レヴォントゥリ

若生竜夜

レヴォントゥリ

 藍色の空で狐の火レヴォントゥリが軋りをあげた。

 凍りついた岩の間をトゥーリがすり抜けていく。巨人の叫びのような、あるいは名もなき妖怪ペイッコが空腹にすすり泣くような、耳ざわりな音が絶え間無く響いている。極夜カーモスの雪が放つ薄明りを頼りに、私は一歩、また一歩と、気を急かされるまま半ば手探りで岩に刻まれた階段を伝い下りていく。

 〈星の湖タハティ〉。地に点在する聖地シエイディスのひとつ。数千年もの昔に、事故で落ちたタハティにより、雪と石と氷の大地が穿たれてできたと言い伝えられる湖だ。その〈星の湖タハティ〉の下に、岩の階段は潜りこむ。暗闇の中、一度溶けて固まったうす緑色の硝子質の石がきらめく道。石に導かれるまま下り切った先には、オクタヘドライドの銀白色に輝く帯状組織ラメラが浮き出した、まるで宮殿のような広間がある。そこはいつもひどく寒く、じっと立っていると、氷の中に閉じ込められたように骨まで沁み入ってくる冷気に凍えることになる。

 私は霜の息を吐きながら、滑るように広間の一角に歩み寄る。そこには、私と、前の私と、前の前の私と、さらにその前の私と、……湖のほとりに住む村人たちが代々守り、狐の火レヴォントゥリの目の女――北辺ポホヨラ巫術師ノアイデロウヒたちが受け継いできたものがある。

 広間の奥、霜の浮いた透明な棺の中にそれは眠る。眠っている。私たち〈ロウヒ〉の根源マスタージーン。この国の、この惑星の上には、ないはずのもの。凍結の眠りコールドスリープについている彼は、それはそれはうつくしい銀緑の光をまとっている。私たちロウヒは呼ぶ、彼を〈創造者イルマリネン〉と。たとえようもない愛しさと憧れを込めてその名を呼ぶために、六年に一度、岩の階段を下り、私たちは彼に会いに行く。

 表面に手を当てれば、私の中に組み込まれている彼の遺伝情報ゲノムを確認した棺が、小さな音を立てて凍った息を吐き出し、冥界トゥオネラの白鳥が翼を開くようにゆっくりと蓋を上げて彼を開放する。彼は……イルマリネンは凍結の眠りコールドスリープから目を覚まして、鮮やかな狐の火レヴォントゥリの瞳に私を映してほほ笑み、両のかいなでやさしく私を包む。

 けれど、今夜きっと、そのほほ笑みと抱擁はない。ふた月半。前回の目覚めからたったそれだけしか経っていないこの訪問は、異例のことであるから。

 私は暗闇を振り返り、追手の灯がまだ見えないことに安堵して、また階段を下っていく。巨人の吼え声が紺色のフェルト上着コルトの裾をはためかせる。背中にこびりついた焦りが私を押している。

 今私を追いかける者――軍の男たちが村に現れたのは、三日前のことだ。彼らは言った。極北付近から出る自然の電波にまぎれて、この辺りから未確認の強い信号が発信されていると。新しく作られた軍の受信設備が偶然に捕らえたそれは、未知の言語で何事かを繰り返しているのだと。

 子どもの悪戯だとは、彼らは判断しなかったのだ。歴史上いく度も周りの国に侵略され支配を受けてきたこの国の軍は、仔を連れた母熊のように神経質だ。

 彼らは発信源を探し、村を突き止めてやってきた。私たちを狩り立てるために、銃を携えて。

 村は、突然に他所からやってきた連中を警戒した。あたりまえだ。あからさまにぴりぴりとした軍の男たちを、歓迎するような者がどこにいる? まして、数千年も前から変わらない漁とトナカイ遊牧での生活をいまだに続けているこの偏屈な村が、彼らを受け入れるなんてこと、あるはずがない。

 けれどあの気取り屋が、いけすかないうぬぼれやの男エイノが、私たちを売った。村人たちが精霊ハルティアだと信じて秘密にしてきたイルマリネンと、彼に連なる北辺ポホヨラ巫術師ノアイデ――意図的にそう見えるように代々の私はふるまってきた――である私のことを、軍の男に話したのだ。理由はくだらない。冬至の祭ヨウルで、私がエイノに申し込まれた結婚を断ったからだ。

 私たちロウヒは皆美しい。小さな顎も、白樺のようにほっそりとしなやかな体つきも、イルマリネンのうつくしさを明らかに写している。それはこの惑星の知的生命体の歓心を買い、庇護を受けるために作られた姿だ。巫術師ノアイデの力――ロウヒが持つのは一般に念話テレパシーと呼ばれる量子もつれを利用した情報伝達能力だが――とそのうつくしさで畏敬を得て、イルマリネンを守り続けていくために必要として組まれたものだ。

 私たちロウヒの使命は二つ。動けぬイルマリネンの代わりに収集した惑星情報エコロジカルシステムデータを、イルマリネンが眠る調査船サンポへ送ること。彼と調査船サンポを、この惑星の生命たちの害意から守ること。そのために必要な庇護を受ける相手選びは、私たちロウヒ個々人の意志に任されている。ロウヒは皆一様に慎重だ。イルマリネンを守り、彼の代わりに情報を収集するために、選択する条件は決まっている。それなりの力をもち、しかし極端に目立つほどの性質や社会的な地位はない、平凡な相手。〈ロウヒ〉を束縛せず、嫉妬や憎悪にかられてイルマリネンの排除に動いたりなどしない、口が固く信用できる相手。必要なのはそういう相手なのだ。エイノのようなうぬぼれやは当てはまらない。

 銃を構え小屋に押し入ってきた男たちを前に、私は部屋に火をつけて、裏口から逃げだした。持ち出せたのは、この身ひとつ。けれどそれで充分だ。私は、湖の下のイルマリネンと、私の中のイルマリネンの遺伝情報ゲノムさえ守れればいい。

 トナカイ革の靴が帯状組織ラメラの浮き出した床を踏む。オクタヘドライドの広間に入った途端、闇に慣れた目を、銀白色の輝きが眩しく射った。宮殿のような空間に満ちている骨まで沁み入ってくる冷気は、ふた月半前と変わらないまま。違うのは、棺の蓋が既に開いていることだ。

 銀緑色の光をまとう影のもとへ、私は走り寄る。

「イルマリネン!」しなやかな腕に私は抱きとめられた。

「私が来るってわかっていたの?」

 白い息が、彼の胸に当たってキラキラと輝く。レポの尾が撥ねあげる雪の粉のように。

『感じたから』触れている部分から、彼が思考を流し込んできた。こんな時でもイルマリネンの思考は、五弦琴カンテレの音色のようにやわらかく響く。

『思考は読み取れなくても、恐怖はわかる』

 心臓が強く拍打つ、たまらない愛しさで。〈ロウヒ〉に組み込まれた、遺伝情報ゲノムの主への特別な感情で。

「戦うの?」私は尋ねた。「この広間を、調査船サンポを作り変えて」

『いいや。調査船サンポに干渉する能力を私はもたない。私にできることは、複製体ロウヒが集めた惑星情報データを信号に変えて母艦へと発信することと、複製体ロウヒの生体組織を組み変えることだけ』

 イルマリネンの指が私のうなじに触れる。彼の能力が生体に干渉し、アポトーシスを誘導した。私を形作る細胞が、破壊と再構築の急激なサイクルに入る。熱い。私は呻いた。自壊した細胞から放たれた熱が、内側から私を焼く。変容がもたらす痛みに身をよじりながら、凍りついた床に私は倒れた。

 苦痛に涙しながらのたうち、震えあえぐ私の骨が、肉が、肌が、あらゆる器官の細胞が結合を解かれ、本来の形であるどろどろの細胞スープに戻っていく。抜け殻じみた衣服が浮かぶ蛋白質の水たまりから私はいくつかの段階を経て成形しなおされ、固く、しなやかにやわらかい体を得て、四方へと手足を伸ばした。

 地を這う根となった私のうつくしい脚はオクタヘドライドの床を突き破り、半壊した調査船サンポの制御核へもぐりこむ。かつてはたおやかな乙女のものであった私の腕は、絡み合う枝となってイルマリネンを抱き、彼の脳と調査船サンポをつなぐ装置システムとなった。

 私は調査船サンポに干渉し、融合炉を稼動した。生みだした動力を推進装置に送り込んで、徐々に出力を上げていく。

 サンポの上に――私の上に載る大地が、震え始めた。きっと厚く凍りついていた湖の氷も割れ、湖面はひどく波立っているだろう。

 私が動かす船、この調査船サンポが、かつてのようにこの惑星の大気を突破できるかはわからない。私が集め、イルマリネンが送り続けた惑星情報エコロジカルシステムデータと救難信号にも、はぐれた母艦からの応えは未だになく、往路にサンポを守ってきた物理装甲シールドも朽ちて半ば失われかけている。それでもサンポは――ロウヒは飛ぶのだ、この銀河系のどこかにいるはずの母艦へ向けて。たとえ調査船サンポと私が途中で燃え尽きるとしても、イルマリネンを守り、母艦へ送り届けるために、惑星の重力を振り切るのだ。


   *   *


 先住する少数民族の伝説で、黒狐レポの尾が撥ねあげた雪の粉が太陽に輝いてできる火花――狐の火レヴォントゥリと呼ばれる極光オーロラが強く輝いたこの日。ユーラシアプレート内にあり、安定した地盤から地震がほとんどないこの国で、小規模ではあるが珍しく体感されるほどの局地地震が起こった。

 震源を北部の小さな湖と記録する長い地震の直後、震源地周辺の地域から相次いで報告された、湖から天へ昇る強い輝きを目撃したという情報は、未だ報道されず、公式にも記録されていない。

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