固有名詞

 *


 家庭料理には、料理名が存在しない。もしくは、一般名詞としての料理名であって、詳しく話してみると「思い描くものが違う」という現象がしばしば起きる。


「あ、すみません。お口に合いませんでしたか?」

 それはまだ、彼女の食生活に対する興味関心が底辺だった頃の出来事。お節介と知りながらも、どうにも放っておけなくて作るようになった二人分の料理の中で、はじめて彼女が明確に興味を示した……否、取り戻したきっかけになったもの。

「いえ、違うんです。……このポテトサラダ、うちの母が作ってくれていたのと同じ味、で」

「えっ」


 広すぎる「家庭料理」という大海で、初めて二人が見つけた島がポテトサラダだった。


 *


 惣菜として販売されているポテトサラダは、アキが知る限りではマヨネーズや酢の酸味が特に際立っていることが多い。それだってもちろん好きだけれど、時々「マヨネーズを食べているのでは……?」と思うようなものにも出会うし、単純に他の野菜やじゃがいもの風味がかき消されるのがもったいないな、と感じていた。だからいつからか、アキはどれだけ面倒くさくても、ポテトサラダは自分で作るようになった。


 思えばそれが、料理を好きになり楽しむ入口だったようにも思う。


「あ、いた。おーい、二人」

「あ、お義母さんこんにちはー。お迎えありがとうございます」

 時は八月下旬、場所は長野県のとある駅。新幹線改札を抜けると、今日訪ねると連絡をした相手が手を振って待っていた。アキは、それにひとつ礼をしながら応える。

「わざわざ迎えに来なくても、住所教えてくれたらこっちから行ったのに」

 しかし、アキの同行者ことハルは、ちょっと眉を顰めてそう言った。相変わらず、彼女は素直じゃない。

「こんな暑いのに、迎えに行かない方が却って落ち着かない。そうでなくても、あんまり時間もないんだから」

 アキがお義母さんと呼んだ、つまりハルの母であるその人は、娘の可愛げのない一言をバッサリ斬る。

「すみません、日帰りで」

「気にしないで、あの子が有給取ってここにいるだけでも十分異常事態だから」

「ねえ、それ褒めてる? 貶してる?」

「心配してるのよ。ほら、行くわよ」

 そう言うなり、ハルの母は踵を返して駐車場へ歩き出した。この駅は、駅を出てすぐのところに送迎専用の駐車場がある。ハルとアキもそれに続いた。

 トランクルームに入れる程の大荷物はないので、三人はそのままハルの母が運転してきた車に乗り込んだ。ハルが助手席、アキが後方の座席。軽自動車なので、前方二人と会話に困るほどの距離はない。

「一旦帰っちゃうと出たくなくなるし、このまま買い物していくつもりだけど。溶けものとかない? 大丈夫?」

 シートベルトを締めながら、ハルの母が言う。それにはアキが答えた。

「あ、大丈夫です」

「オッケー。じゃあそのままね」

 車は静かに滑り出し、三十分無料と書かれた駐車場を後にした。


 *


 それから一時間ほどが過ぎて、準備を終えた三人は、些か窮屈なキッチンに立っていた。


「じゃあ、始めましょうか」

 ハルの母が暮らす家は一般的な1Kのアパートなので、キッチンはイコール廊下である。この規模の部屋としては珍しく三口のビルトインコンロの入った大きめのシステムキッチンだが、そうであっても三人も大人が並ぶ事は全く想定されていない。どう立ち位置を工夫しても作業できるのは二人が限界、もう一人はどこにいても動線の障害物になり邪魔でしかないが、それでも三人で立っているのは、これから行うことに「三人で立ち会う」ことが重要だからだ。

「よろしくお願いします」

「お願いします」

 ハルの母の開会宣言に、二人はぺこりと頭を下げた。すると、彼女は面白そうに笑う。

「ほんと、亜依が料理を教えてほしいって言う日が来るとはね。どういう風の吹き回しなんだか」

「待って。実の娘だけど、もうちょっと歯に衣着せて」

「アカウント乗っ取りとか、他人に携帯を悪用されてるんじゃないかとか、色々と疑って冷や汗かいたんだから、こっちは」

「おお、容赦がない……というか情報リテラシーがしっかりしている……」

 母娘の会話には口を挟むまい、と思って黙って見ていたアキだが、感想は我慢できなかった。感想なので許してほしい。

「だって、『春風家のポテトサラダ』を知りたいのに、もとから春風の姓の側が作れないのは名前負けでしょ」

 ハルは容赦のない母に若干しょげながら、それでも戦うことを選ぶ。

「でも、わざわざこんなところまで来なくても、レシピだけメールすれば済んだでしょ。仮に、亜依に意味が分かんなくても、尊さんに聞けば解決する程度のことしかしてないし」

「……引っ越したって聞いたから、気になって」

 ハルの母は、ハルとアキが結婚したのを機に、単身者向けのアパートに引っ越していた。曰く、「だって、もうこっちに亜依の部屋はいらないでしょう?」である。確かに身内がどんな場所に住んでいるかを知りたくなる時はあるし、今日はその初の来訪だ。しかし、住所さえ分かれば世界的な地図サービスで周辺の風景は写真で見ることが出来て、疑似的に道すら歩けるようなこの現代に、有給を取ってまで遠路はるばる訪れる理由が、建物だけなはずもなく。

「素直に会いたかったって言えばいいのに」

 あんまりにもハルが意固地なのがおかしくて、アキはとうとう種明かしを買って出た。


 *


 そのきっかけは一週間ほど前、夕飯にポテトサラダを出したことだった。

「ポテトサラダ、久しぶりな気がする」

 食卓に着くなりハルがそう言ったので、アキは自分の記憶を軽く浚った。

「そう? ……まあでも、そうかも。二か月くらい作ってなかった気がする」

 そして出たのは、確かに作るのが久しぶりだった、ということ。じゃがいもを潰す系の面倒くさい料理は、アキの思考が追い詰められているときによく作ってしまうので、その反動で落ち着いているときは少なくなる。理由は単純、いくら天下のじゃがいも様、アレンジ幅の広い食材と言えど、飽きるからだ。

「でしょ。これ以外のポテトサラダって、あんまり食べたいと思わないんだよね」

 ハルは続けてそんなことを言ったので、アキはしみじみと感動した。

 『生きるためのエネルギーが摂れれば味なんて二の次、口に入れるものは砂でも泥でもいい』を地で行く、まるで生き急いでいる人だったハルが、今や食材や一般名詞としての料理の差異だけでなく、あるひとつの料理の、味の些細な違いについて言及しているのだ。


 ハルを変えたのは、自分である。その事実がくすぐったい。


「まあ、ハルさんにとっては実質『おふくろの味』だもんね。この作り方が正しいかはおれには分からないけど」

 アキの作るポテトサラダは、ハルが幼少期、母親に作ってもらっていたものと同じ味だと言う。ただ、それは彼女の記憶の味と奇跡的に一致していただけのもので、実際のところは分からない。それに言及すると、ハルも若干顔を顰めた。

「そうなんだよね。私の『おふくろの味』なのに私が作り方知らないって、やっぱ変かな……」

「知らないからって気にすることではないとは思うけど、このままだと『ジェネリックおふくろの味』じゃないかな」

「あー、そう言われるとなんか嫌だなぁ。寂しい」

「それなら、ちゃんとレシピ聞いてみたら?」

 ポテトサラダくらいなら、何が入っているかさえ聞ければ、詳しい手順を見て学ぶでもなく同じものが作れるようになる。なんたって、小学生が調理実習で作るような料理だ。

 それを提案してみると、なぜかハルは箸を置いて、考え込んでしまった。

「え、ハルさん? ポテトサラダだよ、作れるでしょ」

 そして携帯電話を操作し始めたハルは、アキの問いを質問で打ち返した。

「作れるけど。……アキさ、来週の水曜日暇?」

「……えーと。突発トラブルさえなければ、納期やばいのは今のところない、かな」

 ——なるほど、話が読めた。

 ハルが何を思って、何のために携帯を取り出し、そしてこちらのスケジュールを押さえにかかっているのか。それがひとつに繋がった、アキの仮説が正しいなら、この後彼女が発するであろう言葉は。

「よし。行こう」

 アキはやっぱり、とは言わずにおいたが、多分表情には漏れている。きっと、だらしなく緩んでいた。

「一応聞くけど、どこに?」

「長野県。……なんか、すごい生温かい目で見られてる気がするんだけど」

 携帯電話から顔を上げたハルは、心底嫌そうにそう言った。

 ほらね、漏れてる。


 かくして、日帰り弾丸ポテトサラダ帰省は発生した。


 *


「あらぁ、それは確かに『会いに行く』って言ってるも同義ね」

 アキが、いくつかを省きつつこの旅行の発端を説明すれば、ハルの母は面白そうにハルを小突いた。

「違う! いつかの仕返し!」

 いつか、とは、おそらく彼女が「新居を見たい」と宣って東京まで来た、あの正月のことだろう。あれがあって、結果的に二人の関係は一つ進んだ。

「仕方ない、今回はそういうことにしといてあげる。で、そろそろ良い?」

「あ、うん。こんな感じだけど、いい?」

 問いかけられたハルは、自分が持っていたボウルを傾けて、ハルの母に向けて見せる。彼女はそれを覗き込むと、ひとつ頷いて言った。

「オッケー。普段何もしない割には上手じゃん」

「芋蒸かして潰すだけのことに、上手も下手もないでしょ」

「親として褒めたのよ、分かんないかしらね」

 今回の旅の目的は、ハルが自身で『おふくろの味』ことポテトサラダを作れるようになることなので、作業をするのは主にハルだ。ハルの母は指示兼補助、アキは補助兼ガヤである。

 しかし、されどポテトサラダなので、よほどのことを仕出かさない限り失敗はしない。たった今潰したじゃがいもだって、蒸すのは電子レンジのおまかせモードに頼んだのだ。

「じゃあ次、これ混ぜて。具」

 そう言って、ハルの母は食材の入ったボウルを渡す。中身は、ハルがじゃがいもと格闘している間に補助の二人で準備した『具』こと、スライスした玉ねぎ、きゅうりと、賽の目に切って焼き色を付けたベーコンである。玉ねぎはレンジで加熱して辛みを少なくし、きゅうりは塩もみして絞ったあとだ。作業場が狭いことを鑑み、加熱や水を捨てること以外は居室のテーブルを借りた。

「待って、絶対こっちの準備の方が大変じゃない? 私、一人でも作れるようになりたくて来てるのに、ここ省略されて大丈夫なの?」

「ポテトサラダは、じゃがいもを蒸かして潰すのが一番の手間よ。今じゃ、ポテトサラダのベースっていう商品まであるくらいだし」

 ハルの母に「ね?」と話を振られたアキも頷く。

「ありますねぇ」

 それは、蒸かしたじゃがいもを潰して冷凍したもので、調味料と刻んだ具を混ぜればポテトサラダが完成するという、救世主のような存在だ。アキはじゃがいもを潰す手間が必要でじゃがいも料理を作るので使ったことはないが、知り合いに便利だと聞いたことはある。

 今日この会でベースを使わなかったのは、『一度工程を全部を体験しておいて、あとで自分に合うように取捨選択すればいい』ということなのだろう、とアキは勝手に推測している。

 手間を知って省くのと、知らないで見過ごすのには大きな差がある。

「それに、味の方向性は調味料でほぼ決まるから、具はけっこう自由なのよ。今日はきゅうりだけど、冬はきゅうり高いから三つ葉に変えるとかね」

 三つ葉は水耕栽培という文明の進歩のおかげで、旬を逃しても比較的価格が抑えられている。また、香味野菜は味や香りのその癖から、なかなか売れずに値引き品になっていることも多い。三つ葉の香りが苦手な人には難しいが、アキもハルも、三つ葉に苦手意識はない。

「ああ、いいですね三つ葉。今度やってみます」

 アキがその発想に関心を寄せると、彼女は追加情報を教えてくれた。

「三つ葉の時は、鰹節も混ぜるのが私のおすすめ。一気に和になるから、魚の塩焼きとかと合う」

「うわー、想像しただけで美味しいですよ、それ」

 そして、その味を想像しただけで幸せになったアキがそう声を上げれば、そのテンションの上昇についていけないハルが渋い顔をして割り込んできた。

「ねえちょっと、そこ上級者トークして私を置いてかないで」

「悔しかったらついて来れるくらい食に興味を持ちなさい。混ざった?」

「うん。大体」

「じゃあ、最終段階ね」

 さっきハルの母が自身で言ったように、ここからの手順、調味料による調整がポテトサラダの味の肝である。

「まずマヨネーズを、芋と具のまとまりが良くなるまで入れて混ぜる。つなぎのための油脂だから、今は味が薄いかな、くらいで良い」

「はい」

「そしたら、スキムミルクを入れる。私が入れるのはスプーン一杯くらい」

 そして次にこれ、とシンク上の棚から取り出されたのは、脱脂粉乳だった。

「え、こんなの入ってたの? 知らなかった」

 たとえばマッシュポテトでは、食感をなめらかにしコクを出す目的で牛乳や生クリームを入れることがある。しかしポテトサラダの場合、その役割はマヨネーズや酢などがすでに行っているため、乳製品は基本的に入れない。

 出されたそれにハルは驚いていたが、アキも声に出さないだけで同様に驚いていた。

「この量のサラダにスプーン一杯くらいじゃ、ほぼ味に出ないからね。味どうこうよりはカルシウム摂取の補助のために入れてるんだけど、牛乳とかと違ってべたつかないから便利で」

「ああ、大事ですもんね。骨」

「そう。これはもう性別の統計上気にしないわけにはいかないし、特に子供の分なんてね」

 彼女が言うのは、骨粗鬆症のことである。女性の方が将来そうなりやすいこと、成長期である子供の頃にきちんとカルシウムを取ることが予防にある程度効果があることは、随分前から知られている。

「必要な栄養って、無理のないように摂れなきゃ続かなくて意味がないでしょ。だから、味に影響がなさそうなところにはこうやって色々埋め込んでいたのよ」

「ふぅん」

「はー、なるほど。勉強になります」

「なんで尊さんの方がリアクションが良いのよ。今日教わりに来たの亜依なのに」

「……普段の意識の違い?」

 ハルがなんとかひねり出したそれには、アキは笑い、ハルの母は苦い顔をした。

「……ほんと尊さんに見つけてもらえてよかったわね、あんた」

「それについては、人生で一番の運を使ったと思う。……で、次は?」

 三人でそんな話をしながらハルにぐるぐると混ぜられたポテトサラダは、もう完成と言っても良い見た目をしている。しかし、まだ完成ではない。

「よし。じゃあ最後、わさびを混ぜます」

 わさびこそが、一般的なレシピでは入れないもの、つまりポテトサラダを『春風家のポテトサラダ』にする鍵の調味料で、アキの作るポテトサラダにも入っているものなのだった。

「今日は贅沢にこれでいくけど、当然わさびならなんでもOK」

 言いつつハルの母が冷蔵庫から出したのは、パウチタイプのパッケージに入ったわさびである。いわゆるローカル調味料に分類されるものなのだろう、アキは初めてお目にかかるもので、販売者の欄には安曇野と書かれていた。

「わさびを指のひと関節分くらい入れたら、あとは混ぜるだけ」

「はい」

 ハルが指示通り作業する傍らで、それを覗き込んでいたアキは、パウチのビニールから押し出されるわさびの様子に驚いた。

「へえ、おろしわさびに刻んだのが混ざってる。だから『あらぎり』なんですね」

 アキが言及したのは、その商品名である。ハルの母は頷いて言った。

「こんな商品があるのは産地の利よね。確か駅の土産屋でも買えるはずだから、気に入ったらぜひ。お茶漬けにしてもいいし、ただ焼いた肉にのせても美味しいから」

「わかりました、探してみます」


「混ざった、と思う」

「よし、じゃあ食べましょうか。完成です」

 時刻はちょうど、十二時だった。


 *


「刺身パックの、わさびの小袋あるじゃない? あれを消費したくて入れたのが始まりなのよ。だからわさびの登場回数は高かったけど、納豆のからしが余ってれば、そっちを入れちゃったりもする」

 出来上がったばかりのポテトサラダとレタスを、こんがり焼いたバゲットで挟んだだけのサンドイッチを頬張りながら、ハルの母はそう言った。早速昼食として頂いているポテトサラダは、ごろっとしたベーコンのおかげで、これだけでも十分な食べ応えが得られる。一緒に合わせたコーヒーは、道具がないのでインスタントのスティックのもの。なんならカップも足りていないので、アキは茶碗で飲んでいた。

「そっか、あれが強制付属じゃなくなったの、僕達が大人になってからだ」

 以前はパッケージの中に必ず入っていたそれらだが、今では入っていないものが多い。時代の流れとともに、エコの観点などから消費者がそれの要不要や量を選択出来るようになっていった。

「ええ。でも、余ったからといって捨てるのも勿体ないじゃない」

「それでマヨネーズと混ぜた、と」

「七味マヨとかわさびマヨの考え方よね。わさびマヨおにぎりをはじめて食べた時は衝撃だったわ……」

 いわゆる薬味と言われる調味料とマヨネーズを混ぜると、辛味がマイルドになる上、マヨネーズが主体にあるので子どもにもウケが良い味になる。それでいて、香りなどが重なってちょっと変わった味、つまり食べ飽きない味になるのだ。

「尊さんは、どうしてわさびに? なかなか珍しいでしょ、レシピとしては」

「僕も、出発点はわさびの小袋消費だったと思うんですよね。マスタードがじゃがいもと合うなら、辛さの種類が似てるわさびもいけるんじゃないかって思って、やったら気に入ったっていう」

「あら、似てる。気が合いそうな息子ができて嬉しいわぁ」

 ポテトサラダに入れるほんの少しのわさび、きっかけが小袋の処理だったこと。それは『たったそれだけ』のことで、それが珍しい選択でも、偶然が重なったことであっても、奇跡と呼ぶには安すぎる出来事。それでも。

「僕もです」

「亜依が引き寄せたのかしらね、無自覚で。類は友を呼ぶ、みたいな」

 そんな『たったそれだけ』が同じだからこそ、交わり深まる縁がある。それが、今この瞬間の三人だ。

「確かに、仲が続くのって食の好みとか生活に対する根幹の意識が似てる人ですもんね。僕達の場合は、ハブになった本人が生活に無頓着だったから覆い隠されてましたけど」

「家事も料理も、やればできる子のはずなんだけどね。なのにどうしてこうなったんだか」

「経済力でアウトソーシングしただけだもん。……ご飯は、だんだんどうでもよくなっちゃったけど」

 アキが初めて会ったハルはまるで生活に興味がなかったハルだったが、たとえばゴミ出しのルールはきちんと守って定期的に行っていたり、身なりその他を社会に求められる清潔さで維持したりといった、『怠った場合には周囲に悪影響を及ぼしかねない』領域の諸々はちゃんと遂行されていた。食事は蔑ろにしても自分にしか迷惑が掛からないから、手を抜きすぎたというだけで。

「どうでもよくなっても、栄養補助食品と経口補水液のみになるのはやりすぎです」

「ほんとよ。隣が尊さんじゃなかったら、あんた今頃死んでたんじゃないの」

 ハルとアキの出会った経緯は、二人が出会った経緯が経緯なだけに、最初から筒抜けである。それがルームシェア、果ては家族になるとは、あの時誰も想像しなかった未来だが。

「だから言ったじゃん、人生で一番の運だったって」

「偉そうに開き直るな。……尊さん、こんな子だけど、どうかよろしくね?」

「もちろん。『春風家』の味もまた教わりたいですし」

「それなら、秋津家の何かとレシピ交換会でもしてみたいわね。亜依があなたの料理を気に入って食べてるなら味覚のベースは似てると思うし、そういうの、ちょっと憧れてたのよ」

「あ、それ楽しそうですね、考えておきます。ごちそうさまでした」

「はい、お粗末様でした。ほんとはお持たせさせてあげたかったんだけどね」

 作りやすい分量で、とたくさん作ったポテトサラダは、当然三人分のサンドイッチを作ったところでなくならない。だから余りはこの家の作り置きとして、ハルの母が消費することになっている。厳重に保冷をしたとしても、外に出ることが危険だと繰り返し言われるような酷暑のこの時期に三時間も外を持ち歩くのは、食中毒が怖い。

「いえいえ、お気持ちだけで十分です。作り方だって伝授していただいたんですから」

「まあ、そっちの暑さは怖いものね。逆の経路ならともかく」

 その発言は、二人がこれからより暑い場所に帰ることを指している。日本全国で夏の暑さは尋常じゃないほどのレベルに達しているが、それでもやはり、長野県は避暑地と言われるだけあり若干過ごしやすいのだ。それでも若干なので、冷房は必須なのだが。

「そろそろ駅行きましょうか。片付けはこっちでやるし、わさびもだけどお土産も見るでしょ」

「あ、うん」

 ハルの母の問いかけに、まずハルが頷いて立ち上がる。それに少し遅れて、アキも立ち上がった。


 *


 死なないための食事でしかないのだから、お金をかけるのも勿体ない。安く上げようと食材を買うとしても、自炊は意外と時間を取られるし、使えなくて腐らせたら元も子もない。ならば砂でも泥でもいいと、本気で思っていたあの頃。コスパを追求した結果行きついたのは、経口補水液と栄養補助食品。

 それを良しとしなかった隣人に半ば押し切られて、食事を共にするようになった。

 面倒見が良いと言えば聞こえがいいが、お節介が過ぎる、というのが当時のハルの正直な感想だった。


 でも。


「……このポテトサラダ、うちの母が作ってくれていたのと同じ味、で」


 あのとき、ハルは確かに「何か」を取り戻したのだと思う。

 それから少しずつ食事を味わうことを刷り込まれて、好き嫌いの味覚も戻って、旬に季節を感じるようになって、そして、料理の作り手による味の違いまで気がつくようになった。その力があったのは、それが『家庭の味』に他ならなかったからだと、ハルは思う。


 新幹線の座席背面に備え付けられている、取り出し式の荷物掛けフック。行きには使わなかったそこには、手提げの保冷バッグがかかっている。ハルの母が言った通り、駅の売店に件のわさびが並んでいたので買ったところ、冷蔵のものだから、と保冷の梱包をお勧めされたのだ。

「うちの味は、あんなちょっとのわさびだったんだ」

 たとえば、本人が気にも留めていないほどの、日々の小さな習慣や考え方。人間の個性は、きっとそんな些細な、取るに足らないことの積み重ねで形成されていく。それは家庭料理でも同じで、ほんの少しのわさびとか、使う砂糖の種類とか、『たったそれだけのこと』の掛け算で、家の味を作っていく。

「まあ、わさびは香辛料だからね」

 入れすぎるとマヨネーズも太刀打ちできないくらい辛いファイトグルメになっちゃうよ、とアキは笑う。ハルはそうだね、と返した。

「お母さんとも喋ってたけどさ、秋津家はどういうのが『家庭の味』だったの?」

「うーん、特殊だったのはハンバーグと唐揚げかな。ハンバーグは豚か鶏のひき肉で牛は入ってなくて、隠し味に味噌が入ってた。で、唐揚げは下味をつけずに塩コショウだけして揚げたやつのこと。だから、この二つは外で同じ名前の料理頼んでも絶対出て来ない」

「え、でもアキの作るハンバーグ、合い挽きだよね? 食べ慣れてる味がする」

「おれは外で食べる普通のハンバーグの方が好きだなって思ったからね。豚でも鶏でも作れるけど」

「そっか、『家庭の味』も変化していくのか」

「まあ『家庭』料理だし。伝統を守る飲食店とかじゃないんだから、作り手がやりやすいように、食べやすいように変わっていくものでしょ、どんな家でも」

 たとえば現代の『家庭の味』には、その家の人が調理した食べ物ではないものも含まれる。贔屓にしているスーパーのお惣菜や、あるメーカーのコレ、と指定された冷食など。秋津家にもいくつかそういうのあったよ、とアキは言う。

「広いなー、『家庭の味』の海は」

「うん、めちゃくちゃ広い。だから、初めてハルさんにポテトサラダのこと言われたとき、おれすごい驚いた」

「ああ、そういえば驚いてたね。あの時は何で驚いてるか分かんなかったけど」

 レシピの詳細と、料理人二人の会話を聞いた後の今なら、あの時アキが驚いた理由がハルにも分かる。あの時のアキは、自分以外にこの作り方をする人はいないと思っていたのだろう。

 ハルにしてみれば、家で手作りしたものの味がイコールあれだったので、外で出されるものの味付けが違うのは保存などの観点からだと思っていたし、その感覚ももうずっと忘れていた頃なので、驚くことすら不可能だった。

「ハルさん、よくその状態で人間の形保って生きてたね……?」

「自分でもそう思う。今同じことやれって言われたら無理そうだし」

 幸せを思い出して、与えられてしまった以上、二度も失くすのは、さすがに耐えられそうにない。

「しなくていいよ。というか、させないし」

「あ、なんか今のちょっとカッコよかった」

「それはどうも」


 二人の『家』まで、あと一時間。


(終)

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たとえばそれは、小さじ一杯の蜂蜜。 桜庭きなこ @ugis_0v0b

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