恋に溶ける

猫目 青

恋に溶ける

 溶けるって現象は、日常のいとるとこに散らばってるものだ。たとえば、私が今覗き込んでいるトースターのバター。パンに乗った黄色いバターはじゅぶじゅぶと音をたてながら、溶けていく。

 溶けたバターは食パンの白を黄色く染めて、美味しい美味しい朝食になる。

ちんっとトースターが鳴って、私は大急ぎで食パンをトースターから取り出していた。

 そのまま口に加えて玄関までダッシュ。お母さんの大声が聞こえてきたけど、そんなものにかまってる余裕はない。

 靴を履いて玄関を跳びだすと、さっそく日常の『溶ける』が目の前に飛び込んできた。ゆらゆらと揺れる透明な女の子たちの幻影。彼女たちはゆらめきながら、今にも空気の中に溶けていってしまいそうだ。

 冬と春の間になると私には、『溶ける』女たちが見えるようになる。

 ほら、今もまた陽炎みたいに揺らめく彼女たちの独りが泣きだした。

 私は泣いている彼女に突進する。私は彼女にぶつからない。私は半透明な彼女を文字通りすり抜けて、道路を駆け続けていた。

 漫画のお約束だとパンを銜えた私は、美少年とぶつかって恋に落ちるはず。でも、現実は違う。私は半透明な彼女たちの『体』を通り過ぎながら、学校までの道のりを急ぐ。

 私の横を颯爽とる自転車が現れた。彼は自転車を止めて、爽やかな笑顔を向けてくる。

「送れるぞ、咲! 乗っていくか!?」

 彼の名前は有村 明。家の隣に住んでる幼馴染だ。私は口にぶら下ったパンを急いで食べ終え、明に頷いて見せる。ぽんっとジャンプして自転車の後部座席に乗ると、彼は私に笑いかけてきた。

「猫かよ、お前?」

「猫も溶けるよね」

「はいっ?」

「こっちの話」

 彼の足を蹴って、自転車を出せと促してみせる。明ははいはいお猫様と言いながら、ペダルを漕ぎだした。

 流れる風景の中に、私は陽だまりで伸びている猫を見つけ出す。

 咲きかけの梅の下で、猫は溶けたバターみたく体をくねらせる。猫の眼はとろんと半分閉じられていて、今にも陽気の中にその体は溶けだしてしまいそう。

 その猫の横に、蜃気楼みたくゆらゆらゆれる半透明の私がいた。



 空気に溶けそうな少女たちの姿は、たぶん恋心なのだろう。

 どうして2月の終わりから3月始めの時期にだけ彼女たちが見えるのか、理由は分からない。たぶん、心が不安定になるせいだ。

 季節の変わり目になると人は脳のホルモンバランスが崩れて、何かと思い悩むようになるらしい。恋に悩む彼女たちはさらに不安になって、その不安が半透明な彼女たちの分身を創り出す。

 恋が終わると、彼女たちは消えてしまう。

 消えていった半透明な女の子は、たぶん失恋を経験した子なのだ。顔を覆って泣いていた彼女を思い出して、慰めてあげればよかったと思う。けど、私には彼女の『恋心』をどうすることもできない。

 自分の『恋心』だって、どうすることもできないんだから。

 私は明の背を見つめる。自転車を漕ぐ彼の体は左右にゆれている。その背に体を押しつけて、私は彼の腰に腕を巻きつけていた。

 遠目から見れば、恋人同士の登校風景。でも、明は私のことをただの幼馴染としかみていない。明が自転車を止める。踏み切りの甲高い音が鳴って、電車が私たちの前を通過していった。

 電車が去って踏切があがると、その前方に一組の男女が肩を並べて歩いていた。同じ制服を着た先輩たちのカップルだ。

 そのカップルの側に、半透明の明がいた。泣きそうな顔をしながら、半透明の明は先輩たちが去っていくのを見つめている。

「ねぇ、まだ俺の恋心って見える?」

 小さく明が訪ねてくる。

「見えないよ。もう、どこにもいない」

 ぎゅっとそんな明を抱き寄せて、私は嘘をついた。そうっと明は安心したように返事をして自転車を漕ぎだす。

「ちぃーす! 秋先輩に夏先輩! 冬なのに熱いっすねっ!」

 自転車のスピードをあげて、明は先輩たちを追い抜いていく。彼の弾んだ声に、先輩たちは苦笑しながら朝の挨拶を送っていた。そんな先輩たちに私はべっと舌を出してやる。

「お前だって、朝から熱いじゃないかよっ!」

 男の秋先輩が、明を怒鳴る。

「そんなんじゃないつーの……」

 明の声が私の耳朶を突き刺す。その声が妙に耳に残って、私は明の背中に頭を押しつけていた。

「っ……。なんだよ……?」

「違う道、行こう……」

 ぎゅっと明の服を掴む。明は無言でベルを鳴らして、いつもとは違う細道に自転車を進めた。仰げば青空が眩しい細道を、私たちを乗せた自転車は走る。

 あの人のことが頭から離れないと、明が私に話したのはいつだったろう。だからそれは恋だよと私は明に教えてあげた。

 明は、秋先輩が好きなんだと、私は彼に教えてあげたのだ。去年の今頃、私には半透明な明がよく見えていたから。

 よりにもよって、自分を好きな女に恋の悩みなんて打ち明けるだろうか。だから私は、溶ける恋心たちのことを彼に教えてやった。

 いけない人に恋をする彼の罪悪感に付け込んで、彼の秘密を共有した。秋先輩に彼女ができても、明は彼を忘れられない。だから、半透明な明は私の視界から消えないのだ。

 きっと明がブレーキをかける。軽い浮遊感が私を襲って、私は明の背中に軽く顔面を押しつけていた。

「咲、嘘ついたろ? だから、道変えろなんて言った」

「嘘じゃないよ」

「嘘。だって、俺さ、もう一年も経つのにあの人が側にいるだけで……」

「それは恋じゃくて、失恋って言うのっ」

 私の言葉に彼は答えない。ひょいっと私は猫みたく自転車から降りて、彼の顔を覗き込む。今にも泣きそうな明の顔が私の眼の前にあった。

「明は、あの人に縛られてるだけ。それはもう、恋じゃない……」

 そっと明の頬を両手で包み込んで、私は彼の顔を見すえる。明は驚いた様子で眼を見開いて、じっと私を見つめていた。

 そう、自分を縛るのは恋じゃない。恋は、叶わなかった時点で恋ではなくなるのだ。

 だからこれは、賭け。私の恋がなくなるか、そうでないかの賭け。

 私は明に顔を近づけて、彼の唇に口づけを落としていた。顔を離すと、明の驚く表情が視界に飛び込んでくる。

「あ……あ、咲……」

「先に学校行ってるねっ!」

 ワザと弾んだ声を出す。明の自転車を追い越して、私はぐんぐん細道を走りだす。待てよと、明の声が背後で聞こえる。自転車の漕ぐ音が耳朶に近づいてきて、私は後方へと顔を向けていた。

 透明な私と明がこちらを見つめていた。透明な私たちは気不味い様子で向かい合い、こつんと額を重ね合わせる。彼らはお互いを見つめ合い、また気まずそうに額を重ね合わせた。

 そんな2人を見て私は苦笑していた。お互いが気になるのに、どうも私たちはその先に進むのが恥ずかしいらしい。

 すると、透明な私がこちらを睨んできた。彼女は透明な明に向かい合って、彼に抱きつき唇を奪う。そんな彼女を唇を奪われた明はぎゅと抱き寄せていた。

 恥ずかしさにぼうっと私の体は熱くなる。私は立ちどまって自分たちの恋心を見つめていた。唇を離した2人はお互いに微笑みあい、陽炎のように空気に溶けていく。

「おいっ! 咲!!」

 明の大声が耳朶に轟く。私は我に返って再び走り出していた。

 明が自転車を漕いで私を追ってくる。私を呼び続ける彼の声は、どこか嬉しそうだった。



 

 

 

 

 



 

 

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