輪廻の宝玉は紅き血の色 前編
人は生まれ変わっても
まるで赤い糸で結ばれた恋人同士のように
宿命に導かれ
再び───いや、永遠に
引き寄せられてゆく
それはすばらしいことなのか
あるいは悲しい結びつきなのか
神さえも理解できない
ましてや
人の子にわかろうはずがない───
「これをおまえにやる」
「なにこれ?」
青い目を輝かせて彼女は男の手の平にのせられたものを見つめた。
それは吸い込まれそうなほどに紅い色をした石だった。原石ともいうべきもので、形は細工が施してなく、あまり滑らかではない。だが、そうでなくてもこの石の紅さは下手に細工してある宝石よりも、一種異様なまでの独特さがあった。
「なんてキレイな石でしょう」
ほーっとため息をつく女に相手の男が言った。
「シモン……シモン・ドルチェ。今でなくていい。いつか、俺と、このギルガディオン・ガロスと結婚してくれ」
「ギル………」
女は──シモン・ドルチェは顔を上げ、目の前の逞しい男───ギルガディオン・ガロスを見つめた。
賢そうな秀でた額、短く刈り込んだ髪は天を貫けとばかりに立ち上がり、アーモンド色の大きな一重の眼が、まるで飢えた野獣のような輝きを見せている。
なんて猛々しい男だろう───シモンは思った。
男はギルガディオン・ガロス。
彼女の大切な仲間の一人だった。
シモン・ドルチェは剣士だった。そして、ギルガディオンもそうである。
世界は遙か昔に封印された邪神の残した魔族の脅威にさらされていた。人間たちの非力な剣では下級魔族でさえ倒すことはできず、ましてや上級の魔族など赤子が狼の前に立つに等しいこと。
今までなら、したい放題されるがままの人間たちだったのだが、いつの頃からか、その剣に己の霊力を込め、それをふるって魔族を打ち倒すことのできる者たちが人間の中にも現れるようになってきた。
そして、その最たる者が、このシモン・ドルチェであったのだ。
彼女はそういった霊剣を操ることのできる人間を見出し、育て上げることに専念しようと、アフラシア大陸のアクアピークという山に「魔法の塔」を仲間の剣士たちと設立したのだ。
シモンは恐らく世界最強と言われる剣士である。そして、ギルガディオンも彼女に劣らないほどの強い霊力の持ち主であった。
霊力を己の剣に込めてまばゆいばかりに輝かせ、その聖なる光で邪なる魔族を切り捨てる───後に「魔法剣士」と呼ばれ、人々の尊敬を一身に集める者たちの礎を築き上げたシモン・ドルチェ──その彼女に匹敵するほどの霊力の持ち主ギルガディオン・ガロス。
そして、その彼は、仲間であり、良きライバルでもあるシモン・ドルチェを誰よりも深く愛していたのであった。
「この石は【輪廻の宝玉】と呼ばれている」
「【輪廻の宝玉】?」
シモンとギルガディオンは、アクアピークの山深い洞窟に肌寄せ合いくつろいでいた。ふたりとも衣服を身に着けていない。
彼は、まるで血の色のようなその石をかざした。
「俺の故郷の村はここよりももっと北の方にあるんだが、そこの土地で代々受け継がれてきた宝玉だと言われている。この石が血のように真っ赤なのは、引き裂かれた恋人たちの怨念がこめられているからだということだ」
「まあ……」
彼の言葉に、シモンは口に手を当てて驚き、石を見つめた。
すると、彼はクスリと不敵に笑ってみせ、愛する女に言った。
「そんな不吉な石をなぜ私に……と思ったか?」
「そ、そんな……」
そんな彼女に頷いてみせると、彼は言った。
「これがなぜ【輪廻の宝玉】って言われているかわかるか?」
首を振るシモン。
彼はゆっくり語り始めた。
「この石は、言い伝えによれば、こんなに毒々しいほどの紅さではなかったそうだ。恋人たちが結婚の誓いの儀式でこの石に誓いをかけるために使われていたそうで、だから、もともと祝いで使われるめでたいものだったんだ。【輪廻の宝玉】というのも、たとえ二人を死が分かつとも、巡る輪廻のように生まれ変わって再び愛し合おうという願いがこめられていたからだ」
「生まれ変わっても……」
シモンがうっとりとした声で囁いた。だが、なぜかその声には憂いが秘められている。
そんな彼女をいとおしそうに見つめると、ギルガディオンは話を続けた。
「ところが、ある時、誓いをした恋人たちに不幸が訪れた。片方が裏切ったのだ」
「!」
「シモンっ!」
気を失いかけたシモンを見て、ギルガディオンは驚いて叫ぶ。すると、彼女はかろうじて目を開けた。だが、とても青い顔をしている。
「ごめんなさ…い。大丈夫……続きを聞かせて」
心配そうな顔のギルガディオン。
どこかで獣の遠吠えが聞こえたようだった。彼は、チラリと洞窟の外を見たが、陽射しに映える森の木々が見えるだけだった。
彼はかすかに頭を振ると話を続けた。
「裏切ったのは女のほうだった。よくあることだが、金持ちの男に心移りしたんだ。結婚の誓いまでしたというのに。裏切られた男は己の首を掻き切って死んだそうだ。それからだということだ。この宝玉で結婚の誓いをするたびに恋人たちに不幸が訪れるようになったのは………」
「……………」
シモンは真っ青な顔で黙っていた。
だが、そんな彼女を心配しつつも、ギルガディオンは言いきった。
「だがな、シモン。そんな不吉な宝玉だが、これをおまえにやることにはちゃんとした意味があるんだ」
「え…?」
青ざめた顔に戸惑いの表情を浮かべて、シモンは恋人の顔を見つめた。
「俺はそんな迷信なんざ信じちゃいない。確かに毒々しいほどに紅い石だが、昔がどんな色だったかなんて、今じゃ覚えてる者などいやしない。手にした恋人たちがことごとく不幸になったのが、よしんば本当だとしても、それはそいつらの気持ちが本物じゃなかったからだ。たまたま、そんな浅い想いで繋がった恋人たちがこの宝玉のもとに集ったというだけで、そんなもの偶然にすぎん」
「ギル………」
シモンは、このぎらついた目をした男を、不思議なものでも見るような眼差しで見つめた。
(なんて力強い………)
彼女は思った。
なんて強い意思を持っているのだろう。
そして、それに比べて、私はなんて弱い心の持ち主なのだろう。
不幸は宝玉のせいではない。
それは、自分だって理解できる。
だが、たとえそうだとわかっていても、人は己のせいだということを認めたくはないものだ。
だから、「物」のせいにする。
そして、そんな人々の怨念めいたものがこめられた「物」は、やがて周りに何らかの作用を及ぼすようになるのだ。
しかし、それはあくまで人間の心が引き起こしたものである。石自体には力などない。
「それにな。昔のことだが、村に訪れた占い師が予言を残したんだ」
「予言?」
「そうだ。この宝玉には確かに悪しき魂が宿っていると───この悪しきものがここより解放されぬ限り、ずっと輪廻の輪は切れることなく続いていくだろうとな。だが、いつかこの宝玉からその悪しき魂が解き放たれる時、愛し合う者たちは決して結ばれぬという不幸な輪廻から絶ち切られ、やっとひとつになることだろうと」
「輪廻から絶ち切れる……」
シモンの顔に恍惚とした表情が浮かんだ。
それは、まるでやっと欲していたものが手に入ったとでもいうような、歓喜の表情だった。
「ねえ…」
シモンはしっとりとした声で己の恋人に声をかけた。
あれから、ふたりは本能のおもむくまま互いを求め合い、一時獣のようにまぐわった。
岩肌が寒々とした印象を与える洞窟。だが、柔らかい苔がちょうど良い褥となってふたりの裸体を包み込むようにはびこっている。
そんな恋人たちにとって居心地のよい場所で、シモンはまったく相応しからぬ問いかけをした。
「繰り返し、繰り返し殺される気持ちって、どんなかわかる?」
「繰り返し殺される?」
ギルガディオンは気だるい声で、だが、何を言うのだといわんばかりに彼女を見つめた。
「何をバカなことを…それはおまえのくだらん夢か?」
「夢じゃないわよ、ギル」
すっくと立ちあがる。
完璧なまでのプロポーション。
沈みゆく太陽の赤い光が洞窟に差し込み、その豊満な胸、くびれた腰を際立たせて見せている。黄金色の長い髪は、夕焼けの色にも染まらず輝かしい色を放ち流れ、意思の強さを伺わせる青い瞳は、時折すべてに絶望を感じているかのように虚しい色をたたえ、哀れを誘う。
「あなたには私の気持ちなんてわかるわけがない、ギルガディオン・ガロス!」
彼女は稀代の女剣士だった。世界にはびこる魔族を一刀のもとに切り捨てることができる唯一の女。
先程まで見せていた気弱な女はいったいどこにいってしまったのか。だが、それが彼女の本質ともいうべきものだった。ある時は非情なまでに敵を切り伏せる女剣士。そして、またある時は、愛する男の腕の中でしとやかに、そして淫らになれる妖艶な女。
「わかるさ。俺はおまえを唯一愛せる男だからな」
「…………」
シモンは、逞しい身体を横たえて自分を見上げる男を見つめた。
(この男を、私は本当に愛しているのだろうか…?)
そう思いながら、シモンは彼を見つめる。
だが、その実、彼女はそこにはいない誰かの顔を思い浮かべていた。心地よい闇に包まれた限りなく優しい人のことを───
「シモン…」
「…!」
彼女は、恋人の誘うような声に我に返った。
ゆっくりと腰を下ろし、沈みこむように彼の身体に己の身体を重ねる。
「あ……」
彼の熱くほてった手が──ごつごつとした男らしい手が、彼女のほっそりとした首を胸を腰を慣れた手つきで愛撫していく。
「感じる身体は、人も神も同じこと…」
「なんだ…それは…」
訝しそうに問うギルガディオンであったが、すぐに己の唇で彼女の濡れた唇をふさぐ。だが、シモンはうわ言のように囁き続ける。
「人も神も同じなの…よ…ああ…人は神を敬うけれど…神はそんなことをされるほど…う…そんなに…尊いものじゃない…人の方が…人の方…が、どんなにすばら…し……はぁ…うう……」
彼女の言葉はもう恋人に聞こえてはいなかった。シモンは、とろけるような快感の渦に翻弄されながらも、心は別な空間を漂っていた。
(繰り返し殺される……それは私……)
シモン・ドルチェ───彼女は刺客に狙われる女だった。
もう本人も、いつのころからそうなのか、よく覚えてはいなかった。
転生を幾度も重ねても必ず殺されつづけてきた。たった一人の刺客に。
どんなに睦言を囁かれても、どんなに熱情を燃え上がらせても、すべてを達観し、すべてを宿命と心に言い聞かせ、転生を繰り返す。
それはどんなにか気が狂うほどのイバラの道だったことだろう。
このような宿命は、いったいいつまで続くのだろう。
いつの日か、果たして終わりが来るのだろうか。
(いっそ狂えたら……どんなに楽だろうに……)
心からそう思うシモンであった。
「で…? その男は必ずおまえを殺しに来るんだな」
「ええ、そうよ」
すでにとっぷりと日は暮れていた。洞窟の中では、チロチロと焚き火のようなものをたいて、それを灯りとしていた。すでに二人は衣服をキチンと着用している。
「転生…信じられんことだ」
ギルガディオンは頭を振った。
「しかも、前世の記憶まで携えているとは……」
「姿形もなの……」
「記憶を携えずに転生することもあるのか?」
「ええ」
「その時は姿も違っているんだな」
「ええ…」
「だが、それでも殺しにくる……」
「そうよ」
彼は再び頭を振った。
「まったく…信じられん話だな……しかし、俺はおまえが嘘を言うヤツじゃないってことはわかってる。というか、嘘なんかつけない女だってことはな」
「ギル……」
シモンは、一瞬悲しそうにこの男を見つめた。
嘘をつけない───そう、嘘をつかないと決心した彼女だったのだ。あの時から───初めての裏切りに手を染めた時から───
だから、さっきの宝玉の話は心に突き刺さるほど辛かった。
裏切った女───それは自分。いえ、その宝玉の恋人たちの女ではもちろんないけれど、自分だって同じだ。
「今までにシモン・ドルチェとして転生を四回してきたわ。今回がその四回目。それ以外の転生の時の記憶もそのまま受け継いできている。はっきり言って地獄だわ。ほとんどが赤ん坊の頃に殺されてて、なぜかシモンとして転生を果たした時だけ成人を迎える前に殺しにくる」
「そういえば、もうすぐだな」
「………」
シモンは彼の言葉に無言で頷く。
そんな彼女をじっと無表情で見つめていた彼だったが、次の瞬間目を細め、極力感情を押し殺したように言った。
「今までに誰か愛した男がいたのか?」
「ギル……」
シモンは、いっそう悲しい色をたたえた目で彼を見つめる。
だが、答えをまたずに彼は続ける。
「転生前のことにまで口出すなど、男のすることじゃないな。すまん。忘れてくれ」
「あなただけよ!」
「シモン?」
彼の驚いたような、ほっとしたような顔を見て、シモンの心に今まで感じたことのなかった感情が浮かんでくる。
これはいったいなに───?
安心できるような──温かいものが溢れてくる、そんな感じが胸に広がる。
「ギル、愛している。あなたを愛しているわ」
「シモン…」
彼女は激情のまま、彼の胸に飛び込んだ。
そんな彼女をギルガディオンはがっしりと抱きしめ、もうどこにも行かせないというくらいに抱きすくめる。
「俺もだ。たとえ、おまえといつか別れなければならないとしても、俺はおまえを愛することを決してやめない。もし、おまえを殺しに来るものがいたら、俺がおまえを守ってやる」
「だめ…ああ…ギル、愛しい人。彼は強い。人間なんかにはかなわない。だって…だって…彼は…彼は……」
「僕がどうかしましたか?」
「!」
「ひ…!」
突然の第三者の声に、ひどく驚愕するシモンとギルガディオン。
彼らは、洞窟の入り口、月明かりを背にして立っている人物に視線を走らせた。
そこには一人の男が立っていた。
ほっそりとした青年である。白っぽいマントと、ゆったりとした旅人の衣装をまとい、背中にはフィドルという楽器を背負っている。このフィドルは、棹と呼ぶ細く長い棒に三本の弦を張ったもので、弓で擦って音を出す楽器である。このアフラシア大陸では、このフィドルが一般的な楽器であった。
男はゆっくりと歩を進め、洞窟内へと入ってきた。
焚き火の灯りで、どのような風貌かがはっきりとわかる。見たところ、見栄えのいい、ごく普通の青年にしか見えなかった。
琥珀色の髪は少々長めで、自然なウェーブが柔らかそうである。瞳の色もその髪の色と同じで、くるくるとよく動き、なかなか愛嬌のある目だ。整った鼻筋、薄い唇は常にうっすらとした微笑を浮かべ、見ようによっては人を小馬鹿にしているように見えなくもない。
男は、シモンたちのすぐ近くまでやってくると、抱き合って座り込んでいる二人を見てから、シモンへと声をかけた。
「お久しぶりですねぇ、シモン」
ニッコリと微笑む。その笑顔は屈託なく、思わず微笑み返してしまいそうなほどだ。
「またこの時が来ましたねぇ。今度はどんな風に殺してあげましょうか?」
「………」
まるで、今からどこかに遊びに行こうと言っているように、無邪気にそういうその男───
「マリス……」
「いやですねぇ。その名前で呼ばないでくださいって言ったじゃあないですかぁ。僕の名前はマリーですよぉ」
「マ…マリ…ス…?」
シモンの言葉を聞き、ギルガディオンが本能的な恐怖心をあらわにした。
マリス───この時代、この名前を知らない者は誰もいないだろう。
「マリス……暗黒神の配下、邪神の一人───なぜ、このようなところに…?」
彼の声は震えていた。
己を強いと信じ、この世に何も怖いものはないと信じていた彼であった。その彼が震えていた。
「ギル…」
シモンは無理もないと思った。
(ああ…やはりこの時が来てしまった……)
すでに彼女は抗う気持ちなど持ってはいなかった。ただ、何としても彼だけはこの場から遠ざけたいと思った。
「マリス…あ…」
言いかけて、シモンは小さく声を立てた。マリーがひどく不愉快そうな表情を見せたからだ。
「この人は関係ないはずよ。手を出さないで」
「おやぁ~、あなた、男が出来たんですかぁ?」
「………」
マリーの言葉にギルガディオンの目が険しくなった。
「おやおや…怖い目ですねぇ」
マリーは肩をすくめ、それからクスクスと笑い出した。
「何がおかしい」
内心の恐怖を必死に抑えつけながらだろうか、ギルガディオンの額から一滴の汗が流れ落ちる。
だが、マリーは飄々とした態度でもう一度肩をすくめる。
「言っておきますが、たかが人間風情で僕にかなうと思わないでくださいねぇ。わかってるのでしょう? 僕が何者なのか」
「くぅ……」
ギルガディオンは悔しそうに歯軋りをする。
そんな彼に、冷たく微笑んで見せるマリー。と、そのとき。
「あっ!」
シモンが鋭く叫んだ。
ギルガディオンがいきなり彼女の手をつかみ、ダッと走り出したからだ。艶然と立つマリーの横を意外と簡単にすり抜ける。
「クスクス…せいぜい逃げてみるのもいいでしょうねぇ。久々に狩る楽しみも味わってみようかな?」
夜の闇にとけていこうとしているふたりの姿を、眇めた目で眺めつつ、マリーは実に楽しそうにしていた。
夜はまだまだこれからだった───
「はぁはぁはぁ……」
「はぁ…はぁ……」
シモンとギルガディオンは月明かりの森の中を走り抜けて行く。
ここは、アクアピークの麓近く、魔法の塔のごく近隣ではあったが、時々下級魔族が現れることもあった。だが、彼女や彼のように力のある剣士にかなう魔族などほとんどいないといってもよい。
しかし、それでも上級の魔族となると話は別だ。考える頭を持たない下級な奴らとは違い、身体のどこかに炎の痣が刻まれた上級魔族は、主である邪神にも匹敵するほどの力を持っており、なかなか一刀両断というわけにはいかないからだ。
世界に毎夜訪れる闇の世界は、そんな魔族たちの活動する世界。
二人は逃げる。どこまでも───
なぜなら、そんな上級魔族の主である邪神が狙っているからだ。美しい金の髪と青い瞳の彼女を。
「ギル…待って…ギ…ル……」
とうとうシモンが根を上げた。
彼女は立ち止まり、ゼイゼイと肩で息をし、呼吸を整えようとした。
それへ、同じく息を荒くしたギルガディオンが鋭く叱咤する。
「何をしているっ…シモン。殺されたいのかっ?」
「い…いいの……もう、いいのよ…ギル…」
「何を言う……っ!」
「もういいそうだよ。いいかげんにすれば?」
ギルが何事か言おうとしたとき、涼やかな声が上がった。
ギョッとして後ろのシモンに向けていた顔を前方に向ける。そこには、爽やかな笑みを浮かべ、腕を組んで立っているマリス──いや、マリーがいた。
「いつのまに……」
ギルガディオンが悔しそうにギリギリと歯を食いしばる。それとは逆に、シモンは諦めの表情を浮かべていた。
そんな彼らを柔和な雰囲気で迎えているマリーであった。とても、悪行三昧の邪神とは思えないほどの好青年である。
その邪神であるマリーは、にっこりと微笑んだまま事も無げに言う。
「もっと往生際悪くてもおもしろかったのに…」
「なっ……」
絶句するギルガディオン。
「人間って不便だよねぇ。僕らは瞬時に移動できるけど、貴女にはそれができないんだもの。ね、シモン」
「…………」
シモンは、恋人の背中の影に身を潜めたまま黙ったままだ。
それを見たマリーはクスリと軽蔑をこめたように笑った。
「まったく…いいざまだね。貴女がそんなに情けない人だとは思わなかったですよ」
「なにをっ?」
カッとなったギルガディオンが飛びかかろうとした、その刹那───
「うわっ?」
突然彼の身体が宙に浮き上がり、そのまますごいスピードで近くの大木に叩きつけられた。
「ギルッ!」
シモンは悲鳴を上げて愛しい恋人に駆け寄ろうとした。だが、それをそうさせまいとするマリーにより阻まれる。
「シモン…彼の命を救いたいなら、おとなしくするんですね」
「………」
シモンは、目の前に立ちはだかる青年を睨みつける。
「おお…こわいこわい」
そうは言ってはいるが、まったくそう思っていないことがすぐにわかる声色だった。
マリーはずずいとさらに歩を進め、ほとんどシモンとくっつきそうなくらい近くに寄ってきた。そして、彼女の顎に手を添え、くいっと持ち上げるとしげしげと顔を見つめた。
「ふう~ん。男を知るとやっぱり違うね。今までの貴女にない艶があって、なかなかそそられるなぁ」
マリーの含み笑いは顔の爽やかさにはまったく似合わぬ下卑たもので、シモンは背筋が凍るような気がした。
いったい何を考えているのだろう──彼女はそう思った。
殺すつもりなら、早く殺してほしい。
だけど──私が殺されるのはかまわないけれど、あの人は──あの人だけは───
「ふうむ……手足を切り落として地中に埋め、腐ったところから虫がわき、その虫に食われてだんだんと死んでいくっていうのもやったよね」
マリーの口からは、人としての心がある者ならば、思わず耳をふさぎたくなるくらいの残酷な言葉が吐き出された。
「それから、獣に食わせてボロボロな状態で死んでくっていうのもやったし。そうそう、この間──って言ってもずいぶんと前のことだけど──は、まぐわいし能力のある下級魔族ウォルフたちに繰り返し繰り返し犯させたこともあったよねぇ…クスクス…」
また、下卑た笑い。
「…………」
シモンはギュッと目を閉じ、耳をふさいだ。
ウォルフ──身体は人だが、狼の顔をした獣人の下級魔族だ。他の下級魔族とは違い、多少なりとも考える頭があるらしい最も人間に近しい魔族であった。男性としての能力はあるにはあったが、生殖させるほどの能力はない。そして、人が感じる性欲というのもあるらしく、時々人間の女を襲うこともあるという。そのほとんどが、用がなくなると同時にかみ殺されてしまうのだが。
そのウォルフの性欲は果てがなく、いったん襲われると、気が狂うまで犯されるということだ。それを何頭も相手にしたとなったら───どういう悲惨な光景が繰り広げられたかは想像にかたくない。
「そうだ」
すると、目を輝かせてマリーが言った。
「あの時は、愛する恋人がいなくて、陵辱させてもなんとなく悲壮感がなかったけど、こうやってめでたく恋人も出来たことだし。そうだな、今度は僕がお相手してあげようか?」
「なっ…?」
目を見開いて、シモンはにっこり笑う男を見つめた。
「や…やめ…ろ……」
「ギルっ!」
大木の根元に転がっていたギルガディオンが置き上がろうと動いている。
それを、マリーの身体ごしに見やって叫ぶシモン。
「逃げて! お願い、ギル!」
「逃がさないよ」
「えっ?」
マリーは一瞬口の端を歪めて、振り返りもせずに呟いた。
すると、立ち上がろうとしていたギルガディオンの身体がまたしても持ち上がり、大木に再び叩きつけられ、今度はそのまま木に縛り付けられたかのような格好でずり落ちてくることはなかった。
「くそっ…!」
口の端から血を垂らし、何とか呪縛から逃れようとするが、まったく動けないようである。
「お楽しみはこれからなんですよ。まあ、そこで、恋人のあられもない姿を見るのもなかなかおつなものだと思うけど……」
そう言いつつ、マリーはゆっくりと振り返り、初めてギルガディオンの目を真っ向から見つめた。
(こいつは……)
ギルガディオンは、知らず身体が震えてくるのを感じていた。
こいつはやはり邪神だ。普通じゃない。
見た目は優男だが、目がまったく尋常ならざる輝きを見せている。髪の色と同じ温かい色合いの琥珀色なのに、時々鈍い銀色に輝くのは気のせいか?
(そういえば…邪神マリスは銀色の髪と銀色の目をしているという。ということは、姿を変えているのか、こいつは)
邪神マリス───音神マリスとも言う。
邪神の長でもある暗黒神の最も側近であるといわれ、そして最も冷酷な神と言われている。あらゆる音──音楽を操る神として、彼の奏でるフィドルは人々を至福のまま死に追いやるという。
「安心なさい。僕はシモンにしか興味ありませんから。あなたのことは殺しませんよ。ただ、彼女を苦しめるために、今から始まる饗宴をしっかりと見ていてくださいね」
「いや…やめて…お願い…ギル…見ないで…見ないでちょうだい」
震える声でシモンは懇願した。
「…………」
もうどうしようもないのか───絶望的な気持ちのまま、ギルガディオンは彼女の気持ちを察し、目を閉じようとした。
だが、マリーは事も無げに言いきる。
「目を閉じようとしても無駄ですよ」
「!」
そう。身体はおろか、瞼さえも己の自由に閉じることができなくなっていたのだ。
「ちゃーんと見ていてくださいねぇ。僕はね、見られながらするのって燃えるんですよ。クスクスクスクス……」
実に楽しそうな笑い声を立て、マリーは背負っていたフィドルを下ろすと羽織っていたマントも取り去った。
「いや…やめて……」
シモンの肩をつかみ、自分の方へと引寄せるマリー。
「シモン……」
身体を密着させ、唇が触れそうなほど顔を寄せて甘く囁くマリー。だが、口から出る言葉は背筋を凍らせるほど冷たかった。
「優しくなんてしないからね。貴女に優しくするくらいなら、僕はまだ醜女とヤったほうがいいとさえ思ってるんだ」
「…………」
かつてないほどの恐怖を感じているシモンであった。
まだ、手足を切り落とされるほうがまし。虫に食われるほうがまし。ウォルフどもに犯されるほうが何倍もまし。
(だって、今まで私にはそうされても仕方ないという気持ちがあったんだもの。本当いうと、今でも仕方ないのかもしれない。ううん。別にマリスにどうこうされても私はかまわないと思ってる。そんなことは辛いとは思わない。私が……私が一番辛いのは…)
そのとき、マリーの手がシモンの衣服を上から下へと引き裂いた。
──ビリリリリィィ───
「シモ───ン!」
ギルガディオンの叫び声が上がった。
シモンは、微動だにできず、されるがままだった。
(ギル…あなたを愛したのは……あなたに愛されたのは…本当によかったのかしら……)
彼女が一番怖かったのは、自分が引き裂かれることではなく、自分の愛する者の心に一生消えぬ傷が刻まれること。
深く──深く愛すれば、人は自分自身よりも相手の幸せを何よりと願うもの。心の底から、愛する者が生涯微笑んで暮らしてくれることを願うもの。
(それが怖くて…それが怖くて、私は今まで人を愛そうとは思わなかった。いつか別れが来るということを知っていたから、この世に未練など残したくなかったし……それに、いつか死んでしまうということがわかっているのに、私を愛してなどと言えるわけがない。愛する者が己よりも先に死ぬ辛さは、誰にも味わってほしくない……)
シモンの身体はゆっくりとその場に倒れゆく。
そして、草むらに倒れこもうとしていたそのとき、傍に転がっている紅い石に気がついた。。
それはあの宝玉だった。暗く不気味に鈍い輝きを見せる紅い不吉な石、【輪廻の宝玉】だ。
(輪廻……)
皮肉なものだ。
やはりこの宝玉の言い伝えからは逃れることはできないのかもしれない。恋人たちに悲劇的な運命をもたらす悪魔の石。
「おや…それは…」
膝をついて転がった紅い宝玉を見たマリーがポツリと呟いた。
「これはあの御方が愛する人に贈った【青の宝玉】……こんなに紅くなってはいるけれど…身間違えようはずもない。ふ~ん、恋人たちの血を吸ったんだね…それを貴女が……何の因果ですかねぇ」
「え…?」
マリーの呟きに一瞬訝しそうな表情を見せるシモン。彼はそんな彼女に意味ありげな眼差しを注いだ。だが、すぐにニヤリと笑う。
「さあ。始めましょうかぁ、シモンちゃん」
そう言いつつ、マリーはシモンに覆い被さっていく。
シモンは顔をそむけ、傍らに転がる紅い宝玉をじっと見つめたまま、これから始まる悪夢が早く終わってほしいと願った。そして、願わくは、愛する恋人の心に消えない傷が残らないでほしいと──それだけを願っていた。
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