第2話
わたしに与えられた最初の仕事は、故郷の文書を整理することだった。書庫の入り口ちかくに、あたらしくやってきた粘土板が乱雑に置かれている。土埃のにおい。死んだ伝承、死んだ国家のにおい。
色とりどりに染め、文様を刺繍した豪奢な毛織物をまとい、金の冠や耳飾りを身につけた宮廷のひとびとの笑いさんざめくすがた、声、雅やかな香のにおい、わたしを抱きしめた婚約者のあたたかな胸――……
その幻影がわたしを襲い、その場に立ち尽くす。それはひとまたたきのうちに消え、破壊しつくされた街の瓦礫のような粘土板の重なりがランプに照らし出される。まっすぐな線に区分けされた、するどい葦の断面でびっしりと刻み込まれた文字の連なり。
書記たちが文書を押し刻むのに、ほとんど力はいらない。力を込めれば疲れてしまう。けれど、灰色のちっぽけな土の固まりには、たしかに、彼らの技術と知識、知恵、そして感情が込められている。それらが、まっすぐな線を組み合わせた、端正な、しかし偏執的な文書に残る。わたしはよろよろとその場にしゃがみ、手近な一枚の粘土板を手に取る。片手で持ち上げられるちいさなタブレット。
――血に対して血を注がないならば――
その文面を見て、わたしはぎょっとする。父が前代の王から位を襲うとき、諸貴族に配られた文書の文面だ。各地の神々、貴族、神官の臣従を誓わせ、彼らが反乱を起こした際、それに報いることを、命と財産を賭けて誓わせる文書。その断片の写し。
粘土板を拾い上げるたびに、それを刻ませた人間、それを読みあげるのを聴いた人間の声が聞こえてくる。ある王は息子の放蕩を責め、そなたは子どもか、そなたの頬に髭はないのか、となじる――……ある貴族は土地を売るにあたり、詐欺にあったと訴える――
王宮の荘園の収穫。小麦、ナツメヤシ、羊毛の量。今年を飢えずに過ごせることへの喜び、神への感謝――
アッシリアに攻め滅ぼされた街の、無惨な破壊のようすも残っている。火を放たれ、食料が燃え、衣服が炭と化し、眠るための屋根を失い、焦げた天幕の下に身を寄せ合うひとびと――
父の名を構成する神・インシュシナク――ハルタミの首都スサの神――の像を刻んだ石柱もある。謹厳な冥界の管理者――……そのわきに豪奢な衣服を剥がれ、瞳の宝石をくり抜かれて転がるのは、フンバン――ハルタミでもっとも重要な軍神の像だ。
この世で、神像を奪われることは、民としての死を意味する。かつてアッシリアびとはバビロニアびとのマルドゥク像を奪った。ハルタミもまた、主神を奪われたのだ。
――血に対して血を注がないならば――
われらは膨大な血を支払った。どうやって代償を受け取ればいいのか。手を差し出すからだを持たぬあまたの亡霊はどうやって――……
「よこせ」
突然、闇からおおきな両手が突き出された。驚いて、わたしは甲高くさけぶ。
胡麻油のランプに照らされたのは、りゅうとした背の高い男だった。房飾りのついた布をからだに巻き、なめらかな織りのシャツを着て、華の文様の腕輪を巻き、黄金の額飾りをつけた男――……
「……陛下」
わたしは床にランプを置き、砂埃にまみれたそこに額をすり付けるようにして平伏した。
「そなたの持っている粘土板をよこせ」
おおきな鐘を打ち鳴らすような声で、アッシュル・バニ・アプリ王はこちらにちかづく。わたしはあわてて、持っていたちいさな粘土板を差し出した。
王はわたしの手首をつかむ。
「細い腕だ。そなた、ほんとうに宦官か?」
ねじり上げるように引っ張り上げられて、わたしはおおきく震えた。
世のひとびとは衣服や髪型を、思っていた以上に重視し、たまたま行き合った異郷の人間でも、その人間の身なりだけで性別や身分を判断する。わたしは敗戦の混乱と強制連行の場でそれを痛感していた。それなのに、この王は。
アッシリアでもっとも高貴なこの人間は。
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