24時 バスの中
教授は、普通のオジサンだ。
とは言っても、お腹は出てないし不潔感はない。
新しい父親とは全然違う生き物みたいだ。
老眼も入っている、度の強いメガネの向こう。笑った時に目尻にできるシワとか、優しいバリトンボイスとか、講義中に立ってる姿がスッとしてて綺麗だとか……。
それから、わたしが最も魅力的に思っているのは、資料の山に埋もれるようにしながら、向き合う姿。
教授は戦国史を研究している。同じ資料を何度も読み返すという気の遠くなりそうな作業を繰り返していた。そうやって読み解いていくのが大切らしい。
資料に向き合っている教授の背中を、美しいと思っていた。
バスの中は静けさに満ちている。
寝入った人も居るのだろう。イヤホンを取ると、微かな寝息が聞こえてきた。
ずり落ちてきたコートを、胸の辺りまで引き上げる。
窓の向こうの景色は、一面新しい雪に白く染められていた。
空は雲っているものの、雪は降り止んでいる。
瞼が重たい。泣いたせいもあって、腫れているのだろう。
同じリズムで揺れるバスは、さながら舟のようだ。
辿り着くであろう岸は、決して望んだところではないけれど。
アクビを噛み殺すと、バスの窓に頭を預けて眠ることにした。
それからも、わたしは教授に体の関係を持ちかけたものの、教授にのらりくらりとかわされた。
奥さんにして欲しい訳でも、愛人にして欲しい訳でもない。
ただ一度、セックスして欲しいだけ。
きっと汚れたこの感情を理解なんてして貰えないだろう。誰になんと言われても、構わないと思っていた。
先週、教授が備え付けの硬いソファで仮眠をとっているときに、キスをしたことがあった。
寝込みを襲っているという背徳感に、起きてしまうのではないかというスリル。
そして、甘くて、痛くて、どうしようもないわたしの気持ちがごちゃ混ぜになって、キスはどんどん深くなっていった。
目の前に教授が居て、触れて、頭の中は教授のことでいっぱいで……なんて幸せな瞬間だったんだろう。今でも、思い出すだけで体が震える。
教授は起きなかったけれど、代わりにわたしの愚行を見付けた森崎先輩に現実へと引き戻された。
「あんたさあ、わかってんの?」
首根っこを引きずられながら部屋を出ると、森崎先輩がわたしを睨み付けた。
軽蔑の冷たい目。
「わかっている、とは?」
「惚けてんじゃねぇよ。 高坂は、結婚してるし、子供もいるんだぞ」
「……だから、なんですか」
先輩は腕を掴むと、俯いたわたしの顔を覗き込むようにして、さらに強く睨み付ける。
その目の鋭さに、思わず後退り、壁に背中が当たって逃げ隠れ出来ないことを思い知った。
息が詰まる。吸えばいいのか、吐けばいいのかわからない。
「……誰でもいいなら、俺が抱いてやろうか?」
先輩の顔が近付いてきて、思わずグーで顔を叩き落とした。
「いっ」
腕の拘束が緩んだ隙に逃れて、先輩から距離を取る。
「そういうことじゃないんです!」
先輩はわたしと向き合いながら、何も言葉にしなかった。
何か言えばいいのに。殴ったことも、非難すればいいのに。
沈黙の中、二人で暫く立ち尽くして、先輩は背を向けて去って行った。
いつも威勢のいい先輩の背中とは思えないほど、小さくて、寂しい背中。
責められるよりもずっと、その背中を見ているほうが心苦しかった。
バスの揺れがおさまって、うつらうつら、浅い夢を見ていたわたしは目を覚ました。
どこかのサービスエリアに着いたらしい。
あまり眠った気はしなかったけれど、気付けば深夜一時を回っていた。
あと六時間すれば、盛岡に着く。
きっと、その時には部屋のようにわたしもスッキリしているはずだ。
トイレ休憩をしようと、ひざ掛け代わりにしていたコートを羽織って、バスを降りると、駐車場は新雪で白く染まっていた。
たった数時間乗っていただけなのに、体は鈍ってしまったように重たい。
ゆっくりと解すようにしながら、建物を目指す。
柔らかな雪を踏む度に、地元へと思いを馳せていく。
東京に行ってからは、勉強とバイトで忙しいことを理由に、正月もお盆も実家に帰らなかった。
きっと、埋もれそうなほど雪が降り積もっているだけでなく、二年の間に景色は変わっているだろう。
そして、半年前、母親からかかってきた電話を思い出して、近くの雪を蹴り上げた。
さらさらの雪は勢いよく舞い上がって、キラキラと光を反射しながら風に運ばれていった。
「勉強どう? 体壊していない?」
外で蝉が大合唱していた八月の半ば。
節約のために、クーラーを控えて、扇風機の前に水を入れて凍らせたペットボトルなんて置いて頑張っていた。帰り道コンビニで買ってきたイチゴのカキ氷を口にしながら、スマホをスピーカーにして通話していた。
「じゅんちょー」
コンビニで入れてくれた木のスプーンが使いづらくて、口の端から垂れたのを指で拭う。
――イチゴだし、血みたいに見えるのかな。
なんてくだらないことを考えて、電話の間が気になった。
母は、いつも一方的にあったことなんかを話して電話を切る。
こんなに黙っていることのほうが珍しい。
嫌な予感がして、こちらから声をかけようか迷っていると、「ごめんね」と今にも泣きそうな声がした。
「……なに、が?」
「……お母さん、離婚しようと思うの」
「そう」
溶けてきたカキ氷を急いで口に運ぶ。
「それでね、あなたの大学費がね――」
そこからは、母の言っていることがうまく聞き取れなかった。
……聞きたくなかったんだと思う。
要するに、離婚するに当たって、大学を卒業するまでの養育費は貰えないらしい。
このまま東京に居るには、仕送りがないと生活していけない。
「……そう」
泣いて、喚いて、駄々をこねたかった。
母親を罵倒して、わたしの人生で起きた不幸を彼女に全てぶつけてやりたかった。
でも、そう思ったのは一瞬で、怒りを通り越してしまったのか、もう何も出てこなかった。
聞き分けのいい、素直な娘だと思われているのだろうか。
「わかった、帰るよ」
電話を切ったあと、溶けたイチゴのカキ氷を飲み干した。胃まで冷気が満ちて、吐き出した息が冷たかった。
トイレから戻ると車内は一層静まっているように感じた。
すっかり体が冷えてしまって、両腕をさすりながら、自分の席へと座る。
バスの中はじんわりと暖かい。
再びコートを脱ぐと、体を覆うようにかけた。
ふぅっと一息吐いたところで、空いていた隣に、誰かが尻餅でもついたかのような勢いで腰を下ろしてきた。
このバスは新宿から盛岡まで途中乗車はできないはずだ。隣の席に今更誰かが座るはずがない。
自分の席を間違えているのだろうか。
そっと横目で窺うと、思わず息を飲んだ。
「――森崎先輩」
もう二度と会うことは無いだろうと思っていた彼がそこに居た。
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