輪廻の宝玉は紅き血の色 後編
時が流れる───
シモンはうつろな目をしたまま、全裸で横たわっていた。
身体には無数の傷が走り、何が行われたか想像するにかたくない。何とも痛ましい姿だった。
あたりは静まり返っていて、まだ朝が明けるのには遠いようだ。天空にかかった月がそれとなく教えてくれている。
シモンはピクリとも動こうとしない。
その傍らで、すでに衣服をきちんと身につけたマリーが座っていた。視線は大木にはりついたままのギルガディオンを見つめている。そして、マリーは静かな声で言った。
「辛いですか? それとも悔しいですか? 僕をその手で殺したいと思いますか?」
「…………」
ギルガディオンは泣いていた。
目を閉じることができず、ずっと見開いたままだったので、そのせいもあってだろう。充血して真っ赤であった。
だが、彼の涙は、閉じることの叶わぬためからくる涙ではなく、己の不甲斐なさ、愛する者を守りきれなかった悔しさからくるものらしかった。
「はっきり言いますがね。僕はあなたには何の恨みもないですから、別にあなたを苦しめたくてこんなことしたわけじゃないですからね」
妙に言い訳がましいことを言うマリーであった。彼はチラッと傍らのシモンに視線を向け、再びギルガディオンに目を向けた。
「この人はねぇ。大罪を犯したんですよ。あなた方人間にだって影響を及ぼした罪ですよ。並大抵の拷問じゃおっつかないくらいですよ、まったく。まあ、この人も己の罪の重さを自覚してらっしゃるみたいだから多少は同情の余地もありますがねぇ。そういうこともあって、この人は僕に殺されるのを辛いとも思っていないところがある。それがつまらないんですよ」
ここまで喋って、マリーはため息を吐いた。
「今までだったら、弱みを作らないようにと気を遣ってたらしいですけど…転生を繰り返すうちに心に隙ができたみたいで……今回、あなたという愛する者を作ってしまった」
マリーは立ちあがると、ギルガディオンに向かって歩き出した。
「もう瞬きできますよ。すみませんでしたねぇ。だけど、ちゃんとあなたが事の成り行きを見ててくれないと、彼女を苦しめることができませんでしたから」
言われる通り、ギルガディオンはしきりにパチパチと瞬きを始めた。さらに涙がポロポロと流れる。
その間、マリーはずっと近くまでやってきていた。そして、ギルガディオンの前に立つと続けて言った。
「彼女は自分自身を傷つけることには耐性があるんですよ。まったく、やっかいな人だ。でも、人って不思議ですよねぇ。自分はどれだけ傷つけられても我慢できる。なのに、自分の愛する者が傷つくのは堪えられない」
「だったら、なぜ俺を殺さない! 俺を傷つければ問題はないはずだ。彼女を……彼女に…あんなことを…する必要は……」
「浅はかですよ」
冷たく言いきるマリー。
「確かに、あなたを殺せば彼女は非常に苦しむでしょう。ですがね、人間であるあなたには理解できないでしょうが、あなたを殺したって、彼女は本当の意味では苦しまないんですよ。あなたを生かすことこそ、彼女を永劫の苦しみへ叩き落すことに繋がるんです。あなたの心に消えぬ傷を残したまま生かすことがね」
「…………」
ニヤリと笑うマリーの顔に、ギルガディオンは非常な恐怖を感じた。すると、マリーの顔の表情から愛嬌の良さが消え、どこか荘厳な雰囲気をたたえだした。
「人間は未来永劫この世界が終わりを告げるまで転生し続ける」
マリーは、まるで神官が神の言葉を人々に告げるように、厳かな口調で話し始めた。
「もちろん、前世の記憶は覚えてはいないが、魂はすべての生の記憶を刻むのだ。人間には想像もできないことだろうが、神にとっては当たり前の知識。そういうこともあって、人の命などまったく大切な物だという気は起きないのだ。だから、辛い思いをするくらいなら、痛い思いをずーっと続けるくらいなら、死んでしまったほうがよいのにと思ってしまう」
「死んだほうが…いい…?」
いったいマリーは何が言いたいのだろう───ギルガディオンは、何かいい知れぬ恐怖がヒタヒタと心に侵入してこようとしているのを感じた。
「人間ってかわいそうなくらいに心が弱いよねぇ。簡単に狂ってしまうし。ただ、狂ってしまえば、それはそれで何も考えなくなって逆に本人にとっては幸せかもしれないけれど。でも、あなたのような強い精神力の持主など、とくに辛かろうに」
口調は妙に同情的だが、マリーの声にはまったく気の毒そうな思いなどこめられてはいなかった。
「何を…おまえは何を言いたいのだ?」
ギルガディオンはギロリとマリーを睨みつけた。すると、マリーは何でもないことのようにさらりと言った。
「彼女は僕たちのかつての仲間なんですよ」
「なっ…なん…何だって?」
ギルガディオンの目が、これでもかと見開かれる。その彼の目が愛する恋人に向けられた。
シモンは、ゆっくりと横たえていた身体を起こそうとしていた。そして、起き上がり、その場にまだ座り込んでまま、己の恋人やかつての仲間であるマリーへと視線を向けた。まだ、ぼんやりとした表情の彼女の目は、悲しげで、何事かを訴えようとしているようにも思えた。
「遙か昔、彼女は邪神と成り果てる僕たちの仲間の神であったのですよ。すべての神々に愛でられた、光り輝く存在──太陽の女神が彼女だったんです」
「太陽の女神───」
ギルガディオンは、その存在をいつかどこかで聞いた覚えがあった。
この世界の神々は、もともとが世界をより良くあるために導く存在であった。長である闇神は闇を司り、人々に安らぎと心の平穏を与えていた。
だが、あるときを境にして、その闇神が狂気にかられて暗黒神と変貌してしまい、世界中を恐怖の漆黒の闇へと塗りかえていったのである。確か、太陽の女神は、その長である闇神と対極を成す存在であったはず。
「彼女はね。その闇神の花嫁となる存在だったのですよ」
「花嫁?」
「やめ…やめて、マリス……言わないで…その人に、本当のことを言わないで……」
ふらふらとおぼつかない足取りで、傷だらけの裸体をさらしながら近づいてこようとしているシモン。彼女はマリーに懇願していた。
だが、マリーはまったく頓着せずに言葉を続けた。
「ふん。あれだけの寵愛を受けておきながら、よくもまあ裏切れたもんだよね」
「いやぁ──────!」
シモンは、頭を抱えてしゃがみこんでしまった。そんな彼女をチラっと目の隅で一瞥してから、マリーは続ける。
「彼女は別の男を愛してしまったんですよ。愛を誓い合った闇神を裏切り、別の男のもとへ走った。そんなひどい人なんですよ、彼女は!」
「愛する者を裏切った……」
ギルガディオンは呆然とした顔で呟く。
「違う! 違うわ!」
すると、すっくと立ち上がったシモンが叫んだ。
先程までのふぬけた表情はもう見られず、ブルーアイを涙で濡らしてはいたが、しっかりとした視線でギルガディオンを見つめていた。
「確かに…確かに私はあの方を愛していると信じていた。それは否定しない。だけど……だけど……私の前に現れたあの人を、私はあの方よりも愛してしまったのよ。どうしようもなかった……私は自分の気持ちに嘘はつけないと思った。嘘をついたまま、あの方の妻にはなれないと思ったのよ。それこそが重い罪だと私は思ったのよ!」
「裏切りは裏切りだ!」
マリーが怒鳴った。
ギルガディオンは驚いた。今まで飄々としていて、その真意を推し量りがたい感じだったマリーが、初めて見せた激怒だったのだ。
「貴女に何がわかる! あの御方の嘆きを、引き裂かれた心を、貴女はその目で見ずに逃げてしまったのだからね。貴女はね、あの御方だけでなく、我々すべての神を裏切ったのだ!」
(この男───)
ギルガディオンは、なぜかはわからないが、マリーの心がわかるような気がした。だが、だからといって、彼女にした仕打ちを許すつもりはなかったのだが。そして、ふいに口をついて出た言葉───
「おまえ…シモンを愛していたのだな」
「何を言うっ?」
突然のギルガディオンの言葉に、マリーは憤慨して彼を振り返った。
「この僕が…? 彼女を愛していただと? よくもそのようなことが言えたな!」
そう叫びつつ、マリーは立ちすくむシモンのもとに駆け寄り、彼女の細い首を片手でわしづかんだ。
「ぐぅ……」
「シモンっ!」
苦しそうな声を上げたシモンであったが、抵抗はしなかった。
だが、それを見たギルガディオンはさらに痛烈な言葉をマリーに浴びせた。
「いいや、おまえはシモンを愛していたのだ。だから何度も何度も彼女を殺すのだ」
「馬鹿なことを! 僕は彼女が昔から大嫌いだった」
マリーはさらにシモンの身体を持ち上げる。どこにそんな力があるのかと思わせるほどの怪力だ。
「…………」
彼女はというと、すでに意識が朦朧としているらしく、薄く開けられた目がどんよりとしている。呻き声ももう聞こえず、白い面がさらに白く、死人のように真っ青になりつつあった。
「愛する女に、こんなことができるかっ? 僕は彼女を何のためらいもなしにくびり殺すことだってできるんだ。それが当たり前なんじゃないか? 嫌いな者を殺すことは、愛する者を殺すことより理に叶ってるはず」
「……………」
ギルガディオンはマリーの言葉には答えなかった。怒りに頬を染めた彼のことをじっと見つめていた。
このわずかの間に接しただけのマリーは、落ち着いた雰囲気は感じられたが、威厳とかそういうものは感じられず、彼のどこが恐ろしい邪神であろうかと思ったギルガディオンである。ただ、シモンを陵辱している間の彼は、確かにそう取れる顔は見せていたと思う。それでも、それはまだ人間臭いものしか感じられず、邪神などよりずいぶんとかけ離れているように見えた。
だが、今、怒りの表情に支配されたマリーは、まるで彼の周りに銀色のオーラが燃え盛っているような気が立ちこめていた。
(なんと恐ろしい……だが…)
なんと美しいのだろう───ギルガディオンは、不謹慎にもそう思ってしまった。
愛する女を今まさに殺されそうになっていてさえ、思わず惹きこまれてしまいそうなほどのこの魅力は───やはり、彼が邪神たるゆえんなのか───だが、やはり───
「おまえは気づいていない」
知らず口から言葉が突いて出る。それを言ったギルガディオン本人さえも驚いた。だが、そのまま先程の言葉を繰り返す。
「おまえはシモンを愛しているのだ」
「まだ言うかっ!」
マリーはつかんでいたシモンを地面に叩きつけた。
彼女はまるで人形のように力なく草の上に倒れ、ぐにゃりとしていた。だが、まだ事切れてはいないようである。微かに豊かな胸が上下していたからだ。
「シモン! 聞こえるか!」
すると、ギルガディオンは叫んだ。シモンは真っ青な顔でピクリとも動かない。その彼女を必死の思いで見つめ、誰も予想できぬ言葉を叫ぶ。
「俺はもう二度とおまえを愛さない!」
「!」
いきなりそう叫んだギルガディオンに、驚愕の目を向けるマリー。だが、それにかまわずギルガディオンは続ける。
「たとえ生まれ変わっても、俺はもうおまえを絶対に愛さない。おまえももう誰も愛するな。おまえの痛ましい姿は見たくないし、おまえが俺を愛したことでおまえ自身が辛い思いをするのは我慢できない…もう…もう…」
そして、彼は悲鳴のように叫んだ。
「もう二度と、おまえが殺されるところは見たくない! これで最後にしてくれ───っ!」
誰に願うのか───もうこの世界には人間に心をかけてくれる神はどこにもいはしない。いったい誰に願いを託すのか───
「俺は───俺は…世界が滅ぶそのときまで、もう二度とおまえを愛さない───!」
───パァァァァ───!
そのとき、シモンの傍らで何かが紅く輝いた。
「あれはっ……青の宝玉っ!」
マリーが叫んだ。
あの【輪廻の宝玉】が、すさまじい輝きを見せていた。宝玉はシモンのすぐ傍に転がっていた。
今、その宝玉は、輝きながらゆっくりと宙に浮き上がっていく。と同時に、傍らのシモンも、まるで己の力で立ち上がるかのごとくむくりと起きあがった。
だが、シモンはまだ目を閉じていて、どうやら自分の意志で立ち上がったわけではないようだった。
「シモーン!」
ギルガディオンは愛する女の名前を声の限り叫んだ。すると、それにピクリと彼女の身体が反応する。だが、意識はないらしく、目は閉じたままだ。
今や、紅く輝く宝玉とシモンは並んで宙に浮いた形になっていた。彼女は相変わらず目を閉じたままで、傷だらけの裸体をさらし、直立不動で浮いている。
「シモン!」
「はっ…」
ギルガディオンの叫びに、はっと我に返るマリー。彼は、自分の傍らに置いていたフィドルを掴み、それに仕込んでいた剣を抜き取った。
「まったく……驚かせてくれますねぇ。あの御方の宝玉がなぜ輝くのかはわかりませんが、恐らく早く殺せということなのでしょう」
「どういうことだ?」
マリーの言葉を聞きただすギルガディオン。それに妙に素直に答えるマリー。
「あの宝玉はですね。闇神が花嫁である彼女に贈ったものだったんですよ」
「なんだって?」
ギルガディオンは目をむいて驚く。マリーは続ける。
「本当は、彼女の青い瞳に似せて真っ青な色をしていたはずなんですが、どうやらあの宝玉のせいで死んでいった恋人たちの魂が吸い込まれているらしい。だから、あのように真っ赤に染まってしまったのでしょうねぇ」
「なんということだ……」
ギルガディオンは、紅く輝く宝玉と、その横で死人のように目を閉じるシモンへと視線を向けた。
───ドサッ!
「あっ!」
彼の身体が呪縛から解かれ、大木から地面に落ちた。腰をさすりながらマリーを見やる。
「止めても無駄ですよ。彼女は死ななければなりませんから」
「…………」
ギルガディオンは何も言わなかった。ただ、辛そうに顔を歪めただけで、シモンへと再び視線を向けた。
マリーは細身の剣を片手で持ち、ゆっくりとシモンに近寄って行った。
宝玉とシモンは微動だにせず浮かんでいる。
「シモン……見ていてやる。おまえの最期を。それが最後に俺が出来るおまえへの愛の形だ」
ギルガディオンはじっと動かず、その光景を最後まで見届けようと決心していた。そうしながら、彼は愛する女に近寄ろうとする死神の背中を見つめた。
この男もまた───マリーもまた遙か昔の因縁から逃れられない男なのだ。そう彼は感じていた。マリーはきっとこれからも生まれ変わってくる彼女の魂を奪いつづけるのだろう。
(だが、しかし…いつの日か……)
ギルガディオンには何だかわかるような気がした。
恐らく、遙か未来、彼が真実愛する者に巡り合ったとき、そのときになってきっと彼は知るだろう。今の俺の気持ちを──そして、彼女の気持ちを。今はまだ気づきもしない。真実の愛というものがいったいどういうものなのか。
そして───
マリーは剣を構え、その鋭い切っ先をためらいもなくシモンの胸に突き刺した!
彼女の柔肌にグサリと刺さるのを眉一つ動かさずに見つめていたギルガディオン。彼は、その一瞬の内に様々なことを思い出していた。
初めて出会ったときの朝。
一緒に仲間たちを集めていた戦いの日々。
そして、甘やかな睦言を囁きあった、愛し合う日々───
(愛している──いや、愛していた、おまえを。今までどんなにおまえを愛した男がいたとしても、そいつらよりも俺の愛は強力だ。絶対この気持ちは誰にも負けやしない)
「…………」
そして、そっと自分の身体を包み込むように抱く。
彼女を抱いたこの身体が、彼女の身体のぬくもりを、滾るような熱さを覚えている。
恐らく、未来永劫この記憶は魂に刻み込まれてしまうのだろう。
今はいい。今はまだ彼女のことを記憶しているから。
だから、この疼く気持ちも欲望も、たとえ狂おしい夜を迎えたとしても、何とか堪えることはできるだろう。
だが、未来の俺は───彼女のことも忘れ果て、理由もわからず気が狂うほどの欲望に苛まれるに違いない。だから、だから───
「二度と愛さないでくれ……二度と……」
それは未来の己に対する願いだった。悲しいまでに切ない切望だった。
と、そのとき───!
──パリィィィィ───ン………
「ああっ!」
じっと見つめていた彼の目に、シモンの身体の横で浮かんでいた宝玉が、粉々に砕け散るところが見えた。と同時に、シモンの閉じられていた目がカッと開いた。
「シモン!」
シモンは、まず己の胸に剣を刺しこんだマリーに視線を向け、そうしてから少し離れた場所に立ちすくんでいるギルガディオンを見やった。剣を胸に抱いたまま、いまだ宙に浮かんでいる。
「…………」
マリーはというと、まるで彼だけ時が止まったかのように動かなかった。というよりも、本当に動けないようであった。ギルガディオンはゆっくりと彼女に近づいていった。すると───
「見えない?」
唐突にシモンが喋った。
「宝玉から魂が解き放たれたの……」
「え…?」
ギルガディオンは訝しそうにふと立ち止まった。
(愛してる……)
そのとき、彼の耳に微かな声が聞こえた。それは、風に乗って届く遠くの人々の囁きのように、何かのざわめきのように聞こえる。
それが始まりだった。
彼の耳には、ものすごい数の人々の囁きが、叫びが、聞こえ出した。
(これで……)
(永の悪夢から……)
(愛しい人のもとに……)
(ああ…愛する人よ……)
(許して………)
(いつまでも愛している……)
(神さま……あの人に……)
(やっと…呪縛から………)
それは、【輪廻の宝玉】に閉じ込められた、遙か昔の非業な末路を辿った恋人たちの魂の叫びだった。
「ギルガディオン……」
シモンは限りなく優しい声で、己の恋人の名前を呼んだ。
「ギル……愛しい人。ありがとう。あなたのおかげよ。宝玉に閉じ込められていた魂があなたの強い想いで解放されたわ……」
「なん…だって…?」
ギルガディオンは、さらに近づいて問う。マリーはいまだに動けずにいた。
「あなたが、私をもう二度と愛さないと言ってくれたから……この宝玉にかけて二度と愛さないと誓ってくれたから……だから…なの……」
「あっ!」
彼は慌てて動いた。
シモンの身体が、まるで支えがなくなったかのように、その場に崩れたからだ。同時にマリーの身体にも自由が戻ったらしい。彼は剣をシモンの身体から抜く。
ギルガディオンはシモンの身体を抱きながら座り込み、すでに死の影が見え始めている彼女の顔を見つめた。
「見て……」
彼女は傍らに散らばる宝玉の残骸に目を向けた。
それは、もう紅くなく、まるでシモンの瞳のように真っ青な色をしていた。
「思い出したわ。この宝玉はあのお方が私のために作ってくださったものだった。私たちの永遠の愛を願って、この世界が終わるまで共に生きようと言ってくださった───そのお方を私は裏切ってしまった」
「そうですよ」
ギルガディオンは声の主を見上げた。
ふてくされたような表情のマリーの顔がそこにはあった。
「あの御方はね。裏切られた心でその宝玉に呪いをかけたんですよ。これ以降、この宝玉に永遠の愛を誓いし者、永久に呪縛されよ──とね」
「そう。だから、ギル。あなたがその宝玉に、愛さない誓いを立てたおかげで宝玉にかけられた呪いが解けたの……ううっ!」
「シモン!」
「ああ……ギル……」
苦しそうにあえぎながら、シモンは続けた。
「私……私……この次生まれてくる時は、もう私に生まれてきたくない…わ。どんなに醜くてもいい。どんなに卑しい心の持ち主でもいい。今の私じゃない人間に……心の強い本物の人間に生まれてきたい……そして、私も……もう決してあなたを愛さない。あなたを愛さないことが私の真実の愛だと……そう信じてくれ…る?」
「ああ、信じるともっ!」
ギルガディオンは、シモンをかき抱いた。彼の目からはあとからあとから涙が流れ、シモンの顔を濡らした。
「それが俺たちの真実の愛だ。俺は世界が滅ぶまでおまえを愛さない」
「ありが…とう………」
静かに──本当に静かに、眠るようにシモンの命は消えて行った。彼女の死に顔は、これ以上はないというほど安らかなもので、微かに微笑みさえ浮かんでいた。
「シモォォォォォ──────ン!」
白々と空が明け出したうっそうとした森の中。ギルガディオンの悲痛な叫び声だけがこだましていた。
それからしばらくして、ギルガディオンは近くの泉の傍にシモンの遺体を埋めた。
「ふん」
それを近くの木にもたれながら見ていたマリー。
「真実の愛だって?」
「…………」
不平そうに何事か言い出す彼を、ギルガディオンは無視したまませっせと土を盛る。
「あれが真実の愛と言えるんですか? 二度と愛さないと誓うことが?」
「…………」
それでも彼は何も言わない。
マリーはまるでダダっ子のように頬を微かに染め、語気荒く言葉を続けた。
「真実の愛とは、未来永劫愛し続けることではないのですか? たとえ憎まれたとしても、たとえ死んだとしても、相手をいつまでも、それこそ世界が滅ぶまで愛を貫くことが──それが真実の愛なのではないのですかっ?」
「何がわかる……」
「え……?」
マリーは訝しげに首を傾げた。
いつのまにか、ギルガディオンはマリーを真っ向から見つめていた。その眼差しには憎しみはなく、限りなく憐憫の色が見て取れた。
「…………」
それはひどくマリーの心に不快な感じを与えた。
「おまえにいったい何がわかる」
「な…なんのことですか?」
マリーの心に激しい動揺が起こった。そこへ、叩きつけるようにギルガディオンは言った。
「真実の愛を知らないおまえに、何がわかるというのだ」
「この僕をいったい誰だと思っているのですか? 僕は、あなた方に教え諭すことはあっても、逆に教えを賜る謂れはないのですよ」
すると、ギルガディオンは悲しそうに首を振った。視線を足元に落とし、辛そうに、そして、相手を憐れむように静かに言った。
「俺は、神がこのように無知な存在だとは思わなかった。おまえを見ていると、まったく俺たちと同じ人間のような気までしてくる。それとも、他の神とは違い、おまえが異端なのか……?」
「僕のどこが異端なのだっ!」
「!」
弾かれたようにギルガディオンは顔を上げた。
マリーに再び、激烈な怒りのオーラが立ちのぼっていた。
「僕は他の神とは確かに違うかもしれない。だが、それは力が強いというだけで、何ら変わりはないはず……なぜ…なぜ、あなたはそんなことを言う。僕のどこが違うというのだ」
「いつか……」
「いつか…?」
「いつかおまえにもわかるはず。いつか真実の愛を知る時、そのとき本当のことを知るだろう……」
彼の言葉は、まるで神託のように厳かな響きをはらんでいた。これでは、いったいどちらが神なのかわからない。
そして、ギルガディオンは、遠くに視線をさまよわせ言葉を続けた。
「俺には見える。そのとき、おまえの苦しみ悩む姿が目に浮かぶようだ」
「……………」
なぜかは知らぬ。
マリーはなぜかそれ上何も言えなくなってしまった。
心では、煮えたぎるような憎しみをギルガディオンに感じている彼であった。だが、心の底のどこかで何かが警鐘を鳴らしているのも感じていた。
だが、彼は平静を保ちつつ、悔しそうな声など出さぬよう気をつけ言った。
「ふ…ん…減らず口を叩くのもいい加減にしてくださいよ。どちらにせよ、あなたは愛する者を失ったんだ。これからあなたはその癒されぬ傷を一生背負って生きていくんです。決して死なせやしませんよ。あなたが魔族にでも殺されそうになっても、僕が助けて差し上げます。誰にも殺させません。決してね」
「…………」
「自分で死ぬなんて思っても無駄ですからね。あなたがどこにいても、僕はずーっとあなたを見守ってますからね。あなたは生き続けるんです。苦しみながら」
勝ち誇ったようにマリーはそう言ったが、ギルガディオンはまったく表情を動かそうとはしなかった。
だが、ぽつりと言った言葉は、マリーの心にその後ずっと抜けぬ刺として残ったのである。
「やはり、おまえにはわからない……」
はるか───遙かに時が流れ、あの逞しい剣士もその永い生を終え、シモン・ドルチェの名前が伝説となりおおせた現在───
森の奥の小さな村で、今まさに新しい生命の誕生が訪れようとしていた。
──オギャァァァァ───!
高らかに響き渡る赤ん坊の泣き声。元気な声だ。
「カーラ、生まれたんだね」
一人の女が二歳くらいだろうか、男の子を抱きながら、今まさに子供を産んだばかりの女の部屋に入ってきた。
「元気な女の子だ」
傍らでニコニコ笑っている男がそう言った。どうやら生まれた子供の父親らしい。屈強な身体をしたなかなかの美丈夫だ。
「このテッド・デイビスの後継ぎとして相応しい」
そういう彼の傍らの壁に立てかけられているのは、彼の身体くらいある大剣だった。どうやら彼は剣士らしい。
「この魔法剣士の、テッド・デイビスのな」
「あーあーあー」
と、そのとき。
部屋に入ってきた女が抱えていた男の子が、突然生まれたばかりの子供に手を伸ばした。
「おお…おお…どうしたの? ドーラちゃん……ドラディオン?」
女が自分の子供を女の赤ちゃんの傍まで連れていくと、そのドーラと呼ばれた子供はじっと赤ん坊を見つめていた。それはまるで、やっと愛しい人にでも出会ったかのような、妙に熱っぽく大人びた眼差しだった。
「まあ、ドーラちゃんったら。うちのシモラーシャに一目ボレしちゃったのかしら?」
女の子の母親がクスクスと笑った。
すると、父親がいいことを思いついたと言わんばかりに顔を輝かせた。
「ううむ…ガロス家ならば嫁にやってもいいかもな。他の男だったら絶対許さんが、ドラディオンならば安心できる」
「あらまあ、まだこの子はこんな小さくて、海の物とも山の物とも言えませんのに……そんなこと約束してよろしいんですの?」
ドーラの母親が同じくクスクスと笑った。
「まあ、よいではないか。あっはっはっは!」
平和なひととき───温かい陽射しが窓から差し込み、親たちは笑い合い、子供たちは幸せそうだ。
そして───
その平和な光景を窓の外──高い木の上から見つめている男がいた。
「とうとう生まれてきましたね、シモン・ドルチェ」
それはあの邪神マリス──いや、マリーであった。
そう。この村にこの日生を受けたこの赤ん坊こそが、シモン・ドルチェの生まれ変わり。この世の終わりまで繰り返し殺されつづける女──
「しかも、あの男まで転生してきたのですねぇ。因果は巡る……ですか」
マリーは木の上からじっと彼らを見つめていた。その心には、いまだにあの男が残した言葉が刺として刺さっていた。
(真実の愛を知ったとき、本当のことを知るだろう)
「しかし、僕は彼女を殺すだけ……いつまでもいつまでも…それこそ僕らが、常盤の彼方に迎え入れられるまで…ね」
マリーは頭を振り、もう一度ふたりの赤ん坊を見やった。
「シモン。貴女が成人するまでにまた来ますよ。そして、また殺してあげましょう」
マリーは、ふっとその場からかき消すように消え失せた。
後にはただカサコソと梢を揺らす風だけが残っただけであった。
「…………」
そのとき、部屋の中で母親に抱かれていたドーラの視線が窓へと向けられた。だが、すぐに彼は泣きつづける赤ん坊へと視線を移した。
(二度と…愛さない……)
「え…?」
男の子の母親は、耳に何か声が聞こえたような気がした。
だが、見てもニコニコと笑っているだけの息子しかいない。不思議そうに首を傾げたが気のせいだと思い、すぐに忘れてしまった。
───もう二度とおまえを愛さない───
誰もその言葉を聞く者はいなかった。
初出2001年4月8日
光の乙女 外伝集 谷兼天慈 @nonavias
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