薫り漂う

 休日のハルの朝は遅い。近ごろ、朝型と夜型は遺伝子によって決まっている、なんていう研究結果が発表されたけれども、その話に則るのであれば、彼女は間違いなく夜型だ。

(そんで、おれは典型的な朝型なんだろうな)

 アキは隣で眠るハルの寝顔を眺めながら、そんなことを思っていた。

 土曜日、午前8時。平日の起床時刻を2時間ほど過ぎているが、彼女が起きる気配は皆無。

 対する自分はといえば、休日だからと目覚ましをかけなかったのに、2時間前にしっかり目が覚めていた。しかし、いつも通りの時間に一日を始めるのも休日らしくなくて悔しいので、隣人を起こさないようにはしつつ、ベッドの中で寝転がってスマホを見たり、本を読んだりしていたのだった。

 ただ、いい加減寝転がるにも飽きてきたし、隣人の寝顔を観察し続けるというのも気色が悪いので。

「……いい加減、動き出そう」

 アキはなるべく静かにベッドを抜け出したが、やはり彼女が起きる気配は皆無だった。


 *


 アキはフリーランスで働いているため、休日も自分で好きなように設定できる。しかし、平日の方が仕事をするには何かと都合がいい事と、一緒に暮らすハルに合わせた方が生活がうまく回るため、基本的には土日を休みと位置付けている。

 その休日の朝、滅多なことで彼女は起きない。早くても9時、遅いと11時頃まで寝ている。起き出してくる時刻までに一度も目が覚めないわけではないらしいのだが、布団から出たくない、と転がっているうちにまた寝る、というのを気が済むまで繰り返すため、結果として遅くなる。一緒に食卓を囲むのが暗黙の了解であるこの家で、同居人の起床が遅いということは、朝食の用意にかけられる時間が長くなるということでもあるため、休日は必然的に時間がかかる料理を作るようになった。

「今日は……フレンチトーストかな」

 ちょうど牛乳と卵も、グラニュー糖もある。冷蔵庫の中身を思い浮かべながら、アキは呟く。なんとなく、今日は甘いものを食べたい気分だ。

 それならば、付け合わせにはサラダとベーコンを出そう。トーストが甘い分、おかずは塩味のあるものにしたい。


 *


 フレンチトースト作りにおいていちばん大事なことは、卵液を限界までパンに染み込ませることだとアキは思う。だから、時間に急かされない日の方が、おいしく作れるような気がする。

「食パンだと時間がかかるからなぁ、染み込むのに」

 やわらかくスポンジのような触感をしている食パンだから、液体成分は割合早く浸透するのだと以前は思っていたのだが、実際はかなり時間がかかる。生地が密に詰まっているためである。その逆で、バゲットは硬い分浸透が遅いと思っていたのに、空隙率が高い分、食パンよりは染み込みが早い。

「ひとつの側面だけ見てたら騙されるよっていうことを、まさかパンから教わるとはねぇ」

 ひとりで作業をしていると、頭で考えていただけの、どうでもいいことまで独り言として声に出てしまう。このキッチンに盗聴器が仕掛けられていたら、盗聴している側はどう思うのだろう。変な人だな、と思うのだろうか。それならそれでいいけれど。いや、本当は盗聴されていたくはないんだけども。

 卵2つと牛乳120ml、砂糖を大さじ2杯にバニラエッセンスを適量。これらをボウルで混ぜ合わせれば、パンを浸す卵液の完成。

 食パンは、耳を落として半分に切る。少しでも浸透を早くするために、表面積を増やしておくのだ。耳は刻んでクルトンにしてサラダに使おう、と決める。

 切った食パン2人分をバットに並べ、卵液を流し込み、ラップをかけて冷蔵庫へ入れる。浸透には短く見積もっても1時間はかかるため、その間にサラダの準備に移る。

 新玉ねぎを薄く切って水にさらし、レタスをちぎる。ミニトマトのヘタをとり、半分に切る。先程のパンの耳を賽の目に切って、うすく油をひいたフライパンでこんがりと焼く。

「クルトンは直前に入れた方がいいよなぁ」

 いま野菜と混ぜてしまうと、せっかくカリカリに焼いた努力も虚しく野菜の水分を吸ってフニャフニャになってしまう。だから、焼き上がったクルトンはサラダを作るのとは別の、小さなボウルに取り置いた。

 水分を絞った玉ねぎとレタス、ミニトマトを大きめのボウルに入れて、ざっくり混ぜ合わせたら、サラダの完成。皿に取り分けて、冷蔵庫に入れた。

 ここで一旦、調理器具の洗浄と片づけをする。

 料理というのは調理スペースとの戦いでもあるので、器具は適宜片付けながらやった方が都合がいい。また、食べ終わった後に片付けるものも最低限まで減らせるので、アキが料理をする時は、料理中でも常に洗い物ができる隙を探している。

 ただ、あまり料理をしないハルには「なんで調理と片づけを同時進行できるかがわからない」と言われる。これに関しては慣れだけでどうにかなるというより、個人の資質に関わってくると思っていて、自分はあとからたくさん片付けるより、こまめに片付ける方が性格的に向いているからこうなったのだと思う。もちろん飲食系バイトの経験とか、以前暮らしていた物件ではキッチン、とくに流しがとても小さくて、洗い物を溜めることがそもそも不可能だったとか、そういうことも関わっているとは思うけれども。

 フライパンだけを残して、それ以外のものはペーパータオルで水気を拭き取り、戸棚の所定位置へ戻す。

「今のうちにコーヒーも挽いとくか」

 今日は二人いるので、いつもよりも多めに。コーヒーは焙煎済みの豆を何種類かを買っていて、毎日気分で種類を選び、その日に使いそうな分だけ挽いている。本来は淹れるたびに必要量を挽くものだが、その都度ミルを掃除するのも面倒だし、ハルもアキも多少の味落ちは気にしないのでそうするようになった。

 コーヒーミルは手挽きのものを使っている。仕事が詰まっている時や、逆に調子がすごく良い時には、疲れも空腹も全て忘れて仕事に没頭してしまいがちで、そんな時にこの作業をすると、現実に戻って、いろんな無理を自覚する。

「ハルさんに分からんって言われたことあったっけ、そういえば」

 彼女も根っからの仕事人間なので、没頭して疲れや空腹を見なかったことにするのは日常茶飯事なんだけれども、彼女の場合、その身体への負荷も軽く見ているので、現実に戻ろうとする概念がない。調子良く進んでるならそのまま突っ走れば良いし、進んでないならなおのこと休む暇なんてない、という感じだ。

「おれより歳上なんだし、無理はしてほしくないんだけどな……」

 挽いた豆は密閉できる瓶に移して、ミルに付着して残った粉は刷毛で掃いて捨てる。ミルは分解して洗浄できるタイプのものを使っているが、洗うのは3日に1度程度で、普段はこの程度の掃除で済ませている。

「あとはハルさんが起きてきたら、かな」

 今日は何時まで寝ているのだろうか。そんなくだらないことでも、ハルのことだからか、考えると少し楽しくなってしまう。


 *


「おはようございます……」

 リビングダイニングのドアが開き、まだ寝ぼけた声の挨拶と共にハルが姿を見せた。まだパジャマのままで、寝癖もそのままなので、本当に起きた直後なのだろう。

「おはよう。今日なんか寝癖すごいよ?」

 アキが笑いながらそう言うと、彼女は嫌そうに顔を顰めた。直すのが面倒くさい、と言ったところだろう。

「えー……。そうだ、今何時?」

「10時半。顔洗って着替えておいで、朝ご飯用意しておくから」

「うん、ありがと」

 ハルを見送り、アキは再びキッチンに立った。バターと卵液に浸した食パンと、ベーコンを冷蔵庫から取り出して、フライパンにバターをひとかけら落とす。火をつけて、とろ火でじっくりバターを溶かしたら、食パンを焼いていく。アルミホイルをかぶせて、焼き目がつくのを待つ間に、サラダも取り出して、クルトンを載せた。すると、身支度を整えたハルがリビングダイニングに戻ってくる。

「あー、いい匂いがするー。フレンチトースト?」

「ふふ、でしょう。正解」

 バターの香りはいいものだ。

「何か手伝うことある?」

「じゃあ、サラダテーブルに運んでくれる?」

 こっちに置いてあるから、とハルを呼ぶ。呼ばれたハルは、出来上がっているサラダとアキの手元を覗き込んで、わぁ、と声を上げた。

「すごい、今日の朝ごはん豪華だ。クルトン付きのサラダなんて」

「そうでもないと思うけどなぁ」

 作業手順的には、そうたいしたことはしていない。ただ、かけた時間を考えると、豪華と呼べなくもなさそうだ。時は金なり、とはよく言ったものである。

 フレンチトーストを焼いている隣に新しく小さめのフライパンを出して、ベーコンを焼く。油を引き忘れてしまったが、ベーコンから脂が溶け出るので、焦げ付くことはないだろう。

 両面にしっかり焼き目がついたら皿に移し、黒胡椒を振る。

「あ、今日はベーコンエッグじゃないんだ」

 キッチンに戻ってきたハルが、アキの手元を覗きながら言った。

「今日はフレンチトーストの方に卵使ったからね」

 これでベーコンエッグにしたら、卵ばっかりになっちゃうでしょう、とアキが言うと、ハルはそれもそうか、と頷いた。

「もうすぐパンも焼けるから、欲しい飲み物も出しちゃって」

「わかった。アキは何飲む?」

「おれは牛乳で」

「了解」

 アルミホイルを外してパンをひっくり返すと、ちょうどいいきつね色になっていた。少し火を強くして、もう片面も同じくらいの焼き目をつけたら完成である。

「よし、できた」

 ベーコンの隣に盛り付けて、ハルを呼ぶ。

「ハルさん、これもお願いね」

「わかったー」

 運んでもらう間にフライパン2つを洗う。食前に片付けられるものは出来るだけ片付けておきたい。

「アキ、こっち準備できたよ」

「ん、わかった」

 手を拭いて、ダイニングテーブルへ向かう。食事や食器はハルのおかげで準備万端なので、あとは座って食べるだけ。

「手を合わせてください」

「ふふ、はい」

 席に着くと、ハルが小学校の日直よろしく指示を出したので、アキはそれに従った。

「いただきます」

「いただきます」

 ハルに続いて挨拶をして、アキはフレンチトーストを一口齧った。

 うん、今日もいい感じに焼けた。とアキが思ったタイミングで、同じくトーストを齧っていたハルからも「おいしい」と言葉がこぼれた。こういう些細なことが嬉しいと思う。

「私、フレンチトーストって絶対作れない」

「どうして? 結構簡単だよ」

 時間こそかかるが、手順としては混ぜて漬け込んで焼くだけだ。

「準備にも焼くにも時間がかかるから、その前になんか買ってきて済ませちゃう」

「……ハルさんらしい回答だなぁ」

 自分の食事を給餌だと本気で言っていた、出会ったばかりの頃のハルを思い出すと、その回答には納得せざるを得ない。

 そのアキの内心を察したのか、ハルが少し拗ねたように反論した。

「これでも最近は食べることについて考えたり、食べることにかける時間を増やしたりはしてるからね?」

「わかってるよ」

「本当に?」

「本当」

 このまま会話を続けても鸚鵡返しのいたちごっこなので、アキはそれより食べよう、と無理やり話を終わらせた。ハルもその意図を汲んだのか、先ほどまでの不貞腐れた顔を一瞬でどこかへやった。そして、何かを思い出したような表情で呟く。

「……あ、そうだ」

「どした?」

「あとであれやろうよ。ベランダで本読みながらコーヒー飲むやつ」

「ハルさん、最近それめっちゃハマってるよね。ベランダに置くためのテーブルセットまで買ってきた時はびっくりしたよ」

 前から、ピクニックと称してベランダでランチやティータイムを楽しむことはあったが、以前はレジャーシートを敷いていただけの、簡易的なものだった。

「だって、テーブルあるとあれみたいで楽しいんだもん。あの、旅館の部屋の窓際にあるとこ」

「まぁおれも好きだけどね、あの空間」

 何はともあれ、午後の予定が決まった。そうと決まれば。

「じゃあ食べ終わったら、おれ部屋の掃除とコーヒーの準備するから、ハルさんは洗濯とベランダ掃除お願いね」

「うん」


 ふたりの休日は今週も、たくさんの香りを含み、穏やかに流れゆく。



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