第5話

「都が遷る……?」

「ニネヴェはもはや危うい。もっと北に宮殿を移すと」

 兄王シャマシュ・シュム・ウキンの焼死から十二年。わたしは憔悴した書記官のことばに唖然とした。

「図書館は……?」

「閉鎖だ」

 のっそりとすがたを現したアッシュル・バニ・アプリに、わたしたちは慌ててひれ伏した。

「収集した文書は置いていく」

「なんと……」

 驚愕を隠せない司書たちの嘆息に、王は眉ひとつ動かさない。

「そなた」

 王がわたしを呼ぶ。

「はい」

「予と予の宮廷は、かならずニネヴェに戻ってくる。それまで、そなたがこの図書館を守れ」

「……」

「残務がある大臣や官吏、衛兵も置いていく。……できるか?」

 わたしは王の漆黒の瞳を見つめた。王の、この図書館に対する、偏執に似た愛着を、わたしはよく知っている。かれが、あっさりとここを手放すはずがなかった。

「……はい」

 わたしは答える。似姿を刻んだ浮彫と同じく、つねにほほえみの陰すらもなく謹厳な王の顔に、めずらしくうっすらと笑みが浮かんだ。

「励め」

 みじかく言い、かれは去った。


 兄王の焼死後、シムーの言った通り、スサはアッシリアに征服された。しかし、アッシュル・バニ・アプリがその後の八年間でアッシリアを最大版図に導いたにもかかわらず、帝国はおおきく傾いていた。各地で反乱が起き、ハルタミに代わって立ったメディアやペルシア、遠くアナトリアなるリュディア、さらには帝国の内側にあったユダが帝国に反目した。峻烈なアッシリアびとの支配に、カルデアびとやバビロニアびとも、憎しみを露わにした。

 わたしは内心で快哉をさけんだ。

 ハルタミはほろんだが、父と弟を殺したアッシリアもまた、ほろぼされるのだ。

 この図書館に収められた文書が残す、あまたの死んだ国々のことばと同じように――アッシリアびとのことばも、息絶えるのだ。

 そして、この図書館も。

 わたしは、死の静寂に包まれた書架のあいだを、うろうろと歩き回った。

 王のことば通り、かれはニネヴェになんどか戻ってきた。しかし、情勢は悪くなる一方だった。豪奢に装飾された施釉煉瓦の宮殿も、修繕が追いつかなくなり、あちこちで崩れている。図書館も、天井に穴があき、羊皮紙やパピルスは腐り落ちている。

 しかし、粘土板の文書は傷つかない。

 いま、王はニネヴェの外で死の床に就いている。

 わたしは、まだこの図書館を守っている。

 ――愚かなことを。

 弟の首が、書架のあいだの闇にぶら下がり、語りかける。

 姉上が守ろうと、放棄しようと、ここなる文書は生き続けるでしょう。

 わたしは、じっと闇を見上げる。

 それでも。――それでも、わたしは守る。

 なにを?

 ふしぎそうに、弟は訊く。

 王の集めさせた文書を。もう一度――かれに、見せるために。

 かれ。

 アッシュル神の名を負いし王――太陽なるシャマシュ神の名を負いし兄を殺した王――アッシリアの王、翼ある日輪の帝国の王……アッシュル・バニ・アプリ。

 シムーと別れてまで?

 シムーは……バビロニアに行ってしまった。

 バビロニアびとが力をつけたのを知って、行ってしまった。でも、あなたは追いかけなかった。

 どうやって追いかけられた? かれがどこに行ったのかもわからないのに――……

 宮殿から逃げればよかったでしょう。王の目はもはやよわまった。奴隷が逃げても、だれも捕まえない。

 でも、そうしたら、図書館は――

 死んだ国の、死んだことばの重なりに、なんの価値がある?

 でも、かならず、いずれだれかが読み解く。だれかが望む。知りたいと。死んだシュメルびとの、死んだハルタミびとの、死んだアッシリアびとのことば――語りかける声を聴きたいと望むだれかが現れる。

 はるかな未来ではね。でも、いまではない。姉上。

 わたしはうつむいた。足下に積み重なる粘土板を、足先でつつく。いちど、これらすべてを叩き割りたいと願ったことがある。シムーが行ってしまったとき。わたしが、ここに鎖でつながれ、生涯ここを出ることは叶わないと知ったとき――

 王に仕えるのをやめる気はないのだと悟ったとき。

 この文書がなくなれば、わたしは自由になるのだと思った。けれど、文書はあまりにも多く、わたしは破壊をあきらめた。

 だからまだここにいる。

 遠くで戦の声がする。

 王の死を悟る。かれが死ねば、帝国も死ぬ。

 ニネヴェにバビロニアの兵が迫る。

 宮殿が燃え、崩れ、わたしは下敷きになる。


 ひとりの若い兵士が、宮殿の中庭を走っている。ジャスミンのしげみを通り抜け、ぶどう棚の脇を駆け、わたしの横たわる図書館の瓦礫の上を歩き、丘の上、王の執務室――謁見の間にたどり着く。ほかの兵士は宮殿の装飾を略奪することに躍起になっており、かれの行動にはだれも注意を向けない。かれは玉座のわきに刻まれた、浮彫の前にたどり着く。

 ウライー川のそば、灌木の林のなかで、かれの祖父が殺され、叔父が倒れている。かれはふたりの像をゆっくりと撫で、額を浮彫に当てる。それから、腰に下げていた短剣の、硬い柄頭で、祖父の頭を殴りつける兵士、首を切り落とそうとしている兵士の顔を、叩き潰す。

 シムーに託した自分の子どもが帰ってきたことに、わたしはほほえむ。




「司書の物語」了

「牧童の物語」(R18)https://cervan.jp/story/p/2784 に続く

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翼ある日輪の帝国 司書の物語 鹿紙 路 @michishikagami

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