それでもこの冷えた手が

 玄関を開ける。

 鞄を放り、靴を脱ぎ捨て、そのまま大股で九歩歩いた先のベッドに倒れ込みたいところだけど、生憎ベッドには先客がいる。

 ここ一ヶ月は、ずっとこんな毎日だ。代わりに床に散乱したクッションの山に倒れ込んでおく。

 頭をぶつけないように気を付けたせいで、ベッドに身を投げた時のような解放感はあまり感じられなかった。

「ただいまぁ」

 ベッドに横たわる先客からの応答なし。これもまた、いつもと同じ。

 それにほんの少しだけがっかりするのも、いつものこと。

 そしてそのがっかりに、自分でもよく分からないけれど、ほんの少しだけ安心に近い何かが混ざっている気がするのに気が付いたのは、つい最近のことだった。


 クッションの上でごろりと寝返りを打って、ベッドの方に顔を向ける。

 死んだように眠る女の子の横顔が、いつも通りわたしの視界に入ったことに、今度こそ罪悪感のない安心を覚えた。

「今日もちゃんと働いてきたよう」

 わたしのベッドを一ヶ月も占拠している彼女からの返事は、無い。それでも今日もいつものように、意味のあるような無いようなことを、眠る横顔に向かって話しかける。

「博士からね、おいしそうなクッキーももらったんだー」

 ――――早く起きないと、わたしが全部食べちゃうよ。

 いいの?

 そう続けようとして、なぜかまた少しためらってしまった。

 この一ヶ月の生活の中で、何となくわたしから起こそうとしてはいけないような、そんな気さえしてきたせいかもしれない。

 いつか彼女が自分で起きたいと思って目覚めた時に、おはようと言えればそれで良い。そう思っていることは確かだけれど。

「あ、それとも、ものはもう食べられないんだっけ」

 逆コタール症候群の死者たちは、それこそ生き生きと暮らすから食事も楽しみたがる。けれども食べたものは、消化されないのだそうだ。博士はカミヤさんに、他の薬と称して食べ物を分解するための錠剤を渡していた。過去にそのまま死んだ胃の中で食べ物が腐って、大変なことになった患者がいたらしい。

 ―――― 毎日食後に必ず一錠、飲んで下さいね。

 後でこっそり博士に聞いたのだけれども、あの薬は生きた人間が飲むと死んでしまうらしい。

 それを飲んで死んだ人が、また逆コタール症候群で起き上がったりして。


「ハルカ」

 死んだように眠る彼女は、確かに一度死んだはずだった。



 ――――ごめん。ちょっとだけ、かくまって。

 家賃なら半分、ちゃんと出すから。

  

 そう申し訳なさそうに笑いながら転がり込んできたのが、ずいぶん昔のように感じる。

 そういえば、あの時彼女がどうしてスポーツバッグ一つだけでこんなところまで来たのか、結局今まで事情も訊けないままだ。

 ハルカと再会したのは偶然だった。

 子供時代の同級生は、クラスが同じになったほんの最初だけは仲が良かったけど、やがてそれぞれに親友や仲の良い遊び相手が出来て、それからは大して親しくもなければ険悪でもない関係のまま、深く関わることなんて無くバラバラになっていった。

 ほんの一年前までは、名前どころか存在すらも思い出すことのない、その程度の存在。

 それでもそれから十数年後、たまたま休日に行った店で、名前と顔だけでお互いに誰だか分かったのだから、不思議なものだと思う。

 わたしはあまり変わり映えのしない見た目の自覚があるけれど、ハルカは大分変わっていた。髪は染めて巻いていたし、化粧もしていた。子供時代とは違う背丈にも話し方にも、わたしが全く知らない空白の年月を過ごした痕跡があった。

 それでも会話の途中、ふとした瞬間に見せる笑いかたや顔つきから、彼女が名前の同じ別人ではないことがわたしにはちゃんと分かったことに、自分でも今も驚いている。

 それはもしかすると、わたしのそばに今は当たり前のように存在する、ミギという呼び名を初めて与えてくれたのが彼女だったからかもしれなかった。


 ――――この文字だと、ミギって読めるね。うち、あんたのことミギって呼ぶことにしよう。


 そう言ってにぃと、歯を見せて笑った子供時代のことを、わたしのベッドを占拠して眠る本人はきっと覚えていないだろう。言われたわたしの方が、こうして眠る横顔を眺めていたある日ふいに思い出した程度なのだから。

 けれどその後、「ミギ」という呼び名で生きることが当たり前のようになり、親から与えられた名前よりも、社会に登録された名前よりもずっと「わたし」の名前らしくなったその呼び名をくれたのが彼女なら。

 わたしが本来の名前でいるよりも、わたしらしく生きられるような名前をくれたのが彼女であったのなら。

 もしかしたらハルカは昔から、わたしの人生の中で栞のような人の一人だったとも言える気がする。

 けれど、彼女にとっては、かつてのわたしはどうだったのだろう。

 どんな人として、わたしは彼女の人生の中に存在していたのだろう。

 少なくとも、連絡先を交換して一週間後、一人暮らしをする相手の家に転がり込むくらいの相手ではあったようだけれども。




「そうだ。今日もねぇ、絵誉められたんだよー」

 顔は横顔の方に向けたまま、よっこいしょと片手をつき起き上がる。

 そのまま立ち上がるのも面倒で、ずるずると下半身を引き摺りながら放り投げた鞄の方に向かうと、中からスケッチブックを取り出した。

「これは今日の実験の参加者の学生君。わたし、最初の方はなめられていたんだよねー」

 一番新しいページを開いて、そのままハルカの方には向けずに自分の鉛筆の線を視線でたどる。 

 今時写真でだって済むような実験の場面も、博士はいつもわたしにスケッチを頼む。


 ――――ちょっとした違和感とか、本質の部分がね、写真だと見えにくいんだ。

 ――――代わりに人間の目と手を通していると、無意識でも意識していても何かしら感じた部分が強調されることが多いと、僕は思う。


 博士の意見の真偽はともかく、そんな理由でわたしは自分らしく生きられる場所で働けているのだから、本当にありがたい話だと思う。


「そうだ、昨日もハルカの絵、描けなかったんだよねぇ」

 今日の実験のワンシーンを描いたページから一枚遡る。

 輪郭を描こうとして、結局そのままただの線になってしまった鉛筆の跡が、左上にところどころ飛び交っていた。

 最近、家では絵を描かなくなってしまった。暖房を付けることがなくなったからだろう。

 眠るハルカの体が万が一にも腐ってしまったらと思ってから、何となく暖房を付けられずに毎晩を過ごしている。

 そうすると帰ってから少しぼんやりとしているだけで、利き手の指先が白くかじかんでしまって、鉛筆を持つのも何となく気乗りしなくなってしまうのだ。


「明日は休みだし、少しだけ描こうかなぁ」

 ハルカが転がり込んできて数ヶ月は、楽しかった。

 わたし達は互いの人生のうち、子供時代のほんの数年すれ違っただけの二人だから、共有も共通もしていないものごとの方がずっと多かったけど、なぜかそんなことが気にならないくらい、二人で過ごすことにしっくりときていた。

 ――――だからハルカの具合が少し悪かった時も、またすぐに元気になって元通りだと信じて疑わなかった。


「あったかい飲み物でも飲めば、手もきっと動くよねー」

 なぜかどんどんと具合が悪くなっていった彼女は、やがてわたしが仕事帰りに買ってきたプリンやゼリーも喉を通らなくなった。

 病院にいってきたら、というわたしの言葉にはただ一言、

 ――――ごめん、病院には行きたくない。

 そう言って首を静かに振っていて、結局最期まで行かないままだった。

 今から思えば、ハルカはゆっくりと、はっきりと自覚した上で自分の死に向かって歩いていたのかもしれない。

 そしてそれを、自分の選択として受け入れていたのだろう。

 それはきっと、十数年ぶりのひとの家に転がり込まなければいけなかった事情とも、どこかで関係していたんだろう。


 生きたハルカと会話をした最後の日、彼女はぽつりと思い出したようにミギ、とわたしに壁の方を見たままぽつりと呟いた。

 ―――――急に色々迷惑かけて、ごめんね。

 いきなり家に来てからとっくに数ヶ月経っていて、今更どうしたんだろうなんて思ったのを、わたしはよく覚えている。

 だからあまりその言葉にわたしは、ちゃんと向き合わずに次の話に移ってしまった。


 次の日の朝、ベッドで冷たく静かになっていた彼女に気付いた時には、何もかもが遅かった。


「今のわたしの手、結構冷たいよ。ハルカとどっちが冷たいかなー」

 死んだ彼女を前に茫然としたわたしは、なぜか誰にもそのことを知らせないまま数日をぼんやりと過ごした。

 かくまって、とは確かに言われたけれども、そもそも誰が彼女を追っているのかも知らなければ、彼女のことをよく知る人の存在もわたしは知らないのだと、その時になってようやく気が付いた。

 本当なら、あの時誰に知らせれば良いかは分からなくても、病院なり警察なりに知らせるべきだったのだろう。

 けどそれもしないまま二、三日が過ぎ、そろそろ死体が傷んでしまうだろうから何かしなければと改めて眠るように死ぬハルカを前にして、ふと違和感に気が付いた。


 触れてもいないはずの彼女の横顔は、息を引き取った時と逆の方向を向いていたのだ。

 まるで、寝返りでも打ったみたいに。


「そういえば今日の学生君も、カミヤさんの手に最初に触った時にめちゃくちゃ驚いていたなぁ」

 そのことに気付き、更に恐る恐る触れたハルカの頬は、確かに芯から冷たいままだったけれども、普通の死体と全く違うことがあった。

 昔親戚の葬儀で触れた遺体と同じ、蝋人形のような硬さと冷たさを予想していたわたしは、その頬が指先でふっくらと沈み込んだのを感じて、とてもとても驚いた。

 ―――― 今だってそうだ。

 起き上がって、今日の二人の握手を思い出して顔の横に投げ出されたてのひらを握り込んでみる。

 確かに指が沈み込む弾力があったし、小指をふざけて動かせばちゃんと関節は正しい方向に曲がった。

 ただ、その芯からぬくもりが感じられない体温だけが、生前の彼女の手との違いをはっきりと示している。


 当時すでに博士のもとで助手として働いていたわたしには、その不思議な死体が意味することがすぐに分かった―――――



 眠るように死んでから、もう直に一ヶ月。

 彼女はまだ、他の死体のように起き上がってくれていない。

 気が付けば寝返りを打つだけで、息も脈も止まったまま目を覚ます気配が全くなかった。



「夏場なら、ひんやりして気持ちが良かったのかもねぇ」

 冗談を言ったって、一人でご飯を食べていたって、彼女は何も反応しない。

 本当は逆コタール症候群なんかじゃなく、ただ他の死体と同じように死んでいるだけなんじゃないかと疑ったことも何度もある。

 けれども彼女の手も頬も、柔らかいままなのだ。

 おまけに気が付けば姿勢を変えているのだから、やっぱりただ眠っているだけなんだろうと信じている。

 ――――― どうして、目を覚まさないんだろう。

 そう何度も疑問に思っては、きっとここはまだ彼女が目覚めたい世界じゃないのかもしれないと、勝手にそれらしき答えを考えては当て嵌めたりもする。

 博士なら、何か分かるかもしれない。

 その考えも、もう何十遍と頭に浮かんだけど、結局博士どころか誰にも言えずに今日までの時が過ぎてしまっている。

 いずれにせよ、彼女が目覚めたら、博士に薬をもらうために事情を話さないといけないだろう。折角起きたのにまた一緒に夕飯を食べられないのは、つまらない。


「今日はもう、疲れちゃったなぁ」

 本当は夕飯も食べていないけれど、こんなかじかんだ手で何かをつくること自体がおっくうだ。

 ミギ、意外とだらしないなぁなんて、笑っていたあの子は眠ったままだし。

 このままわたしも、彼女の横のクッションで眠ってしまおう。

 そして明日目が覚めてから、何か食べるものを作り、彼女の絵を描こう。


「おやすみ、ハルカ」

 もう一度、軽く手を握る。

 その手が握り返される瞬間を、今か今かと待ちながら、なぜかほんの少しだけ恐れていることを、わたしはちゃんと自覚している。

 

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それでもこの冷えた手が 善吉_B @zenkichi_b

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