02時 君の魔法が解けるとき。


 バスは眠っている人を起こすまいと、ゆっくりと発車した。

 隣に居る野田は、訝しげに俺の顔を見つめている。

「なんで、居るんですか」

 ごもっともな質問だった。

「俺だって色々あるんだよ。それにしても、なんで盛岡まで行かなきゃならねぇんだよ」

「知りませんよ」

「そもそも、お前が高坂に退学することとかちゃんと話さないからだろ」

 俺は高坂に預かっていた手紙を野田に差し出した。

「え?」

「高坂からお前にだってよ」

 野田は一瞬躊躇ったものの、封を開けて、スマホの明かりを頼りに手紙を読み始めた。


 野田は、パッとしない人間だった。

 周囲が髪を染めたり、化粧にこなれていく中、真っ黒なストレートの髪をひとつに束ねるだけで、すっぴんかと思うほどに化粧っ気も全く無い。

 ゼミでもちょっと浮いた存在だった。

 飲み会には全くの不参加。かといって、他で遊んでいる様子もない。

 愛想もなくて、いつも仏頂面。

 つまんない女だと思っていた。それが一変したのは、半年前、野田が高坂に「抱いてほしい」と言っているのを聞いてしまったからだ。

 つまんない女、男なんて知らないであろう野田が……高坂に振られて、講義室を出てきた野田は、いつもの仏頂面に戻っていた。

 出入り口横に居たのに、俺には気付いていないようだった。

 学食でからかおうと声を掛けると、「趣味なので、人にとやかく言われる筋合いはないかと思いますが」と突き放すような応えが返ってきた。

 恋していようが、野田は野田だった。


 それからの野田は、やけくそと言わんばかりに高坂に付きまとっては口説いていた。

 野田は、美人ではないけれど、磨けばそこそこにはなるだろう。

 高坂は男から見てもいい男だとは思うが、そこに固執する理由がわからなかった。第一、結婚もしていれば、俺達と変わらないくらいの子供も居る。

 そう言って野田に警告をしたけれど、彼女は全く耳を貸そうとしない。

「……誰でもいいなら、俺が抱いてやろうか?」

 顔を近づけると、間髪置かずにグーで殴られた。


 その後、彼女はゼミに姿を見せなくなった。


 高坂は、いつも通りに振舞っていたけれど、俺の目にはそう見えなかった。

「なあ、野田は?」

「……自主退学したそうだ」

「はあ? あんだけ高坂に付きまとってたのに?」

「金銭的な理由らしいが……私にくっついて回っていたのは、きっと、君が思っているような理由じゃないだろう」

 高坂の言っている意味がわからずに首を傾げると、高坂は手紙を差し出してきた。

「これを野田さんに届けて貰えないか」

「野田って辞めたんだろ? どうやって」

「三日後、夜行バスで岩手に帰るそうだ」

「そこまでわかってんなら自分で渡せよ」

 高坂は、静かに笑った。

「それは、できないよ」

 その一言で、手紙の内容を察した。

「……バス代、払えよ」

「高い郵便代だな」

 そうして、盛岡行きのバスに乗ることになったものの、彼女の席まではわからなかったから大人しく座っているしかなかった。

 そもそも、この便で合っているのかも怪しい。高坂はどこまで野田の情報を正確に持っているだろうか。

 バスの後方に陣取ると、眠気に襲われてすぐに眠ってしまった。

 ギリギリまで行っていた、バイトのせいでクタクタだったせいだ。

 目が覚めると、雪の中にぼんやり浮かび上がっている、サービスエリアが見えた。

 席を立つ人の中に、野田の姿が見えてホッとした。

 高坂のおつかいは無事に果たせそうだ――。


 野田はその手紙を読みながら、静かに泣いていた。

 いつも無表情の彼女が泣いてることに落ち着かなくて、目をそらす。

 進行方向はひたすら闇と雪しか見えない。

 静かな車内で、野田のすすり泣く声が小さく響いた。

 しばらくして、野田は読み終わったのか、顔を上げた。

「ありがとうございます、先輩」

「ああ」

「……先輩って、結構、厄介事に首を突っ込むタイプですよね」

「うるせーな」

 野田がくすくすと笑う。

 笑うこともあるんだな、と感慨深くなって、野田の顔をまじまじと見ていると、彼女はまたいつもの仏頂面に戻ってしまった。

「教授は、母の片想いの相手で、高校の頃の“先輩”だったんです。教授に近付いたのは、興味からでした。あのダメな母親がずっと想ってた人とはどんなだろうと。

 でも、そうして見つめている内に、わたしもいつしか教授のことを好きになっていました。こんなところ、似なくていいのに」

 ぽつりぽつりと漏れでてくる声は、懺悔のようだった。俺は何も言わなかった。……言えなかった。

 彼女を掬い上げるような言葉なんて、俺は知らない。

 高坂だったら、慰めてあげられるのだろうか。

「本当は、四年間ただ見つめていれたらよかったんですけど、退学しなくちゃならなくなって……」

 そうして、野田は行動を起こした。

 自分でもわかっていたはずだ。それが正しくないことに。

「バカだな、あんた」

「……そうですね、バカです。心の底でわかってました。教授は絶対にわたしを抱いてなんかくれないって」

 野田はバスの窓に頭を預けて、外の闇へと視線を投げていた。

 反射して見える表情はいつもと変わらないけれど、きっと高坂のことを考えているのだろう。

 野田はきっと高坂が手を出さないとわかっていたから、ああも自由に甘えていたのだろう。

 高坂もそれがわかっていたから、突き放したりせずに彼女を放置していたのかもしれない。

 二人の複雑な心情がそこに見えた気がした。

「……高坂は、手紙になんて書いてたんだ?」

「わたしの幸せを願ってますって」

「いちいち手紙に書くことかよ」

「母の名前もありましたよ。教授、気付いてたんですね。わたしが娘だって」



 それから、俺は自分の席に戻った。

 同じ列の後方だから、野田の表情はわからない。

 けれど、もう大丈夫なのだろう。

 そんな気が、なんとなくではあるけれど、している。

 背もたれに体重を預けると、バスの揺れが心地よくて、深く深く眠りについた。


 それからどれだけ眠っただろうか。朝日に目を覚ますと、もう盛岡駅の前だった。


「先輩よく寝てましたね」

「寝るしかねーだろうが」

「そりゃあ、そうでしょうけど」


 俺はこれから東京にとんぼ返りをする。次に乗るバスを確認していると、野田が付いて来た。


「見送りしてくれんの」

「ええ、まあ」

「じゃあな。今度はちゃんと振り向いてくれるようないいやつを見つけろよ」

「先輩こそ、ちゃんと一人に絞ってくださいね」

「……なんのこと?」


 野田は笑って手を振った。

 俺も手を振って応えた。

 彼女の大事に抱えた手紙を見て、この役を任せてもらえてよかったと思った。

 盛岡の透き通った空気の冷たさに身を震わせながら、俺はバスに乗り込んだ。




 私は君の気持ちに応えることはできません。

 ですが、君がいつかまた勉強をしたいと思ったとき、力になれたらと思います。

 どうか、無力な自分を責めずに、前を向いて歩いてください。


 貴女は素敵な人です。



 人々が忙しく行き交う盛岡駅。

 東京駅に比べたら、ずっと歩きやすくて、わざと人の間を縫うように歩く。

 わたしの後ろでキャリーバッグのキャスターがガリガリと音を立てている。

 大丈夫。わたしを素敵な人だと、教授が認めてくれたから。


 ここから、また始めよう。

 吹き抜ける爽やかな風に、どこからか運ばれてきた雪が舞っている。

 みんなが待ち望む春はもう少し先だ。




おわり。











 











  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

午前2時に解ける魔法。 美澄 そら @sora_msm

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ