスタと目が合う。先ほどよりも鋭い視線をしたゴンドリスタは、左手でしっかりと櫂を握りながら、さっと右手の親指をクロードにだけ分かるように立てた。

(男を見せろよ! )

(言われなくても! )

 瞬きのあとには、ゴンドリスタは長いオールで岸側を蹴り上げるようにしながら、こちらへ背を向けてくれていた。今のは幻だろうかと思うほど、ゴンドリスタはゴンドラの一部に戻っている。

 霧雨ほどの水しぶきがかかるところまでやってきたところで、クロードはわずかに腰を浮かせ、サーシャに向かって手を差し出そうとした。

「サーシャ、濡れるから」

(こっちへおいで――――)そう言おうとしたときだった。

 サーシャは、驚いた猫のように飛び上がる。

 ぐらりと上半身が前後に揺れ、ポニーテールが飛び跳ね、サーシャは丸くした青い目を、ぎゅっとつむった。

「サーシャ! 」

 目前で傾いだ少女の体を、クロードは腕を広げて受け止めた。



◇◆◇



 強い鼓動と、男の人の汗のにおいがする。身体はしっかり固定され、足もちゃんと船底を踏んでいた。

 サーシャはそっと目を開き、頬に激しく上下する彼の胸を感じていた。

「大丈夫かい? 」

 確かめるように頭の裏を支える腕が動き、サーシャは頷きながら顔を上げる。心配そうに眉尻を下げた茶色の瞳が目前にあった。

 その茶色に吸い寄せられるように、二人は見つめ合う。

 ごうごうと水音がするのに、クロードの声ははっきりと聞こえた。

 ……それだけ近くにいるのだ。

 息を潜め、視線が瞳から唇に落ちる。後頭部のクロードの手がゆっくりとうなじに落ち、耳の裏を撫でながらサーシャの上気する頬を包んだ。

「……サーシャ」

 吐息がかかるほどクロさんの唇が近い。

 ――――お昼ご飯の匂いがした。

 はっとして、サーシャは体を固くする。

「わたし、ご飯のあと歯を磨いてない……! 」

 クロードがびくっとした。口に出すつもりはなかったのに、声に出していた。羞恥に顔が熱くなる。

 おずおずと視線を上げると、クロードも固まっていた。

(ああ……やっちゃった)

 声を上げて泣きたくなる。もうすぐ滝を出てしまうのに、クロードの手は頬に添えられたまま強張っている。

 クロードは、気まずげに視線を逸らした少女の顔を見下ろして「しまった」と思った。

「そんなこと気にするなよ」と唇を奪うのが正解だった。なんて自分は馬鹿なんだろう。

 思えば、サーシャはゴンドラに乗ってからぜんぜん楽しそうじゃない。(俺は、こんなふうにキスをすませていいんだろうか)それで彼女の気持ちは癒されるのだろうか。自分は今日、達成する目標ばかり見て、彼女のことをきちんと見ていなかったのではないだろうか。

 不安そうに体を固くする彼女が愛おしい。でも本当なら、もっと穏やかな気持ちでお互いに向かい合いたかった。

(……駄目だな。俺は)

 華奢な彼女を抱きしめる。頼りなく見えても、本来の彼女は真夏の向日葵のように力強い女性なのだ。彼女には薄暗い滝の裏で震えるのではなく、青空の元で笑っているのが似合う。

 優しく頭を撫でるうち、彼女の強張った体がほどけていくのが分かった。ゴンドリスタが、(いいのかい)と帽子の下から問いかける。(いいのさ)クロードは微笑んだ。

「こんど、二人っきりでしよう」

 囁くと、腕の中で赤い耳が頷いた。



◇◆◇



 暗澹。暗く沈んださま。暗澹たるさま。暗く沈んだ心境のこと。

 ゴンドラから降りたサーシャの思いは、まさしくそれだった。

(ああ……やってしまった)

 歯磨きなんてどうでも……よくはないが、気が付かなければ良かったのに。

(クロさんはああ言ってくれたけど、でも、恥ずかしかったけど、わたしだってしたかったのに)

 はしたない娘かもしれない。でもキスぐらい……と。

(こんなの言えない! )

 ゴンドラから降りてから、二人の手は繋がりっぱなしだ。温もりに、さきほど身体全体で彼の体温を感じたことを思い出す。

(……そういえばクロさん、どきどきしてた)

 あの高鳴りは、自分と同じだった。吊り橋効果、というやつかもしれないけれど、もっと前から彼もそうだったのだとしたら……。


「ねえ、クロさん」

「ん? 」と、クロードは微笑んでサーシャを見た。

「キスしようと思ったとき、どきどきしてました? 」

 言ってから、はしたない質問をしてしまったと顔が熱くなった。しかし、「おや」と思う。

 クロードは繋いでいないほうの左手で顔を覆い、今日はじめて、自分から視線を逸らしていた。いくら彼の手のひらが大きいといっても、その赤い耳までは隠せない。

(おやおや? )

 サーシャは微笑んだ。

 空はいつしか、夕立がきそうなほど曇っている。雨の気配に人々は姿を消し、庭園は静けさを取り戻していた。もう「いい天気ですね」は使えない。

 サーシャは視線の端で、あの静かな四阿を見つけた。

「ねえ、クロさん。わたし、今日はキスする日なんだと思っていましたよ」

 彼女の恋人は、「ばれてたか」と笑った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

靴擦れ知らずと、コットンドレス 陸一 じゅん @rikuiti-june

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ