亡き王女のためのパヴァーヌ

フカイ

掌編(読み切り)




 裏山を『三角山』と呼びはじめたのはいつのことか、もはや記憶は定かではない。

 しかし山裾を削って造成地にし、その東向きの斜面を宅地として分譲したときから残された元の山の山頂部分は、あまりに人工的な斜面となっていた。ひと知れず、『三角山』と呼ばれたのもさもありなんというものだ。


 きみの一家がそこへ引っ越してきて数年経つと、その山は、きみを含めたその新興住宅地の少年たちの格好の遊び場になった。山の獣道はきみたちのズック靴で踏み固められ、垂直に切り立った1.5メートル程の崖には蔓草のロープで作った縄ばしごまでが用意された。


 三角山へ登る入り口には粗末な見張り小屋が設置された。子どもの脚でも3分で登れるその山頂には、立派なカエデの樹が生えており、その樹上には板を渡して作られてた秘密基地が出来あがった。昆虫博士であるところのきみは、捕獲した様々な虫の名前を正しく友人達に教える大役を担っている。


 秘密基地の中には非常用の乾パンと佐久間ドロップ。そしてロープや懐中電灯などのサバイバル用品と、ゴムのパチンコ、銀玉鉄砲、夏の縁日で買ってもらった蛍光プラスティックの刀などの武器が隠されていた。

 きみたちはいつ来るかも知れない大地震や敵の襲来に備えて、つねに基地と見張り小屋の整備を欠かさなかったし、膝小僧や二の腕に出来たいくつもの擦り傷やのあとは、いってみれば勲章のようなものだった。



 ●



「非常用の秘密の抜け道を作ろう」と言い出したのは、でぶのブージだった。


 ブージは5月の連休に家族で隣県の“ファミリー忍者ランド”に行ったのだ。「忍者屋敷には必ず抜け道があるんだ。敵に攻め込まれても最後の逃げ道をとっとくためにさ」。

 言われてみればきみたちの秘密基地には、入り口がひとつしかなく、三角山のふもとを敵に占領されたら退路は完全に断たれてしまう。ブージの意見には誰も異論はなかったので、日曜の朝早くから、一致団結して抜け道を作った。


 鉈や鎌、スコップやツルハシなど、どの家の納屋の中にでもある、だけど子どもが持つには多少危ない道具をきみたちはこっそり持ち出した。そう、両親が『兼高かおる・世界の旅』を夢中になって見ているあいだの出来事だ。

 そして山頂のカエデの木の下で作戦会議を開き、抜け道は南側の斜面を切り拓いて作ることにした。朝から必死になって草を刈り、斜面をならしたが、秋の夕暮れはあっという間にきみたちの時間を奪ってしまう。


「腹へったなぁ」と誰かが言い出すと、今日の夕飯のエビフライやハンバーグのことできみたちの頭はあっという間に占領されてしまう。

「またなー」と手を振りながら、それぞれの家の納屋に道具をこっそりしまい、きみたちは家族の食卓へ戻ってゆく。『今日のことは絶対に絶対に秘密だからな』と、固い約束を胸にしまって。


 まばたきを2回する間に週が変わり、再びあの神聖な日曜日がやって来る。きみたちは先週のように内緒の道具を持ち寄って、三角山のふもとに集合する。


 そして、呆然と立ち尽くす。


 三角山のふもとに、黄色い土木工事用車両が何台も停まっていた。そしてあの慣れ親しんだ山の斜面は、巨大なパワーショベルにごっそりと削り取られ、土の断面をさらしている。むき出しの土の壁に、草木の根が所在なげに宙に伸びている。あまりに生々しいその光景に、君たちは言葉を失う。

 日曜日だからその工事はお休みで、そんな暴力的な光景は、一時停止をかけられたビデオのように作業途中で完全に静止している。あの見張り小屋は跡形もなく、山頂の母なるカエデは無惨にも切り倒されていた。


 『第二次宅地拡張計画』とか『追加造成作業』とかいう概念は、きみたちの手に余る問題である。チビのメーにいたっては、鼻を垂らしながらすすり泣いていた。大人たちのあまりにも勝手な暴力に、きみたちは黙って首を振るしかなったのだ。


 しかし、きみたちがそもそも住んでいる山の斜面の新興住宅地だって、10年前までは地元の子どもたちの遊び場だったのだ。

 きみたちがその致命的な自己矛盾に気づくには、まだまだ遠い時間がかかる。



 ●



 妻と暮らしていて、もちろん不満がなかったといえば嘘になる。

 日曜の夕方に決まって彼女がかけるアイロンのスチームの匂いが嫌いだ。それはいつも実家の母親を思い出させ、ぼくは居心地の悪さを感じる。だからぼくはつい、その時間になると散歩に行ってしまう。

 夜寝る前に、彼女が鏡台に向かって乳液をはたくのも嫌いだ。いや、それを見ているのが嫌だ。だからぼくは新聞を読んだり、音楽を聴いたりしながら、なるべくそのことから意識をそらす努力をする。でも化粧水の甘ったるい匂いだけはどうしようもない。それはふんわりと空気を漂い、ぼくの鼻に到達してしまうのだ。


 三〇代を半ば終えたぼくがなんでこんなつまらないことに固執するのか。それは自分では判っている。

 妻がアイロンをかける間。妻が乳液をはたく間。その手持ち無沙汰こそが、『大人』という奴のホントウなのだと気づいたからだ。

 大人という奴は、別に酒場でいい女と恋の駆け引きをしたり、上等な背広を着て、ホテルのラウンジで堂々と新聞を読んだりするだけではないのだ。

 アイロンや乳液のつまらない時間の積み重ね。それこそがなのだ。


 「あなたのことは今でも好きよ」と言い残して妻が去った時、飲みかけのコーヒーをキッチンのテーブルに置き、まずぼくが思ったのは、『ああ、もう大人の振りをしなくても良いんだな』という奇妙な安堵感だった。

 自分でも馬鹿げているとは思うのだけど、もう誰かに嘘をついたり、愛想笑いをしなくても良いんだと思うと、肩の荷が下りたような、ホッとする安心感があった。喪失感や傷心を感じないのが、かえって危ないと思うぐらいだ。



 ●



 思うに、五才や八才の頃の延長線上に、いまの自分があるのかどうか、よくわからない。


 あの愚かにも輝かしい時代からはずいぶん遠いところまで来てしまったという感慨は、確かに胸の中にある。

 本当にその時代が存在したのかさえも、もうわからないほど遠い気がする。

 もちろん論理的には、ぼくという存在は母から生まれ、乳幼児を経て、あの時代を通り越し、少年から青年になって、そしていまの冴えない中年にいたることは判っている。


 しかし、そこに至る道のりは決して一直線ではなかった。


 あの頃の輝かしく愚かな自分がまっすぐ大人になったのなら、ぼくはもっと違った人物になったのではないか?

 そして妻は、ぼくの元を去らなかったのではないか。

 そんなことを時折考える。


 仮に、あの両親の庇護のなかで彼らの愛を一瞬たりとも疑わなかった時代は、すべて幻想だったと仮定すると、話しはもっとシンプルになる。

 別に今でも愛を疑うほど世を拗ねているわけではないけれど。


 ただ、いまの現実の自分に馴染めないまま、妻にさえ去られてしまったぼくは、ぼくという名前の容れ物いれものに間違えて住み着いてしまった他人の魂なのだ、と考える。すると多くのことがあまりにしっくりと理解される。

 本当の自分探しなどと、青い若者たちのようなことを言いたいわけじゃない。

 ただ、この拭い去りようのない違和感は、きっとあの少年時代を一度葬り去ることでやっと落ち着き先を見出すような気がするのだ。



 ●



『パヴァーヌ』とは、『16,17世紀に流行した宮廷舞踊;またその曲』のことらしいが、プレーヤーにラヴェルのレコードを置き、そのパヴァーヌを聞きたい。

 酒は透明なジンやウヲツカ。肴は過去の記憶と、去った妻だ。


 もし出来ることなら、ほどよく酩酊した後に、今は亡ききみのために、宮廷舞踊を踊ってみたいところだが。




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亡き王女のためのパヴァーヌ フカイ @fukai

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