一と千がつりあう天秤
@mikenovels
第1話
振り上げた剣が首を撥ねた――
かつて人が住んでいた城にカインとユーリは訪れた。目的はただ一つ、全ての魔物たちを統べる魔王を倒すためだ。
月明かりに照らされる城内を歩き回り、二人は謁見の間で一際禍々しく強大な魔力を放つ魔物を見つけた。魔物はまだ二人には気付いていない。
――間違いない。あいつが魔王だ。
カインは悟って、ユーリに尋ねる。
「覚悟は出来てるか?」
ユーリは小さく頷いた。
「もちろん。いつでもいけるよ」
そうか、とカインは小さく呟くと、ポケットから指輪を取り出した。
「手を貸してくれ」
ユーリはカインが何をするのか理解し、真剣な面持ちでカインに手を渡す。カインはユーリの薬指に指輪を通した。
「この戦いに勝って平和を取り戻せたら、結婚しよう」
カインは言った。
「……はい」
照れくさそうにユーリは答え、二人はキスをした。
そして数時間に及ぶ激しい攻防の末、カインの剣は魔物の首を捉え、倒した。
安心感も達成感もなかった。カインは最愛の人を、今、失おうとしているからだ。
「目を開けてくれ! ユーリ!」
カインはユーリと違い、怪我を治癒する魔法は使えない。ユーリの胸に空いた穴から溢れる血は止まらなかった。
何度も呼びかけた。自分にはそれしか出来ないと分かっていた。
「うう……」
必死の呼びかけが通じたのか、ユーリは弱弱しく目を開いた。どこか遠くを見ている目だ。
「ごめんね……約束……守れないみたい……」
カインはユーリのか細い声に耳を傾けた。
「でもね……最初から……無理だったんだよ……だって……私……」
ユーリは何かを言おうとしている。しかしそれは声にはならずカインには何が言いたかったのか分からなかった。
ユーリはカインの頬にそっと手を伸ばし、力なく微笑む。
「この首飾り……綺麗でしょ……? 実はね……これは特別なものなの……。見て……」
カインは首飾りを手にして見た。遠くから見るとただの銀色の装飾がなされたペンダントのように見えるが、実際に手に取って見ると小さな時計のようなものに見える。しかし、針は動かず止まったままだ。
「それを使えばね……一回だけ……時間を巻き戻せるの……」
月光が反射し美しく光る。
「使っちゃだめだよ……折角魔王を倒したのに……でも……」
ユーリの瞳に涙が滲む。それも月に照らされ平等に輝かせる。
「君と……一緒に……なりたかった……」
それからユーリは何も言わず、涙を流し続けた。泣きじゃくる声だけが静かに響く。それも次第に小さくなり、とうとう音は消えた。
空は雲に覆われた。一瞬のうちに厚い雲が支配し、雨を降らせる。しばらくすると、雷雲が近付いて音を立てる。悲しみの雨音と、怒りの雷鳴が二つ、鳴り響いた。それは当分、途切れることはなかった。
カインはユーリの亡骸を馬車に乗せて故郷であるサデスタ王国へ帰った。カインがサデスタ王に魔王を倒したことを報告すると、国中が歓声に溢れ、宴の準備が始まった。
カインはその騒ぎに乗じて国を抜け出し、ユーリとある場所へ向かった。
サデスタ領の北端、小高い丘の上に一本、大きな木が伸びている。太陽が葉の上にのる雫を宝石のように輝かせ、風が爽やかにざわめかせる。それはあまりに美しく、カインにとってあまりに無慈悲で、無情で、残酷で、哀しい光景だった。ここ――サデスタの木の下はカインとユーリが初めて出会った場所だった。
涙は流さなかった。泣くことで少しでも気が楽になってしまう気がしたからだ。
――守りたかった。全てを犠牲にしてでも守りたかった。
ユーリをサデスタの木の下に寝かせ、空を見上げる。
――きっと世界は、少しずつ平和へ向かっているのだろう。それは良いことだ。元はと言えば、ユーリが魔物に怯える心配のない世界にするために俺は剣を取ったのだから。
でもユーリは死んだ。魔王が殺した。そして俺が殺した。旅立つ時、ユーリを旅に連れて行かなければこんなことにはならなかったんだ。危険な旅になつことは分かっていたのに――
カインはユーリから受け取った銀時計を手にして見つめた。時計の針は真昼を差している。
ユーリは、この時計は時間を巻き戻せると言った。ならばやるしかない、カインはそう思った。
しかしどうやって使えばいいのかカインは知らない。針を動かすねじのようなものも付いていないようだ。
カインはとりあえず指で時針を動かした。直後、カインの視界がねじれた。ねじれはどんどん大きくなって軽い吐き気を催す。耐え切れなくなったカインはユーリの顔を見つめ、そして意識が暗転した。
――遠くでパチパチと音がする。何かが弾ける音だ。
――暖かい。このまま寝てしまいそうだ。
――この感じ、前にどこかで……
「……い。……い!」
――誰かが何か言っている。でもよく聞こえない。
「……い! ……しろ!」
――うるさいなあ。今、凄く気持ちが良いんだ。
「おい! しっかりしろ!」
カインはハッとして目を開いた。
パチパチと音をたてて燃える木材。それらは灰になるまで燃やされ、小さく残り火を灯していた。黒い煙が高く上る。喉の奥が痛くて何度も咳をしてしまう。目の奥が痛い。泣かないと決めていたのに涙が出ている。
カインの隣には何度か見たことがある男がいた。この男がカインに声をかけていたのだ。
「残念だが、お母さんとお父さんはもう……」
カインは理解した。自分は間違いなく過去に来たのだと。そして、戻った先が、父と母を火事で失った日だということを。星が綺麗な夜のことだった。
カインはサデスタの町を出て走った。行き先はサデスタの木の下だ。時間が巻き戻されたことを理解したカインはこれから何が起こるのか分かっていた。
――サデスタの木の下に、ユーリは必ずいる。
今日は初めてユーリに会った夜だ。
カインは両親をなくした時、奥歯をかみしめ泣きながら町を飛び出した。親をなくした悲しさと、家族がいる町の人を羨む気持ち、そして上辺だけ取り繕って心配する人々に幼かったカインは耐えきれなくなったのだ。
しかし今のカインは違う。目的を持って前進している。ユーリを救うという目的の前ではどんなことも障害にはならなかった。
――でも、父さんと母さんが死ぬところをもう一回見るなんてなあ……
カインは胸を押さえた。
サデスタの木にたどり着いたカインは仰向けに倒れ込んだ。体が幼くなったため、体力も当然未熟である。
ユーリに会うためにここまで走ってきたがユーリはいない。あまりに全力で走りすぎたためか本来ここに到着するはずの時刻よりも早く来てしまったからだろう。
今晩起こるであろうことは、昨日のことのように覚えているが、ひどく懐かしいことのように感じる。それと同時にユーリが死んだ瞬間も生々しく蘇り、カインはまた胸が痛くなった。
空を覗き込むとそのまま吸い込まれそうなほどに広大な星々。眺めているうちに、カインはゆっくりとまぶたを閉じ、数日ぶりに寝息をたてた。
カインは夢を見ていた。ユーリと初めて会った日の夢だ。
住処と家族が炎に包まれ、カインは目的もなく走り出した。その途中に見つけたのがサデスタの木、そしてユーリだ。
ユーリは木の下に一人で座っていた。遠くからでも身なりがよくないこと、一人でいること、泣いていることは分かった。
カインは走るのを止め、ゆっくりと彼女に近づいた。その時、何がユーリに声を掛けるという行動の原動力になったかはカイン自身よく分かっていない。
「どうしたの?」
ユーリは声を掛けてもしばらく返事をしなかった。何かに怯えるような顔を見せ、ぼそりと言ったのだ。
「実はね……」
膝を抱える彼女の横に、カインは座った。
「家に変なおじさんたちが来てね……お父さんとお母さんをナイフで刺して……」
ユーリの目には段々と涙が滲んでいた。声も嗚咽混じりになっている。
「おじさんたち……私の腕を持って、どうしようもなくて……でも何とかここまで逃げて……」
もしもユーリがこのままその男たちに連れて行かれたとすれば、娼婦として売られていたのだ。しかし幼かったカインにはそんなことは分からなかった。ただ、あることを聞きたくなったのだ。
「もしかして、帰る家がないの?」
ユーリは小さく頷いた。
「じゃあ僕と同じだね」
カインはなぜか笑みがこぼれた。
「あなたも?」
ユーリは顔を上げた。
「さっき自分の家が火事でなくなったんだ。向こうにまだ煙が上がってるだろ?」
自分が飛び出した場所を指差した。
「僕は平気だったけど、母さんと父さんは巻き込まれて死んじゃったんだ」
ユーリは不思議そうに聞いていた。そして少し頭を傾けた。
「どうしてそんなに嬉しそうなの? お母さんとお父さんのこと、嫌いだったの?」
カインは迷わず首を振った。
「もちろん大好きだったよ。でも、僕みたいな人がここにいてくれて、少し嬉しかったんだ」
ユーリはまた俯く。
「どうしてそんなこと言うの。まるで私のお母さんとお父さんが死んじゃったことが嬉しいみたいじゃない」
また目に涙を滲ませる。
「でも君がいなかったら、もっと悲しくなってただけだよ」
カインは空を見上げた。そこには、自分がかつて見たことがないほどに美しい星空が広がっていた。
「この星空だって、君に出会わなかったら見られなかったんだ」
そう言うと、ユーリはもう一度顔を上げた。ちょうどその時、一つの星が足跡を作っていた。
「あ、流れ星……」
ユーリの口元が少しだけ緩んだように見える。
「たしかに、そうかも……」
ユーリは涙を手で拭い、はっきりと笑った。
ふと風が吹いた。季節に合わない冷たい夜風だ。それはとても強く草を揺らし、木をざわめかせた。しばらくの間二人に吹き付けるそれは、まるで試練のようだった。
「僕、火事が起こった後、走ってここに来たんだ」
カインの顔は笑っていなかった。真剣な面持ちだ。
「自分には家族がいなくなったけど、他の人には家族がちゃんといて、帰る家があって、皆幸せで。僕だけひとりぼっちなんだと思ってた。そう思ったら、あの町に自分はいたらいけないんだって思って、苛々してここまで飛び出したんだ。そしたらたまたまここに着いて……」
木の葉が空に舞い、彼方へ消えていく。彼も目的のない旅人だ。
「もし君に会えてなかったら、ずっとひとりだった」
風は徐々に穏やかになり、やがて止んだ。
「だから、本当にありがとう。君に会えて良かった」
星が一つ、また一つと軌道を描いていく。光の雨が二人だけの景色に降り注ぐ。
カインは煙のたたなくなった故郷を指差した。
「一緒に暮らそうよ。あの町で」
手をユーリに差し伸べる。彼女はそれを掴み、立ち上がった。目にはまた涙が流れていたが、笑顔だった。
段々と意識がはっきりしてきた。どれほどの時間が経ったのかよく分からない。
――そうだ、ユーリは……
「あ、起きた」
ユーリはいた。上からカインの顔を覗き込んでいる。夢に出てきた時と同じ幼い顔だ。
カインの腕は自然とユーリの背に回っていた。そして力強く体を抱き寄せる。
「え!?」
ユーリは驚きの声を出し、必死に離れようとしていた。カインは我に返り力を抜いた。
「ご、ごめん……」
ユーリは少し体を震わせていた。ついさっきまで男に誘拐されそうになっていたのだから無理もない。
「君は、どうしてここにいるの?」
このままでは逃げ出してしまうかもしれないと危惧したカインは、この場に留めさせるためそう尋ねた。すると、夢の中と同じように嗚咽混じりに自分がここにいる理由を話した。
「おじさんたち……私の腕を持って、どうしようもなくて……でも何とかここまで逃げて……」
「もしかして帰る家がないの?」
そう聞くと、また同じように頷いた。
「あなたは、どうしてここにいるの?」
ユーリは膝を抱えて尋ねた。カインは火事で両親を失い、むしゃくしゃしてここまで走ってきたと説明した。
「――それで、たまたまここに着いて、気が付いたら眠っちゃってたんだ」
「そうなんだ。私たち、似た者同士だね」
ユーリは少し笑った。それは面白かったから笑ったのではなく、励ますために笑ったのだとカインには分かった。
「ねえ。聞きたいことがあるんだ」
「何?」
「もしも君に好きな人がいて、両想いだったとして……」
ユーリは顔を伏せている。思わず抱きしめてしまったことを気にしているのだろう。
「君はその人に、何があっても絶対守る、って言われました」
「うん……」
耳を赤らめてユーリはこくんと頷いた。
「でも君は悪い奴に殺されてしまいそうになります。その時、君は彼のことをどう思う?」
そこまで言って、自分は何を言っているのだろうとカインは思った。こんなことを聞けば変な奴だと思われ、本当に離れて行ってしまうかもしれない。
「どうしてそんな変なこと聞くの?」
「ごめん。自分でもよく分からなくなってきた」
ユーリは笑った。それはさっきのように上辺だけの笑顔ではなく、本物の笑顔のようにカインには思えた。
「私だったらその人のことを恨んだりしないよ。一番辛いのはきっと、その人だから。それに何より自分の好きな人を恨んだりなんか……」
ユーリの言葉が途切れる。そしてじっとカインを見つめた。
「どうしたの? そんな顔して……」
ユーリは言った。
「どうしたって、何もないよ」
カインは言った。
「じゃあどうして、そんな泣きそうな顔してるの?」
カインは自分がどんな顔をしているのか分からなかった。どうして自分がそんな顔をしているのかも、自分が抱いている感情の名前も分からなかった。
「君って本当に変な人だよね。初めて会ったのに、他人の気がしない」
ユーリはカインの頭に手を置き、優しく撫でた。気恥ずかしさと同時に、とても温かいもので満たされた、幸せな気分だ。自分がこんなに幸せな気持ちになって良いのだろうか、そんなことをカインは考えていた。
「どうして君は、そんなに俺のことを……」
カインは言った。
「私、お母さんとお父さんがいなくなって、自分はひとりぼっちなんだって思ってた。実際ひとりだったし、寂しかったの」
冷たい風が吹く。遠くに飛んでいった葉はもう見えない。
「でも迷っているうちにここに着いて君を見つけたの。寝顔はとっても可愛いのに、すごく寂しそうで、私に似てるって思った。もしかしたら私と同じで帰る場所がないのかもって。そしたらひとりじゃない気がして、ちょっと元気が出たの」
ユーリは空に指を差した。
「この星空だってあなたがいなかったら、見られなかったんだし、こうして笑えなかった。本当に、ありがとう」
カインは言葉が出なかった。どれほど言葉を尽くしてもこの感謝の気持ちは伝えられない、そう思ったのだ。
「ひとつ、君にお願いしたいことがあるんだ」
カインは言った。
「何?」
ユーリは言った。
「何があっても君を守るから、一緒に暮らそう。俺が生まれた町で」
カインは言った。その後、しばらく沈黙が続く。一時の間を置いて、ユーリは立ち上がり、カインに手を伸ばした。
「これから、よろしくね」
カインはその手をしっかりと握った。
それから二人はサデスタ王国に戻り、城に住み込みで働きながら暮らすことにした。時間を移動する前もそうやって暮らしていたため、これが最良の選択だとカインには分かっていた。皿洗い、掃除、食事の準備、それが二人の主な仕事だ。
魔王討伐までの過ごし方をカインは既に決めていた。まずは十五歳になるまでは城で雑務をこなす。十五歳になったら王国の兵士に志願し、剣術を磨く。そして更に三年後、自分の中に勇者の力が目覚め、魔王討伐の旅に出る。
この世は勇者という存在が魔王と対になるように生まれる。並みの人間が魔物と戦えば、いつかは肉体を魔力に蝕まれ死んでしまう。だが勇者は、魔物の魔力に対して抵抗を持っており、何度でも戦うことができる。稀に勇者でなくても魔力の浸食を受けない人間がいるが。
カインが勇者になったことを知ったのは、十八歳の時――訓練中のことだった。実戦練習として模擬刀を使ってつば競り合いをしていると、剣から巨大なエネルギーを発生させたのだ。それは相手を吹き飛ばすほどの大きさで、模擬刀であるにも関わらず不思議な雰囲気を纏っていた。後に魔法に詳しい学者に意見を求めたところ、そのエネルギーは勇者しか持つことのできない特別なもので、それがたまたま模擬刀に乗り移ったのだという。その事実はすぐに王の耳に入り、カインは勇者と皆に認められたのだ。
おそらく今回もそのような経緯で勇者の力を手にするだろう、とカインは考えていた。しかし勇者の力を手に入れたとしてもそれだけでは魔王を倒すことはできない。実際、魔王と戦った時はユーリの魔法に何度も助けられた。つまり、今のままではユーリを連れて行かないと魔王を倒すことはできない、ということになる。
だが、ユーリは連れて行かない。カインは心に決めていた。ユーリにはもう危険な目に遭ってほしくない、だから自分一人で戦う。例えユーリがついて行くと言ってもカインは絶対にその誓いを破らない。
そうなると魔王は一人で倒さなければならないことになる。少なくとも前より強くならなければ犬死するだけだ。
そのため、カインは城の雑務をこなしながら城の兵士に稽古をつけてもらうことにした。今まで培ってきた技術を更に高めるため言われた通りに木の棒を振り回し、動きを体で覚える。これを何年間も続ければ剣術のみで魔王を圧倒できるだろうという考えだ。
カインは迷うことなく練習した。血豆が潰れようと構わず、何日も何日も繰り返した。
「どうして剣の練習なんかするの?」
夜中、城の空き地で剣を振っている時、背後からユーリが話し掛けた。
「君を守るためだって言っただろ?」
カインは手を止めた。
「それと剣の練習、何か関係あるの? 手もそんなに荒れてるのに」
ユーリは言った。
「俺、十五になったら兵士になる。そのために今から練習するんだ」
カインは言った。
「兵士なんて止めなよ。危ないだけじゃない」
ユーリは言った。
「この国で兵士になったら討伐隊に入れる。そこで手柄を立てたらそれに見合うだけの報酬が貰えるんだ」
カインは言った。
「今のままで充分幸せじゃない」
ユーリは言った。
「確かにそうだけど……」
カインは言い淀んだ。未来の君に誓ったんだ、と本当のことは言えず押し黙る。
「危ないことはしてほしくないの。もしカインまで死んじゃったら……」
ユーリの瞳はどこか暗かった。涙を少し浮かべたさびしそうな顔が心を痛める。
「……分かった。とりあえず今は、考えてみるよ」
根負けしたカインはそう言わざるを得なかった。
――ユーリはまだ、気持ちの整理ができていなくて不安なんだ。だから早急に答えを出す必要はない。
「でも剣の練習はする。何かあった時のためにね」
カインは言った。
「うん。ありがとう……」
ユーリは笑顔で言った。それがあまりに愛おしく、カインの心を絞めつけた。今はまだ迷っている、と言って嘘を吐くことができる。しかし三年後には必ず、やっぱり兵士になりたい、と言わなければならない。その時、ユーリは一体どんな顔をするのだろうか。考えれば考えるほど強く痛んだ。
そんな思いを胸に秘めたまま剣を振り続け、三年の月日が経った。
「お疲れさま。ご飯の用意できてるよ」
いつものように鍛錬を終えて部屋に戻ると、豪勢な料理が並べられていた。普段は厨房を任されているおばさんからまかないを貰うのだが、どう考えてもまかないものとは思えないものだ。
「これどうしたんだ?」
カインは言った。
「今日、誕生日でしょ? おばさんが特別に作ってくれたの」
「なるほど」
もちろんカインは今日が誕生日であることを分かっていた。今晩、兵士に志願したいと言うつもりだからだ。
「いただきます」
カインは食事を口に運んで咀嚼した。
「美味い!」
カインは言った。
「本当!?」
ユーリは目をキラキラ輝かせて喜んでいた。
「実はこれ、おばさんに材料貰って私が作ったんだー」
カインは感づいていた。この食事を食べたのは、本当は初めてではないからだ。
「本当、こんなに美味いもの初めて食べた」
「えへへ、そうかな」
だらしなく頬を緩めるユーリを見て温かい気持ちになった。幸せというものがどういったものかと問われれば、今まさにこの時間がそうなんだとカインには思えた。
全て食べ終わって、ユーリと食器を洗いに行こうとする。せっかくなんだからゆっくりしててよ、とユーリに言われ、カインは部屋で一人待ち続けた。
何気なく部屋の中を見回すと、不意に寂しさを感じる。初めて出会ってから今まで、年数で言えば十年近く隣にユーリがいたのだ。二人分の椅子、机、一緒に作った二つのタンス、二つのベッド。この空間に一人でいる時間はどこか虚しい。
――俺が一人で魔王を倒しに行ったら、ユーリはずっとこんな気分になるのか……一体俺はどうすればいいんだ?
答えの出ない問答を繰り返していると、ユーリが戻ってきた。手には赤と白糸で編まれた紐のようなものが握られている。
「ちょっと右手貸して」
言われたままカインは右手を差出した。するとユーリは手に持った紐を腕に巻き、結び始めた。
「ちょっと前に外国の人が来て教えてくれたの。ミサンガって言うんだって」
「ミサンガ?」
「これを肌身離さず身に着けて、自然に切れたら願いが叶うんだって」
カインは驚いた。前の十五歳の誕生日には貰わなかったからだ。
「もしかして誕生日だから?」
カインは言った。
「うん……」
ユーリは目を合わせない。いつもと様子が違う。
「まだ兵士になりたいって思ってるんでしょ?」
どくん、と鼓動が跳ねるのを感じた。空気が緊張し、喉が渇き、頭が真っ白になる。
「ああ」
しかしカインはきっぱりと言い切った。いつかは言わないといけないことだから、今を逃せばどんどん関係は悪くなるように感じた。
それからしばらく沈黙が続いた。何か言った方がいいことは分かっていたが、何を言えばいいのか、どうしたら分かってくれるか、考えても考えても言葉が思いつかない。
「あなたに会えた時、本当に嬉しかったの。お母さんもお父さんもいなくなってとっても寂しかったけど、あなたに会えて、私は一人じゃないって思えて幸せだった」
窓の方へユーリは歩き、外を眺めている。町にぽつぽつと灯る光がこの国の活気を表していた。
「だからあなたがいなくなるのは嫌。当然危なくなるようなこともしてほしくない。もしもあなたがいなくなったら、今度は本当に一人になっちゃうかもしれない。それにお母さんやお父さん、何よりあなたがいなくなった痛みを抱えて生きることなんて、きっとできない」
光が一つ、また一つと消えていく。町は静けさに包まれる。
「でもあなたが毎日ぼろぼろになるまで剣の練習してるのを見てたら、ちょっと悩んだの。あなたは兵士になるか考え直すって言ったけど、諦める気なんてさらさらないって目をしてて。兵士になるのを止めることは、あなたにとって本当に良いことなのかなって」
ユーリは窓を閉め、窓際の壁に寄り掛かった。
「どうしてあなたがそんなに兵士になりたいのか、教えてくれない?」
ユーリの表情は怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えなかった。落ち着き払っていて、逆にカインが取り乱していた。
「詳しいことは言いたくない。けど君を守るって約束したから、そのためには兵士にならないといけないんだ」
話にもならないような答えだということはカインも自覚していた。しかしこれ以上にどう言えば分からなかったのだ。
「どうして言いたくないの?」
ユーリは更に質問を重ねた。
「……言ってしまうことで、君を傷つけたくないから」
カインは言った。
「私は大丈夫だから、話して」
ユーリは言った。
カインは焦っていた。ここで引き下がってしまったら兵士にはなれない。兵士としての訓練を得ることができずに魔王を倒すことはほぼできない、カイン確信していた。
どうにかしてユーリを納得させなければならない。一体どうすれば……
ふと、魔王と戦った夜を思い出した。魔王の攻撃に胸を貫かれて死んだユーリ。その時の絶望感、喪失感、両親を失った時よりも深く悲しくどうしようもなかった。
――俺はユーリを守りたい。もう傷つけたくない。でもそんな言葉だけじゃユーリは納得させられない。
「君を守りたいって気持ちは本当なんだ。でも言葉で君を納得させることは多分できない」
カインは立ち上がり、ユーリの目の前に立った。
「来週、国内の剣士が集まる剣術大会がある。一対一の模擬戦で城の兵士たちも参加するんだ。俺はそれに参加して優勝する。優勝したら俺が兵士になることを認めてくれないか?」
自信はあった。負けるはずがないというたしかな思いのもとでの願いだ。
ユーリは顎に手をあて、考え込んでいるような仕草をしている。これで駄目だと言われたらどうしようもないが、それならば諦めて独学で戦う術を身につけるしかないと覚悟していた。
「……分かった。頑張ってね」
ユーリは柔らかく微笑んで言った。
大会当日、城の広場には闘技場が設けられていた。石畳に柱を四つ立て、丈夫な縄で正方形に囲んでいる。それほど広くなく、背後からの圧迫感は中々のものだ。
この大会もカインは過去に経験していた。カインが十八歳、旅に出る少し前に催され見事に優勝した。
そのためこの大会に出場する選手がどれほどの力量なのか、ある程度把握している。そして自分の実力はそれを上回っている、そう思っていた。
そしてカインの試合は始まる。立て続けに一人、二人、三人と倒していき、ついにカインは決勝に駒を進めた。
時刻は正午、眩しいほどに太陽が照りつけていた。
「俺はピエールって言うんだ。よろしく、兄ちゃん」
軽い態度の若い男だ。しかしかなり大柄で見上げるほどの身長がある。
カインはピエールが差し出した手を握り、固い握手を交わした。相手に対する敬意、そして今からお前を倒すという宣戦布告の意を込めて。
お互い模造刀を構える。勝敗は相手の背に付けた赤い風船を割るか、あるいは相手に参ったと言わせるかどうかだ。相手に死角を見せないようにしつつ、背中を狙う必要がある。簡単なことではないが自分ならできるとカインは信じていた。
しかし試合はピエールが優勢だった。
現役の兵士の一撃は重く、その剣を受け続けたカインの腕は限界まで疲労していた。そのため隙が少しずつ大きくなっていき、ピエールの模造刀が脇腹をかすめるようになってきたのだ。
腕の疲れは徐々に全身に伝わっていき、体の動きが鈍くなっていく。集中力も失われ、真剣ならば致命傷になり得るような攻撃も躱すことができなくなってきた。次第に意識も遠くなって、カインはいつ倒れてもおかしくない状態だった。
戦いの最中、突然ピエールは攻撃の手を止めた。
「もう十分じゃねえのか? これ以上は身体壊すだけだぜ?」
ピエールの言い分はカインには理解できた。技術では圧倒的にこちらが上回っている。しかしどう足掻いても大人の自分に勝つことはできない。だから諦めろ。その言葉には彼の優しさが込められているのだと分かった。
――でも、ここで負けを認めるわけにはいかない。
無防備に立つピエールの横に回り込み、背中に剣を叩き込めば自分の勝ちだ、カインはそう思い鉛のように重い足を一歩、前へ踏み出した。それは蝿が止まるほどのろく、とてもピエールの虚をつけるものではない。
とうとうカインは前のめりに倒れた。死体のように突っ伏し背を空に向ける。そしてカインの記憶はそこで途切れた。
目が覚めた時、いつも見る天井が映った。
「ユーリ?」
独り言のようにカインは呟いた。
「目が覚めた? おめでとう、カイン」
ユーリはカインにあるものを渡した。
「これは?」
カインは言った。
「優勝の記念品だって」
金色の丸い硬貨のようなものだ。重くずっしりとしていて金属の冷たさを感じる。それには剣術大会の日付とカインの名前が刻まれていた。
「優勝? 俺はあの時……」
はっきりとは覚えていなかったが、自分が地に伏したことは覚えている。
「あなたが倒れた後、相手の人が言ったの。自分は剣術で完全に負けている、だから降参だって」
不思議な気分だった。優勝できてユーリとの約束は守れたのだが、試合内容を考えるととても実感が湧かない。カインはしばらく抜け殻のようにボーっとしていた。
「試合、凄かった」
ユーリは机に置いたティーセットにお茶を入れている。
「絶対に負けられないんだって気持ちが見ているだけで伝わって来た。あなたの気持ちが本物なんだってことが痛いぐらい分かって、私感動してちょっと涙出ちゃった」
ユーリは言った。
「だからあなたが兵士になるのを止めはしない。全力で応援するよ」
カインは嬉しかった。今まで積んできた剣の練習が無駄にならなかった気がしたからだ。身体の至る所が剣を受けた衝撃で痛んだが、それすらも喜ばしく感じた。
カインは上体をゆっくりと起こす。
「俺、何があってもここに帰ってくる。ユーリがいてくれるこの場所が好きだ。どんなに辛くても、苦しくても、帰る場所があるなら俺は絶対に戻ってこれる
カインは言った。
「私もあなたといるこの場所が好き。だからあなたの帰る場所は、私が守る」
ユーリはベッドのそばで屈み、カインの手を握る。
「でもやっぱり寂しいから、あんまり遠くに行っちゃわないでね」
もう何度もユーリの笑顔を見てきた。そのたびに生きていて良かった、そして絶対に守る、という強い感情が湧き出る。
全て片付けば、もうユーリの傍を離れなくていい。もうユーリを悲しませなくていい。そう思うことで闘志が奥底から溢れる。
――ユーリを守る。そのために今は強くならなければならない。
カインは兵士になった。
この世には魔生物というものがいる。普通の生き物と違い、魔力を持っている生き物のことだ。基本的には無害だが、中には人間に害を及ぼすものもいるため、その場合には退治する必要がある。魔生物の退治を行うのが討伐隊だ。
魔生物退治の依頼が来た場合、討伐隊に参加するか否かは基本的には兵士の自由である。しかし参加を希望する者が一定数以下の際にはその限りではない。討伐隊に参加して手柄を立てれば報酬が多く貰え、昇進の可能性も大きくなる。参加する者の殆どはそれが目的だが、中には単純に魔生物と戦うのが好きだという人間も少数ながらいる。
カインはもちろん魔生物討伐の依頼があれば参加するつもりだ。その理由には報酬も昇進も含まれているが、最大の目的は生き物と戦う技術を磨くためである。魔物と戦っていた時は常にユーリが後ろで手助けしてくれていた。しかしいずれユーリをおいて旅に出る時、助けてくれる仲間はいない。
――できるだけ多くの魔生物を一人で倒す。
カインは何度も魔生物と戦った。凶暴な魔生物は時に魔物よりも脅威になった。しかしそれを恐れたことはない。魔王を倒す旅で培った経験と時間が巻き戻されてからの反復練習により、カインの体は生き物を殺す機械になった。殺される気など少しもしなかった。
「今回も大活躍だったな」
遠征先の宿舎で食事を摂っている時、先輩の兵士に声を掛けられた。
「数は多かったですけど一匹一匹はそこまで強くありませんでしたから」
有害な魔生物は今日で全て退治した。息抜きということで兵士たちは酒を飲んでいる。
「でも一人で頑張りすぎじゃねえか? まあその分俺たちの仕事が楽になるんだけど」
酔った男がカインにもたれて言った。
「このぐらい余裕ですよ」
カインも一杯ほど酒を飲んだ。
「こりゃ近いうちに隊長任されるかもなあ」
老年の男が笑った。
「やっぱりお前もそれが目当てか?」
歳が一つ上の男が言った。
「そんなところです」
人に話すときにはそういう風に言っている。こういった場での会話は少し煩わしかった。
カインは城に戻り、ユーリが待つ部屋で彼女の笑顔に会う。その瞬間、魔生物との戦いに勝った喜び、約束を破らずに済んだという達成感を得る。
それを三年間繰り返した。カインは腕を買われ討伐隊の隊長を毎回のように務めた。どれほどの腕かと言えば、魔生物の海に飛び込み身一つで獲物を狩る姿に味方すら恐怖するほどだ。
カインの名がサデスタ王国中に知れ渡ってからしばらくして、また、魔物が生まれ世界を順調に蝕み始めた頃、勇者の力を得た。訓練中のことだ。
国民は歓喜した。最強の兵士に勇者の力が授けられたことで、この世界はすぐに平和になることだろうと誰もが信じたのだ。
――ついにこの日が来た。
ユーリが死んでから約六年が過ぎた。振り返れば果てしなく長いことのようにも、瞬く間のことのようにも感じる。自分は過ぎていく一瞬の間に全霊を尽くせていたか、誰かにそう問われれば迷わず頷くことができた。
覚悟はできている。後は……
「俺は魔王を倒す。しばらく帰れない」
机に向き合って座り、改まって話をした。ユーリは暗い顔をしている。膝に手を置いて俯いていても唇を噛んでいるのが見えた。何か言いたいことがあって、それを必死に我慢しているような顔だ。
「うん……」
とても快い返事には到底思えない。もちろんそんな返事が来るとも思っていなかったがそれだけではない。それが何なのかカインにはよく分からなかった。
「どうかしたのか?」
カインは言った。
「いや、何でもないよ……」
そうは見えない。一体どうしてそんな態度をとるのか……
――何か隠している?
「言いたいことがあるなら言ってくれ」
外では雨が降っていた。雨粒が窓を強く叩き付ける。
ユーリは何も言わなかった。ひどく悩んでいるのか、言いたいことを言い出せずにいるのか。カインは答えを急かさず待ち続けた。
「私、ついて行ってもいいかな……」
弱々しい声だった。カインはこう言われた時の答えを用意していた。
「駄目だ。危険だから待っていてくれ」
ユーリは更に暗い顔をした。いつものような強い意思をその瞳からは感じられず、カインは不安になった。どうしてそんな顔をするのか、どうすれば元気になってくれるのか。考えても思いつかない。
「心配するな。絶対戻るから」
いつものようにそう言った。ユーリは頷いたが、それで彼女の様子が変わることはなかった。雨はどんどん強くなり、次第に雷を伴う。空に月は浮かんでいない。
数日後、二度目の旅立ちの日。
カインが起きた時、ユーリは既に起きていた。
「おはよう」
ユーリはいつもの笑顔でカインに言った。
――この笑顔も、しばらく見られなくなるな。
「おはよう、ユーリ」
カインは窓を開けた。雨は止み、希望に満ち溢れた柔らかな日差しが目に入る。少し眩しかったが、見ていると体から力が湧き出てくるのを感じた。
カインはユーリと一緒に朝食を受け取り、いつものように部屋で食べた。こうして過ぎ去っていく時間がどうしようもなく愛おしい。もしも許されるならずっとこの時間が続いてほしい、カインは何度も妄想した。それほどまでにかけがえない時間なのだ。
「そろそろ行くよ」
朝食と支度を終え、カインは部屋の扉の前に立って言った。ユーリは笑顔ではなかった。数日前と同じ、とても苦しそうな顔だ。どうしたんだ、と聞く前にユーリは口を開いた。
「私、実はあなたに言ってないことがあるの」
一瞬目を合わせたが、すぐにユーリは下を向いた。
「言った方がいいのか、自分じゃよく分からなくて……でもあなたに隠し事するのも嫌で……だからあなたに隠し事してるってことだけ、知ってほしい」
カインはユーリの頭に手を置いた。
「俺もお前に隠していることがある。でもそれは今は言いたくない。だからこの旅が終わったら伝えるよ」
カインは笑って見せた。するとユーリも笑った。
「あ、そうだ」
ユーリは首に提げているものを外し、カインに手渡した。銀の装飾が施されている時計――
「お母さんが言ってた。これは特別な時計で、時間を巻き戻すことができるんだって。でもそれができるのは選ばれた人だけで、お母さんとお父さんはできなかったんだって」
――これを託したってことは、きっとユーリも使えないんだな。それに使えるなら今頃ユーリは両親と一緒で……
「ありがとう。使えるかどうかは分からないけど、お守りとして持っておくよ」
自分がこれを使えることは分かっている。しかしもうこれを使わずに済むようにしたい。いや、しなければならない。カインはサデスタの木に誓ったことを思い出した。
「いつでも帰ってきて。平和も大切だけど、私は何よりもあなたのことが大切だから」
ユーリはカインの胸に飛び込んだ。一瞬たじろいだが、優しく受け止め抱きしめる。
「ああ、行ってくる」
目的の相手がいる城まではおよそ一週間かかる。寄り道はせずカインは真っ直ぐに目的地を目指した。途中で魔物と何度も戦ったが勇者の力を手にしたカインはそれらをものともしなかった。
そして一週間後……
真夜中の城の中、カインは謁見の間の前に立っている。扉を開ければそこにはカインにとって憎むべき敵がいる。
――奴を倒せば全て終わるはずだ。
世界の歴史を研究している学者の本をカインは王に見せられたことがある。それによると、過去にも魔物は存在していたらしい。初めて勇者の力を得た勇者は、仲間と共に魔物を倒す旅に出ている途中、やはり強大な魔力を持つ魔物に出会ったようだ。勇者と仲間はその魔物と戦い、勝利した。しかし勇者は大切な仲間をその戦いで失い、それと引き換えに魔物は発生しなくなり、世界は平和になったと文献には記されている。
このことから、周りとは明らかに異質な魔力を持つものを魔王と呼び、その魔王を倒すことで魔物は発生しなくなるとされているのだ。
カインにはその魔王にあたる魔物が、扉の奥にいるものだとたかをくくっていた。近くに来るとその確信は更に強くなる。サデスタにいた頃ですらその存在感が伝わったほどだ。これだけ近ければ威圧感は尋常ではない。
やはりどれだけ強くなっても不安はあった。これまでの魔生物、魔物とはわけが違う。まして今回は一対一の戦いだ。緊張感で少し足がすくむ。
――落ち着け。
首に提げた銀時計に触れる。そうすると、不思議なことに恐怖はすっと消えた。自分は戦える。自分は勝てる。そういった自信が体を軽くさせる。
大きく息を吸い、吐いた。そして両手で扉を開けた。
孤独な戦いだった。誰も助けに来ない。ここで死ねば骨も拾われない。覚悟を決めていてもその事実は徐々に心を浸食していった。
――いつになったらこいつは死ぬんだ? 何回切っても立ち上がって……
実際は特別この魔物が強くなったわけではない。ただカインの臆病な心が目の前の悪魔をより強く見せている。
しかし弱い心でも剣は振り続けた。無意識のうちに体が相手の攻撃を避けて反撃していたのだ。六年間の積み重ねがなければカインはとっくに殺されていただろう。
魔物が腕を振り上げた。先端の鋭利な爪でカインを引き裂こうとしているようだ。だが振りが大きい。カインの腕は真っ直ぐに魔物の方へ突き出された。切っ先が心臓部と思われる部分に刺さり、血が溢れだす
――これで終わりだ。
しかし爪はそのまま勢いをつけて振り下ろされる。カインが気付いた時、すでに回避することは叶わなかった。上体を思い切り反ったが、爪の先が左の眼球を引っ掻いた。かつて感じたことのない、焼けるような痛みが体中に広がる。
魔物は追撃しなかった。腕を振り下ろすとそのまま倒れ、ぴくりとも動かない。先刻の攻撃が最後の一撃だったようだ。
カインはしばらく目の痛みに悶絶した。痛み引いたのは一夜明けた後のことだ。
カインは急いで城に帰った。早くユーリに魔王を倒したことを知らせたくて、一週間かかる道を五日で戻った。
「カインさん! 戻ったんですか!?」
国の門番をしている男が顔を見るなり叫ぶように言った。その質問に頷くと男は矢継早に続ける。
「早く広場に行ってください! 大変なことになってますよ!」
門番は開門してカインを通した。何があったのかカインは見当もつかなかったが、とりあえず急いで広場に向かう。かつて剣術大会が行われた広場には人だかりができていた。広場の真ん中を囲っている。カインは人の波の中を潜り抜け中央に出た。
中央にあったのはギロチンだ。かつては凶悪な犯罪者を見せしめとして国民の前で殺していたらしいが、今の状況はまさにそれと同じものである。
カインは呼吸をするのを忘れた。心臓が一度大きく跳ね、しばらくの間止まったように錯覚した。刃の下にいたのは……
「ユーリ!」
その声に反応したのかユーリとカインは目が合った。絶望に満ちた顔、涙を浮かべ潤む瞳。目が合った瞬間、ユーリは嬉しそうに笑顔を作った。
そして刃は落とされた。首が転げ、カインの足元に当たる。靴が溢れ出る血に塗られる。
カインは吐き気と共にその場に崩れ、気を失った。
カインは自分の部屋で目を覚ました。激しい頭痛と吐きすぎて渇ききった身体に違和感を覚える。
机には二人、人が座っていた。どちらも男、霞む目を凝らしてよく見るとサデスタ国王と城に常駐している学者らしき人間だった。
「目が覚めたか」
王は机に座ったまま言った。
「これからあの広場でのできごとを話す。頭に入らぬと思うが聞いてくれ」
カインは腕に力を入れて立ち上がろうとした。立ち上がって目の前の男を切り殺したかったのだ。しかし剣はなく、腕にも力が入らなかった。何もできずただ話を聞いた。
「あの女は魔王だったのだ」
サデスタでは魔物を再生させて服従させる技術を研究していたという。そしてつい数日前にその技術が成功し、ある魔物を服従させることができたようだ。
「そこで聞いてみたのだ。魔王とは一体誰なのか」
すると再生された魔物は走り出し、仕事をしているユーリに飛びついた。
「とても信じられなかった。信じられなかったから直接聞いたのだ」
ユーリは頷いたらしい。普通の人間ならばわけが分からないと言うはずだが、ユーリはしばらく迷った後、確かに頷いたという。
信じたくなかった。しかし思い当たる節が幾つかある。
一人で旅に出ると言った時、ユーリは何か悩んでいたようだった。
――もしかしてその時、ユーリは魔王になったのか?
そう考えれば合点がいくことがある。理解したくなかったが、頭は嫌に冷静でユーリが魔王であることを裏付ける出来事がどんどん蘇っていった。
「つまりお主は騙されていたのだ」
――それは違う。
二人で魔王と思っていたものを倒した時、ユーリは死にカインは生き残った。騙していたのならカインのことを盾にしてでも生き残っていただろう。そもそも自分から危険な旅について行くなど言い出さない。
ユーリを罵倒する王に怒りを覚えたが、全てを失った今、その気力はなくなってしまった。何も考えず、何も感じず、このまま消え去りたい、カインは漠然とそんなことを思っていた。
学者の男が口を開く。
「魔王は一体誰なのか、私たちは長い間強い魔力を持つ魔物のことだと思っていました。初めて魔王を倒したとされる勇者は仲間と共に魔物退治の旅に出たと、文献には書かれています。その途中で強力な魔物と出会い、その戦いの中で仲間を失った。この死んでしまった勇者の仲間こそが、実は魔王だったとすればユーリさんが魔王だったこともそれほど驚くことではないのかもしれません」
その後二人は帰り、カインは一人うなだれていた。この六年間の努力は、今日の一瞬の出来事で水の泡になってしまったのだ。もう見えなくなってしまった左目も、全て解決すれば勲章になると思っていた。しかし今となっては全て価値がなく、意味がなく、虚しい。
首に提げた銀時計を使えば、今すぐにでも時間を巻き戻すことができる。しかし時間を巻き戻したところで、もう一度ユーリを救えるだけの自信がカインにはなかった。カインの心は完全に打ち砕かれたのだ。
新鮮な空気を吸いたくて、窓を開けた。外は雨で強い風が部屋に入る。とても気持ちいい風ではない。カインはすぐに窓を閉めた。
またベッドに潜ろうとした時、足元に紙が一枚落ちていることに気が付いた。見覚えのないものだ。裏には文字が並んでいる。カインはそれを読み始めた。
久しぶりだね。
もしもあなたがこれを読んでいる時、私はもうこの世にはいないと思います。この手紙は、死刑になる前の最後の時間を使ってかいているから。
私、魔王になったんです。多分、あなたが勇者になった時と同じ時間になったんだと思います。
突然誰かが、お前は魔王になったんだって私に言ったんです。空耳かと思ってたけど、あなたが勇者になったっていうことを噂で聞いた時、本当のことなんだなって思いました。前に隠していることがあるって言ったのはこのことです。
私、どうすればいいのか分からなかったんです。あなたを見送った時、本当のことを言い出せないで、ずっと悩んでました。どうしたらいいか分からないでいた時に王様が来て、魔王ですかって聞かれたんです。
そこで違うって言ったら私は今も生きていられたかもしれない。けど、そんなこと言ったら私のせいで人がいっぱい死んじゃうって思いました。そしたらあなたや私みたいに、両親がいなくなっちゃう人も増えてしまいます。私たちは偶然めぐり会えたけど、死ぬまで一人で生きていかないといけない人も、きっと出てきます。その人たちのことを考えたら、私が死ぬことも少しは意味があるのかなって思いました。
でもそれは、あなたとの約束を破ってしまうことになってしまいます。あなたはいつも私との約束を守ってくれたのに、私の方が勝手に消えちゃうなんて最低だよね。本当にごめんなさい。
もしもあの時、あなたに言っていたらどうなったのかな? あなたはそれでも迷わず私を切ったのかな? それとももっと別の方法があったのかな? でもあなたが決めたことなら、私はきっとどんなことでも受け入れられたと思う。あなたに切られたって何の文句もないし、あなたが連れ出してくれたなら喜んでついて行ったと思う。そんなこと言っても、今はもうどうにもならないけどね。
私が死んでも気にしないでって、そんな無責任なことは言えないけど、あなたが私のことで苦しむ姿は見たくない。だから少しでも早く立ち上がって。それが私の願いです。
最後に、あなたに伝えたいことがあります。それは、あなたのことが大好きってことです。ひたむきにがんばる姿や、寂しい時にいつもそばにいてくれていること、他にもいっぱいあるけど、全部書くのは恥ずかしいから書きません。でもこれで最後だから、私があなたのことを凄く好きだってこと、覚えていてくれていたら嬉しいです。
今までありがとう。もしもまた会えたら、今度はずっと一緒にいたいな。
文字はどんどん小刻みに震えていて、ところどころ何かで滲んでいる跡がある。
二人で旅した時のことをふと思い出した。一緒に行きたいとユーリに言われ、何も考えずに頷いた時も彼女は苦悩していたのだ。
――いや、もしかしたらもう答えを決めていたのかもしれない。
それは、最期の戦いの時、ユーリは最初から死ぬつもりでいたのかもしれないということだ。自分が魔物の攻撃を避けきれずに死んだことにすれば、カインには自分が魔王だったという事実に気づかれない、そう思ってユーリはついて行くと言ったのだと考えることもできる。
つまりあの旅は、彼女にとっては死刑台へ向かう旅路だったとも言える。婚約指輪を指に通したこと時も、叶わない結婚だと知りながら見ていたことだろう。
――自分はそんな酷なことをユーリに強いていたのだ。
結局六年間やり直しても、約束を果たすことはできなかった。もう諦めるつもりでいた。しかしユーリの遺書の最後に書かれていた一文が、それではいけないと強く否定する。
カインは銀時計を開き、指で秒針を動かした。
突然、左目を激痛が襲った。数日前に味わった苦しみだ。
横には魔王だと思っていたものの骸があった。カインはすぐにここが魔物を倒した後だと気が付いた。
目から溢れる血を手で抑えカインは走り出した。目的地はサデスタ王国だ。
――急がないと、また死んでしまう!
四日後の夜、カインはサデスタ王国に着いた。門番に話を聞くと、死刑は明日だという。
――間に合った。
カインは城下町を駆け抜け城にたどり着いた。謁見の間の扉を開くと、国王が目の前にいた。
「ユーリは!?」
息を切らせながらカインは聞いた。
「今は独房じゃ」
カインは背中の剣を抜き、王に飛びかかった。そして剣先を王の首筋に軽くあてる。王は突然のことで、動くことさえできなかった。
「今すぐ解放しろ! そうすれば命は助けてやる!」
周りにいた兵士がカインを囲んだ。
「何の冗談だ? 兄ちゃん」
そう言ったのはカインがよく知る男、ピエールだった。その言葉にはいつものような軽い雰囲気はない。
「ユーリを解放しろと言った。要求を呑むのなら王に手出しはしない」
謁見の間は沈黙した。誰も何も言おうとはせず、時間が過ぎる。
「分かった。ピエール」
軽く舌打ちをして、ピエールは懐から鍵を取り出した。
「ほらよ」
そしてそれをカインの方へ軽く投げ飛ばす。カインは鍵を拾うため、王から離れた。瞬間、周りの兵士たちは一斉にカインに襲いかかった。雄叫びをあげ威勢よく飛び込む。
血飛沫が部屋中に広がり、雨のように降り注ぐ。その中にカインの血はない。降りかかる刃を全てかわし、兵士を薙ぎ払う。左目が見えない今でもカインにとっては造作のないことだった。
この部屋で息をしているのはカインと王だけだ。カインは怯える王に冷たい視線を送り、その場を後にした。
すすり泣く声が聞こえる。まだ一か月も経っていないというのに、その声はひどく懐かしく感じた。
開錠し、鉄格子を開く。部屋の隅にうずくまって膝を抱える少女。元気な姿ではないが、再び会えた喜びが、頬を伝う。
少女と目が合う。少女もまた涙を流していた。
近くに寄って血に塗れた手を差し出した。彼女はためらわずその手を掴み抱きついた。自分の体が真っ赤に染まっていることなどまるで気にせず、力強く抱擁した。
「逃げよう。二人で」
カインは言った。
サデスタの木の下、二人はまたここまで走ってきた。疲れた二人は倒れ込み、空を見上げる。
「魔王なんだろ? 本当は」
カインは言った。
「どうして知ってるの?」
息を切らせながらユーリは言った。
「これだよ」
銀時計、と呼ぶことはもうできない赤い時計を見せた。
「そっか。じゃあ私、一回死んじゃったんだね」
ユーリは笑った。
「これからどうする?」
カインは言った。
「うーん。まだ分からない」
ユーリは言った。
「じゃあもう少し、ここにいるか」
そう言うと、ユーリはもう一度笑った。
「私もそうしたい気分」
カインも笑った。
風が心地よく草木を揺らす。少し冷たいがこの季節には気持ち良い。
空には綺麗な三日月が浮かんでいる。星空も眩いほどに煌めいていた。そのうちの二つ、一際輝く星が走った。二つは足跡を残し、何もない夜空に消えていった。
一と千がつりあう天秤 @mikenovels
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