遠い向こうへ
*
立春を過ぎて、少しだけ春の気配を含んだ風が頬を掠める。三寒四温の時節柄、まだ油断はできないものの、そろそろ冬支度も終わらせようか、などと考えながら、ハルは家路を急いだ。
今日は水曜日。水曜日だけは、ノー残業デーの恩恵を受けて定時で退社しているので(過去の色々から強制的に追い出されているとも言うが)、残業しかしていない他の日とは、目に映る景色から何から違う。
『こんばんは。もうすぐで着きます』
横断歩道での信号待ち。メッセージアプリを立ち上げて、ある人にその旨を送信する。向こうも連絡を待っていたのか、返事はすぐに届いた。
『分かりました、気をつけて』
スマホ画面に表示された文を見て、口角がわずかに上がったことには、ハル自身も気が付かなかった。
自宅のあるアパートへたどり着き、住んでいる三階まで階段を上る。そして、居室である三〇二号室を通り過ぎ、やってきたのは三〇三号室の前。呼び鈴を鳴らすと、何を言う前にドアが開く。
「お疲れ様です、どうぞ」
「お邪魔します、秋津さん」
——水曜日は、隣人の家に帰る日なのだ。
*
隣人こと秋津尊と、【アパートのお隣さん】と言い含めるにはお互いに少し踏み込んだ、しかし“お隣さん”以上の関係性があるわけでもない、不思議な距離になって、もうすぐ一年。
「そういえば、来週の水曜日もごはん用意しちゃって大丈夫ですか?」
今日も今日とてありがたく用意された夕食を食べていた時。彼にそう問われて、ハルは首を傾げて箸を置いた。
「大丈夫、とは?」
「だって、来週の水曜日、バレンタインですよ」
「……ああ、もうそんな時期」
一週間後の水曜日が何日であるかを告げられて、ハルは彼の問いかけの意味をようやく理解した。
目の前のこのひとは、自分に恋人候補や好きな人がいる場合のことを心配しているのだ。日本におけるバレンタインデーは、製菓販売会社による策略の甲斐あって、恋に浮かれる人々のためのイベント日、という印象が強い。
そんな日に、仲のいいお隣さんとはいえ、年齢の近い異性の一人暮らしの部屋に上がって夕食を囲むとなれば、意中の相手からいらない誤解を招くこと間違いなしであり、そのことを心配しているのだろう。……まあ、そんな相手が他所にいれば、の話だが。
「大丈夫です、誤解されて困るような間柄の人はいないので」
ハルは事実を告げる。
「そうですか、よかった」
よかった。に滲む安堵の色に、内心で首を傾げる。どうして“よかった”になるのだろう、と聞いてみたい気もしたが、生憎ハルはそういうことが上手ではない。
週に一度家にお邪魔して、冷蔵庫と冷凍庫がいっぱいになる量の作り置きおかずを分けてもらい、そして一緒に食事をする。これは、言葉にするならどういう関係になるのだろう。
「だって春風さん、放っておいたらまたひどい食生活しそうですもん。二度目は嫌ですよ、隣人が気づいたら瀕死でした、なんて体験」
ハルは否定できなかった。二月は日数が短い分、月締め仕事に割く労力の比重が大きい。常にワーカーホリックなハルだが、二月はそれが増幅されるので、ゼリー飲料のような流動食と栄養補助食品と電解質飲料で平日を生き抜く、ということも昨年までは当たり前だった。思えば、水曜日に上司やチームメンバーから定時退社以外を許されなくなったきっかけで、こうして隣人と不思議な時間を持つまでに至った出来事も、昨年の二月に発生した。
そして、先程の“よかった”に滲んだ安堵の意味も知った。少しだけ落胆している自分がいる気がするのはなぜだろうか。
「でも一週間くらいなら流石にああはなりませんよ……」
少しの悔しさと居た堪れなさから反論すると、キョトンとした顔でこちらを見てきた。そして諭すように言葉を紡ぐ。
「仮に来週断られてたら、僕はこのお節介をやめるつもりでした」
「え、どうして」
「……恋愛関係の針の筵に座れって言うんですか?」
「あ」
指摘されてから気がついた。彼と自分はただのお隣さんでそういう関係にないときちんと説明したところで、イマジナリー恋人候補がハイそうですか信じますとすんなり受け入れる図は予想がつかない。恋愛というのは数ある人間関係の中でも拗れやすく、理路整然と話しているはずでも通じない、が頻繁に起こる分野であり、細心の注意を払う必要がある。「そういう日」だけを避ければいいという問題ではないのだ。
「まあ何にせよ、良いのなら来週からも作りますけど。そろそろ仕事だけじゃなくて、自分の生活にエネルギーを使えるようにしません?」
いつまでも僕がいたら、春風さんの人生設計にも影響出ちゃいますよ。
続く言葉の温度は冷たい。潮時、なのかもしれなかった。
「……善処します」
「善処してください。時間と健康は、後でどれだけお金を積んでも返ってはこないんですからね」
*
そんなこともあったな、と思い出したのは、ちょうど、食べているものがあの時と同じだったから。
「……ハルさん? どしたの?」
箸止まってる、と指摘されて、我に返る。
「うん。ちょっと思い出してた。二年前の、二月七日」
「……あー。そういやあの時」
「そう。あの日もごはんこれだった。土鍋で炊いた鯛めし」
食卓の真ん中には、小ぶりな土鍋が鎮座している。曰く、お米を炊くための土鍋だそうだ。土鍋に炊飯特化型の種類があることも、そもそも土鍋でお米が炊けることも、アキと会わなければ知らなかった世界だったな、とハルは思う。
「なんでもない日なのに手が込んでて、何かご馳走みたいって不思議だったんだけど。なんで?」
「もしかしたら、こうやってごはん一緒に食べれるのが最後になるかなー、と思ってたから」
まあでも、一番の理由は鯛が安売りされてたから、だけど。
続いた言葉の声色は、どこか懐かしそうで、そして楽しそうで温かい。
「結局、最後にならなかったね」
なんなら今は、隣人ですらなくなったのだ。
「そうだねぇ。嬉しかったなー」
「嬉しかったんだ?あんなにあからさまに突き放されてたのに」
「あー。あれは、あのまま有耶無耶でいるのはお互いに良くない気がしたから。ちょうどいい機会だったし、何か布石を打っとくかって」
「ふーん。アキにしては微妙に本音を隠してたよね」
アキは、思ったことをハッキリ言える代わりに、取り繕ったり本音を隠して暈したり、相手に察してほしい物言いをすることは不得意である。しかしあの時は珍しく、嘘はついていないけど本音も言っていない、という歯切れの悪さがあった。
「だって、ハルさんが追いついてなかったもん。なのにこっちから仕掛けちゃったら、それは騙すことになるみたいで嫌だった」
「アキになら騙されても良かったのに」
それは、今だからわかるハル自身の本心だった。アキに対して抱く感情を因数分解して、あるべき名前でラベリングできたからこその。
「そーいうこと言わないの、浮かれちゃうから」
「じゃあ浮かれついでに、はいどうぞ」
ハルは足下から小さな紙袋を取り出して、テーブルに置いた。中には小箱が収められている。
今日は二月十四日。あの日から二年と一週間が経ち、隣人から始まった二人は、この日にこういうものを用意するような間柄へと変化していた。
「今年は日本酒ボンボンです」
「え、日本酒? そんなのあるんだ?」
チョコレートが海外発祥であることも影響しているのだろうが、リキュールを含ませたチョコレートの多くは、洋酒を使用して作られている。
「だいぶ前に、東京駅のecuteで日本酒入りの見たことあったの思い出して。で、思い出したら気になったから探してみた」
「ありがとう。昨今のチョコレートの進化すごいなー、日本酒かぁ」
アキは早速紙袋を覗き込み、パッケージに印字された文字列を読んでいた。本人が甘味好きなこともあって、かなり瞳が輝いている。新しいおもちゃを買ってもらった子供のようで、見ているこっちがむず痒い。
「ふぅん、東北のお酒のなんだ」
「『そのまま新幹線で東北へ!』が可能な場所で見つけたから面白かったよ」
東京駅のecuteは新幹線南乗り換え口の目の前にあり、改札の一番近くにイベントスペースが確保されている。見つけた時は、ちょうどバレンタインフェアをやっていた。スマホで東京駅の構内図を出して、このへん、と指で示すと、たしかにこれは新幹線にも飛び乗れる、とアキも笑った。
*
食後にデザートとして一緒に食べよう、とアキが言ったのを区切りに、途中だった食事を再開する。彼の食べ物を共有したがる癖は、出会った頃から変わらない。だからいつからか、名目上彼に贈るものでも、「自分も食べたいもの」を基準に選ぶようになった。
「そういえば、東北行ったことないなー。ハルさんはある?」
「仙台は行ったことあるよ、出張で。でもそれだけ」
「じゃあいつか行こう。全県」
「全県?」
「どうせなら全部行きたいじゃん。踏破したいじゃん」
「全部となるとどれくらいかかるだろうね。東北広いよ?」
「んー、そうなんだよね。しかも東北も山だらけだから、ちょっと向こうの距離でも山越えたら違う文化圏だろうし、それなら細かく回らないと踏破したとは言いたくないなって」
「それは身に覚えがある」
ハルの故郷である長野県もまさしく、山を越えると県内でも文化がガラッと変わるという土地柄なので、頷く以外の選択肢がない。
「でしょう。だから向こう何年では足りないかもよ」
「じゃあ元気に長生きしなきゃいけないね」
旅行ができるくらいの健康を維持して、ちゃんと生きる。日々の生活の目標としては、この上ないちょうど良さかもしれない。
「うん。今後とも健康管理はちゃんとしましょう、お互いに」
「はーい。でも、アキがごはん作ってくれるならなんかずっと大丈夫そう」
「そういう油断が危ないの。検診とかきちんと行くんだよ、病院嫌いのハルさん」
「病院好きな人なんてそうそう居ないよ、なんの抵抗もなく行けるアキが変わってるんだよ」
「そりゃ年季が違いますから」
「いや胸張るとこじゃない、褒めてない」
彼の母に聞いた話だが、幼い頃の彼は身体が弱く、よく体調を崩しては小児科に連行されていたらしい。その経験もあって、アキは病院受診に対するハードルが驚くくらい低い。曰く、「素人が不安がって悩んでも何も解決しないんだから、諦めて医者にかかるが早い」という合理性の表れらしいが、合理的だと理解していても感情が嫌だと言うものは拒否するのが人間という生き物だ。引越して最初にやることが「徒歩圏内にかかりつけにする内科を見つける」だという人に、ハルは生まれて初めて会った。
そんな人と今、一緒に暮らしている。人生は偶然と驚きに満ちている。
「旅行、何に出会えるかな」
「おいしいごはんとお酒はあるよね」
「たしかに。それは絶対ある」
お酒がおいしい場所の食べ物は、大体おいしい。そして、おいしいお酒がなければ、あのチョコレートが生まれるには至らなかっただろうから、お酒がおいしいのはほぼ確実。よって、食には期待大。
「ハルさんはどこから行きたい?」
「うーん、どこでもいいけど……。近場だし福島から、とか?」
ぱっと思いついたことをそのまま声に出してみると、アキが苦笑した。
「敵陣攻め込んで領地広げていく武士の発想みたい」
言われてみれば、その通りな気がしなくもない。
「……だったらいっそのこと、踏破記念に行った場所から地図塗ってく?」
ハルは、実家で見ていた、とあるテレビ番組を思い浮かべて提案した。あれは舞台がヨーロッパだったけれど。
「あ、それ見たことある。白地図Tシャツ着て、旅しながら塗りつぶすやつだよね」
アキもどうやら、あの地方局制作のニッチで無茶で、しかし有名な番組を観たことがあるらしい。
「あ、知ってる?」
「うん。あれ、大人になってようやく面白さがわかった」
「実は、春風家にはあの番組のDVDがあります」
「ほんと? 枚数すごくない?」
「残念、あるのはそのヨーロッパ旅のやつだけ」
「待って、逆になんでそれだけ持ってるの」
「わかんない。お母さんのだったし」
ハルの母はテレビにさしたる興味がなく、映像作品を買うわけでもなかったので、誰かにもらったのだろうとは思っているが、きちんとした理由を訊いたことがない。
「でも白地図は良いなぁ。塗るだけじゃなくて、ここで何があったとかの思い出も書いたら楽しそう」
「うわあ、アキそういうの得意そう」
「これでもデザイナーですからねぇ。ハルさんは得意不得意の前に、面倒くさいって言ってやらない人でしょ」
「御明察。その通りです、やりません」
ハルはきっぱり宣った。ハルさんらしい、とアキが笑う。
「でも、書いておきたいことができたら言うから、その時はよろしくね」
「ん、いいよ」
得意なことは得意な方が率先してやればいい。そうしてお互いを支え合いながら、楽しく生きていければいい。それが二人の間にあるルールで、信条だ。
「ご馳走さまでした」
「はい、お粗末様でした。よし、じゃあ開けよう。チョコレート」
「なんか持ってくる?お茶とか」
「煎茶で」
「はーい」
(fin)
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