午前2時に解ける魔法。

美澄 そら

23時 新宿発



 キャリーバッグを引きずって、人気ひとけの絶えないバスターミナルの中を歩いた。

 椅子に寄りかかるようにして眠る人、肩を寄せ合って小声で話す人、電話の相手に向かって頷いている人。

 こんな夜中なのに、と自分もその一人なのを思い出して苦々しく笑った。

 ガリガリとキャスターが音を鳴らすキャリーバッグの中は、ほとんど空っぽだ。東京に来る頃は、はみ出しそうな程に荷物を入れていたのを思い出す。

 必要な荷物はさっさと引越し業者に任せて送ってしまった。

 ほとんど捨ててばかりの引越し作業は、思い出を処分していくようだった。

 けれど生憎、思い出に浸って涙を流すような可愛い性分ではないせいで、あっさりと終わってしまった。

 ……こんなもんか。からっぽになった六畳一間の部屋に、小さく呟いた。

 バスの運転手さんに思い出の残りが入ったキャリーバッグを預ける。手元にはお財布とスマホとメイク道具の入った小さなショルダーバッグ。それから、先ほど購入したペットボトルの水だけを持って、盛岡に行くバスに乗り込んだ。

 時期的に、そう客は多くなかった。まばらに埋まっているバスの中を見回して、自分の席を確認する。

 バスの真ん中、窓際の席に座ると、コートをひざ掛け代わりにして、スマホにイヤホンを挿して、自分の世界へ入り込む準備を整えた。

 これから七時間ほど、このバスに運ばれていくことになる。

 ペットボトルを開けて一口含むと、バスがゆっくりと動き始めた。

 窓の向こうの景色が、移ろっていく。

 新宿は、どの景色を切り取っても光が煌々と輝いていて、眠らない人々がいつもの日常を営んでいる。

 ――今夜は全国的に雪の予報だ。



 わたしの親は、小学校に上がる頃に離婚をした。

 わたしを引き取ったのは母親で、父親のことを思い出すときは鬼のような形相で「あの男」と言っていた。そして、その後必ず“先輩”の話をした。

 「なぜ、先輩と付き合わなかったのか」「なぜ、こんな男を選んだのか」を延々と語る。それが嫌で、自然と父親のことを口にしなくなったように思う。今では、どんな人だったのかもうろ覚えだ。

 シングルマザーでわたしを育てるために、色々な職を点々としていた母は、やがて夜の仕事をするようになった。

 こぶ付きとはいえ、そこそこ美人で器量の良い母はよくもてた。

 たまに見知らぬオジサンが家に居て、むき出しのお金をくれることに、わたしはなんの感慨もわかなかった。

 賢ければ、お金の貰える理由を、深慮しただろうか。貰ったお金は、可愛い文房具へと姿を変えた。



 中学生になると、母に対する反発が出てきたけれど、勇気のないわたしは非行に走るどころか家出すら出来なかった。腹いせにしてたことは、母の年々派手になっていく下着を床に叩きつけること。

 ね、可愛いものでしょ。

 母は昼夜逆転の生活をしていたから、わたしが学校に行く頃に帰ってくることが多かった。そうしたすれ違いの生活は、孤独感はあったけれど、どこか安堵感もあった。

 母のことを嫌いになったわけではないけれど、母親とは見れなくなっていた。 

 そうして、埋まらない溝をそのままに、わたしが高校生になった矢先に、母は再婚をした。

 相手はお祖父さんが市長をしていたようなご立派な家系で、急に金回りが良くなった。

 でっぷりとした、信楽焼しがらやきのたぬきみたいな腹をした新しい父親は、気が弱い上に神経質で、なんだか好きになれなかった。

 でも、再婚を反対しなかったのは、彼のおかげで塾に行けたからだ。

 母は専業主婦になって家にいるようになったけれど、今度はわたしが家に寄り付かなくなった。毎日のように塾に通ったおかげで、成績は目に見えてよくなった。

 そして、大学に行くのを口実に、家を飛び出してきた。

 


 ゼミに入るにあたって、自己紹介をしているところだった。

 わたしが自身の生い立ちを語っていると、一人腹を抱えて笑っている男がいた。

「何でそんなに客観的なんですかね」

 ――高坂教授。

 

 

 目を開けると、もうそこは眩しいほど明かりを放っていた都心部から離れていた。

 バスから漏れている光で、闇の中に風に流されていく雪が浮かび上がっている。幽鬼のような血色悪い自分の顔も。

 ぼんやりと見ていると、トンネルに差し掛かった。

 光と影が交互にくる中を駆けていくと、タイムトラベルでもできそうな錯覚に陥る。

 もし、時間を戻せるならいつだろう。

 思い浮かぶシーンには、どれも教授が居た。

 思い出は、全部捨てたと思っていた。

 頬を涙が伝っていく。

 拭った指に付いた温かい滴は、ゆっくりと過去へと意識を運んでいく。

 


「教授、わたしを抱いてくれませんか」



 大学に入って一年半。

 二人きりの静かな夕方の講義室で、わたしは教授に告白をした。

 教授はいつものように、頭を撫でてくれて、「おじさんをからかうもんじゃない」なんて笑っていた。

 そういうセリフが出てくるのは当然かもしれない。

 なにせ、わたしと教授は三十も年が離れていて、教授には妻子がいる。

 母親よりすこし年上の彼に、娘のようなわたしが「抱け」と言うのだから、彼からしたらおふざけにしか見えないだろう。

 ――至ってふざけてなどいないのだけれど。


「あんた、趣味悪いね」

 同じゼミの森崎先輩がそう言って嘲笑った。

 大学の学食。窓辺でうどんを食べていたところだった。

 複数人と付き合っているという噂を持つ、モテ男の彼は、あの日の夕方の告白を聞いていたらしい。

「趣味なので、人にとやかく言われる筋合いはないかと思いますが」

 そっちの趣味の悪さならお互い様で、わたしだけが非難されるのは腑に落ちない。

 彼は舌打ちすると、わたしの後ろを通り過ぎていった。

 ――ほっといて頂きたい。

 わたしはわたしが歪んでいることはわかっているのだから。







 



 

 



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