死して屍拾うものなし、代わりに彼等は歩いて帰る


 『逆コタール症候群』。

 そう、博士はこの現象のことを呼んでいる。

 正式な名称は、まだちゃんと決まっていないのだそうだ。


 一度確かに脈が止まり、脳が死に、身体が死んだはずなのに、しばらくしてから何事も無かったように起き上がってまた暮らし始める人がいる。起き上がった死者たちは、自分が死んだという自覚のないまま、人と話し、買い物をし、学校に行き、友人とおしゃべりをする。

 ただの蘇りと違うのは、彼らの身体が確かに死んでいるからだ。

 一度止まったままの心臓は動かず、呼吸もしない。体温だって戻らないから、その手はまさしく死人のように冷たいままだ。

 それなのに、なぜか起き上がった死者たちは、身体が死んでいること以外は至って普通に生きようとする。

 確かに生きているのに「自分は死んでいる」と言う人たちの症状とは逆に、身体は確かに死んだのに生き続けているように振る舞うからと、博士はこの名前で呼んでいた。


 鬱などの理由で脳の機能の一部が停止していることが原因なのではないか、とまで解明されつつある本家のコタール症候群とは逆に、メカニズムも何一つとしてまだ明らかにされていないという。

 初めて脳死からの回復や心配停止からの回復ではない、完全なる死者が甦ったのが明らかになったとき、世の中は半信半疑で少しだけ騒いだ。

 それから二、三年しか経過していない中で、本物のよみがえった死者を見つけにくいということもあって、研究はなかなか進んでいないらしい。

 体内のバクテリア説やら何やら色々なことがまことしやかに言われているけれど、どれも仮説の域を出ないんだよねと、過去に溜め息まじりで説明されたけど、わたしには未だに違いがよく分からない。


 わたしの役割は博士の助手だけども、そういった専門的な部分での補佐を必要とされたことは一度も無かった。

 代わりに頼まれているのが、実験の補佐と、研究時のスケッチだ。


 学生時代から絵ばかり描いていたくせに美術の勉強は碌にしていない私をよく雇ったものだとは思うけれど、こうしてありがたく働かせてもらっている。好きなことをしてお給料をもらえるということは、素晴らしいことだ。絵を描くために手を動かすことが、私には呼吸と同じくらい必要なのだと思う。

 おまけに雇い主の博士は、に目を瞑れば本当に良い人だ。


「いやぁ、ちょっとびっくりさせようとは思ったけど、まさか貧血になりかけるとは思わなかった。悪いことをしちゃったなぁ」

 ―――――そう、こういう部分に目を瞑れば、だ。


 博士にとっては、動く死体も人間も変わらない。

 博士にとっての違いといえば、心があるという確信を世間が持っているか、そうとは言いきれないかの二つだけだ。

 けれどもその考え方が、他の人間には通用しないこともあるとは考えない。この鈍感さで動く死体の心について研究しているというのだからおかしい気もするけど、全体的には良い雇い主だと思う。


 可哀想に、先程カミヤさんと握手をしたあの学生君は、種明かしをされた途端に真っ青になってしまった。

「それじゃあ、あの、チューリングテストっていうのは…」

「そう、一度死んだ後起き上がった人の精神活動に、生きた人間との違いがあるかを確かめたくてこうした実験をしているんです。彼女本人には異なる実験のためのインタビューと称して、協力してもらっています」

 何せ、死んでいる自覚がないですからね。

 何てことない風に説明する博士の声を聞きながら、血の気の引いた学生君の顔が真っ青を通り越して白々としていくのを眺めて、もう一度心の中で合掌した。

 一時は世間を賑わせた話題とはいえ、あまりにもナンセンスだと一蹴されそうなこの解説をあっさり信じられるのは、彼自身がカミヤさんに直接触れたからだろう。

 生き生きと、人生をいつも楽しんでいそうな穏やかなカミヤさん。

 その彼女が確かに一度は死んだのだという事実を突き付ける明確な証拠が、あの冷え切った体温だろう。

 ただの氷よりも冷たく感じる、命のない温度。

 それを承知で―――というよりも、それを確認させるためにわざわざ握手を誘導したのだから、博士はやっぱり、自覚なき意地悪な部分がある気がする。

「お、俺......今、死人と握手を......」

 右のてのひらを見つめながら、学生君は口を震わせた――――――いや、震えは今や全身に広がっていた。

「そういうことになりますね。それについてですが君、彼女との握手で何か違和感は感じましたか? 握りかたとか、握手の時の表情とか。他の人とは違う点を感じることはなかったでしょうか? 瞳の様子は? 瞳孔はさすがにあの距離では良く見えないかなぁ」

 手元のタブレットにあれこれと入力しながら矢継ぎ早に好き放題言っていた博士だったけど、そこでようやく学生君の様子がおかしいことに気がついたらしい。

 返事がないことを不思議に思い手を止めた博士は、顔を上げると学生君の蒼白な顔に気付いて声を上げた。

「うわぁ君、大丈夫?! 顔色がひどいですよ!」

 ――――――今更気が付く割に、これが心の底からの心配なのだから、時々博士のことがとても心配になる。

 ふらりと体制を崩した学生君が近くの椅子に座り込んでしまったのは、それから十秒もしないうちだった。



   **** ****



「落ち着いたみたいだったので、学生君にはさっき帰ってもらいましたー」

「そうか、それは良かったよ」

 お詫びも兼ねて、こっそり近くのコーヒーショップの回数券も付けておいたのは博士には内緒にしておく。これは経費ではなくわたしのポケットマネーからだった。うちの博士がどうもすみません、という気持ちを込めて。

「彼にとって、これが貴重な経験としてこれからの糧になれば良いなぁ。逆コタール患者との握手なんて、一般人ではなかなか得られない経験だからね。今時じゃアイドルよりも貴重だよ!」

「博士は前向きですねぇ」

 わたしとしては、どちらかといえば、これからの彼のトラウマにならないことを願うばかりだけれども。

「当然だよ。これほど興味深い分野は久しぶりだからね。この研究から、生きた人間の心についてだって知ることができるかもしれないんだ」

 拳を握り熱く語ってみせるけど、おっとりとした話し方のせいか今一格好がつかないのが、博士のいいところの一つだとわたしは思う。

「そういえばミギ、カミヤさんは?」

「学生君よりも先に帰りましたよー。友達とお茶するそうです」

「そうか。大丈夫なのかな?」

 実験の参加者が意図せず死者に触れてしまった時のことは何も思わないくせに、町中で友人の身体が死んでいると気付いてしまった人の心情は心配できるひとなのだ。

「ご心配なく。事情を知っている人たちの一人だそうですよー」

「そうか。第二の人生は満喫できているみたいで良かったよ」

 ニコニコと頷くのは、彼女の「生前」の話が頭にあるからだろう。


 カミヤさんは死ぬ直前まで、彼女の周囲の世界にひどく打ちのめされ、傷付けられていたという。

 死にたいと何度も薬を飲み、潜り込んだ布団の枕に拳を打ち付け、歯を食い縛って涙を流していたのだと、彼女が一度確かに死んだことを知る数少ない友人が証言していた。

 家族とも折り合いが悪くて、一度死んだ時でさえ連絡先が分からなくて病院の方が戸惑ったらしい。結局家族は今も彼女の身体の死を知らず、お陰で博士はこうして「助手」として彼女を雇えている。


「何があったかは知らないけれど、せっかく生まれ直せたのだから、幸せに『生きて』いってほしいよね」


 一度死んで起き上がった彼女は、なぜか命と一緒にこれまでの憂鬱も捨て去ったように明るく、朗らかな人になった。

 今日だって、「お先に失礼します」なんて言いながら研究所を後にしたカミヤさんの足取りは本当に軽やかで、思わず手に触れて死んでいることを確かめたくなるくらいに生き生きしていた。

 それが蘇りの過程でなにか起きたせいなのか、それとも彼女の元々の性格が表に出てきたからなのかは今もはっきりしない。

 けれども確かに彼女の周囲から聞く生前のカミヤさんと比べれば、博士のように心の違いを調べたくなったとしても不思議じゃない。

「できればその幸せも、バクテリアや寄生生物の現象ではなくて、本人のものであれば尚のこといいけれどね。そこは研究次第だから、あんまり期待をもって研究を進めてはいけないんだよなぁ」

 ―――期待は、時として結果を歪めてしまうから。

 そう独り言のように続けた博士は、そのお人好しの顔に申し訳なさそうな表情を浮かべてマグカップに紅茶を注いだ。

 そんなことを言いながら、生前の辛い思い出についてはなるべく触れないようにしつつ、できる範囲から研究を進めている。

 助手の幸せも気に掛けられる博士は本当に、いい人ではあるのだ。

 実際には彼女を騙して「生きている普通の人」として雇いながら、研究対象としているわけだけれども。

 それでもわたしは、カミヤさんについてもわたし自身についても、博士は本当にいい人だと思っている。



 博士のマグカップから上る湯気を眺めながら、ふと前から気になっていた疑問をわたしは口にした。

「博士、前々から少し気になっていたんですけど」

「うん? どうかしたかな?」

 猫舌らしい博士は慎重に息を吹き掛けて一口目の紅茶を啜ってから、気前良くこちらの方に顔を向けた。

「逆コタール症候群になるひとに、共通点とかあるんでしょうか」

 以前博士に薦められて一応ざっと読んだ本には、生きているのに「自分は死んでいる」と語るコタール症候群の人たちの根底にあるのは「罪悪感」なのではないかという推察が書かれていた。

 それなら、死者が生きていると思い込んで振る舞う逆コタール症候群の人たちの根っこで共通しているのは、何なのだろう。

 その共通点がもしも心にあったとしたら。

 死にたいと願っていたカミヤさんのように、生前何かに追い詰められ、苦しめられていたひとの何人かが、原因不明の何かによって起き上がるのだろうか。



 博士とマグカップの間の空を見つめながら、返事を待つ。

「うーん、どうだろうな」

 もう一口だけ紅茶を啜ってから、博士は首をかしげてみせた。

「何せサンプルも研究資料も少ないからね。今のところ損傷の少ない死体という共通点はあるけれど、それもこれからどうなるかはわからないなぁ。

 それに、現状は身体的な違いの研究とか、それによって生じる生活での不具合の解消とかに重点を置いた研究の方が中心だから、『そもそもどうしてこんなことが起こったか』という話は後回しにされがちなんだ」

 かくいう博士の研究も、他にまずやるべきことがあるのではないか、なんて声をかけてくる人が一定数はいるのだという。


 明確な答えも、それに近いものも出なかったことに、わたしは密かに安心した。

 そんなわたしの内心に気付かない博士は、ミギが研究について質問するなんて珍しいねと笑っている。

 それに対するうまい返しも思い付かなくて、何となく手元にあったスケッチブックを開いた。

 一番新しいページには、今日描いたカミヤさんと、学生君の向かい合う姿も描かれている。


「博士、もういっこ質問してもいいですか」

 今日の博士とカミヤさんと学生君の握手を思い出しながら、何となく鉛筆を動かし始める。

 わたしには、あの体温さえ見えなければ、ごく普通の学生と助手の握手と変わらないように感じられたワンシーン。

「博士は自分が死んだら、逆コタール症候群で起き上がると思います?」

「なるほど、それは自分で観察できるから中々に魅力的だね」

 こういうときに「魅力的」という言葉を何のためらいも後ろめたさもなく、無邪気に笑いながら使ってしまうところが、博士の危ないところでもあり、良いところでもあるとわたしは思う。



「けど、僕はそのまま死んでいってしまいそうな気がするなぁ、何となく」

 あっけらかんとそう続けると、博士はもう一度紅茶に息を吹きかけてから軽く啜った。

 

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