最終話「すべては鋼の乙女の為に」
ある晴れた日のこと。ハサンは村の人々と愛する母親に別れを告げて、魔法の塔へと出発していった。とりあえず、塔までシモラーシャはハサンに付き添っていくことにし、無事ハサンを塔に預けるまでは一緒にいることにした。
村を過ぎてしばらく、そっとザールとサイードが現れた。
「おにいさんたち、ぼくの村をよろしくお願いします」
ハサンは丁寧にザールたちに頭を下げた。
サイードは相変わらず無表情であったが、さすがのザールは決まり悪そうな顔をした。同じ顔であっても、こうまで表情が違うのもおかしなものだ。
「そうだ」
すると、その場を和ませようと思ったのかどうかそれはわからないが、シモラーシャが嬉しそうに言った。
「なんか、鍋がどうとかって言ってたよね。その鍋で料理したら、ものすんごくおいしい料理ができるんじゃないかと思ったんだけど」
「確かに、あの鍋はラスカル様が創って下さったものだから、この世のものとは思えぬ料理が出来る。だが、それも兄であるサイードが料理しなければ無用の長物ではあるが」
ザールは得意げだ。よほど兄を尊敬しているらしい。すると、ようやくサイードが口を開いた。
「それがどうしたのだ?」
「うん。なんだったら、その鍋、あたしが探し出してこよっか?」
「ええー、あなたに探し出せるんですかあ?」
突然、マリーの素っ頓狂な声が上がった。それをギロリと睨んで、シモラーシャは憤然として言い切った。
「食べることにかけてはあたしの右に出る者はいないのよ!」
(いや、そもそも鍋は食べ物じゃないし)
と、マリーは心で呟いた。
転生前の彼女であれば、探し出せないこともないだろうが、とても、シモラーシャに神器とでもいうべきものを探し出せるとは彼には思えなかった。しかしまあ、彼女には無理でも、マリーには探し出せるという自信はあったので、それ以上は何も言わず、彼女の好きなようにさせておくことにした。
すると、サイードは重々しい口調で答えた。
「では、すまないが頼む」
「まっかしといてっ!」
シモラーシャはドンッと自分の胸を叩く。そんな彼女を驚くほど優しそうな目で見つめるサイードであった。そんな彼の視線を見て、マリーはシモラーシャの傍らで面白くないといった顔をした。なぜ、他の男が彼女に理解を示したり、慈愛を向けるとチリチリとした想いが自分の心に浮かぶのか、マリーには理解ができていないようだった。
「もし、鍋が見つかったら、その時はお前にも今まで食べたことのない料理を食べさせてやろう」
「えっ、ほんと?」
シモラーシャの幸せそうな笑顔がなぜか眩しい。
(なんだ、この感情は…ひどく不愉快で気持ちが悪い…)
彼は胸の痛みを感じていた。初めて感じる痛みだった。どこからこの痛みがきているのかわからないほどに。
それから、兄弟の魔族と別れて、三人の旅が始まろうとしていた。
「そんなに遠くにあるわけじゃないからね。さすがに数日で着くってわけにはいかないけれど」
歩きながら、シモラーシャはハサンにそう言った。ハサンは絶えずこの美しき人に尊敬の眼差しを向けていた。一方シモラーシャのほうはというと、自分のかわいい子分が出来たという気持ちでも持ったのだろう。とにかく、ハサンに剣士としての心構えや、魔法の塔での規律などを教えた。それに彼はいちいち頷き、彼女の言うことを必死に覚えようとしていた。そんなハサンを見て、シモラーシャはますます尊大な態度を取るようになっていく。
(…………)
だが、そんな二人の後ろを歩きながら、マリーは自分ひとりの物思いに沈んでいた。
(僕には奴の命を救う事は愚かなことだと思うのですがねえ)
彼は、ハサンという少年の取った行動や言動が理解できないらしい。
確かに、人間にもどのような理不尽なことをされようとも相手を許すという者もいないわけではない。だが、得てしてそういった者は年取った者であり、決してハサンのような幼き者ではない。感情のコントロールができないのが幼き者にとっては当たり前のことなのである。もちろん、大人にも感情のコントロールができぬ者もいるが、圧倒的に子供の方がその傾向は強い。
(それだけじゃない。奴ら兄弟はシモラーシャの正体に気づいている)
マリーは人差し指を立てて「だからね、ハサン。そういう時は…」と偉そうな口調で講釈をたれるシモラーシャを見つめた。
彼女の面相はかつての仲間と同じだ。気高く美しくその名の通り太陽のような存在。あの頃の仲間たち、神の名を持つ者たちにとっては、彼女の顔は忘れられない顔である。そして、一部の上級魔族、神と通じていた魔族もまた彼女の顔は見知っている。だが、シモラーシャがかの人の記憶を持っていないことにザールたちは気づいたようであり、それもあって、二人は彼女に余計な事は言わないことにしたのだろう。
(だが、僕は気になる)
マリーはザールとサイードがシモラーシャとかの人の繋がりを知っていることがどうも気に食わないようだ。それはなぜか、どうやら彼は気づいていない。なぜ、自分がこんなに不快で不愉快な気持ちになるのかが。
(彼女に余計なことを話す前に…)
二人がシモラーシャに必ず話すと決まったわけではない。ところが、マリーは正常な判断ができないようで、彼等が絶対に彼女に秘密を話すと思い込んでしまったようだ。
いつの時代も恋する男とは愚かだ。
恐らく、マリーはすっかりシモラーシャに心奪われてしまったということに、薄々は気づき、それを認めてはいても、そのことで己が一番毛嫌いをしている愚かな考えを持ってしまったことにまったく気づいていない。そして、彼はさらに愚かな行為をしてしまうことになる。
「あー、シモラーシャさん?」
マリーはのほほんとした声を出した。
彼の前を歩いていたシモラーシャとハサンの足が止まり、振り返る二人。
「なによ」
シモラーシャは話の腰を折られて不機嫌になっていた。しかし、そんな彼女にはお構いなしで、マリーは続けた。
「ちょっと僕は用事を思い出したので、先に行っててもらえませんか? すぐ追いつきますので」
「別にそのままどっか行っちゃってもいいわよ」
「そ、そんな~」
「ああ、もううざいわねえ。さっさと用事済ましてきたら?」
「はいー。ではちょっと行ってきますねえ」
マリーはにっこりすると、二人の傍を離れていった。
再びゴーラの村近く、その森の中。
同じ顔を持つ二人の兄弟魔族はシモラーシャたちを見送ったあと、ひとしきり離れていた間の自分たちの身の上を話していた。それはもう人間には計り知れないほどの時間の流れの中をこの兄弟は合い見えることがなかったのだ。
「不思議なものだ。俺たちにとってはそれほど永いという時間ではないが、この狭い世界で今までにお前に巡り会わぬとはな」
「それは簡単なことだよ、兄さん」
極めて単純なことだ。故意に巡り会わぬように気をつけていただけであったのだから。そこは何の能力も無い人間とは違い、逃げ回る事は簡単なことだった。だが、それでは今回巡り会ってしまったのはなぜか。
「それはたぶん、彼女のせいじゃないかと思う」
「あの方か…」
弟の言葉を聞き、サイードがそう言った。と、その瞬間、その場にいなかった人物が姿を現した。何もない空間から。
「困りますねえ、あの方の話をするのは」
「………」
マリーの姿を驚きもせずに見つめるサイード。だが、弟のザールは少なからず驚いたようだ。人間だと思っていた者が瞬間移動で現れたのだから。
「あなた方が彼女のことを口に出さなければこんなことはしたくなかったのですが」
まったく「したくなかったのだ」という言葉が嘘であるとわかるような口調でマリーは言った。すると、彼の姿が徐々に変化しだした。
少しづつマリーの琥珀色の髪が薄くなっていき、長く伸びていく。顔の造形も変化していき、髪と同じく琥珀色をしていた瞳も薄くなっていく。同時に何もない空間からフィドルと弓を取り出す。うっそうとした森がざわめき、まるで恐怖に打ち震えているかのように木々が揺れ出した。
「あ…あ…」
マリーの変化していく姿を驚愕の目で見つめ、ザールは声にならない声を上げた。震え出した彼を安心させるかのように兄のサイードは強く弟を抱きしめる。
そして、完全にマリーの変身が終わると、サイードはポツリと言った。
「矢張りあなただったか。マリス殿」
そのサイードの面も緊張に強張っていた。明らかに目の前の人物を恐れているようだ。
今や、抱き合う兄弟の前に立っているのは、陽気で気さくな吟遊詩人のマリーではなかった。長く伸びた輝くまでの銀色の髪をうねらせ、その髪と同じ銀色の双眸で射抜くかのように彼等を見つめた神々しいまでの人物がフィドルを携えて立っていた。そう、言わずと知れた音神マリスである。
「久しいな、サイードよ」
マリーの声にも聞こえるが、マリーとはまったく違うような声色だった。
「マリス殿は既に復活されていたのか。他の神々はまだのようだが」
「そのうち皆も復活を果たすだろう。だが、今はそのことを話すつもりはない」
「あの方のことか」
「そうだ」
「あの方がなぜ人間になっているのか、俺にはわからん。知りたいとも思わん。噂では贖罪で人間に身を落としたのだとも聞いた。そして、神であった頃の記憶のまま永遠に転生し続けるのだと。それは憐れなことだとも思ったが、だが、俺には関係はないとも思っていた。確かに俺はあの方を好ましく思っていたが、それは恋愛感情とは違う。純粋に尊敬していた。それだけだった。そして、人間になったあの方は、確かに魂の輝きはあの方と同じだが、まったく印象が違う。あれはあれで好ましいと俺は思った。どちらかというと、人間のほうが恋愛感情にも変わりうるかもしれぬとまでも」
その言葉を聞いたマリスは表情はまったく変えなかったが、フィドルを握る手がかすかに震えた。それをサイードは見逃さなかった。
「あなたは太陽の女神を嫌っていた。それはどうしてなのか、俺のような者にはわからぬ。だが、本当はあなたもあの方を好いていたのではないのか? なんとなくそう思ったのだが」
「これは笑止」
マリスの瞳が銀色に燃えた。
「シモラーシャはあの方とは違う。印象どころか、魂さえも違うのだ。同じではないのだ。あの愚かな女神などと一緒にするな」
「…………」
サイードは冷や汗が流れるのを感じていた。マリスの持つ狂気をひしひしと感じているようだった。マリスがここにいるというそれだけでもう彼にとっては観念すべきことだと、覚悟をしなければならないことだと思ったようだ。
「彼女の、シモラーシャの秘密は誰一人知ってはいけないのだよ。知ってしまったら最後、その者は存在してはならぬのだ」
「な、何を言って…に、兄さん、まさか、まさか僕たち…」
「…………」
憐れな弟にかける言葉をサイードは持っていなかった。マリスに逆らうことは彼らにはできない。圧倒的な力の差があることを彼は肌で感じていたからだ。
かつての音神は、神に通じた魔族を気ままに嬲り殺して手打ちにしたものだった。それはもう悲惨な殺し方で、その時の恐怖をザールは忘れていなかったのだろう。恐怖に気が狂いそうになっている。
すると、その残酷な銀の貴公子とまで言われたマリスが、震えるザールに向かって優しい声音で「ザールよ、お前の望みを叶えてやろう」と言った。
「え…? 僕の…?」
恐怖に震え上がりながら不審そうな目をマリスに向ける。そんなザールに声だけは優しく、微笑んでさえ見える面をマリスは見せていたが、しかし、マリスの目はまったく笑ってはいなかった。
「そうだ。お前は己の存在を呪い、死にたいと言っていた。私がお前を死なせてやろうと言うのだ」
「で、でも…僕にはもう死ぬ理由がない。だから、僕の望みは今は兄さんと生き続けることだ」
「そうか。ならば兄がいなくなれば生きる理由もないのだな」
「なっ…!」
マリスの言葉が途切れた瞬間、ザールを抱きしめていたサイードの身体が、まるで見えない手で引き剥がされたかのように弟の身体から離れた。声を上げる間もなくサイードはマリスの足元にひれ伏す格好で跪く。
「ぐ…」
サイードの身体は上から押さえつけられたかのように動けないでいた。何とか満身の力でその呪縛から解き放たれようとするが、まったく動かすことができないようだ。
「正直、お前たちに恨みはない。シモラーシャと出会ってしまったことを不運に思うがいい」
「マ、マリスどの…」
自分を見下ろすマリスにサイードが珍しくも必死な形相を見せる。
「彼女の顔は、あの方の尊顔とそっくりだ。俺たちのような神と交流のあった魔族はみんな知っている顔だぞ。あなたはこれからも彼女の顔の持つ秘密を知った者達を殺すのか? そんなことに何の意味がある。あなたは恐ろしい方ではあったが、理不尽なことはなさらなかった。こんな、まるで…」
「まるで、何だと言うのだ?」
「それを俺に言わせるのか? あなたを怒らせるとわかっていることを?」
「すべては…」
マリスが歌うように呟き始めた。そして、手に持たれたフィドルを奏で始める。
「我を癒す鋼の乙女のために。私は彼女を守るためならどんなことでもする。やっと見つけた私の唯一の宝なのだから」
「こ、これは…」
フィドルの音色が、まるでねっとりと絡みつくような粘り気のある水のようにサイードを包み始めた。
「た、たのむ! 俺は死んでもいい。弟は、ザールだけは助けてくれ」
「それは無理だ。ザールはお前の作るものしか食べられないのではなかったか?」
「ラスカル様の神器さえあれば、俺が作らなくても弟は生きられるんだ。包丁と鍋さえあれば」
「だが、ザールもシモラーシャを知ってしまった。生かしておくわけにはいかぬ」
「マリス殿!」
だがしかし、マリスはフィドルを奏でる手を止めなかった。音色はいよいよその場に広がっていき、跪くサイードと、少し離れた場所で恐怖の為に放心状態になってしまったザールをその音のうねりに飲み込んでいった。
二人の身体が徐々に薄くなっていく。
「ザ、ザール…」
サイードの悲痛な声が弟の名を呼んだが、ザールには届かないようだった。
そして、ついに二人の憐れな兄弟の身体は霧のように霧散していった。あとにはフィドルを弾き続けるマリスのみ。
あたりは恐ろしいまでの静寂が訪れていた。まるで、森全体が死に絶えてしまったかのような静けさだ。マリスはフィドルを弾くのを止め、その姿を再び吟遊詩人のマリーへと変貌させていった。
「サイード、そしてザール。あなた方は死んだわけではないのですよ。あなた方は常盤の彼方へ旅立ったのです。やっと平穏が訪れたのですよ。僕は本当はあなた方がとても羨ましい」
マリーは琥珀色の瞳に悲しみの色を浮かべて、そっと呟いた。
「僕が其処に旅立てる日は何時のことでしょうねえ…」
「あ、やっと帰ってきた」
マリーが用事を済ませてシモラーシャたちに追いついた時、この金髪の美少女はニッコリ彼を出迎えると言い放った。
「マリー、あたしお腹すいたーなんか食わせてー」
「ぷっ…」
「あーなに笑ってんのよ。腹減るのは元気な証拠だよ?」
「マリーさん、さっきからお姉さん腹減った腹減ったってうるさいんですよ。ぼくにはどうしていいかわかりません」
さすがのハサンも尊敬する剣士の腹減った攻撃には辟易したらしく、困った顔をマリーに向けた。
「ぷぷっ! あっはっはっはっはー!」
おもしろすぎる。マリーは笑いが止まらなかった。これが太陽の女神と尊敬され敬われていた人なのか。あの方は人間に転生されても、決して女神であった頃の記憶はなくしていなかった。だからこそ、人間であっても、その神々しさは失われず、人間たちにも一目置かれ続けたのだ。この千年近くの間。
(それが、それが、こんなことになるなんて…)
ぷーっと頬を膨らませてマリーを睨みつけるシモラーシャ。
「ねーねー笑ってないで、早くご飯食べさせてよー。あ、それともまたあたし特製の闇鍋でもする?」
それを聞いたハサンが怪訝そうな顔をしたが、マリーはとんでもないといった顔をして叫んだ。
「わかりました、わかりましたよー。確か近くに宿場町があったと思います。食事代くらい奢りますから、もうあんな地獄鍋のようなものはカンベンしてくださいー」
「あら、失礼しちゃうわね」
マリーの言葉にプンっとするシモラーシャ。そんな顔もまたキュートだ。
だが、奢って貰えるとわかってなのか、「さあ、さあ、ハサンも歩いた歩いた」と意気揚々と歩き始めた。そんな彼女の後ろにつき従い、マリーは再び物思いに沈む。
(何だかこれから面白いことになりそうだな)
そんな楽しそうな旅を誰にも邪魔されたくないと思った彼であった。
これから何が自分たちの前に待ち受けているのかはわからない。だが、一つだけ彼にはわかっていることがあった。
もし、彼女の今の人格を脅かすものが出てきたら、その時は容赦なくその相手を滅する。たとえそれがかつての仲間であったとしても。たとえそれがこの世界で敬愛していたその人であろうとも。
(僕から宝を奪おうとする者を僕は絶対に許さない)
そして、彼はこう誓う。
(僕はサーラを裏切ったあの男、そして、闇神を裏切った太陽の女神のようには絶対にならない)
「…決して」
「えーなんか言ったぁ?」
思わずついて出てしまった言葉にシモラーシャが反応したのを慌てて「なんでもないですよー」とヘラヘラ笑ってごまかすマリー。
「変なのー」
彼は慈愛をこめた目を世界最強の乙女である彼女に向ける。
マリーの芽生え始めた愛はまだ小さかった。だが、確実にそれは大きく膨れ上がっていき、至上のものへと成長していくのである。それはまだ先の話ではあるのだが。
「シモラーシャさん。カツどんがまた食べたいですよねえ」
マリーはそう声をかけながら、どんどん歩いていってしまうシモラーシャに追いつこうと走り出した。
そこは魑魅魍魎ひしめく世界。世界最強の乙女、鋼の心を持つ乙女と、不思議な音色を奏でる吟遊詩人が旅する世界。これから二人の冒険譚が始まるのだ。
完
初出2009年8月19日
光の乙女2「我癒すは鋼の乙女」 谷兼天慈 @nonavias
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