雪は降る恋人たちの上に

「勘弁してくださいよ~」

「えー話してくれたっていいじゃん」


 昼下がりの森の泉のほとり。

 若い男女が言い合いをしている───といっても、どう見ても恋人同士がじゃれあっているという感じなのだが。

 男は琥珀色の髪をふわりと流したなかなかの美青年。

 手にはこの地方独特の楽器フィドルを携えている。

 女の方は輝く金髪を一つに括り頭の天辺から長く流しており、申し訳程度の布しか身につけていない身体はナイスバディで、これまた振るいつきたくなるくらいの美少女だ。

 だが、背中に背負った大剣が、少女には不似合いだった。

 そう、この二人、言わずと知れた吟遊詩人のマリーに美少女剣士のシモラーシャである。


「いいじゃんいいじゃんいいじゃん」 

「ダメダメダメダメダメダメダメ~」

「一体何を騒いでいるのですか?」

「あ、ジューク♪」


 マリーに向かって舌を出していたシモラーシャが、急に猫なで声になった。

 額をくっつけんばかりに言い合いしていた二人の傍に一人の男性が近づいてきたのだ。

 銀色の長い髪と真っ黒な瞳が印象的な優しい顔立ちの男だ。

 マリーよりほんの少し年が若そうな見かけだが、よく見ると醸し出されている雰囲気には控えめではあるが貫禄があった。というか、有無をも言わさぬ雰囲気とでもいうべきものか。

 彼の名はジューク。

 訳あって、吟遊詩人のマリーと剣士シモラーシャと共に旅をしている。


「あのねえ、聞いてよ、ジューク」


 シモラーシャはマリーを一瞥してから話し始めた。

 マリーは憮然とした顔をしている。


「あたしはね、マリーのお父さんやお母さんってどーゆー人だったの?って聞いただけなのにさ。マリーったら急に不機嫌になって、何も話してくれないの」

「…………」


 ジュークは彼女の言葉に何故か苦笑した。

 そして、同情の眼差しをマリーに向ける。

 だが、その視線を感じたマリーはむっとした表情になり、ふいっとそっぽを向いてしまった。


「シモラーシャさん、人にはどうしても話したくない事もあるものです。それを無理に聞き出すことはあまり感心しませんね」

「えー、だってー、いっつもマリーってばあたしには喋らせておいてさー、自分のことはちーっとも話してくれないじゃん。あたしのこと好きだ好きだって言うんならさー、もっと自分のこと話して好きになってもらう努力しなくちゃー」

「いえいえ、シモラーシャさん、それは違いますよ」


 ジュークは幼子に言い聞かせるような言い方で話し始めた。


「貴女が話したくないのなら話さなければ良いのです。ですが、貴女は聞かれるがままマリーさんに話して聞かせているのでしょう? それは貴女が話したいからではないのですか?」

「う…そうかも…あたし、聞かれるのが好きだし、自分のこと話すの大好きだし…」

「そうでしょう?」


 ジュークはにっこり微笑むと続けた。


「話すには時期というものもありますし、必ずしも全てを相手に話すことが誠意であるとは限りません。マリーさんが貴女に話したくないというのも、もしかしたら今はまだ時期尚早ということで話さないのかもしれませんしね…」


 彼はそう言うとマリーへ微笑んでみせた。

 マリーは相変わらずジュークとは目を合わせないようにしているが。


「男の人というものは愛する女性に弱いところを見せたくないと思うものですよ。何時でも強い自分を見せたいと、そう思うものなのです」

「ふーーーん…そっかー」


 シモラーシャは何となく納得したというような表情を見せ、ちらっとマリーに視線を向けた。


「でもね、あたし、別にマリーが強いっていうから…その…スキ…ってわけじゃあないからね……強くなくてもさ、マリーはマリーだから……って、何言わせんのよおう!!」


 シモラーシャはバンバンとマリーの背中を叩きまくって、それから思い出したように「あ、あたしちょっと用事あるから先行くね」と言いつつ、さっさと歩いていってしまった。


「ったく…シモラーシャの馬鹿力が……」


 彼女が消えてしまってから、マリーはゲホゴホと咳つかせながら、それでも嬉しそうにそう言った。


「辛いですね」

「…………」


 ジュークの言葉にマリーは無表情な顔で応えた。

 マリーは彼女の消えていった方向に思いを馳せる。


(わかっている…僕だって何時かは彼女に話さないといけないってことは)



 彼女がどこまで僕のことを知っているか、それはわからない。

 ああ見えても彼女は察しのいい女性だ。

 僕が人間ではないということも薄々気づいているだろうし。

 僕が元は邪神であったということ。

 邪神がなぜ生まれてしまったかということ。

 そして、僕が本当はその邪神の───いや、だから、いずれは彼女に僕の生まれ故郷のこと、父母のことを話さなければならないときが来るということも、わかってはいるんだ、わかっては。

 だが───

 僕が今まで彼女の前世に対してしてきた数々の所業を知られたくない。

 そのことだけは絶対に知られたくない。

 それを知ったとき、果たして彼女は僕を受け入れてくれるか、それが怖い。

 やっとここまできたんだ。

 必死の思いで。

 なのに、彼女との関係が良くなってきているというのに、あれを知られてしまったら───


(…………)


 マリーは思い出したくないことを思い出してしまったというふうに顔を引きつらせた。


(僕のこの手は汚濁に塗れている……)


「…………」


 知らず自分の両手を苦々しげに見つめるマリー。

 そして、そんな彼をじっと静かに見守るジューク。

 と、その時。


「ねーねーねーねー、ちょっとちょっとー!!!」


 またしてもシモラーシャの元気な声が、この場の雰囲気をぶち壊した。

 彼女は非常に興奮しているらしい。

 頬はピンク色に染まり、ブルーアイはキラキラと輝いている。


「どうしたのですか?」


 その彼女に相変わらず微笑を浮かべつつ、静かに聞くジューク。


「うん、あのね、この近くにある村で今夜お祭があるらしいの。でね、大きな木にいろんな飾り付けをしてるのよ。キレイな石とか、布とか、食べ物までぶら下ってるの~」

「木に飾り付け……」


 それを聞いたジュークは少し考えるように目を伏せた。

 それから何かを思い出したように「ああ、そういえば」と呟いた。


「古い知り合いの故郷では神の子が生まれた日を聖誕祭といって祝ったということですが、その日をクリスマスと言ったそうです」

「くりすます?」

「そうです。クリスマスとはキリストの祭という意味なのです。キリストというのがそこの神の子供の名前なのですね。その日は歌を歌ったりしてお祝いをしたそうですが、その日に恋人たちは誓いをするのだそうです」

「誓い? 何の?」

「永遠に愛が続きますようにと」

「永遠に?」


 それを傍でマリーは知らん顔をして聞いていたが、「永遠の愛」という言葉を聞き、思わず聞き耳を立ててしまった。

 それにジュークは気づいたらしく、さり気なくマリーへと視線を向けた。


「闇の中を歩く者たちは大いなる光を見る───」


 珍しくジュークが歌うように語り始めた。




 闇の中を歩く者たちは大いなる光を見る


 死の陰の地に住む者は己が上に光が輝くのを見


 深い喜びと楽しみを得た事を知る


 人々は神の子が己が世界に齎された事を知ったのだ



「神の子は人間の女に宿り生まれたのだそうですよ」

「ええっ!! まさか神さまと人間が…その…そーゆーことしちゃったってこと??」

「いえ、そういうわけではありません。男女の営みをしなくても、神は人間を身篭らせることができたのですよ」

「何をキレイ事言ってるんだか…」


 吐きすてるようにマリーが言った。


「この世界の神はそんなつまらないことはしないよ。肌と肌の触れ合い、それは神だろうが人間だろうが関係ない。神にも男と女がいるってことは、神だって人間と同じということだよ。僕はそんな他人と交わることもできない神なんて認めたくないな。それに何も身体だけじゃない、心だってちゃんと交わるんだから身体の繋がりってものはね」


 ジュークは深く微笑むと頷いた。


「そうですね。私もマリーさんの意見には賛成です。どのような大義名分があったとしても、交わることなしに相手に身篭らせるなど、しかも同じ神ではなく明らかに自分達より目下である者にそのようなことをさせるとは、私も良い感情は持てません。しかも、その身篭った女性は婚約者がいる方だったのですよ。いくら神が施したことだったとしても、相手の男性の複雑な思いは如何ほどのものかと」

「ちょっとお~」


 すると、シモラーシャがぶーぶーぶーたれた。


「そんなむつかしーことなんかいいからさー。その永遠の愛を誓うってどーゆーことなの?」

「ええ、そうですね…愛と言っても元々は男女間の愛というわけではなかったのです。神の愛が永遠に人間へと齎されるということが最初だったのですが、それが何時の間にか永い年月の間に男女の間で誓いを交わされるようになり、クリスマスの日には世界中の恋人たちが互いの愛を誓い合うようになったのだそうです」

「へ~」


 シモラーシャの目が潤んでいる。

 手を組み夢見るような顔つきでジュークを見つめていた。

 それをむっとした顔で見つめるマリー。


「ふん…永遠なんてそんなにいいものじゃない…特にジューク、貴方ならその気持ちは分るはずですよねえ」

「…………」

「なになになになに??」


 ジュークの微笑みは崩れる事はなかった。

 だが───


「そうですね、永遠に続くものはどんなものでも嫌なものです。たとえそれが苦しみではなく幸せだとしても……」

「えーーーー、幸せならずーーーーーっと続いてほしいじゃん!」

「いえいえ、シモラーシャさん。辛さ悲しさ痛さというものもずっと感じていると麻痺して何も感じなくなるのと同じで、幸せというものもずっと感じ続けていると、その幸せを幸せと感じなくなってしまうものなのです。人間とはそういうふうに作られているのです。ですから、本当なら永遠に続くものなど叶わないほうがいいのですよ」

「う~ん、あたしにはよくわかんないや。あたしはただ単純にいいことがずっと続けばいいなって思うだけだもん。おいしーものがずーーーっと食べられればあたしはいいな」


 すぐ食べ物に結びつけるのがシモラーシャの特性というべきか。

 先ほど見せていた夢見る少女はいったいどこにいってしまったのやら。

 そんな彼女にマリーは言った。


「おいしいものでも、ずっと食べ続けると飽きてしまうよ、シモラーシャ」

「あら、そんなことないわよー。あたしは好きなものは死ぬまで好きだもん。絶対に飽きるってことはないわよ」


 多少皮肉をこめてマリーは言ったのだが、まったく彼女には通じていないようだった。


「ですが…」


 するとジュークが話を続けた。


「人間は永遠を手に入れることはできません。手に入れることができないから憧れるのです。その憧れている間が幸せなのであり、その幸せを手に入れたいが為に人々は永遠を追い求め、そして誰かに永遠を誓うのですよ」


(手に入らないからこそ、永遠を誓う……)


 いつのまにか───マリーは自分の思いに沈んでいった。


 永遠に愛する者と過ごしていけたら───

 僕はそれを望んでいる。

 シモラーシャが食べ物に対して異常な執着を持つように、僕は彼女に執着を持っている。

 そう、飽きることなどない。

 彼女と永遠を生きることができれば、僕はやっと幸せを掴むことができるような気がする。

 僕は彼女だけに永遠を誓いたい。

 そうすることで、僕のこの汚れた魂が浄化されるようで───馬鹿馬鹿しいとは思うのだけど、それでもなぜか信じられる。


 永遠の誓い───


 マリーは目を閉じ、ますます思いにふける。

 大きなツリーに飾られたものが月の光を浴びてキラキラ輝く。

 その下で互いに見つめあい手を握り、永遠を誓う。


「僕の愛を永遠に君だけに捧げる」

「あたしの愛を永遠に貴方だけに捧げるわ」


 マリーの妄想は続く───



 そしてその夜。

 マリーたちはその村の祭に出かけることにした。

 もちろんシモラーシャはご馳走にありつけるからという理由ではあったのだが、それだけでなく、その飾り付けられたツリーを夜に見たらそれはすごく美しいということを村人から聞いてきたからだ。


「も~そりゃ~夢みたいな美しさなんだってー。この村の祭ってかなり有名らしいのよ。何でもこの祭は元々氷神バイスを祀るためのもので、まだ神が邪神ではなかった頃、バイスはこの祭の夜だけに、白くて冷たいものを降らせてくれたんだって。それをユキって言ったそうよ」

「ああ…雪ですねえ。かのコーランドでは冬になると毎日のように降るそうですよ」


 マリーがそう言った。


「へー、あたし見たことないから。マリーは世界中旅してるんだもんね。誰も行ったことないコーランドにも行ったことがあるんだ」

「そういうことです」


 鼻高々に答えるマリー。

 それをにこにこしながら見つめるジューク。


「でもまあ、もうずっとバイスはいないわけで、誰もこの祭でユキが降るってことは経験ないわけよ。もう吟遊詩人の唄う伝説でしか知られていないわけよね」



「冷たき愛よ……」


 するとマリーがフィドルを奏で詠い始めた。

 思わずにっこりと微笑むシモラーシャであった。



 冷たき愛よ


 冷たき心よ


 今宵は更に冷たき白きもの降り注ぐ


 愛しい人の心を溶かすため


 冷たき愛より冷たき心よりも冷たい


 愛しい人の心を溶かすため


 雪が降る


 あなたを虜にする白き妖精が舞い降り


 あなたを抱きしめいとおしむ


 優しき雪よ


 腕(かいな)に抱かれ至福を感じ


 常しえにあなたの愛に埋もれさせて


 雪よ降れ


 雪よ触れ

 

 雪よ振れ


 心よ降れ


 心よ触れ

 

 心よ振れ


 常しえに常しえに


 世界が終わりを告げても


 ふたりの魂に降り注げ


 雪よ


 愛しき雪よ


 優しきあなたよ


 何時までも傍にいて



 何時の間にかマリーの周りを取り囲む村人達。

 年老いた者は涙を浮かべ遙か遠き記憶の森を彷徨い。

 若者たちは恋人の身体を抱き。

 子供たちは母親に寄り添い。

 全てが静かに彼の唄に聴き入る。



 空は雲ひとつない星空。

 雪が降る気配は全くなし。

 村の中心の広場では、大木が一本そそり立っており、すでに様々な飾りつけが灯された何百本の蝋燭の炎に照らし出され、チラチラと輝きを見せていた。


「なんか、夏に見た花火みたいだね」

「そうですね」


 シモラーシャとジュークはマリーの歌声に聞き惚れながら話す。

 この世には美しいものがたくさんある。

 それだけでなく、それらを美しいと感じる心そのものが美しいのだと彼らは思った。

 それはここに居合わせた全ての者がそう思ったことだろう。


 世界は美しい───


 たとえ何れ滅びてしまうものだとしても。


(そう、世界は美しい、たとえ滅びてしまったとしても)


 詠いながらマリーは思う。

 クリスマスを祝ったことがある、かの世界で。

 愛しき愛人、雪をこよなく愛するかの人と祝ったことがある。

 己たちが神ではあったものの、それでもその夜だけは神に祈りたい気持ちになったものだ。


 神もまた悩める存在。

 人間とどこも違いはない。

 己の犯した過ちに嘆き、許しを施されたいと願い、遙かな時を過ごす。

 尊き人が生まれ落ちた夜に、何かを許されたいと願い、何かを誓いたいとそう思う。

 それは人間だけではないのだ。


(僕も…この僕も許されたい。出来れば「彼女」に。シモラーシャの前世であったところの「彼女」に。初めてその存在をこの手で抱いた、あの彼女に許されたい。この手で殺めたシモラーシャの前世たちに。永遠に苛まれるこの地獄から解き放たれたい、いつか、いつか……この僕という存在を認め受け入れ愛してくれることを。それは誰かじゃなく、君だ、シモラーシャ、君じゃないといけないんだ)


 彼の唄はいよいよ持って熱を帯び、周囲からは啜り泣きが漏れ始めた。


 そんなとき───


「あ……」


 誰だったのだろうか、最初に空を見上げてそれを見つけたのは。

 誰かの声が上がり、人々は気付いた。


「これは……」


 シモラーシャたちの近くに立っていた青年が手を差し伸べた。

 その彼の手の平に白い氷のようなものが落ちてきた。


「冷たい……」

「あ…ほんとだ、これ冷たいよ」

「見て…空からたくさん降ってくる」


 見上げれば星空。

 まるで、その星空の星が舞い降りてきたように、空から白いものが降ってくる。

 あとからあとから降り注ぐそれは───


「これって……ユキ?」


 シモラーシャが目を輝かせて言った。

 するとマリーがフィドルを奏でる手を休めずに言った。


「そうだよ、シモラーシャ。それが雪。冷たいでしょ。けれど……」

「うん、冷たいけれど、なんかあったかい……不思議だね」

「雪には神々の想いが込めれていると言います」

「想い?」


 ジュークの言葉にシモラーシャが首を傾げた。


「そうです。雨なども神の想いがこめられているのです。雨が降らなければ作物が育たぬように、雪は人々に愛を齎すために降り注ぐのです」

「愛を……」


 ジュークの言葉を聞いた周りの人々も一様に頷いていた。

 その言葉を信じられる、そんな気がしたようである。

 そして、誰からというわけでもなく、人々は愛しいと想う人の手を握りしめ、飾り付けられた大木の下で互いに愛を誓い合い始めた。

 恋人同士は互いの愛が続くようにと。

 友人同士は互いの友情が続くようにと。

 親子同士は互いに思いやれるようにと。

 様々な人々がそれぞれの想いで誓い合った。

 そんな人々のために、雪は降り注ぎ、大木は輝き、そして、マリーはいよいよもってフィドルを奏でた。


「シモラーシャさんも何か誓うのでしょうか?」

「……うん、あとでね」


 ジュークの言葉に意味ありげなウィンクをしてみせてから、彼女はご馳走にありつこうと向こうへ走っていってしまった。

 それを「しょうがないですね」と言わんばかりの表情で見送る。

 そんな彼に傍らのマリーが楽器を弾きながら言った。


「貴方でしょう? この雪を降らせたのは」

「ご想像にお任せいたします」


 マリーはむっとしたが、だがそれでも珍しく皮肉は言わなかった。

 彼も喜んでいたのだ。

 自分はいくらでも雪を見に行くことはできる。

 だが、愛するシモラーシャに見せたいと思ってもコーランドに連れて行くわけにはいかない。

 あの土地はいくら頑強な彼女とて厳しい土地だ。

 彼女を一瞬でもそんな厳しい土地には連れて行きたくない。

 だが自分にはあちらの雪をこちらにまで持ってくるという能力はない。

 昔は出来た能力だが、今は力は半減させられているから。

 だから、彼女にこの雪を見せることができて素直に嬉しいと思っているマリーであった。決して口では言わなかったが。



「あのね、マリー」


 それからだいぶ夜もふけて、ほとんどの人々が家にこもってしまった。

 まだ大木は飾り付けられたままで、消えかけた蝋燭の炎に照らされている。

 雪はすでに止んでおり、あたりを覆い尽くしていた雪もそろそろ消えかける頃合だった。

 この土地は寒くなるという土地柄ではないので、雪は一瞬の幻のようにすぐに消え行くはず。


「なんですかあ?」


 マリーはまだ名残惜しいかのようにフィドルで静かな曲を弾きながら呟くように詠っていた。


「いつか、絶対に、話してね」

「え…?」


 彼の手が止まった。

 ゆっくりと傍らの彼女に視線を向ける。

 シモラーシャは少しうつむき加減ではっきりとした表情は窺えなかったが。

 しかし、次の瞬間彼女は顔を上げ、マリーの目をじっと見つめてきた。


「あのね。あたしどんなこと聞いたとしても絶対にマリーを嫌いになるってことないから。あたしは今までずっとマリーと旅してきて、あんたがどんなに意地悪で皮肉屋でワガママで……時にはものすごく非情な奴になるってことも知ってるけれど、けれどね、あたしあんたが何かすごく悩んでるっていうのはわかるよ」

「シモラーシャ…」

「あたし、悩みっていうのは自分で解決していかなくちゃならないんだって思ってた。それは今でもそう思ってる。だから、あたしは悩みがあっても自分で解決してきた。それは他人にもそうあるべきだって強制してきたところがある。でもね、誰でもがそうできるわけじゃないんだってわかった。人によっては悩んでいるのを解決できるように手助けしてやらなくちゃならないんだって。それは直接的に何かをしてあげるってことだけじゃなく、ただ話を聞いてあげるだけでもいい場合があるのよ。それでも、あたし、今でも誰が悩んでても、自分で解決すればいいって思ってる。けど…」


 シモラーシャはにっこり微笑んで言った。


「マリーだけは悩んで欲しくないって思う。だから、今は話せなくても絶対にあたしに話して?」

「シモ……」

「そりゃあたしに話したからって何にも解決になるとは思わないけれど……でも、きっと少しは心が軽くなると思うんだ」

「シモラーシャ」


 マリーはなんとも言えぬ気持ちになった。心が何かで一杯になる。

 それでもまだ彼の心は一抹の不安を拭い去ることはできない。


「貴女の気持ちは嬉しいです。けれどね、僕は貴女に嫌われたくないのですよ。その気持ちはわかってほしいのです。僕は確かに今まで残虐なこともたくさんしてきました。とても許されることではないほどに。それに、実はそういう所業もそれほど今も罪悪感を持っているというわけじゃあない。むしろそれはあって当然とまで思っているのです。でも、どうしても話したくないこともある…それを聞いた貴女が僕を許してくれるか、嫌いにならないか、僕には正直言って自信はないんだ」

「許すよ、嫌いにならないよ」

「シモラ……」


 シモラーシャは断言した。


「神かけて誓うよ、この大木にかけて。そして、今夜降ったユキにかけて、あたしは誓う。マリーがどんな悪いことを過去したとしても、あたしは、あたしだけは絶対にマリーを嫌いにならないし、誰がマリーを許さなくたってあたしだけは許してあげる。それは信じてくれていい」

「シモラーシャ……」



 ああ───

 この言葉が聞きたかった。

 たとえ、これが真実ではなくとも。

 たとえ、これが嘘だったとしても。

 僕は彼女からこの言葉が聞きたかった。



───あなたを許します───



 どんなに僕がこの言葉を欲していたか。

 虫のいい話だと思う、確かに。

 僕の犯した罪は決して許されるべきものじゃない。

 それは僕自身がとてもよくわかっていることだから。

 だけど、許されたい───そう思うものだ。

 僕だけじゃない。

 それは生きとし生けるもの全てが抱く願望。



───わたしを許して───



 誰かの許しを乞いつつ、己の罪を背負って生き続けることの辛さ。

 全ての者たちがそれを心に抱えて日々を生きている。

 それは人間だけでなく、神も同じこと。



「シモラーシャ……ありがとう……ありがとう……」


 マリーは何時の間にかポロポロと泣いていた。

 フィドルを取り落とし、泣き続けた。


「マリー……」


 そんなマリーをシモラーシャは静かに抱き寄せ抱きしめた。

 まるで母のように。


「マリー、大好きだよ、どんなに意地悪したってマリーの優しさはあたしよくわかってるつもりだもん」

「シモラーシャ……ああ、シモラーシャ……約束してくれ、決して僕を見放さないと。今はまだ話せないけれど、いつか、必ずいつか話すから、何もかも、全てを……だから、どんな僕でも受け入れて……受け入れてほしい……そして……」


 あとはもう嗚咽だけのマリーだった。

 シモラーシャはただ黙ってマリーを抱きしめているだけだった。



 空は星空。

 だが、いつのまにか、二人の立っている場所にだけ再び雪が舞い降り始めた。

 静かに、温かく、雪は恋人たちの上に舞い降りる。

 優しく、優しく。

 そして、そんな二人をこの上ない慈悲の眼差しで見つめている者がいることを、ひっしと抱き合う二人は気付いてはいなかった。




 恋人たちは誓い合う

 

 二人の愛が永遠に続くことを

 

 たとえそれが幻想でしかなくとも


 たとえそれがいつか終わりが来ようとも


 恋人たちは誓い合う


 自分たちの愛だけは決して壊れないと


 決して壊れないと


 そう信じつつ


 いつまでも抱き合い誓い合う



       初出2003年12月1日

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