それでもこの冷えた手が
善吉_B
実験室
マジックミラーで隔たれた先の部屋に、一組の男女が向かい合って座っている。
二人の腰掛けるパイプ椅子と、その間に配置されたシンプルな構造の机以外、部屋には何も置かれていない。おまけに壁一面までのっぺりと白く塗られているせいで、いつ何度見ても殺風景だ。
――――― 何かの映画で観た、宇宙人の取調室みたいだ。
窓ガラス越しのこの風景を眺めて、いつもそう思うのはわたしだけなのかもしれない。
隣の博士は興味深そうに二人のやり取りとモニターを交互に眺めているだけだし、肝心の部屋の中に入れられている二人にとっても、部屋の内装なんてどうでも良さそうだ。
部屋の中、向かって右に座る男の方は、さっきから定期的に眉を寄せては不機嫌そうな顔をしている。その度に目の前の女の方に怪訝そうな顔をされては、何でも無いと手を振って取り繕っている。
そんな風にぎこちない笑顔でごまかすなら、最初から明らさまな顔をしなければ良いのに。
そう思ってしまうけれども、これはきっと彼なりの意思表示なのだろう――――それも、向かいに座る彼女に対してではなく、今も二人のことを眺めているだろう、わたし達に向けてのだ。
男とは反対に、女の方はとてもご機嫌だった。夢見るようにゆったりと微笑んでいるその様子は、腰掛けているパイプ椅子も上等なソファに感じているんじゃないかと疑うくらいリラックスしている。
以前の彼女なら考えられない、と言っている人がいたけれど、わたしや博士が聞いたのは心を病んでずいぶんと経った時の姿だ。もしかしたらこれが、本来の彼女の心の在り方なのかもしれなかった。―――― あるいは、本当に別の何かになってしまったのかもしれないけれど。
それを解き明かすことを兼ねての、この実験だ。
鉛筆を動かしていた手を止めて、机の上のデジタル時計に目をやる。ちょうど三十分を過ぎたところだった。
「博士、そろそろ良いですかー?」
鉛筆を置いて隣を向けば、モニターにかじりついている博士のつむじと目が合った。ううん、という生返事しか返ってこなくて少し溜め息が出る。
これは多分、聞こえていないなぁ。
「博士ー? わたしはスケッチ、終わりましたよー?」
今度は少しだけ声を張って、つむじの方に話しかける。ついでにわざと大きな音を立てながらスケッチブックをたたんだ。
「うん――? ああ」今度は少し、中身のある声が返ってきた。そろそろモニターと顔の間に時計を捻じ込むことを検討しようかと思っていたけど、これなら大丈夫そうだ。
「そうか、もうそんな時間かぁ」ごま塩頭を掻きながらおっとり笑う博士のせいで、元々妙に間延びして話すと周りに言われていたわたしの癖は更にひどくなった気がする。攻撃的に聞こえるよりは良いじゃあないかと笑ったのはやっぱり博士だったので、それでも良いかと最近は私も開き直り始めた。
よっこいしょ、と掛け声と共に立ち上がった博士が、伸びついでに私の手元を覗き込んできたので、閉じたスケッチブックを少しだけめくって見せた。
「相変わらず上手いもんだなぁ。ミギに頼んで正解だったよ」
いつも通りに描いているだけなのに、見せる度にいつも感心した声で褒めてくれる。
ミギという名前だって本当のわたしの名前ではないけれど、この呼び名の方が自分の本当の名前だと確信できるんです、そう恐る恐る言ったわたしの、世間話の皮を被った叫びのような主張をちゃんと受け入れてくれて、おまけにこうしてわたしの「名前」として使ってくれている。
博士は本当にいい人だ。少しだけ、世の中で言う倫理観とかそういったものが欠けちゃっているような気はするけれど。
「それじゃあ、少し色々と整理してから挨拶に行くから、先に行って休んでもらっていてね」
笑顔と共にまたモニターへと逆戻りした頭を見送ってから、手元のつまみを押し上げてマイクに話しかけた。
『三十分経過したので、面談を終了します。お疲れ様でした。部屋を出てすぐの待合室にてお待ち下さい』
気を抜くと間延びしそうな語尾をなるべく短く区切るように気を付けたせいで堅くなったわたしの声が、宇宙人の取調室で響いたらしい。女の方が顔を上げてスピーカーを探すような仕草をしてから、向かいの男に向かってにこやかに頭を下げてみせた。
対する男の方はといえば、わたしの声に今までで一番きつい皺を眉間に寄せただけだった。女の挨拶に一度だけ笑顔で返したものの、すぐにまた機嫌の悪そうな顔に逆戻りする。
一体何が気に食わないのか。大体の予想は付くけれども、あの調子だと後で文句でも言ってくるかもしれない。
少しだけ憂鬱になりながら、実験を終えた二人を出迎えるべくモニタールームを後にした。
「あんた、俺のこと馬鹿にしているんじゃないでしょうね」
案の定だ。
思わずうんざりした顔になりそうなのを、普段は意識もしない顔中の筋肉を総動員して抑え込む。
待合室に入って早々、こちらのお疲れ様でしたという言葉も最後まで言わせないうちに、取調室から出てソファに腰掛けていた男の方がこちらに食ってかかって来た。
女の方はと見回せば、預けていた荷物を取りに行っていると不機嫌さを頑張って延長しているような口調で男の方が教えてくれた。丁寧な人だと一瞬感心してしまってから、彼女に聞かれてはまずいことを話している自覚があるだけかもしれないと思い直す。どちらにしたって、この状況が面倒くさいことには変わりない。
「どう見たって、普通の人間じゃないですか。俺が騙されるとでも思ったんです
か。それとも何ですか、からかってでもいるんですか」
これは二十数年生きているうちに分かったことだけれども、どうやらわたしの見た目は文句を言いやすい相手に見えるらしい。背が低いとこういう時に不便だ。おまけに話し方のせいもあってか、実際よりも年下に見られることが多い。今もこうして、取ってつけたような最低限の敬語で言い募ってくる相手は、わたしになら文句を言っても良いと思っているようだった。どうせ博士には強いことなんて言えないくせに。
――――― キャンパス内で実験のために募集した学生アルバイト君。多分わたしは、あなたよりも数年年上ですよ。
よっぽどそう言ってやろうかとも思ったけど、止めておいた。仮にわたしが本当に彼より年下だったとしても、怒っているからって、事情も確認しないうちからこんな態度を取られる筋合いはない。
「チューリングテストっていうから、パソコンか、精々ロボットと話すんだと思ったのに。何で生身の人間相手に話していなきゃならないんですか。あんた、本当に教授に言われた通りにやっているんですか?」
文句を言いやすいと思われる上に、この見た目はどうにも頼りなく見えるのだろうか。言われたことをちゃんと出来ない人間のような扱いをされることもそんなに珍しくはなかったから、この手の文句も適当に聞き流せる。
「ちょっと、あんた聞いているんですか? 何か言ったらどうなんです? それとも言い訳出来ないってんですか? 間違えたんなら間違えたって、言えばいいじゃないですか」
こちらが黙っているのを、怯えているか困っているかだと思っているのだろう。相手の文句は更に勢いを増した。
これはわたしの経験からくる持論だけれども、この手の人間は文句を言いやすい相手だと一度認識すると、坂道を転がっていくようにどんどんヒートアップしていく生き物なのだ。普段飲み込んだ怒りやわだかまりをここぞとばかりに発散するように、必要以上の感情を上乗せしていく。
盛り上がっているところで申し訳ないけれど、いい加減文句を聞き流すのも疲れてきてしまった。
そろそろ事情を説明したいところだけども、さてどうやって説明をすればいいのやら。
確かにチューリングテストだと言ったから、アンドロイドか何かと話すと思われていてもしょうがない。そこの誤解は仕方ないと思う。
けれどもテスト自体は、本当に本物なのだ。
わたし達は――――博士は、本当に彼女が人と同じ心を持っているのかどうかを知りたくて実験をしている。
けれども彼女と普通の人との違いについて、人に説明するのは難しい。
それは決して難しい内容だからではなく、聞いただけではとても信じてもらえないような内容だからだ。
「お疲れ様でした。何やら大声が聞こえましたが、うちの助手がどうかしましたか?」
ようやくモニターとの睨めっこを終えたらしい博士がドアを開ける音がして、私は心の中で両手を挙げて万歳をした。
「博士、すみませんー。こちらの方が、チューリングテストなのに生身の人間と話をするのはおかしいのではないかと仰っていてー」
すかさず事態を包み隠さず、かいつまんで説明する。向かいの男は少しばかり焦ったような表情を浮かべたが、知らん顔をしておいた。
怒れる学生君、実験の企画者の登場ですよ。文句があるなら博士に言うが良い。
ついでに博士、あとの説明はよろしくお願いします。
「ああ、なるほど。つまり君は、彼女が生身の人間だと、そう確信しているんですね?」
「いや、確信というか…どう見たって、普通の女の人じゃないですか。すみません、てっきりロボットとか、AIと話をするんだと思っていたので…。教授がどういう意図でテストを組まれたのか、知りたくて…」
博士に対しては妙にへどもどした返事を聞きながら、思わず笑いそうになるのを必死に堪える。
さっきの勢いはどうしたんだと野次を飛ばしてやりたいけど、きっと自分も取っている講義の教授には強く出られないのだろう。そんなことしたって、博士は個人的な恨みで落第させたりはしないのに。
当の博士はといえば、学生君の態度よりも彼の言葉が気になったらしい。顎に手を当ててそうかそうか、生身の人間だと思ったかと満足そうに頷くと、不意にわたしの方を向いた。
「ミギ、カミヤさんはどこに行ったのかな?」
「さっき荷物を取りに行っていたみたいでしたが。そういえば中々戻ってきませんねぇ」
「そうか。君、申し訳ないけれど、もう少しだけ残っていてくれませんか? 最後に彼女と挨拶をしてほしいんです。それまでお茶でも飲んでいて下さい」
にこやかな博士の頼みに、すっかり大人しくなった学生君は狐に抓まれたような顔ではぁ、と間の抜けた声を返した。博士の意図を正確に読み取ったわたしだけが、思わず吐きそうになった溜息をそっとしまい込む。
確かに彼の疑問――――もしくは不満を解決するには、それが一番手っ取り早い手段だろう。
けれども博士のその提案は、ちょっとだけ意地悪だとわたしは思う。
おまけに博士本人はこれを意地悪だとはこれっぽっちも思っていないところが、更に質が悪い。
これから学生の彼の身に起きることを考えて、心の中でそっと形ばかりの手を合わせておいた。
結局彼女が戻って来たのは、それから五分以上経ってからだった。
「すみません、受付の人と話し込んでしまって」
人の好さそうな眉尻を下げて申し訳なさそうに笑う彼女は、相変わらずご機嫌そうだ。
きっと他愛のない話で盛り上がってしまったのだろう。人生が楽しそうだと、嫌味ではなく心の底から羨ましくなるような雰囲気を全身から発している。
「大丈夫ですよ。二人とも、今日はご協力頂きどうもありがとうございました」
それににこやかに返す博士が、学生の青年に向かってさり気無く手を差し出した。つられて挙げられた手を握ってから、今度は女の方と握手を交わす。
そのままごく自然の流れで、実験の参加者同士も握手を交わそうと、おずおずと互いの右手を差し出した、その時だった。
「―――――うわっ⁉」
彼女の手が触れた途端、学生君が弾かれたようにその右手を引っ込めた。
驚いた顔の相手を見て、自分の咄嗟の行動の意味を初めて理解したらしい。慌てた様子で頭を下げた。
「あの、すみません、ちょっとびっくりしてしまって…」
「いえいえ、大丈夫ですか?」謝られたカミヤさんは、少しも気分を害していないようだった。改めて差し出された右手を握り返しながら、逆に心配そうにその穏やかな表情を相手に向ける。
「静電気でしょうか? すみません、今日は結構厚着をしてきちゃったから」
「いえ、ああ…ええと、はい。そんなものです」
妙に歯切れの悪い返事をしながら、離れた相手の右手を見送った学生君は、ちらりともの言いたげに博士の方に視線を向けた。その表情は未だに驚きで固まっている。
そのやり取りを見て、ますます満足そうな表情を浮かべた博士を横目に見ながら、私は今度こそこっそりと溜め息を吐いた。
あれだけ横柄な態度を取られた相手だけれども、ほんの少しだけ学生君が気の毒だ。
あの手に触れた時の衝撃は、きっと静電気どころの騒ぎでは無かっただろう。
彼女の手は、きっと氷よりも冷え冷えとしていたはずだ。
ただの雪よりは低くないはずのあの体温は、近くに居るだけで熱を奪われていくのを感じるほど冷たいだろうことを、わたしはこの身をもって知っている。
おまけにこれから種明かしが待っている。博士はきっといつも通り、何てことのない話のように説明するに違いない。
博士も私も平気だけど、気にする人は大いに気にするだろう。
だから意地悪だと言ったのだ。
あなたは今、動く死体と握手をしたんですよなんて言われて、彼が卒倒しなければ良いのだけれど。
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