第4話

 アッシュル・バニ・アプリ、

 偉大なる王、

 嫡出なる王、

 この世の王、

 アッシリアの王、

 四方世界の果てまですべての王、

 王たちの王、

 並ぶ敵対者なき王位継承者、

 「上なる海」から「下なる海」まで支配の軛を敷きし王


 数年に一度、石工の刻む六角柱の碑は王をそう形容するが、この王には「敵なる兄」がいた。バビロニア王シャマシュ・シュム・ウキン。歳のちかいかれは、弟の即位の翌年王位に就いた。当初はこの内なる他者であるバビロニアびとを平和裡に治め、アッシリアを守っていた兄は、バビロニアびと、カルデアびと、そして王を失ったハルタミびとに担ぎ上げられるかたちで弟に反旗を翻した。四年、烈日の消耗戦があり、バビロンでは、飢えのなかでひとびとは互いの肉を喰らい、兄王は宮殿の燃えさかる火のなかに自らを投じた。バビロンはふたたび壊滅した。

 そのあいだ、アッシュル・バニ・アプリが図書館を訪れることは絶えた。閑散とした、しかし殺気立ったニネヴェを、驢馬を曳いたひとりの男が歩いている。王宮の施釉煉瓦の建物に入り、王の留守を守る王妃やその「右腕」、侍女たちに豪奢な毛織物を売ったそのアッシリア商人は、司書たちのくつろぐ葡萄棚で声をかけられ立ち止まる。

 どこから。

 アナトリアからキリキアを経て、山のなかを通り、アンモンへ、そこからバハレーンへ向かう途中です。

 うとうとしていたわたしは、その声を聞いて起きあがった。

 聞き覚えがあったのだ。

 つよい日差しを遮る山羊の毛の黒い外套を頭からかぶり、かれは腰の曲がった、しかしかくしゃくとした老司書と穏やかに話している。

 羊皮紙は持っているかね。

 耳の遠い老人に配慮して、かれはおおきな声で話した。

 すこしは。商売につかうもので、お譲りはできないのですが。

 なんだ、つまらぬ。

 わたしの心臓がおおきく鼓動する。かれの声が耳朶にひびくたび、わたしはからだが跳ねるように動こうとするのを必死で抑える。

 老人の興味が薄れたのを察したのか、商人は穏やかな調子のまま、司書たちに別れを告げる。そのまま、建物の影に消える。わたしはことさらゆっくりと立ち上がり、かれの消えた方角とは別の方向に歩いていき、角を曲がる。影に入った途端、全力で走る。建物を回り、かれの行った方角に駆けつけ、ひとけのない庭の小道を歩くかれを見つける。

 いた!

 わたしは内心で叫び、かれのもとに駆けつける。

 シムー。

 小声の呼びかけに、かれは振り返り、驚きに目を見開く。ジャスミンの花のしげみの陰にかれを引っ張り込む。

 ズィニ……?

 数年ぶりに聞く自分の女の名に、わたしはおおきくうなずいた。

 そんな……ズィニ、ほんとうに?

 ハルタミのことば。ハルタミの名。

 シムーは、わたしの婚約者だった男だ。


 アッシリアの商人を騙った飄然とした男は、故郷のことばを口にして頬髭を涙で濡らし、外套のなかにわたしを抱き締めた。わたしは口早にいままでどう暮らしていたかを話す。かれも、戦乱のなかでアッシリアの刃をかろうじて逃れ、自分の役割を得たことを話してくれた。かれはハルタミの将軍の息子だったが、いまだに残るかの国の軍勢に属し、シャマシュ・シュム・ウキンに臣従して、首都の情勢を探りにきたのだという。

 わたしはほほえんだ。

 わたしの婿どのは間諜になったのね。

 かれは目を伏せた。

 バビロンはひどいありさまだ。兄王が討たれれば、スサをアッシリアの矢が襲うだろう。もうこのまま、商人として生きようかと思い始めた。

 シムー……。

 きみがニネヴェに行ったことは知っていた。だから、もしかして、とは思っていたが――ほんとうに会えるとは……しかも、宦官になっていたとは!

 シムーは顔に笑みをひろげた。

 わたしだって、うまくいくとは最初は思ってなかった。

 それはそうだ。わたしはきみの――……

 ……なに?

 口ごもるかれに問いかけると、かれはもじもじと言った。

 口づけのやさしさを知っている。

 わたしは頬に熱が上るのを感じる。かれはきょろきょろし、まわりにだれもいないことをもういちど確かめてから、わたしに視線をあわせるために身をかがめた。

 王宮を抜け出すことは。

 できない。兵士がいつも司書の出入りを見張っている。

 また会いにきても?

 もちろん。どうしたらいいかしら――……

 わたしたちは話しながらそわそわする。わたしのからだの空く昼、人目のない場所――暑い図書館。書架の暗がり。かれをそこに導く方法を話し合って、

 もう行かなくては。

 わたしは同僚が探しにくる可能性を感じてうつむく。

 ズィニ。

 すばやく、かれがわたしをもういちど抱き締める。わたしはつま先立つと、かれに口づけする。ジャスミンのつよい香りのなかで、かれはわたしにふかい口づけを返す。一瞬の陶酔。そののち、かれはぱっと身を離した。無言のまま見つめ合い、ぎゅ、と手を握られる。わたしはうなずく。かれは外套をかぶり直し、しげみを出て行った。

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