第3話
「なにをおっしゃって――」
顎をつかまれ、かれに目をのぞき込まれる。
つよく拳で胸を打ち込まれたような衝撃に、わたしは顔を歪める。かれの、井戸の底のような深い闇の色の瞳。見るものすべての力を奪い、骨の随まで吸い込むような引力。わたしの脚から力が抜ける。かれはわたしを床にぽいと放ると、無造作にわたしの足下から衣服の下に手を突っ込み、脚のあいだをまさぐった。ひゅっと喉を鳴らすわたしの口をもう片方の手でふさぐ。
「……」
かれの眉が、しだいに歪む。ぽんぽんと太股を叩き、手が抜き出される。
「そなた、女だな」
見下ろされて、わたしは小刻みに震えた。殺される。アッシリアに対して、嘘をついた、その罪で――……
王は口角を片方上げた。
「よくここまでたどり着いたな。エラムの……貴族の娘か? 王族か?」
わたしは唖然とし、ことばが出てこない。
「明日また来よう。それまでに、エラムとアッシリアの、王室の荘園経営のやり方の違いについて、示せる文書と私見を用意しておけ。――できるか?」
わたしは慌てて首肯した。恐れのあまり、やはり声は出てこない。王はうなずくと、さっとわたしのランプの灯りから消え、次の書架のなかの闇に消えていった。
王から下問があったと、同僚たちに話すと、彼らはしたり顔でうなずき、わたしにあれこれとアッシリアの荘園経営についての文書のありかを教えた。頬に髭があったりなかったりする彼らは、総じて近眼で、わたしのからだつきにはまったく疑問を呈さない。書物のなかに生きるかれらは、すこしだけ離れた場所にいる生身の人間を茫漠としてしかとらえず、逆に遠く過ぎ去った過去の文書について、こと細かに生き生きと話す。わたしはかれらの示唆に助けられ、王の質問への回答を用意して、来訪に備えた。
王の質問、それに対するわたしの答え、それに関する対話。かれがやってくるのは決まって宵の口、空にイシュタル女神の星が輝き始めたころで、昼の暑熱も引き、ほかの官吏たちは住処に戻って早々に休み始めるころだ。司書たちは王の来訪に備え、夕べに気を張り、深更になってようやく書架の下で眠り、明け方には次の試練に向けて粘土板を手繰り始める。炎暑のころは昼、風通しのよい葡萄棚の下に置かれた、背の高い網張りの寝台で雑魚寝する。
あの漆黒の瞳に見つめられ、必死に頭を使いながら対話に身を投じる瞬間、満足した王がうなずき、さっと次の司書のもとに去る瞬間、明け方、清らかなシャマシュ神のまなざしが窓から差し込み、次の課題に立ち向かおうとする瞬間――……ふしぎなことに、わたしはそれらに深いよろこびを感じる。
故郷を破壊し、したしいひとびとを殺し、首を刈り取り、財や粘土板を奪った人間の統べる、この王宮で。ここには単純なもの、純粋なもの、そして沈黙したものしかない。葦で刻み込んだ文字、あるいはインクを染み込ませた文字――それらは雄弁で、あるときは声を以てわたしの耳に語りかけるが、でも、それらはすべて、在ったこと、終わったことであり、いまのわたしの命を奪うことはない。文字たちの沈黙、司書たちのかすかな衣擦れ、ちいさな話し声、ランプの燃えるかすかな音――……それらは、わたしの経た鮮やかで身を切り刻む残虐を、覆い隠してくれた。
弟の父を呼ぶ絶叫も、王を励ます必死の声も、アッシリア兵を通じて書き留められ、粘土板になってここに運ばれる。兵士の話を聞いた石工が、王の玉座の間の壁に、エラム王テウンマンの死を描いた浮彫を刻む予定だという話が、聞こえてくる。戦勝の勲を、王に謁見しにきた大臣たち、官吏たち、占術師たち、異国の大使たちに示し、敗北者のあわれなさまをあざ笑うために。
弟の首がわたしに語りかける。姉上、わたくしをお忘れになるのですか。
無論、そんなわけはない。
図書館を出ることもまれなわたしが、玉座の間に入ることはないだろう。けれど、図書館を訪れるアッシュル・バニ・アプリを殺し、浮彫の製作を中止させたい衝動に駆られる。父の死のように、弟の死のように、かれの背後に忍び寄って、棍棒の一撃を加えたい。あのりゅうとした厚い胸板の壮年の王も、頭を殴られれば、老いた父のように、もろく倒れるだろう。駆けつけた官吏や大臣に向けて、大声で叫びたい。
わたしは。
わたしの国は、そなたたちの贄ではない。
そなたたちがせせら笑い、哄笑するための虫けらではない。
現実には、そう叫ぶ間もなく、わたしは殺されるだろう。麦の束を刈る農民のように、無造作に人間の首を刈るアッシリアびとによって。そもそも、わたしは背が低く、大木のような王の頭に、棍棒をもってしても殴りかかるようなことはできない。隣の書架でかすかに話す王の声を聞き、かれの影法師を見つめながら、わたしは音もなくじわじわとあふれる涙を袖口で拭う。
贄でも、虫けらでもないとすれば。わたしはなにものだろうか。国を守ることもできず、敵の利となる仕事をして衣食を得、敵の王に向かって這いつくばるこのわたしは。
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